海の牙
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借りて読んでみましたが、他の方のレビューにもあるようにもいちど再読してみようと思い購入予定です。こういう薄暗いご時世でなくとも現世に生きておるうちに不知火沿岸と合わせて読むべきだと思われまっす。 | ||||
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『海の牙』は作家・水上勉(1919-2004)が 1960年4月に上梓した社会派推理小説であり、 探偵作家クラブ賞を受賞しています。 後の1997年12月、読売新聞社から 「シリーズ/戦後ニッポンを読む」の一冊として 再刊されたのが本書です。 このシリーズの「監修・解説」を担当されたのは 評論家・佐高信氏です。同シリーズには例えば 『夢千代日記』『白昼の死角』『狼煙を見よ』… などが含まれています。現在の読売新聞社と 首相官邸の距離の近さを考慮いたしますと、かく の如きシリーズが企画され出版されたこと自体、 たいへん奇妙に感じます。時代なのでしょう。 「ネタバレ」にならない範囲で、本書の舞台設定 を軽く説明しておきます。 時は1959年秋。所は熊本県の最南端、鹿児島県 との県境に位置する「水潟(みながた)市」。 水潟駅の真ん前には軍艦のように巨大な 「東洋化成工業水潟工場」が屹立しています。 硫安、塩ビ(塩化ビニール)、酢酸、可塑剤 (おおむねプラスティックのことです)などを 生産していました。街にはカーバイド残滓の臭い が充ち充ち、工場排水は排水口からそのまま海に 流されていました。排水口に近い湾には ドベ(海底泥土)が3メートルも沈殿しています。 排水口付近の漁民を中心に、後に「水潟病」と 呼ばれることになる、原因不明の病気が発生した …というのが舞台の背景です。 水潟市の患者さんの惨状を憂慮した、東京の 保健所に勤務する医師・結城宗市(31)は、 患者さんに直接会い、病状を記録し、原因説で 騒がれている東洋化成工業の工場の排水路を 実際に見たいと決意します。勤務先から休暇を もらい、東京から水潟にやって来ます。 しかし結城宗市は行方不明となり、山林で 白骨に近い死体となって見つかります。 警察に捜索願を出していた妻・結城郁子も東京 から水潟市にやって来ます。 県警水潟署の刑事主任・瀬良富太郎・警部補と 同署の嘱託医で、外科開業医の木田民兵の2人 が本書の主人公であり、殺人事件の捜査に当り ます。果たして犯人は?単独犯か?複数犯か? 動機は?…と展開していきます。 探偵作家クラブ賞を受賞していますが、正直、 推理小説としては失敗作であろうと思います。 登場人物が必要以上に多く、筋(プロット)が 太くないだけでなく、ドタバタ劇と貸している 点が残念です(あくまで私見です)。 水上勉自身も、推理小説よりは人間を書きたいと いう意欲が強かったため、純粋な推理小説から 一般の小説へとシフトして行きました。 本書の価値は推理小説である点にはなくて 1959年の実際の水俣市(水潟市ではなく)を 水上勉が見て、取材し、(後の)水俣病は 「企業による殺人である」と旗幟鮮明にし 小説という形で、最も早く、発表したことです。 佐高信氏による解説によると、水上勉はたまたま NHKのテレビ番組を見ていて、水俣病を知り、 現地に飛んで、「この世の地獄をはい回る」かの 如き患者さんたちに衝撃を受けて、本書を執筆 した由です。推理小説家としてよりも人間として 突き動かされるものがあったのでしょう。 よく知られているように 水俣病の公式確認は、1956年5月1日です。 同年の1月23日、石原慎太郎が「太陽の季節」で 芥川賞を受賞、 同2月24日、ソ連ではフルシチョフが党大会で スターリン批判の演説を実施、 同7月17日、経済白書が「もはや戦後ではない」 と述べました。実はこのコトバの真意は 「もはや戦後復興という、頼るべき材料がなく なってしまたので、経済という点からはむしろ 厳しくなるぞ」という悲愴?なトーンだったと されます。しかし結果として、高度経済成長が 成されたため、今となっては明るいトーンで 語られるようになってしまった現状です。 その高度経済成長における、石炭化学から 石油化学への転換という国の政策下にあって スクラップにされてしまった石炭化学が 健康にも環境にも人権にも配慮することなく 利益優先でフル操業した結果、発生したのが 水俣病でありました。 「もはや戦後ではない」と国が宣言した年に 水俣病の公式確認があったのは偶然ではないの かもしれません(戦前の植民地政策の総決算 でもありました)。 なお「太陽の季節」が出版されたのを評して 作家・開高健は「あの本が出たときに戦後が 終わったと感じた」と書いています。 本書の舞台である1959年7月 熊本大学の研究班は「水俣病の原因は有機水銀で あろう」と正式発表します。それに対し 新日本窒素肥料(後のチッソ)株式会社は 「うちは無機水銀は流しているが有機水銀は 流していない」とシラを切り、責任逃れをして いました。これはウソでした。後の1963年 熊本大学研究班が「チッソ水俣工場の酢酸製造 工程から直接採取した水銀滓の中から 有機水銀化合物を検出した」からです。 繰り返しますが1959年は、国と企業による 水俣病の「幕引き」を企図した出来事が3つ ありました。 ①厚生省食品衛生調査会水俣食中毒特別部会の 代表である熊本大学前学長が「水俣病の主因は ある種の有機水銀である」と答申しました。 しかし通算大臣だった池田勇人が「有機水銀が 工場から流出したとの結論は早計だ」と反論、 そのため上記の答申は閣議で了解なされず、同 部会は解散となってしまいました。要するに 高度経済成長のためには工場を止めるなんて ありえない…が国の方針でした。 ②水俣工場にサイクレーターと呼ばれる装置が できました。当時の社長がコップに汲んだ水を 飲んでみせました(パフォーマンスです)。 そもそもこの装置は水銀除去には何の役にも 立たないものでした。 ③県知事らによって構成される「不知火海漁業 紛争調停委員会」による、漁民への漁業補償と、 水俣病患者家庭互助会への「見舞金契約」です。 この「見舞金契約」は経済的に困窮していた患者 さんや家族の足元を見た、非道かつ非情な水準の ものでした。これが「公序良俗に反している」と 裁判所によって糾弾され、無効となるのは14年も 後のことでした。 上記のように、水上勉の意志とは正反対に 本が上梓された1960年以降、水俣病の患者さん や家族たちは、厳しい冬の時代に突入します。 なぜなら国や県や企業により意図的な「幕引き」 が図られたからです。1963年には熊本大学 医学部第一内科の助教授が、論文の中で 「水俣病も昭和36年以来、新患者の発生をみず 漸く終息した様である」と書いたほどです。 水俣病問題に再び日が当たるのは、1965年の 新潟水俣病の公式確認です。 従って1964年、1回目の東京五輪で、日本中が 沸いていたころ、水俣病の患者さんたちは、最も 深き苦しみの淵の最深部に沈んでいました。そこ には陽もささなかったようです。戦後の復興と ともに語られる、1回目の東京五輪ですら、実は 深き闇と影の上に成り立っていたのでした。 | ||||
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水上勉は、松本清張の『点と線』を読んで感激し、推理小説を書こうとする。1959年『霧と影』という作品を発表して小説家としてスタートした。その頃、テレビで水俣病の報道があり、チッソの工場廃液とは認めておらず、49人の死者が出ていた。水上勉は「これは白昼堂々と、大衆の面前で演じられている、殺人事件ではないか。どこかに犯人がいるはずだ」と思った。 そして、水俣市に赴き、約15日間滞在して、病院で患者に会い、家族に会い、工場や熊本大学医学部などにいき徹底的に取材を行った。水上勉は「水俣奇病」(その頃そう呼ばれていた)が工場の廃液以外はないと結論に達した。それで、発表したのが1959年12月に別冊文藝春秋新年号に『不知火海沿岸』を発表。それを書き直して、1960年4月に『海の牙』を発表した。 熊本大学医学部が、水俣病の原因は有機水銀だと発表したのが、1959年7月、チッソは「工場で使用しているのは無機水銀であり、有機水銀と工場は無関係」と主張。東京工業大学・清浦雷作教授(この学者の犯した罪は大きい)が水銀説を否定して、アミン説をぶちあげた頃の作品となる。 水上勉がすごいのは、水俣病とせずに、病名を「水潟病」としたところだ。物語の舞台は「水潟市」とした。新潟大学が「原因不明の水銀中毒患者が阿賀野川下流沿岸部落に散発」と新潟県庁に報告したのが、1965年5月なので、それを5年前に予測していた。なぜならば、昭和電工が新潟にあったからだ。このことは、先見性がある。 原因は工場廃水中の有機水銀と推定されたが、調査に訪れた東京の保健所の医師結城が行方不明になった。それと面談した診療所の木田医師が、その行方不明の結城を探すという推理小説に仕立てているのだが、技巧的でちょっと陳腐な感じもする。水上勉がそんな時代があったのだと思わせる。 しかし、1959年の水俣市で起こっている「奇病」とその患者の実態が生々しく描かれていて、実に参考になった。フィクションであるが、水俣の実態というファクトの上に成り立たせている。 熊本大学(本書では南九州大学)は、会社は塩化ビニール、硫酸、醋酸、可塑剤を作る。その可塑剤は全国生産量の80%をしめている。製造工程を調べてみて、600トンの水銀が海中に流出していることが判明。「工場が廃水口で流しているのが金属水銀と流されているため、病原とされている有機水銀となる過程がわかっていなかった」と書いている。「工場廃水だということは最初からわかっていたが、県随一の工場であるから県や市当局も遠慮があるようだった」という叙述もある。 ネコやカラスの症状分析はかなり詳しく書かれている。著者は、滝堂、角堂、星の浦、船浦などの患者実際訪問している。そこでの貧しい生活の描写が、水上勉らしい精緻な文の表現となっている。 患者たちの食事は、コノシロ、ボラ、アワビなどを食べていた。滋養に良いと言って、アワビのきもを食べさせることもあった。 国会議員が水俣を訪問した時の漁民の反対運動ののぼり、プラカードに書かれている言葉は、 「代議士さま、毒のある水を流さないようにしてください。代議士さま、恐ろしい病気で死にかけている漁民をお救いください。代議士さま、死んだ海を返してください」 非常にインパクトのある小説だった。水上勉が社会派推理小説家として認められ、のち『飢餓海峡』を世に送り出すことになる。 この作品が出た2年後。1962年に熊本大学の入鹿山且朗教授が「チッソ水俣工場のアセトアルデヒド工程の反応管から採取した水銀スラッジから、塩化メチル水銀を抽出した」と論文で発表。 1968年9月に厚生大臣園田直(熊本県天草出身)は水俣病を公害病であると認定。「熊本における水俣病は、新日本窒素肥料水俣工場のアセトアルデヒド製造工程で副生されたメチル水銀化合物が原因である」とやっと発表。それでも、水俣病患者の認定問題などが現在も続いている。 | ||||
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公害問題をいち早く見抜き、推理形式で余に知らしめた傑作。水上勉氏の優れた作家としての眼力に敬服致しました。兎に角読んでください、読めば分かりますから。私も、もっとーもっと早く、再読すべきでした。若い頃には、分からなかったことが今になつてようやく理解できまして、いかに再読が大切か痛感致しました。 | ||||
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熊本県水潟市で発生した死に至る病 水潟病。工場廃液の因果関係が疑われるなか、東京の保健所から調査にきた結城が行方不明となる。結城の妻の捜索願いを受けた勢良警部補と、町医者 木田は、足取りを追うなか鴉に啄ばまれた結城の死体を発見してしまう。 ・・・ 昭和36年 第14回日本推理作家協会賞受賞作。 水俣病をテーマにした水上勉氏の社会派ミステリー。著者自身が取材を重ねた成果が遺憾なく発揮された、臨場感あふれる作品となっている。当時の企業や、地方公共団体の姿勢に対する著者の怒りを強く印象づけられるだろう。水俣病が原因不明の奇病とされていた時代に、被害者らの立場にたった告発文のようにも受けとれる。 本書は、結城の死を追ううちに、木田らが直面する連続殺人をストーリーの軸としている。事件そのものは、その顛末を含めて面白みに欠けると思う。ミスリード(らしきもの)は不発に終わっているし、死体の猟奇的な表現も殊更な感じがする。そもそも、テーマそのもののインパクトが大きすぎるのだろう。そちらに目がいき過ぎてしまう。少なくとも、私はこの作品によって、水俣病そのものについての関心が喚起されたといえるのだが。 著者が推理作家という認識がなかったので戸惑ってしまったが、結城の妻の心模様の描写は、その後の文芸作品にも通じるところがあるのかもしれないなぁ。 | ||||
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