金木犀とメテオラ
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極端なほどに負けず嫌いで常に成績がトップでないと気が済まない、宮田。 自身の家庭環境を何よりも恥じており、その事実をひた隠しにするため完璧な優等生を演じる努力を惜しまない、奥沢。 舞台となる女子校の中で頭一つ、二つ抜きん出るほどの優秀な成績を残す彼女ら2人には、教師や生徒たちから期待と羨望の眼差しを向けられていた。 しかし本当の彼女たちは、未来への焦燥や自らの境遇への絶望で今にも押しつぶされそうになっている。 目標や夢に向かって努力することでしか己の存在意義を見出せない彼女たちにとって、今この瞬間は通過点に過ぎない。 全ては未来のため。 大人や世間が言う、「良い人生」を送るために自らの本心を押し殺す彼女たち。 誰にも本心を打ち明けることなく、自らの力だけで未来を切り拓こうと必死にもがく彼女たちの姿は、痛ましいと同時に歯がゆい。 周囲の人間のみならず当事者である彼女自身たちでさえも、いや当事者であるからこそ、そうした苦しみや絶望を背負っているのは自分だけだと思い込んでしまうのだ。 傍らには自らと同じように葛藤し苦悩する人物ばかりなのに。 宮田は奥沢に、奥沢は宮田に対して自らが持っていないものを相手は持っていると、妬み羨む。 自分の欲しい全てを持っている相手が、まさか自らと同じように苦しんでいるとは露ほどにも思っていない。 自分だけが、という誤った認識。 抱える苦しみは違えど、苦しみを抱えている点では同じなのに、それに気付けない。 誰もが孤独でありつつも、顔を上げて周囲を見渡せば同じように悩み苦しんでいる人はいる。 孤独であるという事実は変えられないかもしれないが、同じ孤独を抱えている人が自分以外にもいるという事実にどれほど救われることか。 青春小説の王道でありつつも、老若男女問わず心の琴線に触れる一冊。 | ||||
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二人の優等生、宮田と奥沢。しかし二人の家庭環境は悪く、いわゆる「毒親」を持つ。互いが存在するだけで、コンプレックスを強く刺激されるから、直接会話することはほとんどない。そんな彼女らの高校生活を繊細に描いている。 私は以前この作者のデビュー作を読み、今作も期待していた。 描写が細かいうえに、主人公の二人の境遇が私自身と重なって見えてきて、かなり感情移入して一気に読んだ。 だからこそ、読後の違和感は長い間残った。 宮田は母親のトラウマを持っているが、いたってクールだ。死んだ母の言いつけ通り、東大に入るために勉強する。 ある事情で、寮母さんに「迷惑を掛けたから退寮する」と申し出るところ。宮田はどこにいくというのか? 土下座してでも「ここに居させてください」と頼むところではないだろうか。 そもそもピアノの講師に対して、ふてぶてしい態度を取る。しかし、母親のトラウマは再起する。大人とか、ピアノとかに、それほど怯えることはない。序盤で寮母さんに叱られるシーンがある。私なら、そんな状況で冷静にいられず震え上がってしまう。 しかも寮母は自分の話をし始めて、前作のテーマでもあった「呆れた希望」の変化形を持ち出して励ます。それがまるで、「不眠症の患者に『よく眠りなさい』という医者」のように思えた。安心できる場所の無さが、他者を知り肯定することで克服できるという話を、私は聞いたことが無い。他者と自分の立場を置き換えて考えることは不可能だと思う。 前作の主人公は、きつい仕事をしていたけれど、精神的には一応健康だった。理不尽な仕事を続ける人には、過剰な義務感を持つ人も多い(ワーカホリック)。「呆れた希望」はいつでも通じるものではない。 後半で、合唱コンクールの間に、ライバルだった宮田と奥沢は一瞬だけ心を通わせる。感動的な言葉のようであるが、それは何の救いにもならない。宮田にとって、奇跡を起こすためには、身を削るような努力が必要なのだ。 しかも序盤で、宮田はプロのピアニストになることを諦めている。コンクールが終わった後には、やはり絶望しか感じられないだろう。音楽に光が感じられても、自分の内には光が無いのだ。 もう一人の主人公・奥沢は美少女だと周囲からもて囃される。しかし、それを武器にしようとはしない。女子校でも、顔が良いというのは一つのステータスになりうるのではないか。奥沢の母親が、既婚の男にお金を頼っていることの反動だとも考えられる。けれども大学に行くお金を工面するには、顔を使いたいという気持ちに駆られてもいい。そうでないならば、性的なものを極端に避け、男に恋などしないだろう。 ある場面で、彼女は美人なのだから、自信をもってもよいと思える。しかし、そうしない。そこで葛藤があってもいいのだが、子どもの割に物分かりが良すぎる。それは作者の価値観の表れではないだろうか。 そもそも、親にお金がない事は本人のせいではないし、周囲もそのことで奥沢を責めたりしない。コンプレックスがあるとしても、宮田のそれと対にはならない。 少女小説が出てくるものの、絵を模写するばかりで、その小説の内容にはほとんど触れない。奥沢はまったく心のないまま小学生時代をすごしたみたいだ。 地元出身のみなみは勉強に対してやる気がない。たとえ都会の大学に受かっても、大学卒業後は田舎へ帰らねばならないという。あるとき、みなみは宮田を非難する。しかしそれはおかしいと思う。 みなみの東京への憧れは、むしろ宮田という同級生に自分の一部を預け、その境遇にも才能にも一目置き、宮田の孤独に対する尊敬になるのではないか。みなみと宮田が対等な関係を築くことは普通考えられない。もしそうなら、みなみが本当に人生を諦観しているということだ。 全体的に、田舎出身の子どもたちが、都会の子のように振舞う。田舎と都会では、ネットが普及しているとはいえ、価値観は異国のように違う。他の友人は「奥沢が有名人になったら、私が自慢できる」という。なぜみなみはそう言わないのだろうか。 おそらく作者は『スクールカースト』を意図的に避けたのだろうと推測する。その結果、非常に不自然な人物ばかりになってしまったのだろう。宮田も奥沢も「マウントをとる」ことをほとんどしない。このような世界には、「呆れた希望」はあっても「希望」は無い。 | ||||
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