■スポンサードリンク
一刀斎夢録
新規レビューを書く⇒みなさんの感想をお待ちしております!!
一刀斎夢録の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.29pt |
■スポンサードリンク
Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全10件 1~10 1/1ページ
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
下巻は400ページまで起伏の少ないストーリーが続く。鳥羽伏見の戦いに敗れた新選組の衰退と西郷征伐までが ダイナミックな展開もなく、こまごまと描かれてやたら紙面を稼いでいる。ストーリーテラーと言われている著者 には珍しくダラダラとして退屈(★1~2)。 話嫌いの人斬り一刀斎にしてはよくぞ文庫本2冊分も語ったものだ。やはり自分のことを誰かに知って欲しかっ たのだろう。それにしても下巻は200ページ位で十分なのでは? ようやくラスト20ページ位から、怒涛の如く畳みかける展開に鬼気迫るものを覚えた。鬼の所業はまた鬼となっ て己に帰ってくるということか。★5以上の感動はあったが鬼の一刀斎に最高点は与えたくない。最後まで主人公 に共感できなかった作品は本書が初めて。しかし・・・ 剣の奥儀を極めるほどの人物には凡人の共感など得られるわけがない・・・と、著者は百も承知で描き切ったの だろうか。 ー蛇足ー わが胸の燃ゆる思いにくらぶれば、煙はうすし桜島山(平野国臣) 私は今日の今日までこの詩を間違って解釈していました。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
「蒼穹の昴」に続き「壬生義士伝」は見事な構成でした。これぞ小説、小説家としての浅田氏の本領発揮という所です。ただ、その続編作とも言える「珍妃の井戸」・「中原の虹」等はどうも著者の思い入れが強く、ある意味で描写よりも説明口調になっており退屈でした。この作品は新鮮組を扱った作品として、壬生義士伝の延長線にあるものとらえてみると、最近の著者の傾向としてしばしば見られるのですが、どうにも「まだるこさ・くどさ」を感じてしまうのは自分だけでしょうか? 主人公の斎藤一があまりに饒舌で喋り過ぎるのです。しかも、これが明らかに登場人物を通して、著者が喋っているのが明白です。従って描写よりも演説と説明になってしまい、話題が本筋から脱線して廻りくどくなっているのです。要するに小説としての描写になっていません。だから、登場人物が動き出さない。それでも描写を主体としての筋書きと展開になっていれば、その部分は誠に読ませるのです。第1巻だけでも、相当に波がありました。 週刊誌に連載されたものだけに、同じ様な記述の繰り返しも目立ちます。失礼ながら、ひょっとして締めきりに追われてページを埋めたのか・・・・と妙な疑いも持ってしまいました。第2巻はどうなるか、期待しているのですが。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
作家の「壬生義士伝」にて強い感興を得ることができました。 中でも斎藤一の独白が秀逸であっった、 そうお感じになった読者も多かったのではないかと思います。 当然本作品を買い求める、というのも自然な流れではないでしょうか。 私も胸一杯の期待をもって、本作品をアマゾンで購入いたしました。 さて、読後感です。 半ば大いに楽しく、半ば肩すかし、どこか釈然としない、 というのが正直な感想です。 主人公の独白が延々と続く、不自然といえば不自然ですが、 それはそれで面白ければこだわらなくてよいと思います。 ただ余程の工夫、細工をしなければ無理があるとは思います。 ここまで期待を担いつつ満を持して、 というのならばとことんこだわってwikiでは「内的焦点化」というのだそうですが、 「壬生義士伝」と同じ手法で書いてみたら、もっと面白かったのではないでしょうか。 吉村貫一郎が盛岡弁で語る「斎藤先生こそまことの武士でがんす」を聞きたかったし、 ぶった斬られたあまたの男たち、 鉄漿も怪しい会津女、奥様のお言葉、 無情に捨てられた最初の奥様の恨み節、 或いはもて遊ばれた数多の京女、彼女らのはんなりしつつも毒気の強い怨嗟の声、 或いは逆もあったりして、 という風が楽しかったのでは、と思いました。 ひと癖もふた癖も、煮ても焼いても、という常人の水準をせせら笑う人斬りの名人、 なおかつあまたの修羅場を潜り抜け、生きに生き抜いた、 とことんしぶとい大剣豪の内面を記述する、なんとも魅力的な題材です。 そもそも際立った他者への攻撃性があり、虚無的、露悪的、 というよりも悪魔的ともいえる性格、 世の道徳、倫理常識を嘲るように軽々と跳躍していくあやうさ、ふてぶてしさ、 かといって単なる殺人嗜癖者、乱暴者でもなく、怪しくも底の知れない奥深さ、 並人間の知恵の及ばない怜悧さ、狡猾さ、 そんなカオスを丹念に、かつ面白おかしく記述しなければならないとは、 作家とは因果なものです。 魅力的ではあるものの、今の世のそれも生活世界で埋没しなおかつスレ切った読者の感興、 共感を得るためには相当な工夫、練りに練った作家のしたたかさが求められるのだと思います。 ふと疑問に思ったこと、 この人物は鬼神の如く強いのだけれど、何ゆえか貪欲な読者は納得できません。 強さを際立たせるのは弱さ、やはり弱さなのです、当然といえば当然ですが。 斎藤一自身が全く気づいていない、彼自身の無意識の彼方で抑圧している致命的な弱さ、怯堕、脆弱さ。 これを雛形として全体像に複雑な陰影を際立たせる、この辺を期待、切望したいところなのですが。 このような勝手気まま、わがまま放題の読者という不埒者をばっさり斬り捨てる気合いで、 またまた寝る間も惜しんで耽読せざるを得ない、そんな作品をガンガン書いてほしいものです。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
解説の山本さんが書かれているように、浅田さんは「文章を紡ぐ名手」、その圧倒的な文章力によって最後まで<読まされて>しまいます。 しかしながら。 やはり斎藤一=一刀斎は喋り過ぎだと思うのです。 当代二番目、近衛の剣(道)士・梶原。 彼を気に行ったのはわかりますが、ほぼ初対面の相手に何故自らの核心までを吐露するのか。 <自分の為の独白>、相手は居ても居なくても同じと考えることにも無理があります。 また、独りが語ることができる記憶の量としても限界をあまりにも超えている。 『壬生義士伝』のように複数の人間が多角的に語った方が、例えそこに矛盾が生じたとしても、より真実に近い物語が描き出されるのように思われます。 “剣の奥義”についても、斎藤一が辿り着いた境地という次元で、必ずしも普遍化はできないでしょう。 西南の役を境に斎藤一を捨て去ったと梶原に語る一刀斎。 しかし、昔話をしている自体、未だ斎藤一でありつづけているということの証ですね。 面白い作品でしたが、期待していたほどではありませんでした。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
おもしろく読み進んだが、結末が今ひとつ納得がいかず、あまり感動しなかった。やはり壬生義士伝の深い感動には勝てず。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
浅田次郎ですから読ませます。ですが、どうしても天切り松 闇がたりシリーズを読んでいるような気になり、読み進む程に、新撰組の斎藤一からはどんどん遠くなる印象でした。また、私の個人的思惑の斎藤一像とは違うのも違和感の大きな原因かもしれません。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
「壬生義士伝」、「輪違屋糸里」とこの「一刀斎夢録」が新撰組を 題材として書かれた作品であるが、他の2作品とは趣を異にしている。 他の2作品は心のやりとりが中心で涙を禁じえない感動を覚える素晴 らしい作品であるのに比べ、この作品はどちらかと言うと離れた立場 から客観的な事実を描き、凄惨で凄味のあるものになっている。 しかし心を揺さぶられるところは少なく、読み物としての面白さは前 2作にはかなわないと感じる。 また作者の新撰組に対する思い入れは深く、徹底的に調べ上げている 精緻さには驚かされるが、この作品では説明に徹したような文章が多 く、ちょっとしつこく読み飽きるところも残念だった。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
ノッポさん似の写真でしか見たことのない斉藤一が語る新撰組。坂本竜馬を斬った話から始まる時点で興味が半減した。 歴史の勉強も兼ねて読もうと思っていたのだが、真実は20%ほどではないだろうか。 完全なる「読み物」としかいまは捉えていない。 あの大傑作『壬生義士伝』を書いた作者にしては、進展がまだるっこくて、嘘っぽい。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
新撰組をはじめ、幕末の有名人たちが登場するので 面白く読めますが、読後感がいまいちでした。 主人公(斉藤)に共感できないからでしょうね。 人間=糞袋、という人間観をもつ斉藤ですが、 親の愛情を十分に受けていないことが語られるにつれて、 やはり親子関係が人としての土台を作るのだというメッセージを受け取りました。 幕末の様子が細かく描かれている点は、とても興味深かったです。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
新選組の斉藤一が明治天皇の御大葬後、休暇中の近衛連隊の 士官に語る半生の記。 「天切り松」も「マンチュリアン」も、語りの上手さは著者の 得意とするところ。 本書も「浅田節」が存分に発揮されている。 斉藤一は大正4年に亡くなっているそうなので、本書の時代背景 からすると、この語りの3年後に没することになる。 時代考証はきちんとしていて当然として、この時代を描く作家は その解釈がそれぞれにあって面白い。 たとえば本書では、斉藤が乃木将軍の殉死について、夫人とともに 逝ったことを非難している。 静子夫人を残さなければ後の始末がまづかろうよ、と語っている 部分だが、わたしには違和感がある。 斉藤は、父が金で御家人の株を買った家に生まれた。 根っからの武士ではない。 だから、自分についてくる若者を「どこででも野垂れ死ね」と 突き放したりもする。 「死」について「後の始末などどうでも良い」と考える方が、斉藤 らしいのではないか? 死後の始末を考えるのは武士の思想だろう。 二人の息子を戦死で失い、夫妻が殉死したことで「乃木伯爵家」は 断絶した。 静子夫人を連れて行ったところに、乃木の死生観があらわれている のではないか…? それもまた、一つの武士としての「死後の始末」だろう。 仮に斉藤が武士の立場で評するならば、それが理解できないはずはない。 明治維新の主役たちはほとんどが早くに亡くなっている。 その故に、早くから小説やら舞台に描かれるようになったが、 もちろん同時代の人は、まだたくさん生き残っていた。 上野の西郷さんの銅像ができたとき、夫人が「うちの人はこんな 人(顔)じゃなかった」とか「こんな格好で外を歩く人ではなかった」 とか言った、という話は有名だ。 それぞれに伝説があり、われわれは知らず知らず頭の中で人物像を 形作っている。 そのような先入観が、歴史と小説の間という近代物の鑑賞を難しく させているともいえる。 | ||||
| ||||
|
■スポンサードリンク
|
|
新規レビューを書く⇒みなさんの感想をお待ちしております!!