万延元年のフットボール

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万延元年のフットボールの評価:

4.17/5点 レビュー 64件。 A ランク

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平均点4.17pt

Amazonレビュー一覧

Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です

※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください

全145件 41〜60 3/8ページ
No.105
(5pt)

日本史的傑作

なぜこの作品が素晴らしいのか、ということを考えたときに、その素晴らしさを批評的に答えられる人はいないと思う。簡単なのは大江氏自身の歴史的洞察力の浅さ・感情過多な部分を全てだとして、作品価値を貶めることである。
しかし、本当に問題なのは「なぜこれが名作足り得るか」ということである。ノーベル賞の受賞のきっかけ、または戦後日本を文学から語る上で外せない作品となった(そうされた)のは、なぜなのだろうか。

大江氏は「日本文学は特殊なものではないことを世界に伝えよう」と思っていたことが、インタビューでも述べられている。特殊なものとは、すなわち川端康成らを筆頭に肯定された日本観であり、「もののあはれ」の価値観の文学であった。川端は日本人的なかなしみを描いたことが世界で評価された。すなわち、世界基準で見たときの日本人らしさではなく、一種文化遺産としての評価、日本人の文化は世界から異端のものとした上で認められたのである。
そうした「日本人的価値」だけとして終わりかけていた文壇に、大江氏はその潮流を打破しようと世界に通ずる文学を目指したのである。
事実、彼は障害児との共生や自分の血筋をめぐる歴史的考察--結論として言えば、命は一つのところにあり、死んだあとにはそこに戻ること--を描いた現代人の作家として、ノーベル賞を受賞する。
これを日本の文壇に置いてみると、世界基準に日本文学を合わせようとした彼の作品は、全くの駄作、日本的でない文学に見えるかもしれない。それは文学を歴史として受け継いでいくものと勝手に解釈している現代人の傲慢である、ということは置いといても、彼の受賞はすなわち世界人として認められたことであり、世界が日本人を見る目が変わったきっかけになったとも言える。なので、私の拙い考察では述べることが難しいが、万延元年のフットボールは日本文学を世界基準にまで引き上げた作品として、その価値が高いとされるものだと解している。

日本的でないことが、かえって日本を心から考えた結果であるというのは、彼の政治姿勢と似通うものがある。愛国心とは、すなわち己と引き合わせ、冷静に国(文学)を批評した賜物ではなかろうか、と思うのだが、なかなかそうは理解されないのも、大江氏らしい。
万延元年のフットボール (1967年) Amazon書評・レビュー: 万延元年のフットボール (1967年)より
B000JA7MU2
No.104
(5pt)

大江文学のターニングポイントを示す小説

この小説が出たときすぐに購入して読んだ。奥付には昭和42年9月12日第1刷発行と書いてある。私が二十歳になる直前である。私はこの小説以前の大江健三郎の小説は新潮社から出ていた『大江健三郎全作品』全六巻で全て読んでいたので、すんなりとこの小説に入っていくことができたが、いきになりこの小説を読むと難解さを感じるかもしれない。この小説の前の作品『個人的体験』から大江文学は変わり始め、この作品で大きく変わった。その意味でこの作品は大江文学の中期作品の嚆矢といえるものだ。私は高校生までは作家になりたいと思っていたのだが、大江健三郎を読んで、こんなすごい作家がいるのでは到底敵わないと思って諦めた。この作品が出た当時は世界中でベトナム反戦運動からスチューデント・パワーが爆発しかけている時代だった。大江文学を一番愛読したのは私たちいわゆる「団塊の世代」だったのかもしれない。大江文学の特徴は世界的問題、すなわち近代のもたらした「地獄」を若い世代はどう生きるかを表現していると私は思っている。大江健三郎がその小説で提起した問題は何一つ解決されることなく現在に至っており、むしろ、問題は深まる一方である。安倍晋三のようなクズが日本の首相に居座っている現在、この小説は価値を失っていない。
万延元年のフットボール (講談社文芸文庫) Amazon書評・レビュー: 万延元年のフットボール (講談社文芸文庫)より
4061960148
No.103
(5pt)

大江文学のターニングポイントを示す小説

この小説が出たときすぐに購入して読んだ。奥付には昭和42年9月12日第1刷発行と書いてある。私が二十歳になる直前である。私はこの小説以前の大江健三郎の小説は新潮社から出ていた『大江健三郎全作品』全六巻で全て読んでいたので、すんなりとこの小説に入っていくことができたが、いきになりこの小説を読むと難解さを感じるかもしれない。この小説の前の作品『個人的体験』から大江文学は変わり始め、この作品で大きく変わった。その意味でこの作品は大江文学の中期作品の嚆矢といえるものだ。私は高校生までは作家になりたいと思っていたのだが、大江健三郎を読んで、こんなすごい作家がいるのでは到底敵わないと思って諦めた。この作品が出た当時は世界中でベトナム反戦運動からスチューデント・パワーが爆発しかけている時代だった。大江文学を一番愛読したのは私たちいわゆる「団塊の世代」だったのかもしれない。大江文学の特徴は世界的問題、すなわち近代のもたらした「地獄」を若い世代はどう生きるかを表現していると私は思っている。大江健三郎がその小説で提起した問題は何一つ解決されることなく現在に至っており、むしろ、問題は深まる一方である。安倍晋三のようなクズが日本の首相に居座っている現在、この小説は価値を失っていない。
万延元年のフットボール (講談社文庫 お 2-1) Amazon書評・レビュー: 万延元年のフットボール (講談社文庫 お 2-1)より
4061310275
No.102
(5pt)

大江文学のターニングポイントを示す小説

この小説が出たときすぐに購入して読んだ。奥付には昭和42年9月12日第1刷発行と書いてある。私が二十歳になる直前である。私はこの小説以前の大江健三郎の小説は新潮社から出ていた『大江健三郎全作品』全六巻で全て読んでいたので、すんなりとこの小説に入っていくことができたが、いきになりこの小説を読むと難解さを感じるかもしれない。この小説の前の作品『個人的体験』から大江文学は変わり始め、この作品で大きく変わった。その意味でこの作品は大江文学の中期作品の嚆矢といえるものだ。私は高校生までは作家になりたいと思っていたのだが、大江健三郎を読んで、こんなすごい作家がいるのでは到底敵わないと思って諦めた。この作品が出た当時は世界中でベトナム反戦運動からスチューデント・パワーが爆発しかけている時代だった。大江文学を一番愛読したのは私たちいわゆる「団塊の世代」だったのかもしれない。大江文学の特徴は世界的問題、すなわち近代のもたらした「地獄」を若い世代はどう生きるかを表現していると私は思っている。大江健三郎がその小説で提起した問題は何一つ解決されることなく現在に至っており、むしろ、問題は深まる一方である。安倍晋三のようなクズが日本の首相に居座っている現在、この小説は価値を失っていない。
万延元年のフットボール Amazon書評・レビュー: 万延元年のフットボールより
4061121820
No.101
(5pt)

大江文学のターニングポイントを示す小説

この小説が出たときすぐに購入して読んだ。奥付には昭和42年9月12日第1刷発行と書いてある。私が二十歳になる直前である。私はこの小説以前の大江健三郎の小説は新潮社から出ていた『大江健三郎全作品』全六巻で全て読んでいたので、すんなりとこの小説に入っていくことができたが、いきになりこの小説を読むと難解さを感じるかもしれない。この小説の前の作品『個人的体験』から大江文学は変わり始め、この作品で大きく変わった。その意味でこの作品は大江文学の中期作品の嚆矢といえるものだ。私は高校生までは作家になりたいと思っていたのだが、大江健三郎を読んで、こんなすごい作家がいるのでは到底敵わないと思って諦めた。この作品が出た当時は世界中でベトナム反戦運動からスチューデント・パワーが爆発しかけている時代だった。大江文学を一番愛読したのは私たちいわゆる「団塊の世代」だったのかもしれない。大江文学の特徴は世界的問題、すなわち近代のもたらした「地獄」を若い世代はどう生きるかを表現していると私は思っている。大江健三郎がその小説で提起した問題は何一つ解決されることなく現在に至っており、むしろ、問題は深まる一方である。安倍晋三のようなクズが日本の首相に居座っている現在、この小説は価値を失っていない。
万延元年のフットボール (1967年) Amazon書評・レビュー: 万延元年のフットボール (1967年)より
B000JA7MU2
No.100
(5pt)

ノーベル賞級の作品の歴史洞察の射程

大江健三郎のノーベル賞の受賞理由の記された文書に代表作として挙げられているのが本書「万延元年のフットボール」(1967)であり、そのノーベル賞の受賞の記念講演が「あいまいな日本の私」(1994)であるが、もちろん両者は繋がっている。 「あいまいな日本の私」で述べられているのは、日本という国は、万延元年のころ開国を迫られて以来、日本と西欧の両極にアンビギュアスに引き裂かれ、そのことによって条件付けられた歴史を辿り、それ故の傷を(これは勿論日本に侵略されたアジアの国も)負った、ということだが、日本という国の抱え込むアンビギュイティが「万延元年」に縦横に張り巡らされるよう書かれている。 /小説の背景の安保闘争というのがアンビギュアスなものであった。日本の中で激しい意見対立があり、両陣営に分かれて争ったことがそもそも両義性なわけだが、両陣営ともそれぞれ両義性を抱えていた。左翼の安保反対には反米という愛国的情念は拭難くあったであろうし、vice versaで右翼も戦勝国アメリカに屈服する怨恨を抱え込んだ。この両義的なものが複雑にからみあったコンプレックスはいまの日本においても解消されず残っているだろう。/ 主人公たちが帰郷する村には、西欧化の帰結である経済の進展によってスーパー・マーケットが進出している。これには一方において消費経済の魅惑であるが、一方で社会の均質化・地縁共同体の解体という傷をもたらす。グローバライゼーションの問題を大江は既に1960年代に作品に書き込んでいる。/作中、スーパー・マーケットの経営者が在日コリアンであるのも事態を複雑化している。当初は西欧化に抵抗したものの路線転換し「脱亜入欧」し、後進的なものと蔑視していた隣人が、経済的に優位にたっている。そこからもたらされる鬱屈した情念は暴動に発展するわけだが、こういう事態も非常に今日的である。この蔑視の対象が作中「天皇」と呼ばれるのもアイロニカルで含むところは大きいだろう。/こうやってつらつらと書いてきて、作家はいまなおリアルな問題、というよりもむしろ執筆当時以上に、グローバライゼーションの進展、社会的無意識=汚いホンネがダダ漏れに露呈する技術条件であるインターネットの普及、により1990年代後半ごろからよりクッキリと見えてきた問題群を1960年代において完全に視界に入れているのに驚かされる。経済不安の鬱屈のはけ口のヘイトデモやネット書き込み、被害者意識と蔑視感情のコンプレックスの歴史修正主義、そうしたネットウヨク的問題の構造はノーベル賞級の巨人的な作家からすれば「「想像力」的には大昔にとっくに全部見通し済みだぜ」ということなのである。図星を突かれた彼らがネットで血相変えて大江叩きにはしるのも気持ちはわからなくはない。

・・・と、こういう紹介をすると、最近の若い人の政治忌避の流れから「そういう重たい話はちょっと・・・」となってもよくないので付言すると、本書はまことに多面的な世界であり、上記は多面のなかの一面から本書の洞察の深さを語ってみただけであって、ノーベル賞が”fundamentally the novel deals with people’s relationships with each other in a confusing world in which knowledge, passions, dreams, ambitions and attitudes merge into each other.(基本的には、この小説は、知識、情熱、夢、野望、態度が溶け合った混乱した世界における人々の関係を取り扱っている)”と世界に向けて紹介している通り、本作はある国の特殊事情を語っているだけではない誰でも共感できる普遍的な物語である。主人公夫婦には知的に障害を持った子供が生まれ、その失意から関係が崩壊している。彼ら崩壊家族の恢復の物語がこの多面的世界を貫く基軸である。

自分がレビュアーとして多くの人に本書を手に取って欲しい理由として、本書の魅力として第一に挙げたいのは、本書の破格の文体である。大江の文章は、彼を否定した向きから鬼の首をとったように「悪文だ」などと言われるわけだが「美しい日本の私の美しい日本語」などというのはジョイスやらフォークナーやらを経た後の20世紀の世界文学の課題では全くないのであって、全く批判が届いていない。退屈な美しさなど破砕しながら、イメージの奔流が怒濤のように押し寄せてトグロを巻く本書を母語で読めるということは令和元年、「美しい国へ」とかいうスローガンがいよいよお笑いになってきた、洒落にならないこの国に生きていて得られるすくない僥倖の一つといえるであろう。是非、本屋で手にとって(kindleでもお試しの無料サンプルをダウンロードして)第一章の「死者にみちびかれて」を5、6ページ読んでみて欲しい。
万延元年のフットボール (1967年) Amazon書評・レビュー: 万延元年のフットボール (1967年)より
B000JA7MU2
No.99
(5pt)

ノーベル賞級の作品の歴史洞察の射程

大江健三郎のノーベル賞の受賞理由の記された文書に代表作として挙げられているのが本書「万延元年のフットボール」(1967)であり、そのノーベル賞の受賞の記念講演が「あいまいな日本の私」(1994)であるが、もちろん両者は繋がっている。 「あいまいな日本の私」で述べられているのは、日本という国は、万延元年のころ開国を迫られて以来、日本と西欧の両極にアンビギュアスに引き裂かれ、そのことによって条件付けられた歴史を辿り、それ故の傷を(これは勿論日本に侵略されたアジアの国も)負った、ということだが、それが「万延元年」に縦横に張り巡らされるよう書かれている。 /小説の背景の安保闘争というのがアンビギュアスなものであった。日本の中で激しい意見対立があり、両陣営に分かれて争ったことがそもそも両義性なわけだが、両陣営ともそれぞれ両義性を抱えていた。左翼の安保反対には反米という愛国的情念は拭難くあったであろうし、vice versaで右翼も戦勝国アメリカに屈服する怨恨を抱え込んだ。この両義的なものが複雑にからみあったコンプレックスはいまの日本においても解消されず残っているだろう。/ 主人公たちが帰郷する村には、西欧化の帰結である経済の進展によってスーパー・マーケットが進出している。これには一方において消費経済の魅惑であるが、一方で社会の均質化・地縁共同体の解体という傷をもたらす。グローバライゼーションの問題を大江は既に1960年代に作品に書き込んでいる。/作中、スーパー・マーケットの経営者が在日コリアンであるのも事態を複雑化している。当初は西欧化に抵抗したものの路線転換し「脱亜入欧」し、後進的なものと蔑視していた隣人が、経済的に優位にたっている。そこからもたらされる鬱屈した情念は暴動に発展するわけだが、こういう事態も非常に今日的である。この蔑視の対象が作中「天皇」と呼ばれるのもアイロニカルで含むところは大きいだろう。/こうやってつらつらと書いてきて、作家はいまなおリアルな問題、というよりもむしろ執筆当時以上に、グローバライゼーションの進展、社会的無意識=汚いホンネがダダ漏れに露呈する技術条件であるインターネットの普及、により1990年代後半ごろからよりクッキリと見えてきた問題群を1960年代において完全に視界に入れているのに驚かされる。経済不安の鬱屈のはけ口のヘイトデモやネット書き込み、被害者意識と蔑視感情のコンプレックスの歴史修正主義、そうしたネットウヨク的問題の構造はノーベル賞級の巨人的な作家からすれば「「想像力」的には大昔にとっくに全部見通し済みだぜ」ということなのである。図星を突かれた彼らがネットで血相変えて大江叩きにはしるのも気持ちはわからなくはない。

・・・と、こういう紹介をすると、最近の若い人の政治忌避の流れから「そういう重たい話はちょっと・・・」となってもよくないので付言すると、本書はまことに多面的な世界であり、上記は多面のなかの一面から本書の洞察の深さを語ってみただけであって、ノーベル賞が”fundamentally the novel deals with people’s relationships with each other in a confusing world in which knowledge, passions, dreams, ambitions and attitudes merge into each other.(基本的には、この小説は、知識、情熱、夢、野望、態度が溶け合った混乱した世界における人々の関係を取り扱っている)”と世界に向けて紹介している通り、本作はある国の特殊事情を語っているだけではない誰でも共感できる普遍的な物語である。主人公夫婦には知的に障害を持った子供が生まれ、その失意から関係が崩壊している。彼ら崩壊家族の恢復の物語がこの多面的世界を貫く基軸である。

自分がレビュアーとして多くの人に本書を手に取って欲しい理由として、本書の魅力として第一に挙げたいのは、本書の破格の文体である。大江の文章は、彼を否定した向きから鬼の首をとったように「悪文だ」などと言われるわけだが「美しい日本の私の美しい日本語」などというのはジョイスやらフォークナーやらを経た後の20世紀の世界文学の課題では全くないのであって、全く批判が届いていない。退屈な美しさなど破砕しながら、イメージの奔流が怒濤のように押し寄せてトグロを巻く本書を母語で読めるということは令和元年、「美しい国へ」とかいうスローガンがいよいよお笑いになってきた、洒落にならないこの国に生きていて得られるすくない僥倖の一つといえるであろう。是非、本屋で手にとって(kindleでもお試しの無料サンプルをダウンロードして)第一章の「死者にみちびかれて」を5、6ページ読んでみて欲しい。
万延元年のフットボール (講談社文芸文庫) Amazon書評・レビュー: 万延元年のフットボール (講談社文芸文庫)より
4061960148
No.98
(5pt)

ノーベル賞級の作品の歴史洞察の射程

大江健三郎のノーベル賞の受賞理由の記された文書に代表作として挙げられているのが本書「万延元年のフットボール」(1967)であり、そのノーベル賞の受賞の記念講演が「あいまいな日本の私」(1994)であるが、もちろん両者は繋がっている。 「あいまいな日本の私」で述べられているのは、日本という国は、万延元年のころ開国を迫られて以来、日本と西欧の両極にアンビギュアスに引き裂かれ、そのことによって条件付けられた歴史を辿り、それ故の傷を(これは勿論日本に侵略されたアジアの国も)負った、ということだが、それが「万延元年」に縦横に張り巡らされるよう書かれている。 /小説の背景の安保闘争というのがアンビギュアスなものであった。日本の中で激しい意見対立があり、両陣営に分かれて争ったことがそもそも両義性なわけだが、両陣営ともそれぞれ両義性を抱えていた。左翼の安保反対には反米という愛国的情念は拭難くあったであろうし、vice versaで右翼も戦勝国アメリカに屈服する怨恨を抱え込んだ。この両義的なものが複雑にからみあったコンプレックスはいまの日本においても解消されず残っているだろう。/ 主人公たちが帰郷する村には、西欧化の帰結である経済の進展によってスーパー・マーケットが進出している。これには一方において消費経済の魅惑であるが、一方で社会の均質化・地縁共同体の解体という傷をもたらす。グローバライゼーションの問題を大江は既に1960年代に作品に書き込んでいる。/作中、スーパー・マーケットの経営者が在日コリアンであるのも事態を複雑化している。当初は西欧化に抵抗したものの路線転換し「脱亜入欧」し、後進的なものと蔑視していた隣人が、経済的に優位にたっている。そこからもたらされる鬱屈した情念は暴動に発展するわけだが、こういう事態も非常に今日的である。この蔑視の対象が作中「天皇」と呼ばれるのもアイロニカルで含むところは大きいだろう。/こうやってつらつらと書いてきて、作家はいまなおリアルな問題、というよりもむしろ執筆当時以上に、グローバライゼーションの進展、社会的無意識=汚いホンネがダダ漏れに露呈する技術条件であるインターネットの普及、により1990年代後半ごろからよりクッキリと見えてきた問題群を1960年代において完全に視界に入れているのに驚かされる。経済不安の鬱屈のはけ口のヘイトデモやネット書き込み、被害者意識と蔑視感情のコンプレックスの歴史修正主義、そうしたネットウヨク的問題の構造はノーベル賞級の巨人的な作家からすれば「「想像力」的には大昔にとっくに全部見通し済みだぜ」ということなのである。図星を突かれた彼らがネットで血相変えて大江叩きにはしるのも気持ちはわからなくはない。

・・・と、こういう紹介をすると、最近の若い人の政治忌避の流れから「そういう重たい話はちょっと・・・」となってもよくないので付言すると、本書はまことに多面的な世界であり、上記は多面のなかの一面から本書の洞察の深さを語ってみただけであって、ノーベル賞が”fundamentally the novel deals with people’s relationships with each other in a confusing world in which knowledge, passions, dreams, ambitions and attitudes merge into each other.(基本的には、この小説は、知識、情熱、夢、野望、態度が溶け合った混乱した世界における人々の関係を取り扱っている)”と世界に向けて紹介している通り、本作はある国の特殊事情を語っているだけではない誰でも共感できる普遍的な物語である。主人公夫婦には知的に障害を持った子供が生まれ、その失意から関係が崩壊している。彼ら崩壊家族の恢復の物語がこの多面的世界を貫く基軸である。

自分がレビュアーとして多くの人に本書を手に取って欲しい理由として、本書の魅力として第一に挙げたいのは、本書の破格の文体である。大江の文章は、彼を否定した向きから鬼の首をとったように「悪文だ」などと言われるわけだが「美しい日本の私の美しい日本語」などというのはジョイスやらフォークナーやらを経た後の20世紀の世界文学の課題では全くないのであって、全く批判が届いていない。退屈な美しさなど破砕しながら、イメージの奔流が怒濤のように押し寄せてトグロを巻く本書を母語で読めるということは令和元年、「美しい国へ」とかいうスローガンがいよいよお笑いになってきた、洒落にならないこの国に生きていて得られるすくない僥倖の一つといえるであろう。是非、本屋で手にとって(kindleでもお試しの無料サンプルをダウンロードして)第一章の「死者にみちびかれて」を5、6ページ読んでみて欲しい。
万延元年のフットボール (講談社文庫 お 2-1) Amazon書評・レビュー: 万延元年のフットボール (講談社文庫 お 2-1)より
4061310275
No.97
(5pt)

ノーベル賞級の作品の歴史洞察の射程

大江健三郎のノーベル賞の受賞理由の記された文書に代表作として挙げられているのが本書「万延元年のフットボール」(1967)であり、そのノーベル賞の受賞の記念講演が「あいまいな日本の私」(1994)であるが、もちろん両者は繋がっている。 「あいまいな日本の私」で述べられているのは、日本という国は、万延元年のころ開国を迫られて以来、日本と西欧の両極にアンビギュアスに引き裂かれ、そのことによって条件付けられた歴史を辿り、それ故の傷を(これは勿論日本に侵略されたアジアの国も)負った、ということだが、それが「万延元年」に縦横に張り巡らされるよう書かれている。 /小説の背景の安保闘争というのがアンビギュアスなものであった。日本の中で激しい意見対立があり、両陣営に分かれて争ったことがそもそも両義性なわけだが、両陣営ともそれぞれ両義性を抱えていた。左翼の安保反対には反米という愛国的情念は拭難くあったであろうし、vice versaで右翼も戦勝国アメリカに屈服する怨恨を抱え込んだ。この両義的なものが複雑にからみあったコンプレックスはいまの日本においても解消されず残っているだろう。/ 主人公たちが帰郷する村には、西欧化の帰結である経済の進展によってスーパー・マーケットが進出している。これには一方において消費経済の魅惑であるが、一方で社会の均質化・地縁共同体の解体という傷をもたらす。グローバライゼーションの問題を大江は既に1960年代に作品に書き込んでいる。/作中、スーパー・マーケットの経営者が在日コリアンであるのも事態を複雑化している。当初は西欧化に抵抗したものの路線転換し「脱亜入欧」し、後進的なものと蔑視していた隣人が、経済的に優位にたっている。そこからもたらされる鬱屈した情念は暴動に発展するわけだが、こういう事態も非常に今日的である。この蔑視の対象が作中「天皇」と呼ばれるのもアイロニカルで含むところは大きいだろう。/こうやってつらつらと書いてきて、作家はいまなおリアルな問題、というよりもむしろ執筆当時以上に、グローバライゼーションの進展、社会的無意識=汚いホンネがダダ漏れに露呈する技術条件であるインターネットの普及、により1990年代後半ごろからよりクッキリと見えてきた問題群を1960年代において完全に視界に入れているのに驚かされる。経済不安の鬱屈のはけ口のヘイトデモやネット書き込み、被害者意識と蔑視感情のコンプレックスの歴史修正主義、そうしたネットウヨク的問題の構造はノーベル賞級の巨人的な作家からすれば「「想像力」的には大昔にとっくに全部見通し済みだぜ」ということなのである。図星を突かれた彼らがネットで血相変えて大江叩きにはしるのも気持ちはわからなくはない。

・・・と、こういう紹介をすると、最近の若い人の政治忌避の流れから「そういう重たい話はちょっと・・・」となってもよくないので付言すると、本書はまことに多面的な世界であり、上記は多面のなかの一面から本書の洞察の深さを語ってみただけであって、ノーベル賞が”fundamentally the novel deals with people’s relationships with each other in a confusing world in which knowledge, passions, dreams, ambitions and attitudes merge into each other.(基本的には、この小説は、知識、情熱、夢、野望、態度が溶け合った混乱した世界における人々の関係を取り扱っている)”と世界に向けて紹介している通り、本作はある国の特殊事情を語っているだけではない誰でも共感できる普遍的な物語である。主人公夫婦には知的に障害を持った子供が生まれ、その失意から関係が崩壊している。彼ら崩壊家族の恢復の物語がこの多面的世界を貫く基軸である。

自分がレビュアーとして多くの人に本書を手に取って欲しい理由として、本書の魅力として第一に挙げたいのは、本書の破格の文体である。大江の文章は、彼を否定した向きから鬼の首をとったように「悪文だ」などと言われるわけだが「美しい日本の私の美しい日本語」などというのはジョイスやらフォークナーやらを経た後の20世紀の世界文学の課題では全くないのであって、全く批判が届いていない。退屈な美しさなど破砕しながら、イメージの奔流が怒濤のように押し寄せてトグロを巻く本書を母語で読めるということは令和元年、「美しい国へ」とかいうスローガンがいよいよお笑いになってきた、洒落にならないこの国に生きていて得られるすくない僥倖の一つといえるであろう。是非、本屋で手にとって(kindleでもお試しの無料サンプルをダウンロードして)第一章の「死者にみちびかれて」を5、6ページ読んでみて欲しい。
万延元年のフットボール Amazon書評・レビュー: 万延元年のフットボールより
4061121820
No.96
(4pt)

1962↔1945↔1860

作者32歳の作品。愛媛と高知の県境の森林に囲まれた谷川の流れる窪地の村を舞台に、安保闘争後の1962年秋から翌春にかけて根所蜜三郎(僕)と鷹四の兄弟を中心としてくりひろげられる物語である。時は、「スーパーマーケットの天皇」をめぐる出来事から伐採のため強制連行された朝鮮人グループと農家の次男三男を主体とするグループが襲撃しあった1945年敗戦の夏へ、さらに兄弟の曾祖父が指導者の一揆があった万延元(1860)年へ、さかのぼる。
万延元年のフットボール (1967年) Amazon書評・レビュー: 万延元年のフットボール (1967年)より
B000JA7MU2
No.95
(5pt)

なんだか救われました。。。

『万延元年のフットボール』は愛する勇気を問うた、希望に満ち溢れた純愛への序章だと感じました。

そして、愛し続けるということは、覚悟が必要なんだということも学びました。

日本人には珍しく、大江さんは「個」をとても尊重する人なんじゃないでしょうか。

愛するか愛さないか、愛し続けるか愛するのを止めるかの決定権は、常に自分にあるんですね。
万延元年のフットボール (講談社文芸文庫) Amazon書評・レビュー: 万延元年のフットボール (講談社文芸文庫)より
4061960148
No.94
(5pt)

なんだか救われました。。。

『万延元年のフットボール』は愛する勇気を問うた、希望に満ち溢れた純愛への序章だと感じました。

そして、愛し続けるということは、覚悟が必要なんだということも学びました。

日本人には珍しく、大江さんは「個」をとても尊重する人なんじゃないでしょうか。

愛するか愛さないか、愛し続けるか愛するのを止めるかの決定権は、常に自分にあるんですね。
万延元年のフットボール (講談社文庫 お 2-1) Amazon書評・レビュー: 万延元年のフットボール (講談社文庫 お 2-1)より
4061310275
No.93
(5pt)

なんだか救われました。。。

『万延元年のフットボール』は愛する勇気を問うた、希望に満ち溢れた純愛への序章だと感じました。

そして、愛し続けるということは、覚悟が必要なんだということも学びました。

日本人には珍しく、大江さんは「個」をとても尊重する人なんじゃないでしょうか。

愛するか愛さないか、愛し続けるか愛するのを止めるかの決定権は、常に自分にあるんですね。
万延元年のフットボール Amazon書評・レビュー: 万延元年のフットボールより
4061121820
No.92
(5pt)

けして面白い作品ではない。でも、素晴らしい。

ぼくは読了するのに2週間かかりました。
2日間くらいは読むのが嫌で読みませんでした。
1日によむりょうが極端にすくなく、
やっとのことで読了出来た感じです。
この小説は実存主義の影響をうけて遺伝とか先祖の過去とか人種差別とかあらゆる現在の可能性を否定するものを嫌います。
大江の文章をいちどで分かる人を尊敬すると評論家が買いていましたが、
思考回路がにているのかそんなにわかりずらくありませんでした。
僕が大学院で発表した英語の翻訳にそっくりだったのです。
おもしろくない作品ですが、安易にエンターテイメントに走らない作品でとゆうことはオリジナリティがありそれゆえに当然傑作です。
さすが大江の最高傑作です。毎年期待はしていますが。このままでは、村上春樹ではエンターテイメント性の強い作品が多くノーベル賞受賞は厳しいでしょう。
厳しいことをいうようですが、おそらく春樹は受賞できないでしょう。
大江健三郎は読者に媚びない本当の意味でノーベル賞作家です。
万延元年のフットボール (講談社文芸文庫) Amazon書評・レビュー: 万延元年のフットボール (講談社文芸文庫)より
4061960148
No.91
(5pt)

けして面白い作品ではない。でも、素晴らしい。

ぼくは読了するのに2週間かかりました。
2日間くらいは読むのが嫌で読みませんでした。
1日によむりょうが極端にすくなく、
やっとのことで読了出来た感じです。
この小説は実存主義の影響をうけて遺伝とか先祖の過去とか人種差別とかあらゆる現在の可能性を否定するものを嫌います。
大江の文章をいちどで分かる人を尊敬すると評論家が買いていましたが、
思考回路がにているのかそんなにわかりずらくありませんでした。
僕が大学院で発表した英語の翻訳にそっくりだったのです。
おもしろくない作品ですが、安易にエンターテイメントに走らない作品でとゆうことはオリジナリティがありそれゆえに当然傑作です。
さすが大江の最高傑作です。毎年期待はしていますが。このままでは、村上春樹ではエンターテイメント性の強い作品が多くノーベル賞受賞は厳しいでしょう。
厳しいことをいうようですが、おそらく春樹は受賞できないでしょう。
大江健三郎は読者に媚びない本当の意味でノーベル賞作家です。
万延元年のフットボール (講談社文庫 お 2-1) Amazon書評・レビュー: 万延元年のフットボール (講談社文庫 お 2-1)より
4061310275
No.90
(5pt)

けして面白い作品ではない。でも、素晴らしい。

ぼくは読了するのに2週間かかりました。
2日間くらいは読むのが嫌で読みませんでした。
1日によむりょうが極端にすくなく、
やっとのことで読了出来た感じです。
この小説は実存主義の影響をうけて遺伝とか先祖の過去とか人種差別とかあらゆる現在の可能性を否定するものを嫌います。
大江の文章をいちどで分かる人を尊敬すると評論家が買いていましたが、
思考回路がにているのかそんなにわかりずらくありませんでした。
僕が大学院で発表した英語の翻訳にそっくりだったのです。
おもしろくない作品ですが、安易にエンターテイメントに走らない作品でとゆうことはオリジナリティがありそれゆえに当然傑作です。
さすが大江の最高傑作です。毎年期待はしていますが。このままでは、村上春樹ではエンターテイメント性の強い作品が多くノーベル賞受賞は厳しいでしょう。
厳しいことをいうようですが、おそらく春樹は受賞できないでしょう。
大江健三郎は読者に媚びない本当の意味でノーベル賞作家です。
万延元年のフットボール Amazon書評・レビュー: 万延元年のフットボールより
4061121820
No.89
(5pt)

ちょうど半世紀前に書かれた作品

ヘイズコードが撤廃されたニューシネマ元年に書かれた。スチューデント・パワーによる1968年世界革命の一年前。ニューシネマもこの小説もこの時代に書かれたというより、この時代を準備したという感じ。

暴動が始まる直前の、中年男どもが本気で殴り合って、片方の歯茎が付いた歯が落ちているのを「蜜」が発見するくだりが良い。

『愛と幻想のファシズム』にも影響を与えていると思う。あちらは「鷹」の視点から見た『万延元年~』という趣。

大江にしても倉橋由美子にしても開高健にしても終戦時に多感な十代だったわけで、この世代の作家たちの作品は社会派的であることと内面的であることがごく自然に両立している気がする。そして、他の世代の日本の純文学はどれも単に内向的な気がする。
万延元年のフットボール (講談社文芸文庫) Amazon書評・レビュー: 万延元年のフットボール (講談社文芸文庫)より
4061960148
No.88
(5pt)

ちょうど半世紀前に書かれた作品

ヘイズコードが撤廃されたニューシネマ元年に書かれた。スチューデント・パワーによる1968年世界革命の一年前。ニューシネマもこの小説もこの時代に書かれたというより、この時代を準備したという感じ。

暴動が始まる直前の、中年男どもが本気で殴り合って、片方の歯茎が付いた歯が落ちているのを「蜜」が発見するくだりが良い。

『愛と幻想のファシズム』にも影響を与えていると思う。あちらは「鷹」の視点から見た『万延元年~』という趣。

大江にしても倉橋由美子にしても開高健にしても終戦時に多感な十代だったわけで、この世代の作家たちの作品は社会派的であることと内面的であることがごく自然に両立している気がする。そして、他の世代の日本の純文学はどれも単に内向的な気がする。
万延元年のフットボール (講談社文庫 お 2-1) Amazon書評・レビュー: 万延元年のフットボール (講談社文庫 お 2-1)より
4061310275
No.87
(5pt)

ちょうど半世紀前に書かれた作品

ヘイズコードが撤廃されたニューシネマ元年に書かれた。スチューデント・パワーによる1968年世界革命の一年前。ニューシネマもこの小説もこの時代に書かれたというより、この時代を準備したという感じ。

暴動が始まる直前の、中年男どもが本気で殴り合って、片方の歯茎が付いた歯が落ちているのを「蜜」が発見するくだりが良い。

『愛と幻想のファシズム』にも影響を与えていると思う。あちらは「鷹」の視点から見た『万延元年~』という趣。

大江にしても倉橋由美子にしても開高健にしても終戦時に多感な十代だったわけで、この世代の作家たちの作品は社会派的であることと内面的であることがごく自然に両立している気がする。そして、他の世代の日本の純文学はどれも単に内向的な気がする。
万延元年のフットボール Amazon書評・レビュー: 万延元年のフットボールより
4061121820
No.86
(5pt)

暗く重いが、何か解き放たれる。

題名にある「フットボール」という語句の印象で、軽い感じのエッセイ的な内容を思い浮かべてしまうと
打ちのめされてしまうかもしれない。

今でこそ表向き自由な印象を持たれるようになった日本人だが、その根底には暗く湿って閉ざされた、
何か別の得体の知れない、そして断ち切れない何かが脈々と受け継がれているようにこの本を読んで思う。

この作品の舞台は大江の生まれ育った故郷の「谷」だ。
大江が、一連の作品に故郷を思わせる場面や息子の光氏との関係を思わせる場面を描く事に、
自分を売り物にしていると批判する方もいる。

だが、私は違うと思う。

うまく言えないが、私たちも皆、日々「自分」というものを描いている私小説作家であると思う。
この世に生を受けた苦しみや羞かしさの中に少しでも喜びを見い出そうとしながら、いつか、
何か得体の知れないものに褒められることを期待しつつ…

大江が、彼の作品を通じてそれらをさらけ出し、考えさせてくれることに、私は心が解き放たれる気がする。
私にとってはそんな作品である。
万延元年のフットボール (講談社文庫 お 2-1) Amazon書評・レビュー: 万延元年のフットボール (講談社文庫 お 2-1)より
4061310275