万延元年のフットボール

【この小説が収録されている参考書籍】

【この小説が載っている参考書籍】

評判

万延元年のフットボールの評価:

4.17/5点 レビュー 64件。 A ランク

Amazon書評・レビュー点数毎のグラフです

平均点4.17pt

Amazonレビュー一覧

Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です

※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください

全145件 21〜40 2/8ページ
No.125
(5pt)

傷だらけの大江健三郎に感動

○大江健三郎氏がこの作品で試みようとしたこと、書き出しから終末部全体で結実していることを十全に読み取るのは、自分には非常に困難なことでありますが、それでもまず一読後の最初の感想は、小説家大江健三郎に強く勇気づけられた、ということです。

○若い頃、三分の一程度読んで挫折したのを、折に触れてまた最初から読み始め、結果的に第一章だけを何度も読むことになったのですが、今回改めて冒頭から読み進めていくと、第一章が、極めてスリリングで、彼の現代詩のような、一見過剰で回りくどい読みにくさを感じさせる、なおかつ暴力的に迂回するゴツゴツした形容の洪水が、読み手の中にいかに様々な視点と奥行きを作り出しているかに気づき、ため息、ワクワクする興奮と感動を覚えました。

○さて、「森に囲まれた四国の谷間の村」といういわゆる土着的で都会の洗練の対極にある舞台設定が、かつて読み通すことを阻害する一因にもなったわけですが、今回も、その読み進めづらさはありました。主人公「蜜」と「鷹」兄弟の先祖が主導した一揆と、現代の「安保闘争」の挫折との関わりは、単に過去の出来事を現代に置き換えて重ね合わせたいという強引(でいささか陳腐)な意図にも感じられ「スーパーマーケットの天皇」に対して結成されるフットボールチームも、もう一つピンと来ないところがあります。作品のタイトルにも与えられているフットボールは、実際、過去と現在を二重写しにしようとする、実際の効果よりも意図が勝りすぎて、どことなく空疎ですらあります。

○しかし、私に感動を与えるその元は、「蜜」に対置された彼の妻と弟の存在と、彼らから突きつけられる言葉と行動に打撃を受ける、「蜜」(=私の中では大江健三郎自身)の気取らなさ、弱さを曝け出す、その傷だらけの姿に他ならないと言えるでしょう。
万延元年のフットボール (1967年) Amazon書評・レビュー: 万延元年のフットボール (1967年)より
B000JA7MU2
No.124
(5pt)

よかったです

説明どおりの商品で発送も迅速でとてもていねいでした。機会あればまたお願いしたいです。ありがとうございました。
万延元年のフットボール (講談社文芸文庫) Amazon書評・レビュー: 万延元年のフットボール (講談社文芸文庫)より
4061960148
No.123
(5pt)

よかったです

説明どおりの商品で発送も迅速でとてもていねいでした。機会あればまたお願いしたいです。ありがとうございました。
万延元年のフットボール (講談社文庫 お 2-1) Amazon書評・レビュー: 万延元年のフットボール (講談社文庫 お 2-1)より
4061310275
No.122
(5pt)

よかったです

説明どおりの商品で発送も迅速でとてもていねいでした。機会あればまたお願いしたいです。ありがとうございました。
万延元年のフットボール Amazon書評・レビュー: 万延元年のフットボールより
4061121820
No.121
(5pt)

よかったです

説明どおりの商品で発送も迅速でとてもていねいでした。機会あればまたお願いしたいです。ありがとうございました。
万延元年のフットボール (1967年) Amazon書評・レビュー: 万延元年のフットボール (1967年)より
B000JA7MU2
No.120
(5pt)

感謝

絶望にいた時に俺がしたこと
俺が抱える以上の絶望を探すこと
それによって自分を慰めること
大抵の言葉や音楽、小説は役に立たなかった
けど大江健三郎の小説は良かった
俺がどん底にいた時に読んだ彼の小説「万延元年のフットボール」は
光の決して届かないような場所に沈殿していた俺の心に、気づけば横に、あるいはそれより深い深度を持って
そこに存在していた。こういう出会いが俺を救う。俺も誰かの少しでも救いに、なぐさめになれたら、と思う。
万延元年のフットボール (講談社文芸文庫) Amazon書評・レビュー: 万延元年のフットボール (講談社文芸文庫)より
4061960148
No.119
(5pt)

感謝

絶望にいた時に俺がしたこと
俺が抱える以上の絶望を探すこと
それによって自分を慰めること
大抵の言葉や音楽、小説は役に立たなかった
けど大江健三郎の小説は良かった
俺がどん底にいた時に読んだ彼の小説「万延元年のフットボール」は
光の決して届かないような場所に沈殿していた俺の心に、気づけば横に、あるいはそれより深い深度を持って
そこに存在していた。こういう出会いが俺を救う。俺も誰かの少しでも救いに、なぐさめになれたら、と思う。
万延元年のフットボール (講談社文庫 お 2-1) Amazon書評・レビュー: 万延元年のフットボール (講談社文庫 お 2-1)より
4061310275
No.118
(5pt)

感謝

絶望にいた時に俺がしたこと
俺が抱える以上の絶望を探すこと
それによって自分を慰めること
大抵の言葉や音楽、小説は役に立たなかった
けど大江健三郎の小説は良かった
俺がどん底にいた時に読んだ彼の小説「万延元年のフットボール」は
光の決して届かないような場所に沈殿していた俺の心に、気づけば横に、あるいはそれより深い深度を持って
そこに存在していた。こういう出会いが俺を救う。俺も誰かの少しでも救いに、なぐさめになれたら、と思う。
万延元年のフットボール Amazon書評・レビュー: 万延元年のフットボールより
4061121820
No.117
(5pt)

感謝

絶望にいた時に俺がしたこと
俺が抱える以上の絶望を探すこと
それによって自分を慰めること
大抵の言葉や音楽、小説は役に立たなかった
けど大江健三郎の小説は良かった
俺がどん底にいた時に読んだ彼の小説「万延元年のフットボール」は
光の決して届かないような場所に沈殿していた俺の心に、気づけば横に、あるいはそれより深い深度を持って
そこに存在していた。こういう出会いが俺を救う。俺も誰かの少しでも救いに、なぐさめになれたら、と思う。
万延元年のフットボール (1967年) Amazon書評・レビュー: 万延元年のフットボール (1967年)より
B000JA7MU2
No.116
(4pt)

終盤、超展開すぎるほど畳みかけているが、そこが魅力でしょうか?

終盤の超展開はともかく、一度通して読んだうえで、改めて一章の内容と感想を記します。

【内容】
学生運動に巻き込まれて頭部を殴打した親友の狂気じみた縊死、障害を持って生まれた赤子、アルコール依存症の妻と共に家畜さながらの荒んだ日々を送る語り手蜜、そして裏側では学生運動家として思想に傾倒した蜜の弟、鷹のアメリカでの頽廃的な日々の断片が、終盤で語られる「本当のこと(鷹の抑圧ともいえよう)」の上部構造として綴られるイントロダクションである。
死んだ母親による蜜に劣等感を植え付ける一方的な予言、鷹の抑圧の上部構造、最も常識的な感性を持ち合わせまま、それゆえに家族のことで苦悩する妻の頽廃、縊死した蜜の分身たる友人の表象が一挙に描写され、直線的な時間軸と共に語られる二章以降の駆動として濃密に凝縮されている印象をうける。

【感想】
全裸で肛門に胡瓜をさし、頭部を赤く染め縊死した現実離れした親友像は蜜にとってとてもリアルに切迫した問題で、周囲との関係が孤絶され緩やかな死へと至りつつある蜜の内面に、まさに表象としての綜合的な死(吉本『共同幻想』遠野物語)をもたらしており、のちの章で、蜜の自閉的傾向が強まったときたびたびしつこいぐらいに現出してくる。
一方で、社会規範から大きく逸脱した親友の相貌が、小説的な文脈において表象としてしつこく反復されるとき、村上春樹の『1Q84』の冒頭で克明に繰り返し描き出される主人公の記憶<自分の母親と思われる女の乳房を吸う見知らぬ男の像>と同様に、かえってユーモアとしての特性を帯び始めつつあるかもしれない。
精神医学ではトラウマ足りえるイメージが、物語として繰り返し語られることによって、半ば皮相的にユーモアとして結晶化しているとするのはインターネットに毒された私だけの妄想か?
友人の死に立ち会ったときの生々しい腐敗した亡骸にまつわる記憶が、着実にいまなお死にゆく蜜(あるいはまったく反対に社会から離反しすっかり動物的な変貌を遂げ、もはや最も切実に本能的な生を希求した存在ともいえる蜜、それはまるで胚種に猥雑に手足が生えたような自由な個体のようである)に奇妙な親近感をもたらしており、浄化槽のなかで闇と解けあう逸脱した身体的表現は注目に値する。

さて、物語の大きな仕掛けとして明るみになる、悔悛した学生運動家としての役割に透徹する鷹の破滅的な行動の裏にある抑圧が一体何なのだろうか? と読者に思わせることには成功しただろうか?(私は、あくまで読書に不慣れな私はなのだが、あまりにも濃密にすぎるゆえにただ強い抵抗感をもって一章を読まざるを得なかった。)
また鷹だけでなく、蜜に囁かれた母親の予言、「お前は鷹とは正反対にいずれ醜くなるだろう」、が着実に蜜の心象に明瞭な歪みをもたらせていることを、あたかも構造外部の語り手としての蜜自体から読者が超越して感じ取ってやらなくてはならないのだろう。
万延元年のフットボール (講談社文芸文庫) Amazon書評・レビュー: 万延元年のフットボール (講談社文芸文庫)より
4061960148
No.115
(4pt)

終盤、超展開すぎるほど畳みかけているが、そこが魅力でしょうか?

終盤の超展開はともかく、一度通して読んだうえで、改めて一章の内容と感想を記します。

【内容】
学生運動に巻き込まれて頭部を殴打した親友の狂気じみた縊死、障害を持って生まれた赤子、アルコール依存症の妻と共に家畜さながらの荒んだ日々を送る語り手蜜、そして裏側では学生運動家として思想に傾倒した蜜の弟、鷹のアメリカでの頽廃的な日々の断片が、終盤で語られる「本当のこと(鷹の抑圧ともいえよう)」の上部構造として綴られるイントロダクションである。
死んだ母親による蜜に劣等感を植え付ける一方的な予言、鷹の抑圧の上部構造、最も常識的な感性を持ち合わせまま、それゆえに家族のことで苦悩する妻の頽廃、縊死した蜜の分身たる友人の表象が一挙に描写され、直線的な時間軸と共に語られる二章以降の駆動として濃密に凝縮されている印象をうける。

【感想】
全裸で肛門に胡瓜をさし、頭部を赤く染め縊死した現実離れした親友像は蜜にとってとてもリアルに切迫した問題で、周囲との関係が孤絶され緩やかな死へと至りつつある蜜の内面に、まさに表象としての綜合的な死(吉本『共同幻想』遠野物語)をもたらしており、のちの章で、蜜の自閉的傾向が強まったときたびたびしつこいぐらいに現出してくる。
一方で、社会規範から大きく逸脱した親友の相貌が、小説的な文脈において表象としてしつこく反復されるとき、村上春樹の『1Q84』の冒頭で克明に繰り返し描き出される主人公の記憶<自分の母親と思われる女の乳房を吸う見知らぬ男の像>と同様に、かえってユーモアとしての特性を帯び始めつつあるかもしれない。
精神医学ではトラウマ足りえるイメージが、物語として繰り返し語られることによって、半ば皮相的にユーモアとして結晶化しているとするのはインターネットに毒された私だけの妄想か?
友人の死に立ち会ったときの生々しい腐敗した亡骸にまつわる記憶が、着実にいまなお死にゆく蜜(あるいはまったく反対に社会から離反しすっかり動物的な変貌を遂げ、もはや最も切実に本能的な生を希求した存在ともいえる蜜、それはまるで胚種に猥雑に手足が生えたような自由な個体のようである)に奇妙な親近感をもたらしており、浄化槽のなかで闇と解けあう逸脱した身体的表現は注目に値する。

さて、物語の大きな仕掛けとして明るみになる、悔悛した学生運動家としての役割に透徹する鷹の破滅的な行動の裏にある抑圧が一体何なのだろうか? と読者に思わせることには成功しただろうか?(私は、あくまで読書に不慣れな私はなのだが、あまりにも濃密にすぎるゆえにただ強い抵抗感をもって一章を読まざるを得なかった。)
また鷹だけでなく、蜜に囁かれた母親の予言、「お前は鷹とは正反対にいずれ醜くなるだろう」、が着実に蜜の心象に明瞭な歪みをもたらせていることを、あたかも構造外部の語り手としての蜜自体から読者が超越して感じ取ってやらなくてはならないのだろう。
万延元年のフットボール (講談社文庫 お 2-1) Amazon書評・レビュー: 万延元年のフットボール (講談社文庫 お 2-1)より
4061310275
No.114
(4pt)

終盤、超展開すぎるほど畳みかけているが、そこが魅力でしょうか?

終盤の超展開はともかく、一度通して読んだうえで、改めて一章の内容と感想を記します。

【内容】
学生運動に巻き込まれて頭部を殴打した親友の狂気じみた縊死、障害を持って生まれた赤子、アルコール依存症の妻と共に家畜さながらの荒んだ日々を送る語り手蜜、そして裏側では学生運動家として思想に傾倒した蜜の弟、鷹のアメリカでの頽廃的な日々の断片が、終盤で語られる「本当のこと(鷹の抑圧ともいえよう)」の上部構造として綴られるイントロダクションである。
死んだ母親による蜜に劣等感を植え付ける一方的な予言、鷹の抑圧の上部構造、最も常識的な感性を持ち合わせまま、それゆえに家族のことで苦悩する妻の頽廃、縊死した蜜の分身たる友人の表象が一挙に描写され、直線的な時間軸と共に語られる二章以降の駆動として濃密に凝縮されている印象をうける。

【感想】
全裸で肛門に胡瓜をさし、頭部を赤く染め縊死した現実離れした親友像は蜜にとってとてもリアルに切迫した問題で、周囲との関係が孤絶され緩やかな死へと至りつつある蜜の内面に、まさに表象としての綜合的な死(吉本『共同幻想』遠野物語)をもたらしており、のちの章で、蜜の自閉的傾向が強まったときたびたびしつこいぐらいに現出してくる。
一方で、社会規範から大きく逸脱した親友の相貌が、小説的な文脈において表象としてしつこく反復されるとき、村上春樹の『1Q84』の冒頭で克明に繰り返し描き出される主人公の記憶<自分の母親と思われる女の乳房を吸う見知らぬ男の像>と同様に、かえってユーモアとしての特性を帯び始めつつあるかもしれない。
精神医学ではトラウマ足りえるイメージが、物語として繰り返し語られることによって、半ば皮相的にユーモアとして結晶化しているとするのはインターネットに毒された私だけの妄想か?
友人の死に立ち会ったときの生々しい腐敗した亡骸にまつわる記憶が、着実にいまなお死にゆく蜜(あるいはまったく反対に社会から離反しすっかり動物的な変貌を遂げ、もはや最も切実に本能的な生を希求した存在ともいえる蜜、それはまるで胚種に猥雑に手足が生えたような自由な個体のようである)に奇妙な親近感をもたらしており、浄化槽のなかで闇と解けあう逸脱した身体的表現は注目に値する。

さて、物語の大きな仕掛けとして明るみになる、悔悛した学生運動家としての役割に透徹する鷹の破滅的な行動の裏にある抑圧が一体何なのだろうか? と読者に思わせることには成功しただろうか?(私は、あくまで読書に不慣れな私はなのだが、あまりにも濃密にすぎるゆえにただ強い抵抗感をもって一章を読まざるを得なかった。)
また鷹だけでなく、蜜に囁かれた母親の予言、「お前は鷹とは正反対にいずれ醜くなるだろう」、が着実に蜜の心象に明瞭な歪みをもたらせていることを、あたかも構造外部の語り手としての蜜自体から読者が超越して感じ取ってやらなくてはならないのだろう。
万延元年のフットボール Amazon書評・レビュー: 万延元年のフットボールより
4061121820
No.113
(4pt)

終盤、超展開すぎるほど畳みかけているが、そこが魅力でしょうか?

終盤の超展開はともかく、一度通して読んだうえで、改めて一章の内容と感想を記します。

【内容】
学生運動に巻き込まれて頭部を殴打した親友の狂気じみた縊死、障害を持って生まれた赤子、アルコール依存症の妻と共に家畜さながらの荒んだ日々を送る語り手蜜、そして裏側では学生運動家として思想に傾倒した蜜の弟、鷹のアメリカでの頽廃的な日々の断片が、終盤で語られる「本当のこと(鷹の抑圧ともいえよう)」の上部構造として綴られるイントロダクションである。
死んだ母親による蜜に劣等感を植え付ける一方的な予言、鷹の抑圧の上部構造、最も常識的な感性を持ち合わせまま、それゆえに家族のことで苦悩する妻の頽廃、縊死した蜜の分身たる友人の表象が一挙に描写され、直線的な時間軸と共に語られる二章以降の駆動として濃密に凝縮されている印象をうける。

【感想】
全裸で肛門に胡瓜をさし、頭部を赤く染め縊死した現実離れした親友像は蜜にとってとてもリアルに切迫した問題で、周囲との関係が孤絶され緩やかな死へと至りつつある蜜の内面に、まさに表象としての綜合的な死(吉本『共同幻想』遠野物語)をもたらしており、のちの章で、蜜の自閉的傾向が強まったときたびたびしつこいぐらいに現出してくる。
一方で、社会規範から大きく逸脱した親友の相貌が、小説的な文脈において表象としてしつこく反復されるとき、村上春樹の『1Q84』の冒頭で克明に繰り返し描き出される主人公の記憶<自分の母親と思われる女の乳房を吸う見知らぬ男の像>と同様に、かえってユーモアとしての特性を帯び始めつつあるかもしれない。
精神医学ではトラウマ足りえるイメージが、物語として繰り返し語られることによって、半ば皮相的にユーモアとして結晶化しているとするのはインターネットに毒された私だけの妄想か?
友人の死に立ち会ったときの生々しい腐敗した亡骸にまつわる記憶が、着実にいまなお死にゆく蜜(あるいはまったく反対に社会から離反しすっかり動物的な変貌を遂げ、もはや最も切実に本能的な生を希求した存在ともいえる蜜、それはまるで胚種に猥雑に手足が生えたような自由な個体のようである)に奇妙な親近感をもたらしており、浄化槽のなかで闇と解けあう逸脱した身体的表現は注目に値する。

さて、物語の大きな仕掛けとして明るみになる、悔悛した学生運動家としての役割に透徹する鷹の破滅的な行動の裏にある抑圧が一体何なのだろうか? と読者に思わせることには成功しただろうか?(私は、あくまで読書に不慣れな私はなのだが、あまりにも濃密にすぎるゆえにただ強い抵抗感をもって一章を読まざるを得なかった。)
また鷹だけでなく、蜜に囁かれた母親の予言、「お前は鷹とは正反対にいずれ醜くなるだろう」、が着実に蜜の心象に明瞭な歪みをもたらせていることを、あたかも構造外部の語り手としての蜜自体から読者が超越して感じ取ってやらなくてはならないのだろう。
万延元年のフットボール (1967年) Amazon書評・レビュー: 万延元年のフットボール (1967年)より
B000JA7MU2
No.112
(5pt)

著者の転換点的代表作

"かれらはこれに参加することで、百年を跳びこえて万延元年の一揆を追体験する興奮を感じているんだ。これは想像力の暴動だ"1967年発刊の本書は60年代、70年当時の安保闘争と共振しつつ、ノーベル賞受賞者の著者にとって"私"から"神話"の創造へ。執筆活動の大きな転換点となった代表作。

個人的には主宰する読書会の課題図書の一冊として著者作は『同時代ゲーム』に続く2冊目として手にとりました。

さて、そんな本書は友人の奇妙な自死、障害児の出産、安保運動など【それぞれに心に傷を負った人物たち】が故郷の四国の村に到着、ある事をきっかけにして100年前の一揆をなぞるように暴動が起こるわけですが。

先に読んだ『同時代ゲーム』同様に観念的な告白やイメージが続く冒頭こそ読みづらかったものの(意図的?)どこか【異様な緊張感のあるフットボールチームの結成】の中盤から後半にかけて次々と反復的、メタファー的な出来事が出現、そしてラストの【悲劇からのどんでん返し、再生】といった流れがフォークナーの影響、昭和的な同時代の濃さ、柳田國男や折口信夫の民俗学的土着さ、そしてサルトルの実存主義、構造主義を取り込むカオスさで【迫力をもってごっちゃ煮的に展開されていて】夢中になって読み終えました。

また、読んでいる時は全然気づかなかったのですが(また本人は否定しているらしいのですが)村上春樹の『1973年のピンボール』が本書のパロディと柄谷行人に指摘されている事を知ったのも小さな驚きでした【全体の印象は全く異なりますが】確かにタイトルだけでなく『本当のことを言おうか』のセリフ、翻訳の仕事や友人の自殺、鼠、そして『穴の中へ降りていく』とパーツ的には重なる部分に(ハルキストの方には悪いですが)【これは確信犯だな】とニヤリとしました。

中上健次や村上春樹、そして中村文則といった作家たちに影響を与えた一冊として、また60年代から70年代の昭和の時代的空気感を追体験したい人にもオススメ。
万延元年のフットボール (講談社文芸文庫) Amazon書評・レビュー: 万延元年のフットボール (講談社文芸文庫)より
4061960148
No.111
(5pt)

著者の転換点的代表作

"かれらはこれに参加することで、百年を跳びこえて万延元年の一揆を追体験する興奮を感じているんだ。これは想像力の暴動だ"1967年発刊の本書は60年代、70年当時の安保闘争と共振しつつ、ノーベル賞受賞者の著者にとって"私"から"神話"の創造へ。執筆活動の大きな転換点となった代表作。

個人的には主宰する読書会の課題図書の一冊として著者作は『同時代ゲーム』に続く2冊目として手にとりました。

さて、そんな本書は友人の奇妙な自死、障害児の出産、安保運動など【それぞれに心に傷を負った人物たち】が故郷の四国の村に到着、ある事をきっかけにして100年前の一揆をなぞるように暴動が起こるわけですが。

先に読んだ『同時代ゲーム』同様に観念的な告白やイメージが続く冒頭こそ読みづらかったものの(意図的?)どこか【異様な緊張感のあるフットボールチームの結成】の中盤から後半にかけて次々と反復的、メタファー的な出来事が出現、そしてラストの【悲劇からのどんでん返し、再生】といった流れがフォークナーの影響、昭和的な同時代の濃さ、柳田國男や折口信夫の民俗学的土着さ、そしてサルトルの実存主義、構造主義を取り込むカオスさで【迫力をもってごっちゃ煮的に展開されていて】夢中になって読み終えました。

また、読んでいる時は全然気づかなかったのですが(また本人は否定しているらしいのですが)村上春樹の『1973年のピンボール』が本書のパロディと柄谷行人に指摘されている事を知ったのも小さな驚きでした【全体の印象は全く異なりますが】確かにタイトルだけでなく『本当のことを言おうか』のセリフ、翻訳の仕事や友人の自殺、鼠、そして『穴の中へ降りていく』とパーツ的には重なる部分に(ハルキストの方には悪いですが)【これは確信犯だな】とニヤリとしました。

中上健次や村上春樹、そして中村文則といった作家たちに影響を与えた一冊として、また60年代から70年代の昭和の時代的空気感を追体験したい人にもオススメ。
万延元年のフットボール (講談社文庫 お 2-1) Amazon書評・レビュー: 万延元年のフットボール (講談社文庫 お 2-1)より
4061310275
No.110
(5pt)

著者の転換点的代表作

"かれらはこれに参加することで、百年を跳びこえて万延元年の一揆を追体験する興奮を感じているんだ。これは想像力の暴動だ"1967年発刊の本書は60年代、70年当時の安保闘争と共振しつつ、ノーベル賞受賞者の著者にとって"私"から"神話"の創造へ。執筆活動の大きな転換点となった代表作。

個人的には主宰する読書会の課題図書の一冊として著者作は『同時代ゲーム』に続く2冊目として手にとりました。

さて、そんな本書は友人の奇妙な自死、障害児の出産、安保運動など【それぞれに心に傷を負った人物たち】が故郷の四国の村に到着、ある事をきっかけにして100年前の一揆をなぞるように暴動が起こるわけですが。

先に読んだ『同時代ゲーム』同様に観念的な告白やイメージが続く冒頭こそ読みづらかったものの(意図的?)どこか【異様な緊張感のあるフットボールチームの結成】の中盤から後半にかけて次々と反復的、メタファー的な出来事が出現、そしてラストの【悲劇からのどんでん返し、再生】といった流れがフォークナーの影響、昭和的な同時代の濃さ、柳田國男や折口信夫の民俗学的土着さ、そしてサルトルの実存主義、構造主義を取り込むカオスさで【迫力をもってごっちゃ煮的に展開されていて】夢中になって読み終えました。

また、読んでいる時は全然気づかなかったのですが(また本人は否定しているらしいのですが)村上春樹の『1973年のピンボール』が本書のパロディと柄谷行人に指摘されている事を知ったのも小さな驚きでした【全体の印象は全く異なりますが】確かにタイトルだけでなく『本当のことを言おうか』のセリフ、翻訳の仕事や友人の自殺、鼠、そして『穴の中へ降りていく』とパーツ的には重なる部分に(ハルキストの方には悪いですが)【これは確信犯だな】とニヤリとしました。

中上健次や村上春樹、そして中村文則といった作家たちに影響を与えた一冊として、また60年代から70年代の昭和の時代的空気感を追体験したい人にもオススメ。
万延元年のフットボール Amazon書評・レビュー: 万延元年のフットボールより
4061121820
No.109
(5pt)

著者の転換点的代表作

"かれらはこれに参加することで、百年を跳びこえて万延元年の一揆を追体験する興奮を感じているんだ。これは想像力の暴動だ"1967年発刊の本書は60年代、70年当時の安保闘争と共振しつつ、ノーベル賞受賞者の著者にとって"私"から"神話"の創造へ。執筆活動の大きな転換点となった代表作。

個人的には主宰する読書会の課題図書の一冊として著者作は『同時代ゲーム』に続く2冊目として手にとりました。

さて、そんな本書は友人の奇妙な自死、障害児の出産、安保運動など【それぞれに心に傷を負った人物たち】が故郷の四国の村に到着、ある事をきっかけにして100年前の一揆をなぞるように暴動が起こるわけですが。

先に読んだ『同時代ゲーム』同様に観念的な告白やイメージが続く冒頭こそ読みづらかったものの(意図的?)どこか【異様な緊張感のあるフットボールチームの結成】の中盤から後半にかけて次々と反復的、メタファー的な出来事が出現、そしてラストの【悲劇からのどんでん返し、再生】といった流れがフォークナーの影響、昭和的な同時代の濃さ、柳田國男や折口信夫の民俗学的土着さ、そしてサルトルの実存主義、構造主義を取り込むカオスさで【迫力をもってごっちゃ煮的に展開されていて】夢中になって読み終えました。

また、読んでいる時は全然気づかなかったのですが(また本人は否定しているらしいのですが)村上春樹の『1973年のピンボール』が本書のパロディと柄谷行人に指摘されている事を知ったのも小さな驚きでした【全体の印象は全く異なりますが】確かにタイトルだけでなく『本当のことを言おうか』のセリフ、翻訳の仕事や友人の自殺、鼠、そして『穴の中へ降りていく』とパーツ的には重なる部分に(ハルキストの方には悪いですが)【これは確信犯だな】とニヤリとしました。

中上健次や村上春樹、そして中村文則といった作家たちに影響を与えた一冊として、また60年代から70年代の昭和の時代的空気感を追体験したい人にもオススメ。
万延元年のフットボール (1967年) Amazon書評・レビュー: 万延元年のフットボール (1967年)より
B000JA7MU2
No.108
(5pt)

日本史的傑作

なぜこの作品が素晴らしいのか、ということを考えたときに、その素晴らしさを批評的に答えられる人はいないと思う。簡単なのは大江氏自身の歴史的洞察力の浅さ・感情過多な部分を全てだとして、作品価値を貶めることである。
しかし、本当に問題なのは「なぜこれが名作足り得るか」ということである。ノーベル賞の受賞のきっかけ、または戦後日本を文学から語る上で外せない作品となった(そうされた)のは、なぜなのだろうか。

大江氏は「日本文学は特殊なものではないことを世界に伝えよう」と思っていたことが、インタビューでも述べられている。特殊なものとは、すなわち川端康成らを筆頭に肯定された日本観であり、「もののあはれ」の価値観の文学であった。川端は日本人的なかなしみを描いたことが世界で評価された。すなわち、世界基準で見たときの日本人らしさではなく、一種文化遺産としての評価、日本人の文化は世界から異端のものとした上で認められたのである。
そうした「日本人的価値」だけとして終わりかけていた文壇に、大江氏はその潮流を打破しようと世界に通ずる文学を目指したのである。
事実、彼は障害児との共生や自分の血筋をめぐる歴史的考察--結論として言えば、命は一つのところにあり、死んだあとにはそこに戻ること--を描いた現代人の作家として、ノーベル賞を受賞する。
これを日本の文壇に置いてみると、世界基準に日本文学を合わせようとした彼の作品は、全くの駄作、日本的でない文学に見えるかもしれない。それは文学を歴史として受け継いでいくものと勝手に解釈している現代人の傲慢である、ということは置いといても、彼の受賞はすなわち世界人として認められたことであり、世界が日本人を見る目が変わったきっかけになったとも言える。なので、私の拙い考察では述べることが難しいが、万延元年のフットボールは日本文学を世界基準にまで引き上げた作品として、その価値が高いとされるものだと解している。

日本的でないことが、かえって日本を心から考えた結果であるというのは、彼の政治姿勢と似通うものがある。愛国心とは、すなわち己と引き合わせ、冷静に国(文学)を批評した賜物ではなかろうか、と思うのだが、なかなかそうは理解されないのも、大江氏らしい。
万延元年のフットボール (講談社文芸文庫) Amazon書評・レビュー: 万延元年のフットボール (講談社文芸文庫)より
4061960148
No.107
(5pt)

日本史的傑作

なぜこの作品が素晴らしいのか、ということを考えたときに、その素晴らしさを批評的に答えられる人はいないと思う。簡単なのは大江氏自身の歴史的洞察力の浅さ・感情過多な部分を全てだとして、作品価値を貶めることである。
しかし、本当に問題なのは「なぜこれが名作足り得るか」ということである。ノーベル賞の受賞のきっかけ、または戦後日本を文学から語る上で外せない作品となった(そうされた)のは、なぜなのだろうか。

大江氏は「日本文学は特殊なものではないことを世界に伝えよう」と思っていたことが、インタビューでも述べられている。特殊なものとは、すなわち川端康成らを筆頭に肯定された日本観であり、「もののあはれ」の価値観の文学であった。川端は日本人的なかなしみを描いたことが世界で評価された。すなわち、世界基準で見たときの日本人らしさではなく、一種文化遺産としての評価、日本人の文化は世界から異端のものとした上で認められたのである。
そうした「日本人的価値」だけとして終わりかけていた文壇に、大江氏はその潮流を打破しようと世界に通ずる文学を目指したのである。
事実、彼は障害児との共生や自分の血筋をめぐる歴史的考察--結論として言えば、命は一つのところにあり、死んだあとにはそこに戻ること--を描いた現代人の作家として、ノーベル賞を受賞する。
これを日本の文壇に置いてみると、世界基準に日本文学を合わせようとした彼の作品は、全くの駄作、日本的でない文学に見えるかもしれない。それは文学を歴史として受け継いでいくものと勝手に解釈している現代人の傲慢である、ということは置いといても、彼の受賞はすなわち世界人として認められたことであり、世界が日本人を見る目が変わったきっかけになったとも言える。なので、私の拙い考察では述べることが難しいが、万延元年のフットボールは日本文学を世界基準にまで引き上げた作品として、その価値が高いとされるものだと解している。

日本的でないことが、かえって日本を心から考えた結果であるというのは、彼の政治姿勢と似通うものがある。愛国心とは、すなわち己と引き合わせ、冷静に国(文学)を批評した賜物ではなかろうか、と思うのだが、なかなかそうは理解されないのも、大江氏らしい。
万延元年のフットボール (講談社文庫 お 2-1) Amazon書評・レビュー: 万延元年のフットボール (講談社文庫 お 2-1)より
4061310275
No.106
(5pt)

日本史的傑作

なぜこの作品が素晴らしいのか、ということを考えたときに、その素晴らしさを批評的に答えられる人はいないと思う。簡単なのは大江氏自身の歴史的洞察力の浅さ・感情過多な部分を全てだとして、作品価値を貶めることである。
しかし、本当に問題なのは「なぜこれが名作足り得るか」ということである。ノーベル賞の受賞のきっかけ、または戦後日本を文学から語る上で外せない作品となった(そうされた)のは、なぜなのだろうか。

大江氏は「日本文学は特殊なものではないことを世界に伝えよう」と思っていたことが、インタビューでも述べられている。特殊なものとは、すなわち川端康成らを筆頭に肯定された日本観であり、「もののあはれ」の価値観の文学であった。川端は日本人的なかなしみを描いたことが世界で評価された。すなわち、世界基準で見たときの日本人らしさではなく、一種文化遺産としての評価、日本人の文化は世界から異端のものとした上で認められたのである。
そうした「日本人的価値」だけとして終わりかけていた文壇に、大江氏はその潮流を打破しようと世界に通ずる文学を目指したのである。
事実、彼は障害児との共生や自分の血筋をめぐる歴史的考察--結論として言えば、命は一つのところにあり、死んだあとにはそこに戻ること--を描いた現代人の作家として、ノーベル賞を受賞する。
これを日本の文壇に置いてみると、世界基準に日本文学を合わせようとした彼の作品は、全くの駄作、日本的でない文学に見えるかもしれない。それは文学を歴史として受け継いでいくものと勝手に解釈している現代人の傲慢である、ということは置いといても、彼の受賞はすなわち世界人として認められたことであり、世界が日本人を見る目が変わったきっかけになったとも言える。なので、私の拙い考察では述べることが難しいが、万延元年のフットボールは日本文学を世界基準にまで引き上げた作品として、その価値が高いとされるものだと解している。

日本的でないことが、かえって日本を心から考えた結果であるというのは、彼の政治姿勢と似通うものがある。愛国心とは、すなわち己と引き合わせ、冷静に国(文学)を批評した賜物ではなかろうか、と思うのだが、なかなかそうは理解されないのも、大江氏らしい。
万延元年のフットボール Amazon書評・レビュー: 万延元年のフットボールより
4061121820