(短編集)
あまたの星、宝冠のごとく
- SF (392)
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評者にとって8冊目のティプトリー。現時点で日本語に翻訳されている最後の1冊。2016年2月に出版されているので購入してからもう7年も経つのかと、作者が亡くなってから36年後の今、思う。しかし、歴史的には36年前のことだが、それぞれの読者にとってはティプトリーの死を知った時が亡くなった時ではないかと思う。評者はほぼリアルタイムでそのニュースを知ったが、その時よりもむしろ今の方が、その不在を悼む気持ちが強くなっている。死の実感は関係性によって変わるという当たり前の事実を再認識した次第。 ただ、日本でのティプトリーは、最初に紹介された70年代以降の(今となっては)極初期の一時期を除いてずっと、その特異な死に方と共に読まれ、語られてきた。本来、作品というものは作家の生の証明そのものであり、死の産物ではないにもかかわらず・・・。 ティプトリーは、その作品を解読するための基盤となる作家の人生の特異性が、そのキャリアに加えて死に方に現れていると思われている結果なのだろう。ある意味、不幸なことである。 しかし、本書に関しては、その一面的な認識が間違っているとは言えない。本書には、実際にその死の瞬間に近づいていることを自覚している作家が、死をテーマにして描いた作品が多数収録されている。極端なことを言えば、本書はその点ではティプトリーの特異性が一番現れている一冊と言えるかもしれない。収録されているそれぞれの作品についての評価は決して最高とは言えないが、後半の作品になるにつれて印象が強くなってくるのは作者の実人生との関連を重ねて読んでいるからなのだろう。その意味では、ティプトリーの生涯に興味のない読者にとっては、あまり意味のない作品集かもしれない。もっとも、そういう人は本書を読もうとは思わないだろうが・・・ 以下、収録作について、それぞれ感想など。 アングリ降臨(Universe 17 1987) 約145枚 ファースト・コンタクトの物語。人類最初の火星調査隊が異星人と遭遇する場面から始まる。 本篇は、事件から約70年ぐらいの後、混乱した世界の実態を後世に伝えるためにNASAの正式な公文書保管人が残した報告書という形で描かれている。 異星人とのファースト・コンタクトが異常なまでにスムーズに始まる部分から、どこか引っ掛けられているような感じで進んでいく。冗談SFなのだろうか?と思いながら、初期の作品を思い出して不思議な気持ちにかられた。ティプトリーも変わってしまったものだ。それとも、本質は変わってないのか。 本篇も末期の作品のひとつだが、死の予兆は全く感じられない。安心して読んでいたら、後の作品になるにつれて次第に不穏さが増していくという構成は意図的なのか? 悪魔、天国へいく(F & SF 1986/10) 約60枚 二篇目も一篇目に続いて宗教関連の話。死期が近づいてきているので宗教話が増えたのかと思ったがそうではないようだ。タイトルから星新一を想像してしまったが、ミスリードしてはいけない。 神が死んだと聞かされたサタン(ルシファー)は、弔問のために天国を尋ねて旧友たちと再会し、将来について一つの提案をする。大天使たちの同意を得て地獄に戻るサタンだったが、帰路、不思議な親子と出会う。 終盤近くまではユーモア・ファンタジーのような作品だが、終盤の出来事の解釈に悩まされる。残念ながら評者には理解できなかった。 肉(Despatches from the Frontiers of the Female Mind 1985) 約81枚 ラクーナ・シェルドン名義 二つのストーリーを組み合わせて一つの物語に仕上げているのだが、仄めかしの手法で描かれているので、解釈によってはずいぶんグロテスクな物語として読める。しかし、そのように解釈しなければ、二つの物語はお互いに無関係な物語になってしまうので、この二つの物語が一つの物語として描かれているということは、つまり、そういうことなのだろうと思う。解説にはまさにそのことが書かれているが、その表現に舌を巻いた。 時代設定は1980年代頃のアメリカのようだが、中絶禁止法が全米で施行されているらしい。現在でも争点になっているところを見ると、人類の文化とやらも知れたもの。 “委員会”の視察ポイントなど設定の杜撰さは気になるが、そこに気を取られてはいけない。注目すべきは全編を貫く暗いヴィジョンと主人公の少女が認知することができる世界の乖離。これも宗教的な物語なのか? すべてこの世も天国も(Asimov SF 1985/12) 約103枚 架空の国の若い姫と隣国の若い王子の恋愛を描いた、ティプトリーらしくないおとぎ話のような寓話なのだけれど、政治色が強く、背景として語られる物語も濃いので、その辺りにティプトリーらしさが顕われているのか? 若い二人は一時の情熱だけで突っ走ろうとするが、重臣たちは思いとどまらせようとする。最終的にすべては収まるところに収まるのだが、いかにも寓話らしいというか、論理的にはその展開がまったく納得できない。しかし、心情的には理解できるというなかなか評価しにくい物語。 ところで、本篇はアシモフ誌に掲載されたようだが、果たしてSFと呼べるのか?寓話という意味ではまぎれもなくSF、ファンタジーの一分野と言えるのだが。 ヤンキー・ドゥードゥル(Asimov SF 1987/07) 約118枚 冒頭は、米国上院議員と陸軍の合同視察団が、革命軍ゲバリスタを撃退するために軍事侵攻した中南米の国ボデグァを訪問し、前線から離れたサンイスキエルダの町にある医療施設を訪問しようとしている場面から始まるが、そこから、その医療施設(米軍のリハビリ施設)に収容されている米軍上等兵の主観的な物語に切り替わる。 彼は、肉体的には大きな損傷を受けてはいなかったが、長期間に亘って各種の戦闘薬を服用しており、残虐行為にも加担していたため、薬物中毒とPTSDでボロボロになっていた。 本篇もアシモフ誌に掲載されたらしい。地名は架空のもののようだがとてもSFとは思えない。ルポルタージュかドキュメンタリーのようだ。ティプトリーの批判精神はより現実的な告発に向かったのか? 本篇の状況が、伊藤計劃の『虐殺器官』の設定に繋がっているのか?また、精神的な荒廃については『ゾンビー・ハンター』で描かれた地獄が誇張ではなかったのだと感じさせる。 読み終わってから気付いたが、やっぱりティプトリーもCIAの業務に従事していたことでトラウマを抱えていたのではないか? もしかしたら慢性胃炎もそれによるものだったのかも? 彼女の分析によって軍が派遣されたこともあるだろうし、その分析結果のすべてが正しかったということもないのではないか? いっしょに生きよう(本書“Crown of Stars 1988” 初出) 約94枚 不思議な話だ。よくできた話だと思うけど、ご都合主義が過ぎる。てらいもなく、ここまで割り切ったストーリーはなかなか書けるものではない。最後の時を目前に控えたティプトリーだからこそ書けた作品なのか? SFとしてのテーマは、これも異星知性体とのファースト・コンタクトだけど、真のテーマは愛する者を失った探検隊員の失意と再生の物語。これも一種のおとぎ話かな? 昨夜も今夜も、また明日の夜も(Worlds of Fantasy Volume1.Issue2 1970) 約14枚 初期の作品。なぜ、本書に? それまでの短編集には収録できなかったのか? 詳しい説明を省略したままストーリーを語り、結論は読者の想像に任せる。いかにも初期のティプトリーらしいが、それは、その時代の短編SFのパターンだったような気もする。 なぜ、本篇はこの位置に置かれているのか? 疑問ばかり。 → “おまけ”と解釈することにする。 もどれ、過去へもどれ(Synergy 2 1988) 約191枚 本書の中で一番長い話なので、構えて読み始めたが予想外に読み易かった。しかし、クライマックスの部分が良く理解できないまま読み終えてしまい、何度も読み返すことになってしまった。 SF的にはタイムトラベル・テーマだけど、真のテーマはやっぱり愛なのか。しかし一筋縄ではいかない。 この世界では、18歳の若者が将来の自分と一時的に入れ替わることを可能にする技術が確立されている。若者が老境を迎えた自分を体験するのだ。しかし、未来のその記憶を持って帰ることはできない。一方、その間、老人である未来の自分は若い頃に過ごした環境を追体験する。社会も老人と若者が一時的に入れ替わることを受け入れている。そのトラベルは徐々に富裕層の間で一般化し、その時代には全寮制の上級学校の卒業イベントのひとつになっていた。 主人公はブロム・クイーン候補のダイアン。容姿に恵まれており、富裕層の一員、自分の将来に大いに期待していた。しかし、55年後に目覚めた時、質素な部屋のベッドで彼女の隣に寝ていたのは、さえない同級生のドン・パスカルだった。なぜ、こんな男が自分の隣に寝ているのか?わがままに不満をぶつけるダイアン。 ストーリーは、55年間の社会の変化と二人とその周辺の人々の人生を描く。そして、二人が再び元の世界に戻る日がやってくる。 主人公のダイアンに託して、思慮が足りなかった若き日々の後悔を描いた物語だと思われるが、そうなるとドンはティプトリーの夫ハンティントン・D・シェルドン氏ということになる。そう考えると、夫に対する感謝の物語とも読める。 よくできた話なのだけれど、設定のご都合主義が気になってしまう。目標とする未来と入れ替わりの期間は任意に設定できると説明されていて、入れ替わろうとする未来が存在しない(既に死んでいる)場合にはトラベル自体が成立しないというのは納得できるが、未来で夫婦になっている二人が、若かった時、全員、二人が同じ年齢、同じ期間のトラベルを選択していたというのはどう考えても無理がある。(それとも、未知の力で強制されるのだろうか?)また、未来から過去に戻った老人が、その時点では予想もしていない筈の自分の夫を覚えており、改姓前後の自分の名前を憶えているのも不合理(ネタバレ?)。このような問題が起こり得る制度は存続できない筈。 というわけで、本篇はタイムトラベル物ではあるが、ロジックやパラドックスを考える物語ではない。 ところで、本篇が掲載されたオリジナル・アンソロジーが出版されたのは、ティプトリーが自殺した翌年。ティプトリーは自分の死後、未発表作品についてどのように考えていたのだろう?出版エージェントに一切を任せていたということなのだろうか? 地球は蛇のごとくあらたに(Asimov SF 1988/05(成立は1973)) 約151枚 当初はラクーナ・シェルドン名義 発端からすると、ずいぶん予想外のところまで連れていかれてしまった気がする。 思い込みの激しい主人公“P”。偏執狂(パラノイア)的で宗教的。男である“地球”に、対等の女として愛されていると信じ込んだ娘の暴走の物語。ただしそれは、自分を偉大な存在として考えるというプライドではなく、むしろ自分を神の生贄となる花嫁のように考える、素朴で純粋な愛情を持って地球のことだけを考えるようになった娘の話。 なぜ主人公は“P”なのか?男はハドリー・モートンと名前までつけられているのに。 解説によると、本篇は早い時期に執筆されていたが公表に至らず、死後、ラクーナ・シェルドン名義で雑誌に掲載されたらしい。解説では同じくラクーナ・シェルドン名義の「一瞬のいのちの味わい(1976)」と共有する世界観の作品と書かれているが、評者はその次の短編「おお、わが姉妹よ、光満つるその顔よ!(1976)」との類似性を感じた。思い込みとパラノイア的な宗教性は同じではないか?なお、本書が執筆された1973年は「男たちが知らない女」が発表された頃。 “P”をティプトリー本人と考えると、その偏愛の対象である“地球”は“SF”ということになる。評者と同じだ。 死のさなかにも生きてあり(F & SF 1987/11) 約66枚 不思議な話。 拳銃(?)で自殺したティプトリーが、その直前(?)に自殺する男(自殺した男)の日々を描いた短編。身につまされ過ぎるというか、読んでいて作者を意識せざるを得ない。それゆえに胸に迫るものがある。 本篇を本書の最後に持ってきたのは、それを意図してのことだろう。 前半は主人公が死を選ぶまでの物語。やり手の会社経営者だった彼は、45歳の時にその最初の兆候を感じる。着替えて仕事に行くのが面倒でしょうがない。しかし、その感覚は長くは続かず、着替えて仕事に向かう。その後も時々抑うつ感に襲われながらも日常生活に追われる彼は3週間のバカンスを取ってカリブ海に遊ぶが、気分は改善せず、4か月後に自室で拳銃自殺する。 後半は、主人公のその後の物語。自ら死を選んだ男にどのような運命が待っているのか? | ||||
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この短編集には、銃で自殺する主人公の話も出てくるなど、ティプトリーの実人生に重ねたくなってくるものではある。でも、それは話が逆なんじゃないか。 ティプトリーの作品の、いくつかにおいては、性は重要なテーマだ、ということはいまさら言うまでもないこと。でもそれは、モラルのような話ではなく、生物として、どのような性のあり方があるのか、ということ。 例えば、人はあたりまえのように「男女平等」と言うけれども、多くの生物においては、性別は平等ではない。メスに寄生するチョウチンアンコウのオス、生涯羽を持って飛ぶことがないミノガのメス。生殖ということであれば、幼虫の身体の中で次の幼虫が育ち、親は成虫になることなく死んでいくタマバエなどは、ティプトリーの「愛はさだめ、さだめは死」そのまま。 こうしたテーマがもっとも色濃く表れた短編集が「老いたる霊長類の星への賛歌」だったと思うし、だからこそこの作品がぼくのフェイバリットだったのだけれども。 『あまたの星、宝冠のごとく』は、主に晩年の作品を収録した、死後出版の短編集。それだけに、収録作品からは、老いというテーマを強く感じる。神が死んだ老いた世界「悪魔、天国へ行く」、人として壊れてしまった兵士「ヤンキー・ドゥードゥル」、自分の老後にタイムトリップする「もどれ、過去へもどれ」、死後の世界「死のさなかにも生きてあり」。でも、ティプトリーにとっての老いというのは、やはり生物的にどうなのか、というところに向かっていく。さまざまな形で、老いのバリエーションを提示していく。 ティプトリーにとって、老いというのは、使い物にならなくなっていく、ということだったのではないか。人は人であることで、生殖年齢を過ぎても生きていくし、それは意味があることだとは思う。でも、生物一般としてどうなのか。それはきれいごとなんじゃないか。ティプトリーはそうした考えをつきつけてくる。生物として、どこかで死ななくてはいけない、そういうものなのではないか、と。“老いの豊かさ”、そんなことを語る人に対しては、“そんなのきれいごとなんじゃないか”、彼女ならそう言うだろう。 そして、死ななくてはならない、という話として思い出すのが、「たったひとつの冴えたやりかた」だ。ヤングアダルトというタッチの、比較的人気のあるこの作品だが、この作品のラストで、主人公が死を選ぶというのは、ティプトリーにしてみれば、当然の帰結でしかなかったのではないか。この短編集を読んだあとでは、「たったひとつの冴えたやりかた」のテーマもまた、老いではなかったのか、そう思えてくる。 生物としての存在意義を失ったティプトリー夫妻にとって、自殺・心中は当然の帰結だったのではないか。実際に自殺したかどうかはともかくとして、その感触は、作品に刻印されている、ということ。生物であるがゆえの、受け入れざるを得ない残酷さ、それが性と老いをつなぐ、多くの短編に描かれてきたことなのではないか。 そう思うと、この短編集、SFファンには冷水を浴びせるようなものかもしれない。ちがうかなあ。 | ||||
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みんな感銘を受けなかったのか、やはり避けたいと思ったのか、この短編集で『肉』を取り上げるのは私だけか。 内容は近未来モノでディストピアだ。しかも昨今報道その他で騒がれるアメリカのありうる未来の地獄絵巻としてリアリティもあると思える内容だ。 隠喩や比喩が多いという事だが、描写そのものを積み重ねての示唆だから難しくはない。だがその意味するところはやはり普通に胸の悪くなるような世界だ。そこをストレートに衝いてみせるのが彼女らしいが。 過激なフェミニズムアンソロジー用に書かれたというが確かにそういうところくらいしか採用されなかったろう。 と、まあこんな作品も含めて割と重い作品を丁寧に束ねたこの彼女最後の短編集は持っておいた方がいい。 | ||||
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本作が分かりづらいのか、訳が分かりづらいのかどちらか分かりませんが、とても読みづらい文章でした。お話自体は面白い部類に入ると思います。 | ||||
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作者の計画的なものですが、基本、読了感は悪いです。 「いっしょに生きよう」が上記の例外ですが、しかしながら悪い意味ではなく勉強的な読書体験ができるSF短編集ですね。 ## ヤンキー・ドゥードゥル(Yanqui Doodle) 結末は分かっていました。読んでいて不安にさせるように書かれており、伊藤計劃さんのテーマにも通じるような。 (思想としては福島聡さんの "機動旅団八福神" のノーマン=ヒューム、不安さはアルベール・カミュ "異邦人" とは言いすぎか。。) ## いっしょに生きよう(Come Live with Me) 「SFマガジン700【海外篇】」でも読みましたが、この短編集の中では理解しやすく、楽しい一遍。 | ||||
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