(短編集)
愛はさだめ、さだめは死
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なんでこの本を買ったのか覚えていないが、「SFは自由だなあ」というのがその感想。 しかし、『プロジェクト・ヘイル・メアリー』を読んでしまうと、他のSFが霞んでしまうなぁ。 | ||||
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ティプトリーの第二短編集。米国では1975年の出版なのでそろそろ50年になる。 収録されているのは1968年に発表された3番目の短編から1973年に発表された30番目の中編まで12篇。ヒューゴー賞とネビュラ賞を受賞した作品もそれぞれ1篇ずつ収録されている。 日本で出版されたのは1987年。評者は前回1993年に読んだので30年ぶりの再読。収録されているうちの何篇かはSFマガジンで読んだので3回目になるのだが、内容はほとんど忘れていて、感覚的には初読に近かった。 個別に見ると絶賛する作品もあるのだが、理解できない作品も多く、全体的に見て評価4としていた。 ティプトリーの評価が高いことは承知している。ティプトリー本人にも興味がある。しかし、悩む作品が多い。その作品が好きか嫌いかは感覚の問題だと思うが、ストーリーが理解できないとか作品の意図がわからないというのは評者が読解力に不自由しているとしか考えようがなくて悲しい。 評者が短編SFを苦手としているのはこういう作品集を読んできたことがトラウマになっているのではないかとも思う。多分、そのこともあって、本書以降が積読になってしまったような気がしている。初読以来30年経ってもその思いは変わらない。ただ、進化というか変化というのはやっぱりあるもので、30年前にはさっぱり理解できなかったけれども、今は少しは理解できるというものもある。その意味では、30年前よりは今回の方が評価は高くなっていると思う。 若い時の方が感受性が高いとか心が柔軟だとか言われるが、ティプトリーの作品に限ってはあまり感じなかった。例えば、表題作の「愛はさだめ、さだめは死」の印象は初めて読んだ時とほとんど変わっていないような気がする。良いものは何歳になっても良い、と言うだけではない。 書籍単位で考えると、今は、評者は本書よりも先に読んだ第一短編集『故郷から10000光年』の方を高く評価している。 収録作品の中でベストを考えると、本書ではネビュラ賞を受賞した表題作が素晴らしいが、『故郷から10000光年』の「故郷へ歩いた男」も同じくらい凄い。他の収録作でも、一般的には本書の作品の方が高く評価されているようだが、評者にとっては第一短編集の方を評価したい。理由はそちらの方がわかり易く面白いからで、何のことはない初期の作品の方がテーマやアイデアがオーソドックスで展開も分かりやすく娯楽性が高いから。 本書収録作の新しさも良いのだけれど新しすぎるのは読んでいてわかり難いし、しんどい。読書巧者であれば30分で理解できる短編を、3日も4日もかかって、ああでもないこうでもないと思い悩みながら読んだ。 評価を投稿しようとしていた時、たまたま「最後の午後に」を再読したところ、あることからその作品の認識を改めることになった。本書の最後にこれを持ってきているということは、そういうことだったのか。・・・ということで評価を5に改めることにする。 以下、個々の作品について感想など ( )内は初出。 すべての種類のイエス (New Dimensions II 1972) 70枚 未開の惑星と言われている地球に降り立った一人の異星人を偶然居合わせた4人の男女が歓迎する・・・ 評者が短編SFが苦手だと思うようになったのは、多分、こういう作品を読むことが続いたからではないだろうか?作者は何を考えてこういう作品を書いているのか?読者に何を伝えようとしているのか?また、こういう作品を評価する人間は作品のどこを評価しているのか?まったくわからない。評者にはセンスが欠けている。 必死で考えて出した評者なりの結論は、ヒッピー文化、あるいはフラワー・チルドレンに対する反感を作者なりに小説化したものではないかという凡庸な結論。そのわりにはフロイドのウマグマが登場したりするのでサイケが嫌いなわけではなさそうだし、やっぱりよくわからない。 この作品が本書の冒頭に置かれていることにもそれなりの意味があるのだろうとは思うけれど・・・ 真面目に読もうとするのは間違っている。理解しようとしてはいけない。感じるんだ・・・かな? 楽園の乳 (Again, Dangerous Visions 1972) 40枚 父親の仕事の都合で“パラダイス”と呼ばれる惑星で育った少年は地球の感覚になじめなかった・・・ クライマックスの一文でそこまで描いてきた世界をひっくり返すという、ティプトリーお得意のパターン。 これも評者には理解できない作品だけど、所詮美醜などという感覚は主観的なものということなのか? ティプトリーの作品に登場する知的異星人は、ほとんどすべてが地球環境に適応しているというのはどういうことなのだろうか? そしてわたしは失われた道をたどり、この場所を見いだした (Nova 2 1972) 70枚 文化人類学の若い研究者エヴァンは、高名な学者で構成された調査団に採用されて意気込んでいたが、資料と文献ばかりを重視するエリート集団の中で劣等感に責められる。研究者として譲れない一線を持つ主人公は、すべてをかけてクライヴォーン山(土地の住民はアン・ドルイン〈別れの山〉と呼んでいた)に登る・・・ 表面的には、名声だけで真の科学的探究心を失ってしまっている老人たちに対する批判のように見えるが、科学、学問に対する皮肉のようにも思える。好きな作品なのだけれど悲しすぎる。 エイン博士の最後の飛行 (ギャラクシイ誌 1969/03) 20枚 エイン博士は体調の悪化を隠して地球を一周するように各地を巡っていたが、その傍に姿がはっきりしない女性が付き添っていることに気が付いた人は少なかった・・・ シルヴァーバーグの序文と大野万紀氏の解説でも詳しく語られているが、終盤に至るまでストーリーが読めないのはティプトリーの作劇法らしい。この物語が何を語ろうとしているのか読んでいても理解できず戸惑うが、最後にネタが明かされ、なるほどと納得する。短い作品だが余韻は深い。 エイン博士は『日本沈没』の田所博士みたいだと思っていたが、SFマガジン1989年12月号の伊藤典夫氏による解説を読んでジェンダーの観点に気付く。やっぱり田所博士や渡老人は小松流の男性だったのだろう。 アンバージャック (Generation 1972) 10枚 厳しく育てられたダニエル(アンバージャック)は疎外されて育ったガールフレンドのルーを大事にしていたが、将来のことを考えた時、見てはいけないものを見てしまう・・・ こういう話を読むと自分の読解力のなさを嘆かざるを得ない。作者はいったい何が言いたいのか?もしかしたら、読者に向かって「自分が何を考えているか理解できるものなら言って見ろ」とでも言っているような、短いけれど挑戦的な作品。 乙女に映しておぼろげに (Generation 1972) 20枚 新聞社の片隅で人気のないコラムを書いていた主人公は、部屋に一人の娘が現れたことに気付く・・・ これも良くわからないショート・ストーリー。単純に言えば幻想譚風の小話。発表時期から考えると油が乗り始めた時期なので、もしかしたら、気分転換のために書いた小品だったのではないかと考えてみる。 接続された女 (New Dimensions III 1973) 130枚 1974年ヒューゴー賞ノヴェラ部門受賞 都会の片隅で芸能人に熱を上げている一人の娘。しかし彼女は普通の娘ではなかった。自らの外見に世を儚んで自殺を図った彼女は一人の男に見込まれて天使のようなバイオロイドを遠隔操作でコントロールすることになる・・・ タイトルのとおり制御装置に接続された女を描くヒューゴー賞受賞の中編。バーチャルのアバターに自己を投影して陶酔している現代こそ本篇の世界のように思える。本篇のメインテーマはコマーシャリズムに踊らされる社会に対する批判と人間疎外か?また、ルッキズムの問題もテーマの一つと言えないだろうか? SFの皮をかぶった寓話と言ってしまうと言い過ぎか? 語り口が特徴的。 恐竜の鼻は夜ひらく (ワールズ・オブ・イフ誌 1970/05,06) 30枚 初老の紳士が酒場で記憶を語っている。彼はタイムマシンで過去に行ったことがあるらしい。そのうち酒が進み、過去のひどいエピソードが語られる。それは“コプロライト(糞化石)”に関する話だった・・・ ティプトリーの名に免じて1はつけないでおくが、はっきり言って最低限の評価にしたい。リアリズムのかけらもないし、下品さにも意味がない。酒の席でのジョークだとしてもあんまりだ。スラプスティック・コメディだとしてもこのアイデアはいただけない。もしかして、補助金制度とか政治家を馬鹿にするために書いたのだろうか? 男たちの知らない女 (F&SF誌 1973/12) 100枚 政府の保安部門に関係しているらしい初老の主人公が休暇で釣りに行くために乗った軽飛行機がメキシコの海岸の密林に不時着する。乗っていたのは彼と小柄なパイロットの他、印象の薄い二人連れの女だけ。救援が来るまで何日もかかりそうな状況で4人はサバイバルに取り組むのだが・・・ 男と女は別の世界に生きているとよく言われるが、それをそのまま具体化したような話。女性であるティプトリーが男性作家のふりをして女というものは男にはわからないというテーマの小説を発表する。しかし、後に、それを書いたのは実は女性だったということが明らかになる。彼女は何を思って男のふりをして女を謎の存在に仕立て上げようとしたのだろうか? 女の行動が極端すぎて理解できない。 断層 (ファンタスティック誌 1968/08) 25枚 宇宙航路の船長が3、4年前の出来事を語る。同僚のミッチェルがショダール星で現地人に暴行をふるって重大な傷害を追わせてしまう。現地の治安機関が彼に加えた処罰は思いもよらないものだった・・・ 良いアイデアだけど、ワンアイデアでひねりも深みもないとも言える。作者の3番目の作品なのでやむを得ないとも言えるが、これもコミュニケーションの断絶をテーマとしている点ではティプトリーらしいかも。 考えてみれば佐藤史生の「金星樹」だな。ずれる方向が違っているので結末も異なるが、本篇には救いがない。 愛はさだめ、さだめは死 (The Alien Condition 1973) 60枚 1973年ネビュラ賞短編部門受賞 ある惑星に、知恵はあるが文明を持たずに生きている生物がいる。巨大な蜘蛛のようなイメージだけど、親子や家族間の愛情、配偶者に対する愛情は持っている。主人公のモッガディートは、母親の庇護のもとで徐々に大きく、たくましくなっていく・・・ “愛はさだめ、さだめは死”というタイトルが胸にしみる。それは、種族や太陽系、惑星の違いに関係なく、この世に生きとし生きるものすべてに与えられた運命であり、定めだ。 異星生物のライフサイクルを描くことによって、読んだ者が、世代交代をする生命体が避けることのできない普遍的な運命について考えさせる物語。これこそSFでなければ描くことのできない物語だろう。 何度もの再読に耐えるだけでなく、再読することによってさらに深まるという真の傑作だと思う。 最後の午後に (アメージング誌 1972/11) 90枚 未開の惑星に不時着した宇宙船から始まった小さな植民地は、30年後、堅実に成長していた。しかし、さらなる発展を夢見ていた人々に脅威が迫る。それは自然界における生命の摂理だった・・・ 予想もしなかったアクション巨編。というのは冗談だけど、アクションシーンに興奮する。怪獣映画みたい。ティプトリーもこんな描写ができるんだ。びっくり。冒険小説的な味付けは掲載誌がアメージング誌だからなのか?などと考えながら再読していたら、「おまえは・・・成熟しないのか?」というノイオンの言葉が引っかかり、もしかすると“成熟”=“死”なのか読み返したら、この物語のすべてが二項対立に見えてくる。 植物系生命体と動物系生命体。家族を持つ者と家族を持たない者。血族に縛られるものとそれをまったく意識しないもの。活動的なものとそうでないもの。死に近づいている者と若く元気な者。小さきものと強大なもの。外から来た種族とその地で生まれた種族。襲うものと守るもの。混沌と静謐。 一方で、主人公はノイオンが示すイメージを一度は拒否していたが、最後の午後の一瞬、それを思い出して自分の人生に疑問を持ってしまう。 つまり、本篇はアクションシーンの迫力に圧倒されるが、主題は主人公の心の葛藤にあり、それをドラマチックに描いた作品だと思う。アクションシーンが派手過ぎて、そこに気を取られ過ぎることが欠点と言えるかも。 評者的には、表題作と本書のベストを争っている。 | ||||
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ハヤカワSF文庫の過去の名作が続々とKindle化される中、ティプトリー作品だけが取り残されている感があります。本書中の「接続された女」はまさにサイバーパンクの原典であり、アバターと生身の人間との交流が現実的になっている今こともっと再評価されるべきでしょう。 | ||||
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自由自在な文体で語られた才気あふれる短編集。特に「接続された女」では文体の変化が物語の展開と同期していてすばらしい。哄笑しながら疾走する「すべての種類のイエス」。設定そのものについて考え込んでしまう「断層」。極限状態における個の意志、その矛盾を描き「神」のありようまで示唆した傑作「最後の午後に」。 | ||||
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一応、一文字も飛ばさずに全部読んだが、とにかく途轍もなく文章が読みにくい。 翻訳作品だが、訳者が原文に忠実に訳したと仮定すると、とんでもなく文章、表現が下手な作家だ。 短編12編の短編集だが、ほとんどの作品が読んでいても、情景なり、状況がすんなりとはイメージできない。 話が唐突で説明不足であり、わざと読者が読みにくいように書いているのではないかと思わせるぐらい、読者への配慮が足りない。 こんな原稿を出版社に持ち込んだら、1ページぐらい読んだ段階で、間違いなくゴミ箱行きだろう。 『恐竜の鼻は夜ひらく』『男たちの知らない女』がかろうじて読みやすい方だった。 内容も、取り立てて言うほどのものは全くない。 ここのレビューを読んだが、この作品の良さについて具体的に言及したものはなく、何が良いのか全く分からない。 こんな作品を評価している人間は、『裸の王様』に「布地は見事なものでございます」と言っている家来と同じである。 こんな作品をSF初心者が読んだら、SF嫌いになることは間違いないだろう。 | ||||
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