(短編集)
故郷から10000光年
- SF (393)
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初期の作品を収めた短編集。最近、分かりやすいSF作品しか読んでいないせいか、とても難解だった。物語の背景というか、その世界に浸りたいのだが、拒まれているかのような感じがした。ジュンク堂にて復刻されたときに購入して今まで積読だったのを読んだのですが、まだまだ私は未熟者だったようです。数年後に読み返したら印象は変わるのだろうか、それとも私との相性が悪いだけなのか。読んだ印象は悪くないので、私の読解力を鍛えるしかないか。 | ||||
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本書は、1970年代を中心にアメリカSF界の中心的位置にいたジェイムズ・ティプトリー・ジュニアの第一短編集“Ten Thousand Light-years from Home(1973)”の全訳。日本では1991年に作者の4番目の作品集として翻訳・出版された。 1968年3月にアナログ誌に掲載されたデビュー作から、1972年に発表された21番目の短編まで、初期の中・短編の中から15篇が収録されている。 評者は1970年代の中頃からSFマガジンを読み始めたので、ちょうど日本でティプトリーの評価が確立する時期に重なっていた。そのため多分2、3編は雑誌掲載時に読んだと思うが、当時の評者のスぺオペ脳ではまったく理解できなかった。初めて本気で読んだのは1993年に本書第二刷を購入した時で、その時には評価が高かった『愛はさだめ、さだめは死』も併せて読んだのだが、この時もその魅力を理解することができず、その後は積読になってしまっていた。 今回、3度目の挑戦として、第一短編集の本書から読み直すことにした。 全体を通しては、伊藤氏が主張する各作品が作者本人の姿を現しているという説に納得する。特に初期の作品ほどその傾向が強いように思われる。デビュー時期に近い作品ほどネタとして実際の経験に基づくものが多いということなのかも。 また、本書を再読したことによって改めてティプトリーをコードウェイナー・スミスとアーシュラ・K・ル=グィンとグループ化する欲望に駆られる。もちろん、各自がまったく異なる独自性を持ち、作品の傾向や主義・主張においても共通点は多くないが、心理学、社会学を中心とする人文科学系のコアなSFを指向していて、質の高い作品を継続的に発表していたという点でSF界でも少数派に属する作家たちだと思う。年代的には、スミスからティプトリーへ、そしてル=グィンという流れを漠然と考えていたのだけれど、生没年、活躍した時代を比較してみたら意外な結果に驚いた。 本書の収録作の中には後のティプトリーの作風からは想像できないような娯楽作が含まれている。解説では、作者がスラプスティックな作風を愛する側面を持っていたことを重視しているが、評者はそれに加えて、初期においては作家としての独自性がまだ十分に育っていなかったことと、新人ゆえに売れ線を狙ったことがあるのではないかと思う。もちろん多くのSF作品に親しんできたことがその基盤になっていることは言うまでもない。彼女は自ら語っているように幼い頃からの熱心なSFファンだったのだと思う。 以下、収録作についての感想など。 そして目覚めると、わたしはこの肌寒い丘にいた(F&SF誌 1972/03) 約30枚 幾つかの種族の異星人が地球を訪れるようになった未来。異星人は常に地球人の興味の対象で、何とかして彼らと付き合いたいと考える大勢が宇宙港に押し掛ける。TV番組のレポーターが話を聞いた宇宙港の職員は、そんな元異星人マニアの成れの果てで、レポーターに異星人に興味を持つのはやめるよう訴えるが、異星人の姿を見かけたレポーターは忠告を聞こうとせずに走り出していく。 以前読んだ時にはこのタイトルが主人公であるレポーターの意識を表していて、真実を認識した時、自分が肌寒いような現実にいることに気づいたことを示しているのではないかと、うがった見方をしていたが、どうやら考え過ぎだったらしい。 ファースト・コンタクト後の物語。生物が異種族と接触した場合、最初は興味を持つが、その次に持つのは好意か嫌悪感か? 嫌悪感の場合は対立して戦争になる場合が多いが、好意を持った場合にどうなるかという話はこれまであまり読んだことがなかった。ただ、本作の設定は両者が同じ環境で共存できることが条件になるので現実性は薄い。一種の寓話と見なすべきだろう。 翻訳者の立場に立てば、翻訳者が外国文学に引き付けられるのは、このストーリーと同じだと思うだろうと考えていたら、評者自身がSFという奇妙なものに捉われているのも同じではないかと思い、そのアレゴリィに気付いて驚き、かつ納得した。 雪はとけた、雪は消えた(Venture誌 1969/11) 約35枚 本部の指示を受けた両腕のない若い女性(先天性の奇形らしい)と知能を持った狼が協力して、原住民らしい小さな部落から出てきた男を誘って荒野を引っ張り回す。 長篇の冒頭部として構想されたらしいが、続きが書かれないまま短編として発表され評価されたという。 タイトルから考えると、核戦争後の氷河期を越えて生き残った人類の話らしい。 ヴィヴィアンの安息(Amazing誌 1971/07) 約50枚 星間ニュースの記者ケラーは悪名高い反逆王子ヴィヴィアンにインタビューするために帝国領の飛地を訪れるが、そこで出会った穏やかな目をした生物学者のような男が目的としていた人物だと聞かされて驚く。 評者は、ナントリがクットの妹だったという言葉に引っかかった。設定ミスのようだけれど、ティプトリーがこんな重要なところでミスを犯すはずはないので、文章では表現されていない設定がたくさんあるみたい。 愛しのママよ帰れ(IF誌 1968/06) 約70枚 最初期に書かれた4篇の中の1篇。評者は小松左京の『エスパイ』、『タイムエージェント・シリーズ』を思い出した。主人公のマックスはCIAの関連機関の所長。異星人とのファースト・コンタクトの顛末が通俗的な娯楽SF風に描かれている。ジェンダーの逆転はSF的だが、そこをウーマン・リブ的にではなく、いかにも男性作家目線で書いているところなどは男性作家を詐称するためのカモフラージュであったのかもしれない。情報密度が異様に濃いのは短い枚数で複雑な事件の最初から最後までを記述しようとしたためだと思うが、主人公が歴史の実例を参考にして事件を解釈しようとすることと併せてティプトリーの特徴と言えるもしれない。 ピューパはなんでも知っている(IF誌 1968/10) 約70枚 「愛しのママよ帰れ」の続篇。同じく、最初期に書かれた4篇の中の1篇。登場人物は同じで、第二、第三の異星人事件の顛末が描かれている。 地球上で異文明の接触時に起こった出来事を、異星人との接触に拡大して描いた長めの短編で、新人SF作家の初期作品として娯楽性では多くの点で前作より上だと思う。ただ、ティプトリーでなければ書けないという話ではない。 苦痛志向(F&SF誌 1972/02) 約65枚 宇宙探査のために肉体的苦痛を感じないように改造された主人公。肉体的な損傷はどれほど重傷であっても傷跡一つなく回復させられる。しかし、心の傷は残るため、主人公は次第に調査に対する意欲を失って故郷に帰りたいと願うようになる。 前半は大変読みにくかった。特に肉体的苦痛に弱い評者は、人体破壊シーンは読んでいて嫌になった。最後まで読むと、ストーリーとしては理解できるが小説として評価するのは難しい。ただ、作者が長い間、持病の出血性胃潰瘍の痛みとストレスによるうつ病で悩んでいたという裏話を聞くと、この話の凄さが身に染みる気がする。 “パセリ、セイジ、ローズマリーに、タイム“はサイモン&ガーファンクルの1966年のアルバムだけど、元はイングランドの古い民謡らしい。 われらなりに、テラよ、奉じるはきみだけ(Galaxy誌 1969/01) 約90枚 ソル系テラ人の主人公は、絶対公正を標榜する銀河連合唯一の公認疾走競技惑星、レースワールドのマネージャーとして各種族代表者間の調整を行っていたが、大変な困難を伴うことも多く、心身をすり減らすようにして働いていた。しかしそれは多忙であると同時に充実した日々でもあった。 ある日、主人公は視察のために訪れたマゼラン星雲の代表団から、なぜ絶対的な公平性を保証できるのかと問われる。主人公は自分たちの秘密を明かして代表団を納得させる。 元々、初出誌では“Parimutuel”というタイトルだったらしい。パリミュチュエル方式というのは公営競技における配当を決定する方法。要は「賭博惑星」ということか?原題がえらく即物的なことに比べると、現在のタイトルは異常なまでに文学的。 これもかなりの初期作品。5番目の作品だそうだ。多忙な主人公が活躍するのは前作と良く似ている。有能で仕事に追われるように働く主人公の物語がこの頃の作者の得意パターンだったようだ。 前作のちょっと斜に構えたテーマに比べると、本作は異常なまでに理想主義的なのが不思議。 最近読んだ英米の宇宙物の短編に雰囲気が似ている気がする。最初読んだ時は60年代スペオペの進化系かと思っていたが、しっかり21世紀まで繋がっている作風だったようだ。 ドアたちがあいさつする男(Worlds of Fantasy誌 Winter, 1970/1971) 約20枚 ガールフレンドに振られるなど、しんどいことが重なった一日の終わり。僕が街の飲み屋で出会った背の高い男がトイレのドアを開けた時、トイレのドアが声を発した。「これはこれは」。 都会風のアダルト・ファンタジー。これもティプトリーの一面だと理解したら、彼女を見る目が変わった気がする。 故郷へ歩いた男(Amazing誌 1972/05) 約50枚 突発的な事故の発生によって、どこともわからない場所に飛ばされてしまった男、ジョン・デルガーノ少佐。彼は何とかして故郷に帰ろうとして歩き続ける。【どこかわからない場所からどうやって歩いて帰ることができるのかという根源的な問いは横に置いといて・・・】 主役である彼が登場する場面は少ないが、記憶に残る。 大傑作だと思う。収録作の中では一番強く「故郷から10000万光年」という本書のタイトルが持っている望郷の念を感じた。本書には本篇とは別にタイトルの元になった作品が収録されているが、評者にとっては本篇こそが本書を代表する一篇。 ハドソン・ベイ毛布よ永遠に(Fantastic誌 1972/08) 約60枚 カナダのアルバータ州の田舎町の青年、タヴが冬休みに雪山の小屋に籠っていると、突然16歳の娘がやってきて彼を大好きだという。そして、彼の足の親指に噛みつく。そして・・・少年の妄想のような出来事・・・ SF巧者である作者がタイム・パラドックスを皮肉った作品なのか?ロマンティックSFかと思わせておいて、最後の一頁で地獄に落とすという、辛口のタイムトラベル・ロマンス短編。 ストーリーを整理すると結構矛盾点や疑問点があるが、ティプトリーのことだからそこに気づいていながら気づかれないようなストーリーに仕立てたのだと思う。結構豪腕と言えるかもしれない。 スイミング・プールが干上がるころ待ってるぜ(Protostars 1971) 40枚弱 グルームブリッジ34ヌーの裕福なテラ系一族出身でのびのびと育った若者キャマリングは、豪華クルーザーを駆って、一人、未踏星域のゴドルフォス4の惑星に降り立つ。そこで2つの未開種族が争っているのを見た彼は、良かれと思って両者の対立を止めようとする。 アメリカ人のおせっかいを皮肉った短編だと思う。解説には、アメリカ人の優越感をくすぐるところがあって、向こうでは評価が高いと書かれているが、これを読んで優越感をくすぐられるっていうのはなんかずれているんじゃないかという気がする。 本作もやっぱり男目線。ティプトリーの作品は21世紀SFと良く似ていると思っていたのだけれど、はっきり違うのはテクノロジーとジェンダー問題。ジェンダーの問題は結構、重大だと思う。 大きいけれども遊び好き(Amazing誌 1970/03) 約55枚 冒頭、ある男の友人向けの独白から始まる。彼には先週から自分が大きく膨らんでいく感覚がある。脳腫瘍ではないかと脅えている。 第2段落、ある宇宙種族の幼生体。彼は遊び好きで、一族の他の者が成長して遊びから離れていく歳になっても遊び続ける。ある日彼は惑星の表面に分布するエネルギー体の複雑さに気付き、それを自分の体にフィードバックさせて改変するゲームに熱中する・・・ 良くわからない話だと思いながら解説を確認すると、SF作家ティプトリーの大きなテーマの一つ、コミュニケーションの重要性と不可能性についての寓話であり、この小説の不思議な奥行きの深さについてはSFM89年12月号〈ティプトリー特集〉の解説に詳しく書いた。と書かれている。 書棚の奥の方から探し出して読んでみると・・・ショックを受けた。ここまで読み込むのか?以後、もう一度読み方を見直すことになった。 評者としては、米軍並びにCIAを退職して研究者の道を選んだ作者が、この短編の大部分を占めるサン・バードゥー研究所のパートで物語の視点となっているミッチェル所長が、研究については軍部と手を切るように主張していることに興味を持つ。アカデミアに移った作者は軍関係予算の影響の大きさに驚いたのではないだろうか?伊藤氏はこの作品について“彼”が作者の代理ではないかという仮説を提示しており、評者もその説を支持するが、それとは別に、ミッチェル所長に自分の意見を語らせているように思う。 セールスマンの誕生(Analog誌 1968/03) 50枚強 ティプトリーのデビュー作と言われている短編。 時代は銀河系内での貿易が盛んにおこなわれている未来。主人公は貿易業務を支援する政府組織XCGCのチーフ・マネージャー。その組織、業務自体、主人公の発案によって設置されたものらしく、主人公は猛烈に多忙だったが、生きがいを感じて職務に従事していた。 ティプトリーにしては、不思議なまでにわかり易い話。 これも主人公が大変有能で猛烈に多忙な職業人、オフィスワーカー、マネージャーであるという点で共通している。これは作者の理想なのか?それとも彼女の周囲にそういう人物が多く、馴染みがあったということなのか? マザー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ(Galaxy誌 1971/03) 90枚弱 主人公のゴレムはルーナで育った保険会社の調査員。古典的なロック・ミュージックを口ずさみながら巡回艇でアステロイド・ベルトを回っている。彼は宙域のはずれに会社に内緒で歴史的に有名な巨大宇宙船を隠しており、その中に第一次土星ミッションに参加したトパンガという年老いた女性を匿っていた。 本篇は1971年に発表されているが、ベルトの連中は体が変異していたり、改造しているなど環境と共生的な宇宙生活に移行しており、そのイメージ、用語、ガジェットなどは驚くほどサイバーパンクに近い。 一方、発表された時代を反映するように、タイトルはビートルズの曲をもじっており、文中にもその曲の他、ローリング・ストーンズの曲が3曲登場する。そのうちの一曲が「2000光年のかなたに」で、それがこの短編集のタイトルになっている。ステッペンウルフ(バンド名)もさりげなく登場する。 本書の表紙は、幼いゴレムを連れたトパンガが空を見上げて、幻のラグナロクに望郷の想いを募らせている場面を想像するけれど、ゴレムは月育ちなので、この光景は実在しない? ビームしておくれ、ふるさとへ(Galaxy誌 1969/04) 45枚 ホービーは裕福な家の末っ子。才能豊かな子で、あらゆることを簡単にこなすが、熱中したことも長続きせず、すべてを他人事のように見ていた。20歳の時、突然空軍士官学校を志願して両親を困惑させたが、宇宙飛行士プログラムに進んだため周囲の者は納得する。 しかし、政治状況が悪化したために宇宙開発は中断され、彼はパイロットとして過酷な前線に派遣される。 ある日、高熱を発して倒れた彼は看護兵に語る。「自分はこの星の偵察するために訪れていると思っていた。窮地に陥った時、転送してくれと言えば安全な場所に転送されると思っていた」と。 その後、絶望的な状況に陥った時、彼は破れかぶれで転送を望み、実際に転送されるのだが、到着したのは彼が予想もしなかったふるさとだった。 本書に収録された各篇の主人公は作者の分身ではないかという仮説が正しいとすると、ティプトリーが転送されるふるさとはどこにあるのだろう? 余談 評者にとって、今回再読するまで本書はティプトリーの第一短編集であるという事実より、水玉蛍之丞のオタクエッセイ画集『SFまで10000光年』のネタ元であることの感覚が強かった。しかし、再読を終えた今は、そのタイトルに深い望郷の念が込められていたことを実感する。 『故郷まで10000光年』という本書のタイトルは解説にも書かれているように純粋な望郷の念を結晶化したものだと思うが、『SFまで10000光年』のタイトルには“郷愁の想い”と同時に“諧謔”を感じる。 それは、名作をもじったタイトルをつけたことのてらいもあるだろうが、“自分の根っこ(home)は確かにSFにあるのだけれど、今自分が好きなものはSFからこんなに遠く離れてしまった」という放浪感、最果て感と、それでも俺はそれが好きなんだ。”という、ある意味やけっぱちの諧謔を込めた自己肯定(開き直り)である。 水玉氏の続篇は『SFまで10万光年以上』と、さらに故郷から遠く隔たってしまったが、今になってようやくその意味に気付いたことに反省あるのみ。 | ||||
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表題作が最高です。ただ、ただひたすら故郷を目指して歩く。あがいて、あがいて、決してあきらめない姿は究極の意思ではないか。なんでこんなに心震わすのか。 | ||||
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Homeに帰ったあとの描写でthe captainがいきなり出てきて、ホービーが艦長(おそらくカーク)の顔を知っている記述があります。そうすると彼は確定的に宇宙人であり、素直に読めば本当にエンタープライズの乗組員です。ヒントになるus/Iが伊藤訳では抜け落ちていてどうしても確定的に読めません。ここでusとは本文中"Beam us up, Scotty!"と題名"Beam Us Home"、Iとは本文中"I 'm HOME!"のものです。Usはホービーと(小説のごく最初に出てきた)Dr.マッコイ、Scottyもクルーだと自然に解釈されます。Homeもエンタープライズと思われる宇宙船以外に解釈することはできません。 これはティプトリーの悪質な読者かつぎで、かつがれたことを楽しめるものではないと思います。伊藤訳は引っかかってしまった・意味の分からないまま訳してしまった部分以外はすばらしい品質の、香気あふれる格調高い名文です。フォローになっていないかもしれませんが、原文訳文何十回も読んだ感想です。 | ||||
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ティプトリー様なのでもちろん奥深く重いテーマの作品もありますが、「われらなりに、テラよ、奉じるはきみだけ」や「セールスマンの誕生」での次から次へと(特にクレーム処理の)仕事が入っててんてこまいの状態描写は、普段サラリーマンで同じ思いをしている人の心を打つのではないでしょうか。こんなのをもっとたくさん書いて欲しかったです。 | ||||
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