見たのは誰だ
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へんてこなミステリを読んでしまった。本書の帯には「倒叙モノの傑作」とあるが、これを倒叙ものと言っていいのだろうか? 珍品、と呼ぶのが最もふさわしいと思う。 ある青年の冤罪を晴らすために弁護士が活躍する話…かと思いきや、まさかの展開が待っている(どんでん返しという意味ではない)。なんじゃこりゃ、という感じだ。 本作が刊行されたのは1955(昭和30)年。松本清張はもうデビューしているが、『点と線』が発表されるのはその3年後のことだ。社会派推理小説ブーム夜明け前であった。 | ||||
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探偵小説は以前けっこう読みましたが、いわゆるエログロ系はもう満腹というか辟易してまして、現在でも個人的に再読できるのが大下や角田らごく一部になりました。戦前戦後の時代感に違和感なく没入できます。最近の妙にキャラの輪郭ばかり描きたがるエンターテイメント小説は、ずいぶんとムダが多いので、シンプルな筋立てと朴訥な人物造形に清々しい気持ちになりますね。 | ||||
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実に大下宇陀児らしさを満喫できる快作と言っていいだろう。しかし、この“大下宇陀児らしさ”に無頓着であり、無いものねだりをする者にとっては退屈千万かもしれない。そこを説明してみる。まず、この長編小説は、ある男子大学生の冤罪を晴らすまでを描いたものである。第一部「陥穽」で彼は落とし穴に落ちるわけだ。しかし、それは誰かが故意にこしらえた陥穽というわけでもなかった。色々な偶然が重なってそうなってしまった。しかし、この章で彼は警察によって完全に4人殺しの容疑者にされてしまう。これも警察の一方的思い込みからで、決して横暴な警察官たちではなかった。第二章「迷路」で「任侠弁護士」が登場する。しかし、彼ひとりで事件のすべてを解決してしまうわけではない。彼は警察と協力しながら解決の糸口を探っていき、そして「迷路」にはまりこむのだ。第三章「発見」は、だから任侠弁護士と警察がそれぞれ別の観点から事件を捜索していく過程を描く。「時計とラジオ」「風とカレンダー」などという不思議な節立てもユニークだ。任侠弁護士こと俵岩男の「やり方が、まことに地味であり常識的であり、ハッタリや芝居気がないために、それほど世間へは目立たないが、現実の事件に於て、常人には解き難い犯罪の謎を、ものの美事に解決した経験が何回となくある」という人物である。しかも、この小説のタイトル「見たのは誰だ」という言葉が出てくるのは、何と第三部、五節のうち第三節の一等最期である。そこまでタイトルの意味は不明なのだ。こんな悠長なものを好んで読むような人でないと楽しめないかも知れない。急進的な最新ミステリの醍醐味はないかも知れないが、しかし、今や喪われてしまった探偵小説の良心ともいえるものを21世紀の今に読む楽しみはまた格別でもある。 | ||||
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大下 宇陀児氏の50年代に発表された倒叙風味の長編。 倒叙と言っても最初は犯人視点で描写されるが、警察と犯人の攻防が描かれる訳ではなく、犯人の冤罪を晴らすため探偵が動くという倒叙とは少々異なるテイストになっている。 犯罪小説的な前半は面白いが、中盤になるとやや展開が倒叙に期待するような要素ではない方向に進んでいってしまうような印象だ。 倒叙だと期待して読むとやや肩透かしな真相である。 冤罪を決定づける要素に驚きがあまりない。 まあ、今から読むと標準的な出来と言わざるを得ない。 巻末の紹介だと推薦が芦辺拓となっているが、それなら解説は氏に書いて欲しかったところだ。 | ||||
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最近ちょこちょこ大下宇陀児の本を書店で見かけるが再評価されてるのか、そうさせようとする動きがあるのかどっちであろうか。 それはともかく、個人的には大下宇陀児はアンソロで何度か見た事がある程度で、猟奇的な珍作(魔法街など)を作るトンデモ作家と言う印象しかなかったが、この作品を読む限り結構普通のサスペンスも書いたらしい。 だがちょっと普通過ぎる。ミステリなら後一ひねり欲しい。本格探偵小説(純粋に探偵小説の謎ときの面白さを追求する意味での)に背を向けた宇陀児なのでしょうがないのかもしれないが、当時のリアルを描いたと言われても当時を知らないこちらとしてはどこまでリアルなのかイマイチ分かりかねる。解説者の「名探偵のようなヒロイズムを避け、血の通った人間を描く」という意味でなら松本清張には遠く及ばないし、リアルと言う割には随分ポンポンと話が進むし中途半端な印象がある。 と言ってつまらないわけではなく、まあ現代にこう言った作品があれば普通に評価はされると思う。ただやはり事件の謎に対して「つじつまを合わせただけ」という印象が拭いきれず、数多あるミステリの中に容易く埋没する様な作品であるのは確かだ。 それと、その時代の今を描いたはずなのに、若者に対する大人たちの愚痴が似たようなものであるのは興味深い。 作中心理学者が言う。 「若い人たちは極めて簡単に人を殺すし、また極めて簡単に自殺してしまう。」 1959年の作品である。このとき若かった子供たちは今は老人だろう。 何時の時代も若者が命を大切にしないと大人達が考えるのは不思議である。 昔の小説を読むと、時代や人が変わった事よりも、思ったより変わってない事に驚かさせれる。 | ||||
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