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これはミステリではない
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これはミステリではないの評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点2.88pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全8件 1~8 1/1ページ
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マイナス一点は、会話が出てくるところ、作中作と地の文が、おんなじ竹本節なところ。 擬似竹本健治をやるとする。 類子が 「トモヒサくん、やっぱり、それは違う類の話よね。」 すると智久が、 「類ちゃん、それは、ルイ・ヴィトンかも」 マトリョーシカ構造、信頼の置けない語り手、それは仕方ないことかも。 しかし、匣の中の失落以来の、めくるめく文体を持つ竹本健治なら、作中作をもっと違う文章にできたはず、わたくしは、そう思う。 これは、匣の中の失落のパスティーシュだ。 | ||||
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作中劇のミステリーを高校生?たちが解く話かと思ったら本当に人が死ぬ しかしそれ自体が事実なのかよくわからない 最後に厨二病みたいな会話をして終わり 村上春樹と浦賀和宏を混ぜてめちゃくちゃつまらなくしたみたいな作風 読ませる力はあるけど意味不明だから何も残らない | ||||
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ミステリじゃないし、面白くもないです。 | ||||
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なるほど。ミステリではないと言っているのだから、別にミステリじゃなくても問題ないですね。 読む前はタイトルでそうは言ってもアッと驚く結末があるのでしょう?と思いましたが、私としてはこの裏切りは面白かったです。事件が起きて、その真相が明かされればそれで満足する程度の軽いミステリ読みなので特に不満に思うことはありません。 途中現れた腐女子もまあ、ライトだったので平気でした。 次があるのか分かりませんが、いつかまた新しい汎虚学研究会の活躍見られる日を楽しみに待っていようと思います。 | ||||
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全く面白くない。lこれほどつまらないミステリ?はない。 一体、何が言いたいのかサッパリ分からない。人数だけやたらと増やしてゴチャゴチャさせているだけ。 | ||||
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確かにミステリーではない。作中作はなれてないので没入出来ず二度読みしたがわたくしにはどうにも無理だった。ファンの方々には申し訳ない。よって他の作品を読むきにもなれなかった。 | ||||
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※削除申請(1件)
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. その頃私は、会社の夏期休暇には毎年、関東の友人の家へ泊まりがけで遊びに行っていた。 そんなある日、友人宅のリビングで、二人でテレビを視ていたところ、あの事件の第一報がニュース番組で報じられた。「小学生児童の切断された首が、小学校の正門前に置かれており、地元新聞社に挑戦状が郵送されたきた」という、後に「酒鬼薔薇事件」「酒鬼薔薇聖斗事件」などと通称され、「神戸連続児童殺傷事件」と呼ばれるようになる、あの事件だ。 私は、そのニュースを視て、そくざに腹を立てた。子供への残酷きわまりない犯行という点が、まず私の逆鱗に触れたし、しかも挑戦状を送りつけるなどという「世間をなめた」としか言いようのない犯人の態度に、とうてい許しがたい怒りを覚えたのである。 そして私は、その怒りを、いっしょにテレビを視ていた友人に伝えた。当然、共感してもらえるものと思って、私の感情をぶつけたのだが、その友人の反応は極めて薄く、あきらかに私のような怒りの感情は無い様子で、どちらかと言えば、その異常な犯人に興味をもって、事件の詳細に耳を傾けているという感じだったのである。 この友人の態度に、肩すかしを食らわされて不満だったのは言うまでもないが、同時に「どうして、こんな犯罪に、こんな犯人に、腹を立てずにいられるんだろう」という、深い「疑念」を覚えたのもまた確かだった。「この人の頭の中は、いったいどうなっているのか」と。 ○ ○ ○ 本作は、タイトルどおり「ミステリ」ではない。通常の意味では、そうだ。 だが、私は本作を読み終えて、ため息をついた。 一一「やっぱり、竹本健治は天才なんだな」と。 では、そんなため息をつかせた本作は、いったいどのような小説なのだろうか。 いろんな呼び方が可能であろうが、ひとまず私は、本作を「哲学小説」と呼びたいと思う。 無論、「哲学小説」と言っても、哲学者の名前が並ぶような小説といった意味ではなく、ごく当たり前に「人間存在の実相を突き詰める小説」という意味であり、その意味では、ごくごく正統的な「文学」作品だと言えるのだが、その形式は、「本格ミステリとメタ・フィクションを掛け合わせた思弁小説(アンチ・ミステリ)」なんてことで済まされるようなものではなく、むしろ、そうした形式から導きだされる「形式的思考」の罠から、どんどんと踏み外していった先に、隠されていた「人間の実相」であり「世界の実相」を描いた作品だ、とでも言えるのではないだろうか。 例えば、「本格ミステリ」と呼ばれるジャンルは、このジャンルに好意的な人にとっては「純粋論理の小説」だ、ということになるだろう。「純粋論理」だから素晴らしい、と。 しかし、「純粋論理の小説」からは、「不純」なものが排除されている。 その「不純なもの」とは、例えば、「社会問題」もそうだし「恋愛」や「性欲」などもそうだ。つまり、「不純なもの」とは、「人間の中の、動物的なもの」であり、「理性」や「知性」では統御しきれない、「厄介なもの」のことなのである。 言うまでもなく、脳の器質的異常でもないかぎり、すべての人間は、この「不純なもの=厄介なもの」を抱えているのだが、普通の場合、人はその存在をおおっぴらに語ろうとはしないし、殊に「理性」や「知性」に自負を持っている人は、それを逸脱していく「統御不能なもの」の存在を認めたくはないものである。 言い変えれば、「本格ミステリ」とは、そういう「理性」や「知性」によっては「統御不能なもの」のものの存在を「隠蔽」する、「ファンタジー」だと言えるだろう。 そこでは「思考機械」であることが、誇らしげに語られるのだが、人間の現実はそんなものではないし、作者自身そんな存在であろうはずもない。そんなものではないからこそ、それは「度しがたい欲望」の対象として「神」のごとく求められるのであり、その「欲望」の存在自体を責めることは、誰にもできないのである。 竹本健治の小説が、一見したところ「本格ミステリ」の形式を採りながらも、しばしば、その形式を逸脱したり、その形式を求める「欲望」を逆撫でするようなものを描くのは、竹本が「理性」や「知性」に抗う人間だからではなく、「理性」や「知性」という仮面の下に隠された「度しがたい欲望」の方に興味があり、そちらを追及せずにはいられないという「理性や知性の欲望」に忠実な人だからなのではないか。 例えば、「神戸連続児童殺傷事件」の第一報に接した時の、私の態度というのは、極めて常識的に「倫理的」であり「論理的な」なものであったのだけれど、それはいかにも「表面的」なものでしかなく、「機械論理的(脊髄反射的)」なものでしかなかったのではないか。 事実、私は後に、この事件の犯人である「少年A」について、多くの情報に接するに従い、彼を「倫理的」に責めて済むような問題ではなかったことを痛感するわけだが、たぶん、私の年上の友人は、事件の第一報に接した段階で、すでにその「闇の深さ」の方を凝視していたのではないだろうか。ちょうど、本作における探偵役と言ってよい、マサムネのように。 竹本健治の小説が、「一般うけ」どころか、しばしば「ミステリファンうけ」すらしないのは、竹本の見ているものが、そして描くものが、私を含めた「常識人に好都合な欲望達成」の域を遥かに超えて、「深く」「暗い」ものだからではないだろうか。 私たちが、できれば「見たくない」「考えたくない」と思っている「人間の実相」を描くからこそ、「人間の欲望」に忠実な「本格ミステリ」に対するのとは、真逆の感情を持たれてしまうのではないだろうか。 無論、これは文学としての、あるいは文学者としての誉れであろう。 だが、しばしば「見えすぎる眼」の「欲望」は、その人にとっても厄介なものでしかないのであろう。 . | ||||
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長年作者のファンです。新刊が出たらすぐに購入しています。 題名通り、です。 いつもの嫌〜な感じの終わり方。 ギリギリです。人によってはギリアウト、でしょうか。 私にとってはギリギリセーフ。 そんなのは作者の狙い通りなんでしょうが、その際どい着地を楽しんでねってことです。 まあ、売れる作品を書こうとしてない様なスタイルは今にはじまったことじゃないのですが、それにハマって数十年、今作もブレてませんね。 連載終わって久しい「闇に用いる力学」とかも楽しみにしてますよ。早く出して。 | ||||
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