同時代ゲーム

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同時代ゲームの評価:

3.91/5点 レビュー 22件。 B ランク

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Amazonレビュー一覧

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※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください

全45件 1〜20 1/3ページ
No.45
(4pt)

主題と方法とが緊張感を保ちつつ結晶した作品

彼の作品では比較的低評価なようだが、ハードカバーで500ページ弱の書簡体小説の体裁をとり、それだけで意欲的であり、(初めて大江健三郎を読むには適していないだろうけれど)大江のエッセンスが詰まった、あるいは凝縮した小説だと言えるだろう。凝縮しているとは、先鋭化しているとも看做せ、散文文芸上高度な領域にあり、(そうであればこそ)一方では極度に晦渋だとの批判・感想をもたらすのも当然だと思える。

書簡体小説と言えば『若きウェルテルの悩み』や『貧しき人々』といった文豪の若書きの作品という印象がある(『こころ』は晩年の作品だろうが)。この作品では大江の特徴である方法に意識的である点から導き出された形式としてそれが選択され、「僕」が妹のみに語るという一見閉鎖的な形式でありつつも、地理的にも時代的にもまさに縦横に語られるという奇妙な点は文学的な重層性も感じられる。また『万延元年のフットボール』に代表される森・村の神話と『新しい人よ眼ざめよ』へと続く擬似私小説との交錯が見て取れる。また、終盤は子供時代の「僕」の体験によって閉じられる点も彼の特徴である子供の重視(所謂常識への別視点の提示)という特色を示している。

大江は小澤征爾との対談『同じ年に生まれて』のなかで、プロットが小説を動かすのを横の軸だとすれば、小説において比喩は縦に印象を刻みつけるものだ、という旨を述べていたように思い興味深く感じた。もう少し一般化すると比喩などに用いられるイメージの連なり、そのような小説の随所に配置されたイメージ群が作品を視覚化あるいは立体化させると言えるだろう。(これは前掲書で示された訳ではないが)図式的かつ安直な例をあげると、プロットによって人物が変化あるいは詳かになるとともに、その人物描写に関し楽器による比喩を用いるとすれば打楽器から鍵盤楽器さらに木管楽器へと(剛から柔へと)変化するような謂わばイメージシステムを伴うことで文学的な幅が増すと思える。(大江健三郎の作品におけるイメージシステム、といったもので論文が書けるかもしれない。)

この作品でのイメージシステムとは何か。対の、二重の、あるいは分身などのダブル・イメージといったものがそれだろう。双子の僕と妹、アポ爺とペリ爺の二人組、谷間と「在」、壊す人と創建者たち、創造者であり破壊者、村と大日本帝国、五十日戦争と大東亜戦争、神話と歴史、書く者と巫女、苦痛と昏倒、父=神主、女型と野球選手、科学と民話、定住家と他所者、大岩塊あるいは黒く硬い土の塊、伝承と夢、路上の馬鹿あるいは気狂い、老人と子ども、など。これらのペアは、対であったり対比であったり並置であったりし同一の関係ではない。これらペアとともに頻繁に述べられるのが、村=国家=小宇宙、であり、後者が包含しつつも各々対等であるような奇妙な関係を示している。これは多義的な伝承とも通じ、翻ってそこから上のペアを眺めるとそれらの関係も多義的なものを孕むのかもしれない、そのような可能性を暗示させる。

この作品も前作『ピンチランナー調書』と同様に『小説の方法』(1978)で示された、ロシア・フォルマリズム(異化の手法)や民俗学(民話・道化・性的表現)やグロテスク・リアリズム(価値転倒・笑い・揶揄・糞尿・性的転倒)や語りの重層性・真偽の曖昧化(逆転)やポサダの版画(民衆芸術)、それらが端々に有機的に埋め込まれているが、それにも関わらず前作とは全く異なる印象を与える。何を書くか、よりも、どのように書くか。このような問題設定は言語芸術よりも(古典的)舞台芸術(パフォーミング・アーツ)が担うものだろうが(事前の検閲から改変しえるオンタイムでの芸術である故)、時代性や政治性において鋭敏な作者においては合奏や踊りや祭りや斉唱といった(スポーツも含まれるかもしれない)舞台芸術に由来するだろう挿話が語られる。情報媒体が拡充した現在の間接民主制(代表制 representative )からその歴史を顧みれば、舞台芸術の空間とは、直接民主制の空間とも言えるだろう。個人的には、そのような発展・解放の展望をもたらす作品のように思う。

始まりがあり終わりがある、というような単線的(リニアな)物語、神話、歴史、という観点と、現在と直接・間接の様々な過去。それとともに、メキシコ、東独、東京、四国、ニューヨーク、サンフランシスコ、大阪、と言及される点在する地域。また、人的関係においても、(異国での)異邦人、同僚、党派、同郷、地縁、血縁、といった(愛憎も含む)多様な関係。さらに、生と死との物語であるとともに、開拓と追放の物語とも読める。また、読み通した後に冒頭を再読すると、上に述べたように物語は一般に単線的形式を用いるが作者の言葉によれば、この作品は「夢の輪にとじこめるように描」かれていることに気づく。反語的・重層的小説だと言っていいように思う。
同時代ゲーム (新潮文庫) Amazon書評・レビュー: 同時代ゲーム (新潮文庫)より
4101126143
No.44
(4pt)

主題と方法とが緊張感を保ちつつ結晶した作品

彼の作品では比較的低評価なようだが、ハードカバーで500ページ弱の書簡体小説の体裁をとり、それだけで意欲的であり、(初めて大江健三郎を読むには適していないだろうけれど)大江のエッセンスが詰まった、あるいは凝縮した小説だと言えるだろう。凝縮しているとは、先鋭化しているとも看做せ、散文文芸上高度な領域にあり、(そうであればこそ)一方では極度に晦渋だとの批判・感想をもたらすのも当然だと思える。

書簡体小説と言えば『若きウェルテルの悩み』や『貧しき人々』といった文豪の若書きの作品という印象がある(『こころ』は晩年の作品だろうが)。この作品では大江の特徴である方法に意識的である点から導き出された形式としてそれが選択され、「僕」が妹のみに語るという一見閉鎖的な形式でありつつも、地理的にも時代的にもまさに縦横に語られるという奇妙な点は文学的な重層性も感じられる。また『万延元年のフットボール』に代表される森・村の神話と『新しい人よ眼ざめよ』へと続く擬似私小説との交錯が見て取れる。また、終盤は子供時代の「僕」の体験によって閉じられる点も彼の特徴である子供の重視(所謂常識への別視点の提示)という特色を示している。

大江は小澤征爾との対談『同じ年に生まれて』のなかで、プロットが小説を動かすのを横の軸だとすれば、小説において比喩は縦に印象を刻みつけるものだ、という旨を述べていたように思い興味深く感じた。もう少し一般化すると比喩などに用いられるイメージの連なり、そのような小説の随所に配置されたイメージ群が作品を視覚化あるいは立体化させると言えるだろう。(これは前掲書で示された訳ではないが)図式的かつ安直な例をあげると、プロットによって人物が変化あるいは詳かになるとともに、その人物描写に関し楽器による比喩を用いるとすれば打楽器から鍵盤楽器さらに木管楽器へと(剛から柔へと)変化するような謂わばイメージシステムを伴うことで文学的な幅が増すと思える。(大江健三郎の作品におけるイメージシステム、といったもので論文が書けるかもしれない。)

この作品でのイメージシステムとは何か。対の、二重の、あるいは分身などのダブル・イメージといったものがそれだろう。双子の僕と妹、アポ爺とペリ爺の二人組、谷間と「在」、壊す人と創建者たち、創造者であり破壊者、村と大日本帝国、五十日戦争と大東亜戦争、神話と歴史、書く者と巫女、苦痛と昏倒、父=神主、女型と野球選手、科学と民話、定住家と他所者、大岩塊あるいは黒く硬い土の塊、伝承と夢、路上の馬鹿あるいは気狂い、老人と子ども、など。これらのペアは、対であったり対比であったり並置であったりし同一の関係ではない。これらペアとともに頻繁に述べられるのが、村=国家=小宇宙、であり、後者が包含しつつも各々対等であるような奇妙な関係を示している。これは多義的な伝承とも通じ、翻ってそこから上のペアを眺めるとそれらの関係も多義的なものを孕むのかもしれない、そのような可能性を暗示させる。

この作品も前作『ピンチランナー調書』と同様に『小説の方法』(1978)で示された、ロシア・フォルマリズム(異化の手法)や民俗学(民話・道化・性的表現)やグロテスク・リアリズム(価値転倒・笑い・揶揄・糞尿・性的転倒)や語りの重層性・真偽の曖昧化(逆転)やポサダの版画(民衆芸術)、それらが端々に有機的に埋め込まれているが、それにも関わらず前作とは全く異なる印象を与える。何を書くか、よりも、どのように書くか。このような問題設定は言語芸術よりも(古典的)舞台芸術(パフォーミング・アーツ)が担うものだろうが(事前の検閲から改変しえるオンタイムでの芸術である故)、時代性や政治性において鋭敏な作者においては合奏や踊りや祭りや斉唱といった(スポーツも含まれるかもしれない)舞台芸術に由来するだろう挿話が語られる。情報媒体が拡充した現在の間接民主制(代表制 representative )からその歴史を顧みれば、舞台芸術の空間とは、直接民主制の空間とも言えるだろう。個人的には、そのような発展・解放の展望をもたらす作品のように思う。

始まりがあり終わりがある、というような単線的(リニアな)物語、神話、歴史、という観点と、現在と直接・間接の様々な過去。それとともに、メキシコ、東独、東京、四国、ニューヨーク、サンフランシスコ、大阪、と言及される点在する地域。また、人的関係においても、(異国での)異邦人、同僚、党派、同郷、地縁、血縁、といった(愛憎も含む)多様な関係。さらに、生と死との物語であるとともに、開拓と追放の物語とも読める。また、読み通した後に冒頭を再読すると、上に述べたように物語は一般に単線的形式を用いるが作者の言葉によれば、この作品は「夢の輪にとじこめるように描」かれていることに気づく。反語的・重層的小説だと言っていいように思う。
同時代ゲーム (1979年) Amazon書評・レビュー: 同時代ゲーム (1979年)より
B000J8CNCQ
No.43
(4pt)

主題と方法とが緊張感を保ちつつ結晶した作品

彼の作品では比較的低評価なようだが、ハードカバーで500ページ弱の書簡体小説の体裁をとり、それだけで意欲的であり、(初めて大江健三郎を読むには適していないだろうけれど)大江のエッセンスが詰まった、あるいは凝縮した小説だと言えるだろう。凝縮しているとは、先鋭化しているとも看做せ、散文文芸上高度な領域にあり、(そうであればこそ)一方では極度に晦渋だとの批判・感想をもたらすのも当然だと思える。

書簡体小説と言えば『若きウェルテルの悩み』や『貧しき人々』といった文豪の若書きの作品という印象がある(『こころ』は晩年の作品だろうが)。この作品では大江の特徴である方法に意識的である点から導き出された形式としてそれが選択され、「僕」が妹のみに語るという一見閉鎖的な形式でありつつも、地理的にも時代的にもまさに縦横に語られるという奇妙な点は文学的な重層性も感じられる。また『万延元年のフットボール』に代表される森・村の神話と『新しい人よ眼ざめよ』へと続く擬似私小説との交錯が見て取れる。また、終盤は子供時代の「僕」の体験によって閉じられる点も彼の特徴である子供の重視(所謂常識への別視点の提示)という特色を示している。

大江は小澤征爾との対談『同じ年に生まれて』のなかで、プロットが小説を動かすのを横の軸だとすれば、小説において比喩は縦に印象を刻みつけるものだ、という旨を述べていたように思い興味深く感じた。もう少し一般化すると比喩などに用いられるイメージの連なり、そのような小説の随所に配置されたイメージ群が作品を視覚化あるいは立体化させると言えるだろう。(これは前掲書で示された訳ではないが)図式的かつ安直な例をあげると、プロットによって人物が変化あるいは詳かになるとともに、その人物描写に関し楽器による比喩を用いるとすれば打楽器から鍵盤楽器さらに木管楽器へと(剛から柔へと)変化するような謂わばイメージシステムを伴うことで文学的な幅が増すと思える。(大江健三郎の作品におけるイメージシステム、といったもので論文が書けるかもしれない。)

この作品でのイメージシステムとは何か。対の、二重の、あるいは分身などのダブル・イメージといったものがそれだろう。双子の僕と妹、アポ爺とペリ爺の二人組、谷間と「在」、壊す人と創建者たち、創造者であり破壊者、村と大日本帝国、五十日戦争と大東亜戦争、神話と歴史、書く者と巫女、苦痛と昏倒、父=神主、女型と野球選手、科学と民話、定住家と他所者、大岩塊あるいは黒く硬い土の塊、伝承と夢、路上の馬鹿あるいは気狂い、老人と子ども、など。これらのペアは、対であったり対比であったり並置であったりし同一の関係ではない。これらペアとともに頻繁に述べられるのが、村=国家=小宇宙、であり、後者が包含しつつも各々対等であるような奇妙な関係を示している。これは多義的な伝承とも通じ、翻ってそこから上のペアを眺めるとそれらの関係も多義的なものを孕むのかもしれない、そのような可能性を暗示させる。

この作品も前作『ピンチランナー調書』と同様に『小説の方法』(1978)で示された、ロシア・フォルマリズム(異化の手法)や民俗学(民話・道化・性的表現)やグロテスク・リアリズム(価値転倒・笑い・揶揄・糞尿・性的転倒)や語りの重層性・真偽の曖昧化(逆転)やポサダの版画(民衆芸術)、それらが端々に有機的に埋め込まれているが、それにも関わらず前作とは全く異なる印象を与える。何を書くか、よりも、どのように書くか。このような問題設定は言語芸術よりも(古典的)舞台芸術(パフォーミング・アーツ)が担うものだろうが(事前の検閲から改変しえるオンタイムでの芸術である故)、時代性や政治性において鋭敏な作者においては合奏や踊りや祭りや斉唱といった(スポーツも含まれるかもしれない)舞台芸術に由来するだろう挿話が語られる。情報媒体が拡充した現在の間接民主制(代表制 representative )からその歴史を顧みれば、舞台芸術の空間とは、直接民主制の空間とも言えるだろう。個人的には、そのような発展・解放の展望をもたらす作品のように思う。

始まりがあり終わりがある、というような単線的(リニアな)物語、神話、歴史、という観点と、現在と直接・間接の様々な過去。それとともに、メキシコ、東独、東京、四国、ニューヨーク、サンフランシスコ、大阪、と言及される点在する地域。また、人的関係においても、(異国での)異邦人、同僚、党派、同郷、地縁、血縁、といった(愛憎も含む)多様な関係。さらに、生と死との物語であるとともに、開拓と追放の物語とも読める。また、読み通した後に冒頭を再読すると、上に述べたように物語は一般に単線的形式を用いるが作者の言葉によれば、この作品は「夢の輪にとじこめるように描」かれていることに気づく。反語的・重層的小説だと言っていいように思う。
同時代ゲーム Amazon書評・レビュー: 同時代ゲームより
4106006316
No.42
(5pt)

伝承と現実と妄想の迷宮

四国の山中に伝わる村独自の神話と歴史を、主人公が、妹への手紙として書き記していく。この過程で様々な出来事が、伝承なのか妄想なのか、はたまた現実のことなのか判然としない形で提示される。登場人物達に感情移入することが難しく、最初は違和感しか感じなかったが、読み進むうちに、何か大きなものに飲み込まれていくような気持ちになっていった。良い作品なのか判断する能力は私には無いが、これまで経験したことのない稀有な読書体験をさせてもらった。
同時代ゲーム (1979年) Amazon書評・レビュー: 同時代ゲーム (1979年)より
B000J8CNCQ
No.41
(5pt)

伝承と現実と妄想の迷宮

四国の山中に伝わる村独自の神話と歴史を、主人公が、妹への手紙として書き記していく。この過程で様々な出来事が、伝承なのか妄想なのか、はたまた現実のことなのか判然としない形で提示される。登場人物達に感情移入することが難しく、最初は違和感しか感じなかったが、読み進むうちに、何か大きなものに飲み込まれていくような気持ちになっていった。良い作品なのか判断する能力は私には無いが、これまで経験したことのない稀有な読書体験をさせてもらった。
同時代ゲーム Amazon書評・レビュー: 同時代ゲームより
4106006316
No.40
(5pt)

伝承と現実と妄想の迷宮

四国の山中に伝わる村独自の神話と歴史を、主人公が、妹への手紙として書き記していく。この過程で様々な出来事が、伝承なのか妄想なのか、はたまた現実のことなのか判然としない形で提示される。登場人物達に感情移入することが難しく、最初は違和感しか感じなかったが、読み進むうちに、何か大きなものに飲み込まれていくような気持ちになっていった。良い作品なのか判断する能力は私には無いが、これまで経験したことのない稀有な読書体験をさせてもらった。
同時代ゲーム (新潮文庫) Amazon書評・レビュー: 同時代ゲーム (新潮文庫)より
4101126143
No.39
(4pt)

力に溢れた魅力的な神話と歴史の創造

難解な本とのコメントがあり断念覚悟で読み始めましたが、第二章以降は物語にぐいぐい引き込まれました。
四国の山中に創られた共同体(国家)の神話と歴史が、非常に長い六つの長い手紙の形をとって繰り広げられます。
メキシコから日本やアメリカ、江戸時代から戦中、現代、語られる話はどれも荒唐無稽なのに、ありうることのように思わされてしまう魔術的な力強さに溢れています。
森の中の異界というモチーフは他の作家さん達も取り上げていますが、現実の世界と折り合いをつけて描き出す筆力はさすがと思いました。
言語、国家、家族についての考えも刺激させられました。
「百年の孤独」や「緑の家」、あるいは「ドグラマグラ」なんかが好みの方はいい読書ができるのではないでしょうか。
同時代ゲーム (1979年) Amazon書評・レビュー: 同時代ゲーム (1979年)より
B000J8CNCQ
No.38
(4pt)

力に溢れた魅力的な神話と歴史の創造

難解な本とのコメントがあり断念覚悟で読み始めましたが、第二章以降は物語にぐいぐい引き込まれました。
四国の山中に創られた共同体(国家)の神話と歴史が、非常に長い六つの長い手紙の形をとって繰り広げられます。
メキシコから日本やアメリカ、江戸時代から戦中、現代、語られる話はどれも荒唐無稽なのに、ありうることのように思わされてしまう魔術的な力強さに溢れています。
森の中の異界というモチーフは他の作家さん達も取り上げていますが、現実の世界と折り合いをつけて描き出す筆力はさすがと思いました。
言語、国家、家族についての考えも刺激させられました。
「百年の孤独」や「緑の家」、あるいは「ドグラマグラ」なんかが好みの方はいい読書ができるのではないでしょうか。
同時代ゲーム Amazon書評・レビュー: 同時代ゲームより
4106006316
No.37
(4pt)

力に溢れた魅力的な神話と歴史の創造

難解な本とのコメントがあり断念覚悟で読み始めましたが、第二章以降は物語にぐいぐい引き込まれました。
四国の山中に創られた共同体(国家)の神話と歴史が、非常に長い六つの長い手紙の形をとって繰り広げられます。
メキシコから日本やアメリカ、江戸時代から戦中、現代、語られる話はどれも荒唐無稽なのに、ありうることのように思わされてしまう魔術的な力強さに溢れています。
森の中の異界というモチーフは他の作家さん達も取り上げていますが、現実の世界と折り合いをつけて描き出す筆力はさすがと思いました。
言語、国家、家族についての考えも刺激させられました。
「百年の孤独」や「緑の家」、あるいは「ドグラマグラ」なんかが好みの方はいい読書ができるのではないでしょうか。
同時代ゲーム (新潮文庫) Amazon書評・レビュー: 同時代ゲーム (新潮文庫)より
4101126143
No.36
(4pt)

家族を描きながら神話に挑む様なスケールの大きな意欲作好きな誰かへ

"そうだとすれば、その眼はそれらほとんど無限に近い空間×時間のユニットのなかからゲームのように任意の現実を選びとって、人類史をどのようにも組みかえることができよう・・"1979年に発刊され賛否の起きた本書は著者の一つの集大成的な魅力が難解さと娯楽さの中で両立していて興味深い。‬

個人的には、とは言え、本書は【主人公から妹への手紙】として各章が構成されているわけですが、唐突に(おそらく意図的に)矢継早に語られる【冒頭のあまりの読み難さ】に小林秀雄曰く"2ページで読みのをやめた"といったのと同種の不安が私にも早くも起きかけたのですが。

兎にも角にも中盤まで読み進めて、江戸末期以降から現在にかけて辺りからは急に明瞭となり"戦史(歴史)もの""スポーツ""青(性?)春ドラマ"といった様々な文学的要素が【複雑にミックスされた娯楽性】が楽しめました。

一方で、本書の軸となっている主人公たちの故郷である四国の山奥に位置する谷間の村の独自の神話と歴史【村=国家=小宇宙】からは、近代社会によって、書き換えられる前の【異質で原初的な、神話的世界】が中央(国家)と周縁(村)といった対比で【破壊(死)と再生】【アジールとしての森】【壊すものと育てるもの】といった要素で虚実織り交ぜた様々なメタファーと共に語られていて刺激的でした。

確かに前述した前半部分の難解さ、加えて語り部たる主人公の共感しにくい立ち位置、また幻想的な部分もあるが、やや生々しく頻出する性描写と、読む人を選ぶであろう部分もたくさんある様にも感じましたが、個人的には流石だな?と脱帽するかのような読後感でした。

【百年の孤独】の様な、家族を描きながら神話に挑む様なスケールの大きな意欲作好きな誰かに、また柳田國男的な民俗学好きな誰かにオススメ。
同時代ゲーム (1979年) Amazon書評・レビュー: 同時代ゲーム (1979年)より
B000J8CNCQ
No.35
(4pt)

家族を描きながら神話に挑む様なスケールの大きな意欲作好きな誰かへ

"そうだとすれば、その眼はそれらほとんど無限に近い空間×時間のユニットのなかからゲームのように任意の現実を選びとって、人類史をどのようにも組みかえることができよう・・"1979年に発刊され賛否の起きた本書は著者の一つの集大成的な魅力が難解さと娯楽さの中で両立していて興味深い。‬

個人的には、とは言え、本書は【主人公から妹への手紙】として各章が構成されているわけですが、唐突に(おそらく意図的に)矢継早に語られる【冒頭のあまりの読み難さ】に小林秀雄曰く"2ページで読みのをやめた"といったのと同種の不安が私にも早くも起きかけたのですが。

兎にも角にも中盤まで読み進めて、江戸末期以降から現在にかけて辺りからは急に明瞭となり"戦史(歴史)もの""スポーツ""青(性?)春ドラマ"といった様々な文学的要素が【複雑にミックスされた娯楽性】が楽しめました。

一方で、本書の軸となっている主人公たちの故郷である四国の山奥に位置する谷間の村の独自の神話と歴史【村=国家=小宇宙】からは、近代社会によって、書き換えられる前の【異質で原初的な、神話的世界】が中央(国家)と周縁(村)といった対比で【破壊(死)と再生】【アジールとしての森】【壊すものと育てるもの】といった要素で虚実織り交ぜた様々なメタファーと共に語られていて刺激的でした。

確かに前述した前半部分の難解さ、加えて語り部たる主人公の共感しにくい立ち位置、また幻想的な部分もあるが、やや生々しく頻出する性描写と、読む人を選ぶであろう部分もたくさんある様にも感じましたが、個人的には流石だな?と脱帽するかのような読後感でした。

【百年の孤独】の様な、家族を描きながら神話に挑む様なスケールの大きな意欲作好きな誰かに、また柳田國男的な民俗学好きな誰かにオススメ。
同時代ゲーム Amazon書評・レビュー: 同時代ゲームより
4106006316
No.34
(4pt)

家族を描きながら神話に挑む様なスケールの大きな意欲作好きな誰かへ

"そうだとすれば、その眼はそれらほとんど無限に近い空間×時間のユニットのなかからゲームのように任意の現実を選びとって、人類史をどのようにも組みかえることができよう・・"1979年に発刊され賛否の起きた本書は著者の一つの集大成的な魅力が難解さと娯楽さの中で両立していて興味深い。‬

個人的には、とは言え、本書は【主人公から妹への手紙】として各章が構成されているわけですが、唐突に(おそらく意図的に)矢継早に語られる【冒頭のあまりの読み難さ】に小林秀雄曰く"2ページで読みのをやめた"といったのと同種の不安が私にも早くも起きかけたのですが。

兎にも角にも中盤まで読み進めて、江戸末期以降から現在にかけて辺りからは急に明瞭となり"戦史(歴史)もの""スポーツ""青(性?)春ドラマ"といった様々な文学的要素が【複雑にミックスされた娯楽性】が楽しめました。

一方で、本書の軸となっている主人公たちの故郷である四国の山奥に位置する谷間の村の独自の神話と歴史【村=国家=小宇宙】からは、近代社会によって、書き換えられる前の【異質で原初的な、神話的世界】が中央(国家)と周縁(村)といった対比で【破壊(死)と再生】【アジールとしての森】【壊すものと育てるもの】といった要素で虚実織り交ぜた様々なメタファーと共に語られていて刺激的でした。

確かに前述した前半部分の難解さ、加えて語り部たる主人公の共感しにくい立ち位置、また幻想的な部分もあるが、やや生々しく頻出する性描写と、読む人を選ぶであろう部分もたくさんある様にも感じましたが、個人的には流石だな?と脱帽するかのような読後感でした。

【百年の孤独】の様な、家族を描きながら神話に挑む様なスケールの大きな意欲作好きな誰かに、また柳田國男的な民俗学好きな誰かにオススメ。
同時代ゲーム (新潮文庫) Amazon書評・レビュー: 同時代ゲーム (新潮文庫)より
4101126143
No.33
(4pt)

原始共同体と近代の軋轢

大江健三郎さんの作品を読むのは久しぶりになる。学生時代は短編集などの凄みに圧倒されたものだ。そして『万延元年のフットボール』の圧倒的な迫力には相当な感銘を受けた記憶が鮮明だ。
 さて本作だが、結論からいうとあまり面白くはない。著者の熱心な読者ではないのだが、活動後半期には文章が悪文になり、その事でかなり批判をされていたが、そうなる前の貴重な作品だと思う。
 冒頭のメキシコの件は何の事かわけがわからず、「何のこっちゃい?」と感じていた。だが、読み進めていくとこれは村落共同体と近代化の軋轢ではないかと読めてきた。特に『村』と『大日本帝国軍』との戦争は、近代化に取り込まれず、過去から連綿と続いてきた村落の神話性を死守しようとする村落側からの抵抗と読めるのではないか?
 本書で展開されるテーマは大きい。『森』は著者の作品にかなりの頻度で頻出するモチーフだ。大江さんの昨今の作品はほとんど読んでいない為、いつから『森』が作品のコアを占めるようになったのかは知らない。
 だが、ラストの主人公の子供時代の森の中での彷徨は圧巻だった。それは『壊す人』とその再生を狙う旅のように思えた。
 ただ、幾つかのレビューにも散見されるよう、全体のストーリテリングが冗漫で、観念的な描写が多少読みずらい。
 しかし、僕は本書のラストに心の高揚を覚えた。
 ストーリテリングが冗漫で、無条件に面白いとは言えない作品だという事は否定しない。だが、本書は人間の根源に迫るテーマを描いた逸品であり、著者は剛腕で本作を普遍の地平へと導く。
 結論として---執拗なのだが---無条件に面白い小説ではないのでその点を引いて星四つなのだが、本書に潜在している深いコアと貴重なテーマを伺い知るためにも、一読する価値のある大力作だと思う。
同時代ゲーム (1979年) Amazon書評・レビュー: 同時代ゲーム (1979年)より
B000J8CNCQ
No.32
(4pt)

原始共同体と近代の軋轢

大江健三郎さんの作品を読むのは久しぶりになる。学生時代は短編集などの凄みに圧倒されたものだ。そして『万延元年のフットボール』の圧倒的な迫力には相当な感銘を受けた記憶が鮮明だ。
 さて本作だが、結論からいうとあまり面白くはない。著者の熱心な読者ではないのだが、活動後半期には文章が悪文になり、その事でかなり批判をされていたが、そうなる前の貴重な作品だと思う。
 冒頭のメキシコの件は何の事かわけがわからず、「何のこっちゃい?」と感じていた。だが、読み進めていくとこれは村落共同体と近代化の軋轢ではないかと読めてきた。特に『村』と『大日本帝国軍』との戦争は、近代化に取り込まれず、過去から連綿と続いてきた村落の神話性を死守しようとする村落側からの抵抗と読めるのではないか?
 本書で展開されるテーマは大きい。『森』は著者の作品にかなりの頻度で頻出するモチーフだ。大江さんの昨今の作品はほとんど読んでいない為、いつから『森』が作品のコアを占めるようになったのかは知らない。
 だが、ラストの主人公の子供時代の森の中での彷徨は圧巻だった。それは『壊す人』とその再生を狙う旅のように思えた。
 ただ、幾つかのレビューにも散見されるよう、全体のストーリテリングが冗漫で、観念的な描写が多少読みずらい。
 しかし、僕は本書のラストに心の高揚を覚えた。
 ストーリテリングが冗漫で、無条件に面白いとは言えない作品だという事は否定しない。だが、本書は人間の根源に迫るテーマを描いた逸品であり、著者は剛腕で本作を普遍の地平へと導く。
 結論として---執拗なのだが---無条件に面白い小説ではないのでその点を引いて星四つなのだが、本書に潜在している深いコアと貴重なテーマを伺い知るためにも、一読する価値のある大力作だと思う。
同時代ゲーム Amazon書評・レビュー: 同時代ゲームより
4106006316
No.31
(4pt)

原始共同体と近代の軋轢

大江健三郎さんの作品を読むのは久しぶりになる。学生時代は短編集などの凄みに圧倒されたものだ。そして『万延元年のフットボール』の圧倒的な迫力には相当な感銘を受けた記憶が鮮明だ。
 さて本作だが、結論からいうとあまり面白くはない。著者の熱心な読者ではないのだが、活動後半期には文章が悪文になり、その事でかなり批判をされていたが、そうなる前の貴重な作品だと思う。
 冒頭のメキシコの件は何の事かわけがわからず、「何のこっちゃい?」と感じていた。だが、読み進めていくとこれは村落共同体と近代化の軋轢ではないかと読めてきた。特に『村』と『大日本帝国軍』との戦争は、近代化に取り込まれず、過去から連綿と続いてきた村落の神話性を死守しようとする村落側からの抵抗と読めるのではないか?
 本書で展開されるテーマは大きい。『森』は著者の作品にかなりの頻度で頻出するモチーフだ。大江さんの昨今の作品はほとんど読んでいない為、いつから『森』が作品のコアを占めるようになったのかは知らない。
 だが、ラストの主人公の子供時代の森の中での彷徨は圧巻だった。それは『壊す人』とその再生を狙う旅のように思えた。
 ただ、幾つかのレビューにも散見されるよう、全体のストーリテリングが冗漫で、観念的な描写が多少読みずらい。
 しかし、僕は本書のラストに心の高揚を覚えた。
 ストーリテリングが冗漫で、無条件に面白いとは言えない作品だという事は否定しない。だが、本書は人間の根源に迫るテーマを描いた逸品であり、著者は剛腕で本作を普遍の地平へと導く。
 結論として---執拗なのだが---無条件に面白い小説ではないのでその点を引いて星四つなのだが、本書に潜在している深いコアと貴重なテーマを伺い知るためにも、一読する価値のある大力作だと思う。
同時代ゲーム (新潮文庫) Amazon書評・レビュー: 同時代ゲーム (新潮文庫)より
4101126143
No.30
(5pt)

実存から、神話の世界へ

日本史上、二人目となるノーベル賞作家、大江健三郎さんの大長編小説です。

他のレビュアーさんの中には、読みにくいとおっしゃっている方もいますが、それは最初の10ページ、20ページほどのことで、本題の『手紙』の章に入るやいなや、怒涛の物語がはじまります。
(『個人的な体験』や『飼育』などの実存主義文学の時代からは考えられないほど、超エンタメ級のストーリーが展開されます)

物語は、主人公が数百年に渡る自分の産まれた村の歴史と神話を妹への手紙の形で語り、分析していくという形で、途方もない時間と規模を描いてゆきます。

巻末の四方田犬彦さんの解説でもあるように、この作品はレヴィ・ストロースなどの文化人類学や神話分析理論が縦横無尽に駆使され、大江さんは、自ら創造した架空の『創世神話』を自ら分析するという、一種の大江流メタ文学を提示しています。

これだけで、圧倒的なはなれ業ではないでしょうか?

しかもストーリー自体もガルシア・マルケスやカルペンティエールのような、まるで魔術のようなドラマを矢継ぎ早に繰り出してきます。
(特に、村vs日本陸軍の戦いの章があまりに凄まじく、私は読むのを止めることができませんでした)

一方で、もしこの作品を難解だと感じた方は、山口昌男さんの新書『文化人類学への招待』やレヴィ・ストロースの著作(『やきもち焼きの土器作り』がわかりやすくて名著!)などを読んでから再読すると、喉のつっかえみたいなのがすんなり取れて納得出来ると思います。

もっとも、難しく考えずに一気読みするほうが、かえって楽しめると私は思います。

超エンタメ作家の大江健三郎さんが、ここにいます。
同時代ゲーム (1979年) Amazon書評・レビュー: 同時代ゲーム (1979年)より
B000J8CNCQ
No.29
(5pt)

実存から、神話の世界へ

日本史上、二人目となるノーベル賞作家、大江健三郎さんの大長編小説です。

他のレビュアーさんの中には、読みにくいとおっしゃっている方もいますが、それは最初の10ページ、20ページほどのことで、本題の『手紙』の章に入るやいなや、怒涛の物語がはじまります。
(『個人的な体験』や『飼育』などの実存主義文学の時代からは考えられないほど、超エンタメ級のストーリーが展開されます)

物語は、主人公が数百年に渡る自分の産まれた村の歴史と神話を妹への手紙の形で語り、分析していくという形で、途方もない時間と規模を描いてゆきます。

巻末の四方田犬彦さんの解説でもあるように、この作品はレヴィ・ストロースなどの文化人類学や神話分析理論が縦横無尽に駆使され、大江さんは、自ら創造した架空の『創世神話』を自ら分析するという、一種の大江流メタ文学を提示しています。

これだけで、圧倒的なはなれ業ではないでしょうか?

しかもストーリー自体もガルシア・マルケスやカルペンティエールのような、まるで魔術のようなドラマを矢継ぎ早に繰り出してきます。
(特に、村vs日本陸軍の戦いの章があまりに凄まじく、私は読むのを止めることができませんでした)

一方で、もしこの作品を難解だと感じた方は、山口昌男さんの新書『文化人類学への招待』やレヴィ・ストロースの著作(『やきもち焼きの土器作り』がわかりやすくて名著!)などを読んでから再読すると、喉のつっかえみたいなのがすんなり取れて納得出来ると思います。

もっとも、難しく考えずに一気読みするほうが、かえって楽しめると私は思います。

超エンタメ作家の大江健三郎さんが、ここにいます。
同時代ゲーム Amazon書評・レビュー: 同時代ゲームより
4106006316
No.28
(5pt)

実存から、神話の世界へ

日本史上、二人目となるノーベル賞作家、大江健三郎さんの大長編小説です。

他のレビュアーさんの中には、読みにくいとおっしゃっている方もいますが、それは最初の10ページ、20ページほどのことで、本題の『手紙』の章に入るやいなや、怒涛の物語がはじまります。
(『個人的な体験』や『飼育』などの実存主義文学の時代からは考えられないほど、超エンタメ級のストーリーが展開されます)

物語は、主人公が数百年に渡る自分の産まれた村の歴史と神話を妹への手紙の形で語り、分析していくという形で、途方もない時間と規模を描いてゆきます。

巻末の四方田犬彦さんの解説でもあるように、この作品はレヴィ・ストロースなどの文化人類学や神話分析理論が縦横無尽に駆使され、大江さんは、自ら創造した架空の『創世神話』を自ら分析するという、一種の大江流メタ文学を提示しています。

これだけで、圧倒的なはなれ業ではないでしょうか?

しかもストーリー自体もガルシア・マルケスやカルペンティエールのような、まるで魔術のようなドラマを矢継ぎ早に繰り出してきます。
(特に、村vs日本陸軍の戦いの章があまりに凄まじく、私は読むのを止めることができませんでした)

一方で、もしこの作品を難解だと感じた方は、山口昌男さんの新書『文化人類学への招待』やレヴィ・ストロースの著作(『やきもち焼きの土器作り』がわかりやすくて名著!)などを読んでから再読すると、喉のつっかえみたいなのがすんなり取れて納得出来ると思います。

もっとも、難しく考えずに一気読みするほうが、かえって楽しめると私は思います。

超エンタメ作家の大江健三郎さんが、ここにいます。
同時代ゲーム (新潮文庫) Amazon書評・レビュー: 同時代ゲーム (新潮文庫)より
4101126143
No.27
(5pt)

今、読み終わったところだ。

発刊後すぐに読んだので、三十数年ぶりに再読したことになる。
まず、感じたことは、直接の影響を受けないように注意しようということだ。私は、盗作者を激しく軽蔑し憎みさえする。直接の被害さえ受けた。従って、盗作者と受け取られかねない語句や文章を書かないように細心の注意を払ってきた。大江のこの作品も同様の注意の対象だ。もっとも、全集あるいは著作集を全て読んだ日本人作家十名ほどの中に、大江は入っているので、彼の影響はぬぐえないし、私に肉化している部分さえある。たとえば、連載中のネヴァーランドにおいて、集団が川を遡り上流に定住するという構想はこの作品からヒントを得ているだろう。しかし、そこ以外は、類似する所は自分ではないと思っている。そもそも、小説の形式と、その内容と、双方とも、その神話化に、私は真っ向から対立する立場をとっている。大江は後に構造論的な知のもろもろがこの小説に流入したという意味のことを書いている。私は、構造論、構造主義にも対立する。学生時代、あからさまな構造主義的教育を受け、大いに反発したという思い出もある。森毅が、典型的な構造主義的教科書であるブルバキ叢書について、詳しく自らの体験したところを書いている。森はブルバキの翻訳者の一人でもあるが、耽溺することなく、ブルバキは整理整頓はしたものの、新たなものは何も生み出さなかった、とクールに総括していた。事は数学に限らず、例えば、悲しき熱帯の悪名(?)高い親族関係の構造分析なども、私は整理整頓のための体裁のように思ったものだ。
さて、大江は、この作品自体を異化しようとたくらみ、M/Tと森のフシギの物語を書いたという。私は、M/Tを読んだ時、これは、同時代ゲームを子供向けに書き直したのかと思った。同時代ゲームは、七編の中篇を、一編を落として、長編に組み上げた作品である。確かに整合性とつじつま合わせに苦労した結果らしい文章も散見されるが、その過程で、大江は、みずからの作品を批評し、自己批判し、異化でもって応じた。同時代ゲームという作品自体が、分散した中篇内部での異化の後、長編への組み上げにおける第二の異化を経て成立したのだ。したがって、M/Tは必要がなかった。同時代ゲームそのものが異化につぐ異化の産物であるのだから。
神話あるいは構造と、それにいかにも見合うキャラクター設定を批判することはできるが、充分な異化の複合連鎖の結果出現した大迫力を持つこの傑作は、その種の批判をなぎ倒してしまう。
同時代ゲーム (1979年) Amazon書評・レビュー: 同時代ゲーム (1979年)より
B000J8CNCQ
No.26
(5pt)

今、読み終わったところだ。

発刊後すぐに読んだので、三十数年ぶりに再読したことになる。
まず、感じたことは、直接の影響を受けないように注意しようということだ。私は、盗作者を激しく軽蔑し憎みさえする。直接の被害さえ受けた。従って、盗作者と受け取られかねない語句や文章を書かないように細心の注意を払ってきた。大江のこの作品も同様の注意の対象だ。もっとも、全集あるいは著作集を全て読んだ日本人作家十名ほどの中に、大江は入っているので、彼の影響はぬぐえないし、私に肉化している部分さえある。たとえば、連載中のネヴァーランドにおいて、集団が川を遡り上流に定住するという構想はこの作品からヒントを得ているだろう。しかし、そこ以外は、類似する所は自分ではないと思っている。そもそも、小説の形式と、その内容と、双方とも、その神話化に、私は真っ向から対立する立場をとっている。大江は後に構造論的な知のもろもろがこの小説に流入したという意味のことを書いている。私は、構造論、構造主義にも対立する。学生時代、あからさまな構造主義的教育を受け、大いに反発したという思い出もある。森毅が、典型的な構造主義的教科書であるブルバキ叢書について、詳しく自らの体験したところを書いている。森はブルバキの翻訳者の一人でもあるが、耽溺することなく、ブルバキは整理整頓はしたものの、新たなものは何も生み出さなかった、とクールに総括していた。事は数学に限らず、例えば、悲しき熱帯の悪名(?)高い親族関係の構造分析なども、私は整理整頓のための体裁のように思ったものだ。
さて、大江は、この作品自体を異化しようとたくらみ、M/Tと森のフシギの物語を書いたという。私は、M/Tを読んだ時、これは、同時代ゲームを子供向けに書き直したのかと思った。同時代ゲームは、七編の中篇を、一編を落として、長編に組み上げた作品である。確かに整合性とつじつま合わせに苦労した結果らしい文章も散見されるが、その過程で、大江は、みずからの作品を批評し、自己批判し、異化でもって応じた。同時代ゲームという作品自体が、分散した中篇内部での異化の後、長編への組み上げにおける第二の異化を経て成立したのだ。したがって、M/Tは必要がなかった。同時代ゲームそのものが異化につぐ異化の産物であるのだから。
神話あるいは構造と、それにいかにも見合うキャラクター設定を批判することはできるが、充分な異化の複合連鎖の結果出現した大迫力を持つこの傑作は、その種の批判をなぎ倒してしまう。
同時代ゲーム Amazon書評・レビュー: 同時代ゲームより
4106006316