ガラスの街
評判
ガラスの街の評価:
4.12/5点 レビュー 34件。 B ランク
Amazonレビュー一覧
Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全46件 21〜40 2/3ページ
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| 妻と息子を亡くした探偵小説作家クインのもとに、ある日不思議な間違い電話が入り、奇妙な依頼を受けて彼自身が探偵となりニューヨークの街を彷徨うことに。彼は次第に世界とのつながりを失い始め、最後は姿を消してしまう話です。物語全体が透明な孤独感に満ち、浮浪者となりニューヨークの街に溶けて消えてしまうクインの姿は、そこに悲惨さはまったく感じられず、むしろ快感らしきものを感じ取ってしまいました。オースターのどの作品にも流れる、社会とのつながりを失った孤独さ(=社会的に何者でもない)の中にある幸せ、という不思議な感覚をこの作品でも憶えました。 | ||||
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| 妻と息子を亡くした探偵小説作家クインのもとに、ある日不思議な間違い電話が入り、奇妙な依頼を受けて彼自身が探偵となりニューヨークの街を彷徨うことに。彼は次第に世界とのつながりを失い始め、最後は姿を消してしまう話です。物語全体が透明な孤独感に満ち、浮浪者となりニューヨークの街に溶けて消えてしまうクインの姿は、そこに悲惨さはまったく感じられず、むしろ快感らしきものを感じ取ってしまいました。オースターのどの作品にも流れる、社会とのつながりを失った孤独さ(=社会的に何者でもない)の中にある幸せ、という不思議な感覚をこの作品でも憶えました。 | ||||
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|---|---|---|---|---|
| 現代アメリカ文学の旗手といわれるP・オースターのニューヨーク三部作「鍵のかかった部屋」「幽霊たち」とつづいて本著「ガラスの街」と読みすすめていくと、どうやらこの本の方が先に執筆されたことが分った。つまり、ぼくは逆の順を辿るように読んでいたことなるらしい。だが、オースター自身が「鍵のかかった部屋」で書いているようにこれらは究極的にはみな同じようなものだという。あきらかに物語はちがっているのに同じとはどういう意味なのか。 おそらく、オースターの関心はゼロから小説を書くことのプロセスにあったというほかない。つまり、物語を書くという行為とともに書かれた物語とはそもそもどういうものであるか、また書物という形式(制度)において自分との関係性をむしろ意識していたのではないか。ニューヨーク《ガラスの街》はそのことを意味するメタファーとして捉えていい、ぼくはそう思う。ポストモダンといわれる所以でもある。 換言すれば、客体化された物語とそれを書いた主体としての身体性を著作という形式においていかに意識化できるかということなのかもしれない。 「そもそものはじまりは間違い電話だった。」とはじまるこの小説「ガラスの街」でもそのことを象徴するようにある布石が施されている。 ニューヨークは尽きることのない空間、無限の歩みから成る一個の迷路だった。どれだけ遠くまで歩いても、どれだけ街並みや通りを詳しく知るようになっても、彼はつねに迷子になったような思いに囚われた。街のなかで迷子になったというだけでなく、自分のなかでも迷子になったような思いがしたのである。散歩に行くたび、あたかも自分自身を置いていくような気分になった。(p6) P・オースターという私立探偵と間違われ電話を受け取ったウィリアム・ウィルソンの名をもつ詩人でミステリー作家クインはオースターに成りすましてスティルマン夫人(ヴァージニア)の依頼を受けることになる。その依頼とは精神疾患をもつ息子(ピーター)に危害が及ぶのを恐れ、息子の父スティルマン(コロンビア大学宗教学教授)を監視し定期的に報告してほしいということだった。そう、ほかの二作もそうだったが唐突にも依頼を受けるのだ。その後、物語は名門スティルマン家のことや幼いピーターが9年間も父によって監禁されたこと、スティルマン自身の著作やそのほかの研究論文などにふれる。 やがてクインはついに老教授スティルマンを探しだし探偵(?)として追跡し監視をつづけながらそのことを“赤いノート”に記すことと報告をすることになる。物語はクインの想像の中で謎解きされるように繰り広げられるがついに彼はスティルマンと遭遇しさらに言葉を交わすようになる。だが、老人はクインと会うたびに「どなたでしたか」と聞き返すのだった。探偵クインはその都度、スティルマンの著作にあるヘンリー・ダークや息子のピーター・スティルマンなどと名乗りスティルマン老人の心意と謎を探るように物語は展開するのだが突如として姿を見失う。クインはそのことをヴァージニア・スティルマンに報告しニューヨークをさまようことになる。 スティルマンはいなくなってしまった。老人は街の一部と化した。ひとつのしみ、句読点、はてしなく続く煉瓦壁のなかの一個の煉瓦となった。クインが死ぬまで毎日この街を歩きつづけたところで見つかるまい。いやすべては偶然に帰され、数と確立の悪夢に堕してしまった。何の鍵も、手がかりもなく、打つべき手もひとつとしてなかった。(p166) このことは物語の常として起点をゼロに置き不確かな試行のくり返しの中で物語を書きながら作家自身の存在論的な意味を相対化する生き方を想起させる。 クインは間違われた本人であるはずの優秀な探偵P・オースターに何もかも白状して助けを求めようと電話帳でオースター探偵事務所を調べるがそんな事務所は載っていなかった。だが、個人名の方にはその名があった。そして、クインはP・オースターに連絡しマンハッタンの自宅を訪ねるが、P・オースターは探偵ではなく作家だった。かつて、ウィリアム・ウィルソンの名で出版したクインの詩集のことを覚えていたオースターは、クインの説明を聞き入れ依頼金の受け取りに協力してくれる約束をする。「何か私にできることがあったら、いつでもお電話ください」とオースターは言った。 クインはもうどこにもいなかった。何もなく、何も知らず、何も知らないことだけは知っていた。はじまりに送りかえされたばかりか、いまやはじまりよりももっと前にいた。(p189) 奈落の底に突き落とされるように資金も底をつき、途方に暮れたクインは何度もヴァージニア・スティルマンに電話するがついに繋がることはなかった。なす術(すべ)のないクインは事件のことを忘れてふだんの暮らしに戻りたいと思ったが、それが認められないということなのだろうかと自問する。無一文となった生活の中でクインは一人ニューヨークをさまよい、街のようすや自身の運命や事のはじまりについて様々な思いにふける。 残った金を引っ張り出してクインはオースターに電話する。そして、小切手が不渡りだったこと、スティルマンがブルックリン橋から飛びおりて自殺したことなど、オースターから何もかもを知らされる。 自分がどういう気持ちなのか、クインにはよくわからなかった。はじめしばらくは、何も感じていないような、何もかもが無に帰したような気がした。(p222) 107丁目の自分のアパートに帰るとそこはすでに他の人が住んでいてすべてを失ったクインは、放心したように東69丁目のスティルマン家のアパートへ行くと死んだように深い眠りにつく。夢とも現実ともいえない最後の描写ではいつの間にか本著「ガラスの街」を思わせる“赤いノート”を書いているが、クインなのか著者P・オースターなのか不思議な仕掛けとなっている。 まさしく意表をつく鮮やかな展開、この作品で一躍脚光を浴びたとされるP・オースターの記念すべき小説第一作。翻訳は柴田元幸さん(アメリカ文学、東大名誉教授)。どうぞ、お楽しみください。 | ||||
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| 現代アメリカ文学の旗手といわれるP・オースターのニューヨーク三部作「鍵のかかった部屋」「幽霊たち」とつづいて本著「ガラスの街」と読みすすめていくと、どうやらこの本の方が先に執筆されたことが分った。つまり、ぼくは逆の順を辿るように読んでいたことなるらしい。だが、オースター自身が「鍵のかかった部屋」で書いているようにこれらは究極的にはみな同じようなものだという。あきらかに物語はちがっているのに同じとはどういう意味なのか。 おそらく、オースターの関心はゼロから小説を書くことのプロセスにあったというほかない。つまり、物語を書くという行為とともに書かれた物語とはそもそもどういうものであるか、また書物という形式(制度)において自分との関係性をむしろ意識していたのではないか。ニューヨーク《ガラスの街》はそのことを意味するメタファーとして捉えていい、ぼくはそう思う。ポストモダンといわれる所以でもある。 換言すれば、客体化された物語とそれを書いた主体としての身体性を著作という形式においていかに意識化できるかということなのかもしれない。 「そもそものはじまりは間違い電話だった。」とはじまるこの小説「ガラスの街」でもそのことを象徴するようにある布石が施されている。 ニューヨークは尽きることのない空間、無限の歩みから成る一個の迷路だった。どれだけ遠くまで歩いても、どれだけ街並みや通りを詳しく知るようになっても、彼はつねに迷子になったような思いに囚われた。街のなかで迷子になったというだけでなく、自分のなかでも迷子になったような思いがしたのである。散歩に行くたび、あたかも自分自身を置いていくような気分になった。(p6) P・オースターという私立探偵と間違われ電話を受け取ったウィリアム・ウィルソンの名をもつ詩人でミステリー作家クインはオースターに成りすましてスティルマン夫人(ヴァージニア)の依頼を受けることになる。その依頼とは精神疾患をもつ息子(ピーター)に危害が及ぶのを恐れ、息子の父スティルマン(コロンビア大学宗教学教授)を監視し定期的に報告してほしいということだった。そう、ほかの二作もそうだったが唐突にも依頼を受けるのだ。その後、物語は名門スティルマン家のことや幼いピーターが9年間も父によって監禁されたこと、スティルマン自身の著作やそのほかの研究論文などにふれる。 やがてクインはついに老教授スティルマンを探しだし探偵(?)として追跡し監視をつづけながらそのことを“赤いノート”に記すことと報告をすることになる。物語はクインの想像の中で謎解きされるように繰り広げられるがついに彼はスティルマンと遭遇しさらに言葉を交わすようになる。だが、老人はクインと会うたびに「どなたでしたか」と聞き返すのだった。探偵クインはその都度、スティルマンの著作にあるヘンリー・ダークや息子のピーター・スティルマンなどと名乗りスティルマン老人の心意と謎を探るように物語は展開するのだが突如として姿を見失う。クインはそのことをヴァージニア・スティルマンに報告しニューヨークをさまようことになる。 スティルマンはいなくなってしまった。老人は街の一部と化した。ひとつのしみ、句読点、はてしなく続く煉瓦壁のなかの一個の煉瓦となった。クインが死ぬまで毎日この街を歩きつづけたところで見つかるまい。いやすべては偶然に帰され、数と確立の悪夢に堕してしまった。何の鍵も、手がかりもなく、打つべき手もひとつとしてなかった。(p166) このことは物語の常として起点をゼロに置き不確かな試行のくり返しの中で物語を書きながら作家自身の存在論的な意味を相対化する生き方を想起させる。 クインは間違われた本人であるはずの優秀な探偵P・オースターに何もかも白状して助けを求めようと電話帳でオースター探偵事務所を調べるがそんな事務所は載っていなかった。だが、個人名の方にはその名があった。そして、クインはP・オースターに連絡しマンハッタンの自宅を訪ねるが、P・オースターは探偵ではなく作家だった。かつて、ウィリアム・ウィルソンの名で出版したクインの詩集のことを覚えていたオースターは、クインの説明を聞き入れ依頼金の受け取りに協力してくれる約束をする。「何か私にできることがあったら、いつでもお電話ください」とオースターは言った。 クインはもうどこにもいなかった。何もなく、何も知らず、何も知らないことだけは知っていた。はじまりに送りかえされたばかりか、いまやはじまりよりももっと前にいた。(p189) 奈落の底に突き落とされるように資金も底をつき、途方に暮れたクインは何度もヴァージニア・スティルマンに電話するがついに繋がることはなかった。なす術(すべ)のないクインは事件のことを忘れてふだんの暮らしに戻りたいと思ったが、それが認められないということなのだろうかと自問する。無一文となった生活の中でクインは一人ニューヨークをさまよい、街のようすや自身の運命や事のはじまりについて様々な思いにふける。 残った金を引っ張り出してクインはオースターに電話する。そして、小切手が不渡りだったこと、スティルマンがブルックリン橋から飛びおりて自殺したことなど、オースターから何もかもを知らされる。 自分がどういう気持ちなのか、クインにはよくわからなかった。はじめしばらくは、何も感じていないような、何もかもが無に帰したような気がした。(p222) 107丁目の自分のアパートに帰るとそこはすでに他の人が住んでいてすべてを失ったクインは、放心したように東69丁目のスティルマン家のアパートへ行くと死んだように深い眠りにつく。夢とも現実ともいえない最後の描写ではいつの間にか本著「ガラスの街」を思わせる“赤いノート”を書いているが、クインなのか著者P・オースターなのか不思議な仕掛けとなっている。 まさしく意表をつく鮮やかな展開、この作品で一躍脚光を浴びたとされるP・オースターの記念すべき小説第一作。翻訳は柴田元幸さん(アメリカ文学、東大名誉教授)。どうぞ、お楽しみください。 | ||||
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|---|---|---|---|---|
| ガラスの街、ニューヨーク。 高層アパートの窓ガラスの数々の、無数のガラス。 無数のガラス窓からあふれる光で、ガラスの街の外は真っ暗闇。星一つない。 四角い窓ガラスの一つ一つの中に、それぞれ別の人間が住んでいる。 それぞれ名前を持って。それぞれ別の人生がある。 ときどき同じ名前もあって間違えられることもあるけれど、 自分と他人が、違うような違わないような、似たような似ていないような、 意味があるような、ないような、別々の人生をおくっている。 そんな窓ガラスと窓ガラスの間に囲まれていると、 自分がどの窓ガラスの中に住んでいるのかさえ見失い、 自分の存在を確認する、名前とか、なにもかも見失ってしまいそう。 誰かを探している私は、誰か、自分の名前さえ確かでなくなって、 他人探しが、自分探しになってしまいそうで。 ニューヨークは、そんな迷路のような街。 整然とした迷路。碁盤の目のような四角い道路が無限に繰り返す、合わせ鏡の迷路。 角をひとつ曲がっただけで、方角さえわからなくなる迷路。 どこもかしこもみんなおんなじ。同じ四角い街並みが繰り返される迷路。 ニューヨークを散歩するとき、永遠に迷子になったような気がする。 どこにいるのか、わからなくなるし、自分までも見失う街。それが快感? ヤーヤーヤー。 子どもの叫び声のような、地下鉄の轟音のような、意味不明な単調な繰り返しの街。 合わせ鏡の中に立っているような気分になる街。 この小説は、著者のオースターさん本人の言葉では、 探偵小説ではない、探偵小説の「形を利用しただけなんだけどなあ」、とのこと (柴田元幸さんの個人的情報より)。 「スティルマン事件」(198頁)は、失踪事件の探偵小説のようでいて、探偵小説ではない。 面白がるにもほどがありますが、なんという、わけわからずの面白さでしょう。 「結局のところ、人が本に求めるのはそれに尽きます――愉しませてくれること」(166頁) わけわかんなくても、面白ければいいのかな? ピーター・スティルマンの「ナンセンスな言葉の連射」(88頁) 「ブーフー。ウィリニリ。ニンコンプープ」(26頁) 「僕はときどきすごく愉快なんです。 ウィンブル・クリック・クランブルチョー・ビルー。クラック・クラック・ビドラック。ナム・ノイズ、フラックルマッチ、チューマナ。ヤーヤーヤー」(27頁) 「バババ、と彼は言いました。そして、ダダダ。そして、ワワワ」(28頁) 「ウィンブル・クリック・クランブルチョー・ビルー。美しいでしょう?」(29頁) 愉快で、美しい言葉? ここはオースターのいたずら心でしょう。 ピーターは言います。 「これは僕には面白い言葉です。神(GOD)を逆さにしたら犬(DOG)になります。でも犬はあんまり神みたいじゃないでしょう? ウーウー。ワンワン。こういうのが犬の言葉です。美しい言葉ですよね。すごくきれいで、本物で。僕の作る言葉みたいに」(33頁) 「ウーウー。ワンワン」が美しい? すごくきれいで、本物だって? うーむ。ピーターさんは狂ってるかも? あるいは神をちゃかしている? 冒涜している? ピーター・スティルマンという名前にも、著者のいたずら心が入っているのでは? スティルマンって、静かな男ですよね。名前と挙動が矛盾する、相反するみたいです。 主人公の名前「ダニエル・クイン」(64頁)のイニシャルD・Qは、 ドン・キホーテのイニシャルD・Qと同じです。 「ある意味で、ドン・キホーテはセルバンテス自身の代役にすぎなかったんじゃないでしょうか」(162頁) この本の中のクインはオースター自身の代役にすぎなかった、と思いました。 そして、クインはペーター・オースターの息子や父親(老人)に変装して、 この本の中に登場していたのかも。 変装して別の人間になるためには、 クインは自分の家では裸になる必要があったのでしょう。 いったん裸になったうえで、「それぞれ思い思いの変装をして」(164頁) 役を演じていたのでしょう。 クインのように、「あれほど変装の術に長(た)けた男にとって」(165頁)、 繰り人形や老人の格好をするくらい訳なかったはずです。 ピーター・スティルマンは、「まだ自分が繰り人形だということはわかっています」(36頁) 「ウィリアム・ウィルソン」という名前も、 メッツのセンター「ムーキー・ウィルソン」の本名だなんて、 「何とも興味深い事実ではないか」(209頁) 文学好きの読者にとって、「ウィリアム・ウィルソン」という名前は、 ミステリー作家としてのクインの筆名「ウィリアム・ウィルソン」(4頁)であってほしい。 野球選手の名前からの着想ではなく。 ウィリアム・ウィルソン著のマックス・ワークシリーズの第一作の本 “Deceit” のタイトルを、 柴田元幸さんは『スクイズプレー』(85頁)と和訳されたようです。 『スクイズプレー』って、野球用語のあの「スクイズ」ですよね。違和感。 探偵小説らしく<詐欺>とかなんとかって訳していただきたかったです。 この『ガラスの街』という小説は、形だけですが探偵小説の形に変装しているんですから。 <付記> オースターには、Paul Benjamin 名義で書いた "Squeeze Play" という小説があるらしい。 | ||||
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| ガラスの街、ニューヨーク。 高層アパートの窓ガラスの数々の、無数のガラス。 無数のガラス窓からあふれる光で、ガラスの街の外は真っ暗闇。星一つない。 四角い窓ガラスの一つ一つの中に、それぞれ別の人間が住んでいる。 それぞれ名前を持って。それぞれ別の人生がある。 ときどき同じ名前もあって間違えられることもあるけれど、 自分と他人が、違うような違わないような、似たような似ていないような、 意味があるような、ないような、別々の人生をおくっている。 そんな窓ガラスと窓ガラスの間に囲まれていると、 自分がどの窓ガラスの中に住んでいるのかさえ見失い、 自分の存在を確認する、名前とか、なにもかも見失ってしまいそう。 誰かを探している私は、誰か、自分の名前さえ確かでなくなって、 他人探しが、自分探しになってしまいそうで。 ニューヨークは、そんな迷路のような街。 整然とした迷路。碁盤の目のような四角い道路が無限に繰り返す、合わせ鏡の迷路。 角をひとつ曲がっただけで、方角さえわからなくなる迷路。 どこもかしこもみんなおんなじ。同じ四角い街並みが繰り返される迷路。 ニューヨークを散歩するとき、永遠に迷子になったような気がする。 どこにいるのか、わからなくなるし、自分までも見失う街。それが快感? ヤーヤーヤー。 子どもの叫び声のような、地下鉄の轟音のような、意味不明な単調な繰り返しの街。 合わせ鏡の中に立っているような気分になる街。 この小説は、著者のオースターさん本人の言葉では、 探偵小説ではない、探偵小説の「形を利用しただけなんだけどなあ」、とのこと (柴田元幸さんの個人的情報より)。 「スティルマン事件」(198頁)は、失踪事件の探偵小説のようでいて、探偵小説ではない。 面白がるにもほどがありますが、なんという、わけわからずの面白さでしょう。 「結局のところ、人が本に求めるのはそれに尽きます――愉しませてくれること」(166頁) わけわかんなくても、面白ければいいのかな? ピーター・スティルマンの「ナンセンスな言葉の連射」(88頁) 「ブーフー。ウィリニリ。ニンコンプープ」(26頁) 「僕はときどきすごく愉快なんです。 ウィンブル・クリック・クランブルチョー・ビルー。クラック・クラック・ビドラック。ナム・ノイズ、フラックルマッチ、チューマナ。ヤーヤーヤー」(27頁) 「バババ、と彼は言いました。そして、ダダダ。そして、ワワワ」(28頁) 「ウィンブル・クリック・クランブルチョー・ビルー。美しいでしょう?」(29頁) 愉快で、美しい言葉? ここはオースターのいたずら心でしょう。 ピーターは言います。 「これは僕には面白い言葉です。神(GOD)を逆さにしたら犬(DOG)になります。でも犬はあんまり神みたいじゃないでしょう? ウーウー。ワンワン。こういうのが犬の言葉です。美しい言葉ですよね。すごくきれいで、本物で。僕の作る言葉みたいに」(33頁) 「ウーウー。ワンワン」が美しい? すごくきれいで、本物だって? うーむ。ピーターさんは狂ってるかも? あるいは神をちゃかしている? 冒涜している? ピーター・スティルマンという名前にも、著者のいたずら心が入っているのでは? スティルマンって、静かな男ですよね。名前と挙動が矛盾する、相反するみたいです。 主人公の名前「ダニエル・クイン」(64頁)のイニシャルD・Qは、 ドン・キホーテのイニシャルD・Qと同じです。 「ある意味で、ドン・キホーテはセルバンテス自身の代役にすぎなかったんじゃないでしょうか」(162頁) この本の中のクインはオースター自身の代役にすぎなかった、と思いました。 そして、クインはペーター・オースターの息子や父親(老人)に変装して、 この本の中に登場していたのかも。 変装して別の人間になるためには、 クインは自分の家では裸になる必要があったのでしょう。 いったん裸になったうえで、「それぞれ思い思いの変装をして」(164頁) 役を演じていたのでしょう。 クインのように、「あれほど変装の術に長(た)けた男にとって」(165頁)、 繰り人形や老人の格好をするくらい訳なかったはずです。 ピーター・スティルマンは、「まだ自分が繰り人形だということはわかっています」(36頁) 「ウィリアム・ウィルソン」という名前も、 メッツのセンター「ムーキー・ウィルソン」の本名だなんて、 「何とも興味深い事実ではないか」(209頁) 文学好きの読者にとって、「ウィリアム・ウィルソン」という名前は、 ミステリー作家としてのクインの筆名「ウィリアム・ウィルソン」(4頁)であってほしい。 野球選手の名前からの着想ではなく。 ウィリアム・ウィルソン著のマックス・ワークシリーズの第一作の本 “Deceit” のタイトルを、 柴田元幸さんは『スクイズプレー』(85頁)と和訳されたようです。 『スクイズプレー』って、野球用語のあの「スクイズ」ですよね。違和感。 探偵小説らしく<詐欺>とかなんとかって訳していただきたかったです。 この『ガラスの街』という小説は、形だけですが探偵小説の形に変装しているんですから。 <付記> オースターには、Paul Benjamin 名義で書いた "Squeeze Play" という小説があるらしい。 | ||||
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| 全ての場所は”自分と等価”になり、自分が街に溶け込む事で、自分が何処にも存在しない”無垢な存在”であると感じることが出来る。彷徨という行為が唯一それを可能にする。彷徨うことで無垢という真理を極めようとする偉人は後を絶たない。全てに絶対的であろうとするアメリカに対し、”ゼロになる事の快感”を実に優雅に描く作品だ。 答えがないのが本当の答えであり、答えというものは絶対的なものでなく抽象的なものであることを前提にした、この奇怪にも思える”推理小説”は、一貫性のない理不尽な展開に落ちていく。お陰で、著者がスターダムにのし上がるきっかけを作った傑作も、当初は17の出版社に断られたという。しかし、主人公である推理作家のクインが、自らが描いた作品の主人公を演じる事で墓穴を掘り、堕ちていく様は異常に興味深く、奇妙なまでに面白い。まさに、オースターが描く推理小説は”かくも奇なり”である。 ”無用な一貫性重視”によって成される大半の安直な大衆受けする”探偵モノ”とは異なり、その”透明感溢れる文章”とアメリカ文学の”伝統を違った形で蘇生させるバリエーション”それに、”端正な音楽的文章”とそれを内から破壊する残酷な要素が絡み合い、より鮮明で透明度の高い作品に仕上ってる。まさに、翻訳者の柴田氏が感心するほどに、オースターは”上質”の作品を産み出し続ける稀有の作家である。 NY三部作の第一作として、オースターの作家人生を決定的なものにする生涯の逸作になるのだが、彼の現在の妻と出会って人生の様相が一変した当時の自分を思い出しながら描いた感動の力作だ。 中長編に属するボリュームだが、まさに読者も本書と共に彷徨し、1つ1つのシーンに溶け込むように一気に読みふけてしまった。クインはどうなるのか、クインを悩ますスティルマンは何者なのか、クインが密かに想いを寄せるバージニアは、その諸々が全てがどうでもよくなっていく。全ては無垢に、そしてゼロに落ち着くのだ。 この作品は、”無垢”というテーマが前提になってるから、非常に透明度が高く、目の前に現れる景色の先の先まで見通せる気分になる。余りに爽快な心持ちになるから、物語の展開とか著者の意図とか殆ど気にならなくなる。一方で、内側から抉るような破滅的な展開の組合せがこの作品のもう一つの魅力と言っていい。 柴田氏は、この作品を一言で”ゼロになる事の快感”としてるが、”無垢になる事の快楽”と言い換えても失礼には当たらないだろう。この本を読み終えた時、長年、心の奥深くに幽閉された諸々の沈殿物がキレイに払拭されたような気分になった。しかし、いい意味でアメリカ文学の伝統を打ち破る形となった作品だが、そもそも”無垢”という言葉は、シンプル・イズ・ベストを地で行くアメリカのもう一つの誇り高き伝統なのだ。翻訳者の柴田氏と同様、この作品を手にした読者はつくづく幸せ者だと思う。まさに、無垢は偉大なりである。 | ||||
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| ポール・オースターのことを全く知らず、探偵もののミステリー小説だと思い読み始めたので、後半からのカミュなどの作品を彷彿とさせる不条理な展開は良い意味で期待を裏切られました。デビュー作ということで荒削りというか、途中やや冗長に感じられるところなどもありましたが、他の作家とは一味違った新鮮さが感じられる作品で、この作家の他の作品もぜひ読んでみたいという気持ちになりました。純文学が好きな方は楽しめると思います。 | ||||
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| ポール・オースターのことを全く知らず、探偵もののミステリー小説だと思い読み始めたので、後半からのカミュなどの作品を彷彿とさせる不条理な展開は良い意味で期待を裏切られました。 デビュー作ということで荒削りというか、途中やや冗長に感じられるところなどもありましたが、他の作家とは一味違った新鮮さが感じられる作品でした。 この作家の他の作品もぜひ読んでみたいと思います。 純文学が好きな方は楽しめると思います。 | ||||
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| 当初、邦訳が日本でリリースされた時、ミステリーとして紹介されたことに訳者の柴田センセは、解説でえらく憤慨しているようだが、この作品、確かにミステリ仕立てではある。 「私」は、ウイリアム・ウイルソン名義で探偵マックス・ワークを駆り立て盛り立てているミステリ作家ダニエル・クインと純文学作家(?)ポール・オースターの共通の友人である。その「私」が語っているんだから、そのように、どのように、いかように思われても、まあ、仕方のないことだ。 クライアントの夫、ピーター・スティルマンと同じ名前を持つピーター・スティルマン教授のキリスト教原理主義的な「天地創造」説話もなかなか面白いし、さらには英語の言葉遊びは外国人読者としての日本人が読むに際して、これまた興味が深くなかなか面白い。 「幽霊たち」「鍵のかかる部屋」と続くニューヨーク三部作の第一作目ということで、これが日本デビュー作みたいなものだけど、この作家は、当初から凄かったんだな。 日本では、今や、英語の教本にも使えるようなテキストも出しているので、これはこれでお勉強になる。 | ||||
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| 当初、邦訳が日本でリリースされた時、ミステリーとして紹介されたことに訳者の柴田センセは、解説でえらく憤慨しているようだが、この作品、確かにミステリ仕立てではある。 「私」は、ウイリアム・ウイルソン名義で探偵マックス・ワークを駆り立て盛り立てているミステリ作家ダニエル・クインと純文学作家(?)ポール・オースターの共通の友人である。その「私」が語っているんだから、そのように、どのように、いかように思われても、まあ、仕方のないことだ。 クライアントの夫、ピーター・スティルマンと同じ名前を持つピーター・スティルマン教授のキリスト教原理主義的な「天地創造」説話もなかなか面白いし、さらには英語の言葉遊びは外国人読者としての日本人が読むに際して、これまた興味が深くなかなか面白い。 「幽霊たち」「鍵のかかる部屋」と続くニューヨーク三部作の第一作目ということで、これが日本デビュー作みたいなものだけど、この作家は、当初から凄かったんだな。 日本では、今や、英語の教本にも使えるようなテキストも出しているので、これはこれでお勉強になる。 | ||||
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| 刊行されるまで17の出版社に出版を断られたのだそうだ。この作品の話である。 ある日の夜、物書きを生業とするひとりの男性の家に電話がかかってくる。男性とは違う人物、探偵を探しているという間違い電話だ。 「自分はそんな者ではない」。男性は電話を切る。しかし、電話は以降もかかってくる。次第に興味が沸いてきた男性は、ある日電話をとって言う。そうです、と。私があなたが探しているその人です、と。 その後、物語は主人公に電話をかけてきた人物をめぐる事件を追うかたちで展開していく。その過程で、主人公は「自己と他者」「言葉とその意味」といった、思索的、文学的なテーマと衝突する。 これらの要素はポール・オースターの作品には頻出するものだが、エンターテインメントとして見ればおそらく異質であり、出版を断られたのはこの点が受け入れられなかったかもしれない。 ではこの作品は「面白くない」のかというと、けっしてそうではない。訳者の柴田さんが解説でおっしゃっているように、『ガラスの街』は「ふつうに面白く」、とてもスリリングな時間を読み手に提供してくれる作品であると思う。 思索的であると同時にスリリングであるとはどういうことか。 まず、くだくだと書かれた小難しい理論の部分とは別に、お話の展開そのものが興味をそそるということが挙げられる。作中でも「醜悪な解答」と表現された、主人公がある人物の調査中に発見したとある事実のショッキングさは、文学的な議論とは関係なく、読み手に強いインパクトを与えるはずだ。 もうひとつ、しかし、そのくだくだしい部分が深められていく様子こそが面白いということもある。 「自分が」「誰かを」「観察し」「それを言葉にして残すとはどういうことか」。こうした問題について考えることで主人公の意識が変容し、どこかに自分を連れていってしまうその様子、道程が、読んでいてとても続きを気にさせたし、興奮させられた。 喪失と希望の獲得。あるいは、何かを対価として、どこか、おそらくは境地とか破滅とかそういう言葉で表されるべき決定的などこかにたどりつくこと。実は、本作に描かれているのは物語として異質どころか、ありふれた一つのフォーマットである。そこに思索的な要素を含め、かつ読んでいてスリリングな内容に仕立てられているとなれば、それは一級品と呼ぶしかない。最後まで読んで不可解と感じる人がいるだろうことは否定しないけど、本作の結びの一文に強く同調しつつ、何がしかの感慨とともに読むのを終える人もたくさんいるだろう。このレビューがそんな人たちの一助になれば嬉しい。 | ||||
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| 刊行されるまで17の出版社に出版を断られたのだそうだ。この作品の話である。 ある日の夜、物書きを生業とするひとりの男性の家に電話がかかってくる。男性とは違う人物、探偵を探しているという間違い電話だ。 「自分はそんな者ではない」。男性は電話を切る。しかし、電話は以降もかかってくる。次第に興味が沸いてきた男性は、ある日電話をとって言う。そうです、と。私があなたが探しているその人です、と。 その後、物語は主人公に電話をかけてきた人物をめぐる事件を追うかたちで展開していく。その過程で、主人公は「自己と他者」「言葉とその意味」といった、思索的、文学的なテーマと衝突する。 これらの要素はポール・オースターの作品には頻出するものだが、エンターテインメントとして見ればおそらく異質であり、出版を断られたのはこの点が受け入れられなかったかもしれない。 ではこの作品は「面白くない」のかというと、けっしてそうではない。訳者の柴田さんが解説でおっしゃっているように、『ガラスの街』は「ふつうに面白く」、とてもスリリングな時間を読み手に提供してくれる作品であると思う。 思索的であると同時にスリリングであるとはどういうことか。 まず、くだくだと書かれた小難しい理論の部分とは別に、お話の展開そのものが興味をそそるということが挙げられる。作中でも「醜悪な解答」と表現された、主人公がある人物の調査中に発見したとある事実のショッキングさは、文学的な議論とは関係なく、読み手に強いインパクトを与えるはずだ。 もうひとつ、しかし、そのくだくだしい部分が深められていく様子こそが面白いということもある。 「自分が」「誰かを」「観察し」「それを言葉にして残すとはどういうことか」。こうした問題について考えることで主人公の意識が変容し、どこかに自分を連れていってしまうその様子、道程が、読んでいてとても続きを気にさせたし、興奮させられた。 喪失と希望の獲得。あるいは、何かを対価として、どこか、おそらくは境地とか破滅とかそういう言葉で表されるべき決定的などこかにたどりつくこと。実は、本作に描かれているのは物語として異質どころか、ありふれた一つのフォーマットである。そこに思索的な要素を含め、かつ読んでいてスリリングな内容に仕立てられているとなれば、それは一級品と呼ぶしかない。最後まで読んで不可解と感じる人がいるだろうことは否定しないけど、本作の結びの一文に強く同調しつつ、何がしかの感慨とともに読むのを終える人もたくさんいるだろう。このレビューがそんな人たちの一助になれば嬉しい。 | ||||
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| 間違い電話を受けた主人公が電話の依頼―探偵―を請け負うことから始まるこの小説は、かなり凝った仕立てになっている。 ペンネームを使っている作家が自作に登場する探偵と自分を重ねて行動するのをオースターなる人物(著者とは別人)の友人が語るという小説をオースターが書いている。 物語の展開も振り子のようになっている。電話の主=依頼者の言語機能・身体機能。依頼者をその状態にした男(探偵のターゲット)が街を彷徨うような行動。その男の奇妙な言語論。ここまでミステリー仕立てで進んできて、オースターなる人物が登場する。彼のドン・キホーテにまつわる物語論。その後、主人公は街を彷徨い始め、やがて見張りを続けながら喋ること・動くことをしなくなる。そして最後は依頼者のアパートメントへ。 物語るとはどういうことか。物語る際に使う言葉とは何か。物語る者とは誰か。物語る自己とは何か。 読み進めるうちに語られている内容の豊饒さとは逆に自分が揺らいでいく、薄まっていく感覚が募る。しかし、不思議なことに読み終えたときに残るのは寂寥感、絶望感ではなく、なにかに包まれている感じ。ちょっと違うかもしれないが、仏教的な無/全とはこんな感覚ではないか。 こんなことを読後の感想として書いてきたが、けっして小難しい実験的な小説ではなく、次のページ次のページへと自然と指が動く、とても面白い小説でした。 | ||||
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| 間違い電話を受けた主人公が電話の依頼―探偵―を請け負うことから始まるこの小説は、かなり凝った仕立てになっている。 ペンネームを使っている作家が自作に登場する探偵と自分を重ねて行動するのをオースターなる人物(著者とは別人)の友人が語るという小説をオースターが書いている。 物語の展開も振り子のようになっている。電話の主=依頼者の言語機能・身体機能。依頼者をその状態にした男(探偵のターゲット)が街を彷徨うような行動。その男の奇妙な言語論。ここまでミステリー仕立てで進んできて、オースターなる人物が登場する。彼のドン・キホーテにまつわる物語論。その後、主人公は街を彷徨い始め、やがて見張りを続けながら喋ること・動くことをしなくなる。そして最後は依頼者のアパートメントへ。 物語るとはどういうことか。物語る際に使う言葉とは何か。物語る者とは誰か。物語る自己とは何か。 読み進めるうちに語られている内容の豊饒さとは逆に自分が揺らいでいく、薄まっていく感覚が募る。しかし、不思議なことに読み終えたときに残るのは寂寥感、絶望感ではなく、なにかに包まれている感じ。ちょっと違うかもしれないが、仏教的な無/全とはこんな感覚ではないか。 こんなことを読後の感想として書いてきたが、けっして小難しい実験的な小説ではなく、次のページ次のページへと自然と指が動く、とても面白い小説でした。 | ||||
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| 本書は今から10年以上前にアメリカで出版された作品で,今更こんなことをいうのもおかしな話ですが,本書は「圧倒的に新しい」,そう感じさせてくれる作品です。 オースターの作品は,本書とあわせてニューヨーク三部作と呼ばれる「幽霊たち」「鍵のかかった部屋」を先に読んでおり,また「最後の物たちの国で」「ムーンパレス」「幻影の書」といった作品も傑作でしたが,この「ガラスの街」には,前述の作品とは違った,オースターのデビュー作ならではの「新しさ」を感じたのです。 作品を積み重ねるうちに作家の技巧は上達し,小説の完成度という意味で,「幻影の書」は本当にすばらしい作品でした。それと比較すると,本書の物語は理不尽なスタートを切り,呆気にとられてしまうほど,理不尽に展開していきます。 それでも本書は面白い。 特に謎の人物ピーター・スティルマンの登場シーンは,とてつもなく可笑しいながらも物語のスジが見えた瞬間ゾクリとさせられる名シーンです。 訳者あとがきによれば,本書が出版されるまでには17社の出版社から出版を断れたといいます。それは,本書を「新しい文学」と感じるか,ミステリー的な結論を求め,小説の体をなしていないととらえるかの違いなのかもしれません。 幸いなことに,本書は多くの読者に受け入れられ,ポール・オースターは現代アメリカを代表する優れた作家としての確固たる地位を獲得しました。現在では,本書を含めたニューヨーク三部作は,世界文学ベスト100に選ばれるほどの評価を得ています。 どこか現実感と非現実感が融合したような世界観の中,「結局偶然以外何ひとつリアルなものはないのだ」と主人公によって述べられる本作は,簡潔な文章で読みやすく,かつユーモアも感じられる良質な作品です。 | ||||
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| 本書は今から10年以上前にアメリカで出版された作品で,今更こんなことをいうのもおかしな話ですが,本書は「圧倒的に新しい」,そう感じさせてくれる作品です。 オースターの作品は,本書とあわせてニューヨーク三部作と呼ばれる「幽霊たち」「鍵のかかった部屋」を先に読んでおり,また「最後の物たちの国で」「ムーンパレス」「幻影の書」といった作品も傑作でしたが,この「ガラスの街」には,前述の作品とは違った,オースターのデビュー作ならではの「新しさ」を感じたのです。 作品を積み重ねるうちに作家の技巧は上達し,小説の完成度という意味で,「幻影の書」は本当にすばらしい作品でした。それと比較すると,本書の物語は理不尽なスタートを切り,呆気にとられてしまうほど,理不尽に展開していきます。 それでも本書は面白い。 特に謎の人物ピーター・スティルマンの登場シーンは,とてつもなく可笑しいながらも物語のスジが見えた瞬間ゾクリとさせられる名シーンです。 訳者あとがきによれば,本書が出版されるまでには17社の出版社から出版を断れたといいます。それは,本書を「新しい文学」と感じるか,ミステリー的な結論を求め,小説の体をなしていないととらえるかの違いなのかもしれません。 幸いなことに,本書は多くの読者に受け入れられ,ポール・オースターは現代アメリカを代表する優れた作家としての確固たる地位を獲得しました。現在では,本書を含めたニューヨーク三部作は,世界文学ベスト100に選ばれるほどの評価を得ています。 どこか現実感と非現実感が融合したような世界観の中,「結局偶然以外何ひとつリアルなものはないのだ」と主人公によって述べられる本作は,簡潔な文章で読みやすく,かつユーモアも感じられる良質な作品です。 | ||||
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| 大都市圏のマンションに住めば、隣の住人が誰で何をしているかなんてことがわからないのは、もはや常識だ。 ネットで出会った人のプロフィールが全部真実だなんて想像は妄想に近いし、署名記事だって、ホントにその人が書いたのかわからない。 そんな時代に生きる我々の、無意識的な不安を、この本でオースターは描き切ったと思う。 この本で特徴的なのは、ナレーター役の人物以外が全て「非対称なコミュニケーション」を取っていることだ。 コミュニケーションをキャッチボールとするならば、あたかも全員が別の方向にボールを投げて、しかも全員がボールをキャッチした気になっているような状態。 読了して驚くのは、登場人物達のあり得ない希薄感だ。 どんな人物が作中に登場したのかは明確に覚えている。しかし、そのどれもが本当にその人物だったのか定かではない。 それぞれ作中では重要なロールを果たしていた筈なのに、全てが完結した後、そのどれもが特に重要でなかったことに気づく。 コミュニケーションにおける明確な断絶性と、それを際立たせるような、オースター特有のアクの強さ。 何日かに別けて読みたい本です。 | ||||
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