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陪審法廷
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陪審法廷の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.75pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全4件 1~4 1/1ページ
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著書の内容や法廷サスペンスとしての評価については他の方のレビューがあるのでそちらには触れず、敢えて別の視点から評価してみたい。 私がこの著書に抱く詰めの甘さ(?)は、「陪審制度とは何のためにあるのか?」という問に対する答えである。ストーリーに登場するユキエが言うように、それは法という無機質なシステムに人間の「心情」を反映するための制度である・・・と、著者はおそらく考えているのであろう。それを陪審制度の中に読み込もうという視点は、一つの正解ではある。が、はっきり言って短絡的過ぎる。 アメリカにおいて、陪審制度が導入された最大の理由は、合衆国市民に根付く「権力への懐疑」である。アメリカはその建国当初から「権力」、特に「国家権力」に対する不信感を持つ。これは、君主制をとろうが民主制を取ろうが権力をもった人間はいつか腐敗するという経験則に基づいている。 そして本書で登場する法廷や裁判官・・・すなわち「裁判所」も、「国家権力の一翼」を担っているのである。ゆえに、陪審制度を用いて合衆国市民は「裁判所」による法の恣意的な解釈や法の濫用という「権力の暴走」を防止しようとしたのである。これは、アメリカ連邦最高裁の判例で実際に述べられていることでもある。そして陪審制度が生み出されたイギリスでもこれは同様である。 本書ではこうした陪審制度の歴史的背景がすっぽり抜け落ちているように見受けられる。実はこの点は、日本に陪審制度が合うかどうかの重要論点の一つでもあり、ここが抜け落ちているのはなんとも痛い。 勿論、著者の答えも間違いなのではない。例えばダニエル・H・フットは、著作の中で法適用の判断基準に社会的感覚(市民の一般常識)を反映させる役割があると述べている。この点、主人公の行為が「正当防衛」にあたるかもしれないというくだりは、興味深い。だが、主人公に対する「同情」を反映するかどうかは、また別の問題である。 法は、「ルール」として機能しなければならない。ルールがその背景にある目的に合わせて作られる事は確かだが、一度ルールとして制定された以上、その背景にある目的をみてルールの適用・不適用を決めてはならない。それでは、ルールを執行する側の個人的な思想・感情等によって運用される事になり、ルールは極めて不安定になり流動化する。つまりルールとして機能を失うのである。 ケースバイケースというと社会においては何かと好意的に受け取られるが、こと法の世界においてそれは最終手段なのである。何と言っても法は、人を拘束することができる「権力行使」の最も顕著な姿だからである。これが不安定に運用される事ほど、怖い事は無い。 本書のストーリーに戻ってみよう。 殺人罪の目的を「正常な判断が出来る人が、罪なき人を殺す行為は市民にとって有害であるから罰しなければならない」と仮定すると、その目的に照らすと主人公の行為は「殺人罪」に当たらないのではないか?そうした結論が、おそらく陪審員たちの主人公やパメラに対する「同情」から湧き上がっているのである。それを法解釈に吹き込むとしたら、それはまさしく法の流動化である。 勿論、法は万能ではなく、時に本書のような「不都合な結果」を生み出す。だがそれは陪審員の不安定な「心情」ではなく、ルールの変更で対処すべき事柄である。つまりユキエが常々感じている「アメリカでは有罪と無罪の差がありすぎる」という点にこそ真の問題点があるのである。その点だけを取れば、実のところ日本特有の「灰色」はアメリカよりもより細かくルールを設定していると見ることもでき、悪いとばかりもいえない。 本書の背景には、そうした法=ルールとは何か?という根源的な問題が潜んでいるように思う。 当然のことながら、著者は本書の結論が必ずしも正しいとは思っていないであろうし、私の視点も必ず正しいわけではない。この「法」が抱える永遠の問題を取り上げた著者には敬服する。おそらく、この本を手に取った人々の殆どが「法」そして「裁判」とは何か?を考える良いきっかけになったのではないだろうか。その点を加味して、評価は☆3としました。 | ||||
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もうすぐ始まる、裁判員制度にぴったりの話題。 これはアメリカの陪審員制度についてのフィクションのミステリーとなっている。 裁判は、医者の夫婦が子供が出来なくて、養女を取り、表面上はうまく行っていたが、奥さんが外出すると必ず父親からレイプされていた…女の子が、自分の好きな人にその秘密を打ち明ける。その青年が養父の医者を拳銃で撃ち殺してしまい、現行犯で逮捕。最初は黙秘するが、女の子がすべてを話したので実際の裁判では、殺したことについては争われず、その男の子が有罪か無罪か…という事について、検事側の言い分、弁護士側の言い分、陪審員に選ばれた一般市民12人の言い分が書かれている。 日本だと、絶対に有罪で、ただ情状酌量とか、執行猶予とかの「情」的な判決が出るのだが、アメリカは、殺人となると一級か二級の判断で、最低でも25年間の懲役が待ち構えている。この裁判の結論は、有罪か無罪かの判断しか求められず、刑期に関しては決定権がない。 その医師が一番悪いという事は誰もがわかっているのだが、かといって人を殺してい良いのか? ただ自業自得という事にすると、その青年は人を殺したのに何の咎めもないのか?というやり取りが繰り広げられる。 最初は12名中9名が有罪、2名が無罪、1名が保留という状況から、違った結論に至るまでの議論が大変考えさせられて、もし自分がその場にいたら、どんな事を発言しているのだろう…と考えながら読めるし、もし自分が今後裁判員制度で呼ばれたら…とかいろいろ考えてしまう。 人を裁くのは大変な事で、本当はこんな事件などがない世の中になれば一番いいのだが…。 | ||||
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私は小説や映画に、実際にはありえないようなこねくり回したストーリー性を求めるので、このような平坦で、ラストも読めてしまうような小説は物足りなかった。 何をもって被疑者に背負わせる罪の重さを判断するのか? 本書の舞台となっているアメリカでは、量刑判断は許されてはいないとは言え、その判断に量刑の軽重は加味される蓋然性はあろうし、それを制度も潜在的に求めているのかもしれない。 陪審員や裁判員に本書のような良心的な人がなるのかどうか、とても疑問ではあるが、読み始める前も後もそれを願わずにはいられない。 人が人を裁くには無理が必ず生じ、職業裁判官であるからこそ上司(最高裁)の顔色を伺いながら(10年毎の任官、3号俸問題もあり)、判決を書かざるを得ない日本の裁判。 市民が選ばれる意味合いを考え、理解しなければ裁判員を受けるべきではないとも思う。 本書では論じられていないが、冤罪の場合の苦しみも、本書の鍵となる言葉をもってすれば、想像できようから。 | ||||
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楡周平氏の『Cの福音』をはじめとする朝倉シリーズをイメージしていると、やや肩透かし。リーガルサスペンスとしても、隠れた動機や思いがけない事実といったものとは無縁で、ひたすら淡々と話が進んでいく。それでも最後まで一気に読んでしまったのは、読者に、陪審制度がどれだけの重みを持ったシステムかを考えさせながら読ませるため。我が国でも近く実現する裁判員制度を決して軽く考えてはいけないと改めて自身の価値観を問われる。手放しで賛成していた自分を反省。事実審理がやや過激かもしれないが、中学生や高校生に読んでほしいと思った。 | ||||
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