回転木馬のデッド・ヒート

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回転木馬のデッド・ヒートの評価:

4.37/5点 レビュー 62件。 C ランク

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全102件 41〜60 3/6ページ
No.62
(5pt)

「レーダー・ホーゼン: 肩紐付き半ズボン」 の話が何故記憶の表面に残るのか?

物語を読んで、固く脳の記憶素子に刻まれて、なにか機会あるごとに、簡単に、記憶の前面に出てくるものがある。 そんな作品の代表的なもののひとつが村上の「レーダーホーゼン」 です。 話の筋をここに書いてもこれからこの作品に触れるひとに何がしかの障害(不利益)を及ぼすことは殆ど心配する必要は無いと思う。とにかく「摩訶不思議なお話し」なのです。

 ひとりでのドイツ旅行を思い立った中年婦人が、日本にいる夫に頼まれた 「レーダーホーゼン」 を買う。その際に、夫に似た体形の人を連れて行かなくてはならないという店舗側の条件がつき、婦人の努力も有り、無事夫と類似の体系の男と共に店に行き 「レーダーホーゼン」 を注文する (無事注文できた)・・・・・そして婦人は夫と離婚する決意を持ってしまった。

「レーダー・ホーゼン」 は日本人の様な体型のひとが着ると、ただの 「マヌケ」 にしか見えない (私の偏見)。 そんなものを、わざわざ身につけようと思う夫の感性 (精神性) に許すことのできない苛立ちを感じてしまった。 それと同時に、「ああ!? 実は、自分は夫を愛していなかったんだわ・・・・」 という心のトリガー・スイッチも100%オン (off はありえない) になってしまった。 男女双方にありうるが、どちらかというと男にとって、より怖いお話し? 女性の感情 「嫌い、気持ち悪い!!」 が訂正されることは絶対ありません。

【類例】
レーダーホーゼンではないが、TVでの映像で、白いキャップの半ズボン姿で、あろうことか仲良く首元にタオルを巻き、ゴルフに興じている中高年の男性を見かけることがあるが、あれをみて奥様が 「あら、うちの主人って意外とカッコよかったのね」 と惚れ直す人がどれくらいいるだろうか・・・・・・その逆は沢山いると思いますが。
お笑いの勝俣州和さん、トレンディー・エンジェルの斉藤さんでない背の低い方、少なくとも良いイメージではない半ズボン映像として脳にいつまでも残ります。
回転木馬のデッド・ヒート (講談社文庫) Amazon書評・レビュー: 回転木馬のデッド・ヒート (講談社文庫)より
4061843192
No.61
(5pt)

「レーダー・ホーゼン: 肩紐付き半ズボン」 の話が何故記憶の表面に残るのか?

物語を読んで、固く脳の記憶素子に刻まれて、なにか機会あるごとに、簡単に、記憶の前面に出てくるものがある。 そんな作品の代表的なもののひとつが村上の「レーダーホーゼン」 です。 話の筋をここに書いてもこれからこの作品に触れるひとに何がしかの障害(不利益)を及ぼすことは殆ど心配する必要は無いと思う。とにかく「摩訶不思議なお話し」なのです。

 ひとりでのドイツ旅行を思い立った中年婦人が、日本にいる夫に頼まれた 「レーダーホーゼン」 を買う。その際に、夫に似た体形の人を連れて行かなくてはならないという店舗側の条件がつき、婦人の努力も有り、無事夫と類似の体系の男と共に店に行き 「レーダーホーゼン」 を注文する (無事注文できた)・・・・・そして婦人は夫と離婚する決意を持ってしまった。

「レーダー・ホーゼン」 は日本人の様な体型のひとが着ると、ただの 「マヌケ」 にしか見えない (私の偏見)。 そんなものを、わざわざ身につけようと思う夫の感性 (精神性) に許すことのできない苛立ちを感じてしまった。 それと同時に、「ああ!? 実は、自分は夫を愛していなかったんだわ・・・・」 という心のトリガー・スイッチも100%オン (off はありえない) になってしまった。 男女双方にありうるが、どちらかというと男にとって、より怖いお話し? 女性の感情 「嫌い、気持ち悪い!!」 が訂正されることは絶対ありません。

【類例】
レーダーホーゼンではないが、TVでの映像で、白いキャップの半ズボン姿で、あろうことか仲良く首元にタオルを巻き、ゴルフに興じている中高年の男性を見かけることがあるが、あれをみて奥様が 「あら、うちの主人って意外とカッコよかったのね」 と惚れ直す人がどれくらいいるだろうか・・・・・・その逆は沢山いると思いますが。
お笑いの勝俣州和さん、トレンディー・エンジェルの斉藤さんでない背の低い方、少なくとも良いイメージではない半ズボン映像として脳にいつまでも残ります。
回転木馬のデッド・ヒート Amazon書評・レビュー: 回転木馬のデッド・ヒートより
406201839X
No.60
(5pt)

「レーダーボーデン: 肩紐付き半ズボン」 の話が何故記憶の表面に残るのか?

物語を読んで、固く脳の記憶素子に刻まれて、なにか機会あるごとに、簡単に、記憶の前面に出てくるものがある。 そんな作品の代表的なもののひとつが村上の 「レーダーボーデン」 です。 話の筋をここに書いてもこれからこの作品に触れるひとに何がしかの障害(不利益)を及ぼすことは殆ど心配する必要は無いと思う。とにかく「摩訶不思議なお話し」なのです。
ひとりでのドイツ旅行を思い立った中年婦人が、日本にいる夫に頼まれた 「レーダーボーデン」 を買う。その際に、夫に似た体形の人を連れて行かなくてはならないという店舗側の条件がつき、婦人の努力も有り、無事夫と類似の体系の男と共に店に行き 「レーダーボーデン」 を注文する (無事注文できた)・・・・・そして婦人は夫と離婚する決意を持ってしまった。

「レーダーボーデン」 は日本人の様な体型のひとが着ると、ただの 「マヌケ」 にしか見えない (私の偏見)。 そんなものを、わざわざ身につけようと思う夫の感性 (精神性) に許すことのできない苛立ちを感じてしまった。 それと同時に、「実は、自分は夫を愛していなかったのでは」 という心のトリガー・スイッチも100%オン (off はありえない) になってしまった。 男女双方にありうるが、どちらかというと男にとって、より怖いお話し?
回転木馬のデッド・ヒート (講談社文庫) Amazon書評・レビュー: 回転木馬のデッド・ヒート (講談社文庫)より
4062749068
No.59
(4pt)

つきものが落ちる瞬間

自分よりも一回りくらい若い人のすすめで読む。読者が作家とともに年をとることなく、どんどん世代交代していくところが村上春樹のすごいところだと思う。何人かで話をしているときその青年が「35歳問題」について語ったのが印象的で、あとから聞いたら村上春樹の「プールサイド」という短編小説があって……と教えてくれた。短編集の3番目に収録されているその小説は「35歳になった春、彼は自分が既に人生の折り返し点を曲がってしまったことを確認した」という一文で始まる。ぜんぶで8編おさめられているが、「レーダーホーゼン」「タクシーに乗った男」「野球場」あたりがよかった。どれも人生の思いもかけない時点で「つきものが落ちる」話のように読めた。人生のフェースが変わるその瞬間はときにドラマチックであるが、往々にしてそうではない。

――10分後に妻がアイロンがけを終えて彼のそばにやってきた時、彼はもう泣き止んでいた。(プールサイド)
――三十分ほどでその作業が終ったとき、母は父親と離婚することを決心していた。(レーダーホーゼン)
――彼女の中のその揺れが収まった時、彼女の中の何かが永遠に消えた。(タクシーに乗った男)
――まるでつきものが落ちるみたいに、そういう欲求がなくなってしまったんです。(野球場)

でもこれで終わりではなく、主人公たちはまた思いもかけないときに別のフェーズに入っていくのだろう。でも実際のところどこにも行かない。そのことを村上は「定まった場所を定まった速度で巡回しているだけの」メリーゴーランドに喩えている。このタイトルは何かの映画のタイトルだとも聞いたが。

読みながら自分にも「つきものが落ちる」瞬間があったなあと思い出したが、やはりそれは何か特別なことがあったからというわけではなく、ある人が何気なく発した一言だった。それはその人がいつも言っているなんということもないことだったのに、そのときだけ「あれっ」と思った。たったそれだけのことだった。怒りや悲しみといった強い感情はなく違和感だけがあった。それからしばらくして(35歳よりずっと上の)節目の誕生日を前にしたあるときから、悲しみがぺっとりと貼りついたような心境になった。一人でいても人と会っていてもそのぺっとりと貼りついた悲しみが去らない。このフェーズからふと抜ける日が来るのだろうか。来ても来なくても降りるわけにはいかない回転木馬。

『回転木馬のデッドヒート』は単行本として出たのが1985年。『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』と同じ年だ。その2年後に『ノルウェイの森』が出版される。村上は「はじめに」で、どうしても小説に使いきれない「おりのようなもの」をこの短編集におさめたと書いている。本書から約30年後、2014年刊の短編集『女のいない男たち』は作家「村上さん」はかなり後ろにひっこんでいるが、やはり彼の感性の網にひっかかった「おりのようなもの」で書かれているように思う。なんとなく似てくるのは同じ網だからなんだろう。同じような話でも、読書体験自体が心地いいのはその「おり」の純度を高める言葉の技術をこの人が持っているからなのだと思う。
回転木馬のデッド・ヒート (講談社文庫) Amazon書評・レビュー: 回転木馬のデッド・ヒート (講談社文庫)より
4061843192
No.58
(4pt)

つきものが落ちる瞬間

自分よりも一回りくらい若い人のすすめで読む。読者が作家とともに年をとることなく、どんどん世代交代していくところが村上春樹のすごいところだと思う。何人かで話をしているときその青年が「35歳問題」について語ったのが印象的で、あとから聞いたら村上春樹の「プールサイド」という短編小説があって……と教えてくれた。短編集の3番目に収録されているその小説は「35歳になった春、彼は自分が既に人生の折り返し点を曲がってしまったことを確認した」という一文で始まる。ぜんぶで8編おさめられているが、「レーダーホーゼン」「タクシーに乗った男」「野球場」あたりがよかった。どれも人生の思いもかけない時点で「つきものが落ちる」話のように読めた。人生のフェースが変わるその瞬間はときにドラマチックであるが、往々にしてそうではない。

――10分後に妻がアイロンがけを終えて彼のそばにやってきた時、彼はもう泣き止んでいた。(プールサイド)
――三十分ほどでその作業が終ったとき、母は父親と離婚することを決心していた。(レーダーホーゼン)
――彼女の中のその揺れが収まった時、彼女の中の何かが永遠に消えた。(タクシーに乗った男)
――まるでつきものが落ちるみたいに、そういう欲求がなくなってしまったんです。(野球場)

でもこれで終わりではなく、主人公たちはまた思いもかけないときに別のフェーズに入っていくのだろう。でも実際のところどこにも行かない。そのことを村上は「定まった場所を定まった速度で巡回しているだけの」メリーゴーランドに喩えている。このタイトルは何かの映画のタイトルだとも聞いたが。

読みながら自分にも「つきものが落ちる」瞬間があったなあと思い出したが、やはりそれは何か特別なことがあったからというわけではなく、ある人が何気なく発した一言だった。それはその人がいつも言っているなんということもないことだったのに、そのときだけ「あれっ」と思った。たったそれだけのことだった。怒りや悲しみといった強い感情はなく違和感だけがあった。それからしばらくして(35歳よりずっと上の)節目の誕生日を前にしたあるときから、悲しみがぺっとりと貼りついたような心境になった。一人でいても人と会っていてもそのぺっとりと貼りついた悲しみが去らない。このフェーズからふと抜ける日が来るのだろうか。来ても来なくても降りるわけにはいかない回転木馬。

『回転木馬のデッドヒート』は単行本として出たのが1985年。『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』と同じ年だ。その2年後に『ノルウェイの森』が出版される。村上は「はじめに」で、どうしても小説に使いきれない「おりのようなもの」をこの短編集におさめたと書いている。本書から約30年後、2014年刊の短編集『女のいない男たち』は作家「村上さん」はかなり後ろにひっこんでいるが、やはり彼の感性の網にひっかかった「おりのようなもの」で書かれているように思う。なんとなく似てくるのは同じ網だからなんだろう。同じような話でも、読書体験自体が心地いいのはその「おり」の純度を高める言葉の技術をこの人が持っているからなのだと思う。
回転木馬のデッド・ヒート Amazon書評・レビュー: 回転木馬のデッド・ヒートより
406201839X
No.57
(4pt)

つきものが落ちる瞬間

自分よりも一回りくらい若い人のすすめで読む。読者が作家とともに年をとることなく、どんどん世代交代していくところが村上春樹のすごいところだと思う。何人かで話をしているときその青年が「35歳問題」について語ったのが印象的で、あとから聞いたら村上春樹の「プールサイド」という短編小説があって……と教えてくれた。短編集の3番目に収録されているその小説は「35歳になった春、彼は自分が既に人生の折り返し点を曲がってしまったことを確認した」という一文で始まる。ぜんぶで8編おさめられているが、「レーダーホーゼン」「タクシーに乗った男」「野球場」あたりがよかった。どれも人生の思いもかけない時点で「つきものが落ちる」話のように読めた。人生のフェースが変わるその瞬間はときにドラマチックであるが、往々にしてそうではない。

――10分後に妻がアイロンがけを終えて彼のそばにやってきた時、彼はもう泣き止んでいた。(プールサイド)
――三十分ほどでその作業が終ったとき、母は父親と離婚することを決心していた。(レーダーホーゼン)
――彼女の中のその揺れが収まった時、彼女の中の何かが永遠に消えた。(タクシーに乗った男)
――まるでつきものが落ちるみたいに、そういう欲求がなくなってしまったんです。(野球場)

でもこれで終わりではなく、主人公たちはまた思いもかけないときに別のフェーズに入っていくのだろう。でも実際のところどこにも行かない。そのことを村上は「定まった場所を定まった速度で巡回しているだけの」メリーゴーランドに喩えている。このタイトルは何かの映画のタイトルだとも聞いたが。

読みながら自分にも「つきものが落ちる」瞬間があったなあと思い出したが、やはりそれは何か特別なことがあったからというわけではなく、ある人が何気なく発した一言だった。それはその人がいつも言っているなんということもないことだったのに、そのときだけ「あれっ」と思った。たったそれだけのことだった。怒りや悲しみといった強い感情はなく違和感だけがあった。それからしばらくして(35歳よりずっと上の)節目の誕生日を前にしたあるときから、悲しみがぺっとりと貼りついたような心境になった。一人でいても人と会っていてもそのぺっとりと貼りついた悲しみが去らない。このフェーズからふと抜ける日が来るのだろうか。来ても来なくても降りるわけにはいかない回転木馬。

『回転木馬のデッドヒート』は単行本として出たのが1985年。『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』と同じ年だ。その2年後に『ノルウェイの森』が出版される。村上は「はじめに」で、どうしても小説に使いきれない「おりのようなもの」をこの短編集におさめたと書いている。本書から約30年後、2014年刊の短編集『女のいない男たち』は作家「村上さん」はかなり後ろにひっこんでいるが、やはり彼の感性の網にひっかかった「おりのようなもの」で書かれているように思う。なんとなく似てくるのは同じ網だからなんだろう。同じような話でも、読書体験自体が心地いいのはその「おり」の純度を高める言葉の技術をこの人が持っているからなのだと思う。
回転木馬のデッド・ヒート (講談社文庫) Amazon書評・レビュー: 回転木馬のデッド・ヒート (講談社文庫)より
4062749068
No.56
(5pt)

回転木馬の競争の無力感に歪む

この短篇集のタイトルになった冒頭の書下ろし作品の名は、
「はじめに・回転木馬のデッド・ヒート」。

「はじめに」が付いているのが奇妙で不思議な作品です。
小説ではないし、
小説になる前の<スケッチ>でもないような、
著者の頭の中の「おり」のような文章です。

恋人が死んでしまったり、妻が突然いなくなったり。

「我々が意志と称するある種の内在的な力の圧倒的に多くの部分は、
その発生と同時に失われてしまっているのに、
我々はそれを認めることができず、
その空白が我々の人生の様々な位相に
奇妙で不自然な歪みをもたらすのだ。
少なくとも僕はそう考えている」
で終わる、奇妙なはじまりの文章です。

小説を書こうとする人間の決意表明のような文章です。

この短編集の中の短篇たち。
<スケッチ>とか「おり」。
いつの日か、この<スケッチ>から名画が生まれるように、
長篇が生まれる可能性を予感します。

意志の残骸は、作者の体の中にたまっていく「おり」。
回転木馬のデッド・ヒート (講談社文庫) Amazon書評・レビュー: 回転木馬のデッド・ヒート (講談社文庫)より
4061843192
No.55
(5pt)

回転木馬の競争の無力感に歪む

この短篇集のタイトルになった冒頭の書下ろし作品の名は、
「はじめに・回転木馬のデッド・ヒート」。

「はじめに」が付いているのが奇妙で不思議な作品です。
小説ではないし、
小説になる前の<スケッチ>でもないような、
著者の頭の中の「おり」のような文章です。

恋人が死んでしまったり、妻が突然いなくなったり。

「我々が意志と称するある種の内在的な力の圧倒的に多くの部分は、
その発生と同時に失われてしまっているのに、
我々はそれを認めることができず、
その空白が我々の人生の様々な位相に
奇妙で不自然な歪みをもたらすのだ。
少なくとも僕はそう考えている」
で終わる、奇妙なはじまりの文章です。

小説を書こうとする人間の決意表明のような文章です。

この短編集の中の短篇たち。
<スケッチ>とか「おり」。
いつの日か、この<スケッチ>から名画が生まれるように、
長篇が生まれる可能性を予感します。

意志の残骸は、作者の体の中にたまっていく「おり」。
回転木馬のデッド・ヒート Amazon書評・レビュー: 回転木馬のデッド・ヒートより
406201839X
No.54
(5pt)

回転木馬の競争で失われた「時間」

本書の「はじめに・回転木馬のデッド・ヒート」の中で、作者は語る。
「それ(メリー・ゴーラウンド)は定まった場所を定まった速度で巡回しているだけのことだ」

時計の針たちも、似たようなもんだと思います。
定まった場所を、それぞれの針に定まった速度で巡回しているだけだからです。
秒針は一番早く巡回し、分針や時針を軽々と抜き去っていきます。
しかし、また約1分後いつの間にか背後に戻ってきて、また分針や時針を抜き去っていきます。
確かに早いが、同じことの繰り返しにすぎないように見えます。ただそれだけのことのように。

しかし、見た目には、同じことの繰り返しにすぎないように見えますが、時間だけは、確実に
失われてしまっていて、二度と繰り返されません。

村上春樹の作品を読むと、この「時間の喪失感」を感じます。
恋人が死んでしまったり、妻が突然いなくなったりして、喪失の空白感がたまらなくむなしい。

作者は続けます。
「我々が意志と称するある種の内在的な力の圧倒的に多くの部分は、その発生と同時に失われ
てしまっているのに、我々はそれを認めることができず、その空白が我々の人生の様々な位相に
奇妙で不自然な歪みをもたらすのだ」

この短編集をくくると、そういうことのようです。
作者自身は、本書の中のこれらの短篇を<スケッチ>とか「おり」と呼んでいます。
いつの日か、この<スケッチ>から名画が生まれる可能性を予告しています。

しかし、発生と同時になぜか失われなかった、意志の残骸(作者の体の中にたまっていく
「おり」)は、1985年には本書の中に収められた8編の短編でした。

それらが、現在の2016年には、どの作品の中に組み込まれたのか、あるいは
組み込まれずに闇の中に消え去っていったのか。

このようなことを考えながら、村上春樹の作品を読んでいくと、愉しみは尽きません。
回転木馬のデッド・ヒート (講談社文庫) Amazon書評・レビュー: 回転木馬のデッド・ヒート (講談社文庫)より
4061843192
No.53
(5pt)

はじめに・回転木馬のデッド・ヒート

「はじめに」の中のデッド・ヒートにおいて、
「…のだ」とか「…である」調の断定文が多い。これが興味深い、のである。

理由:
べらんめー調の「べん」ににて、にてもやいてもくさくてくえんからである。
いまわデッド・レビューを書いてるボクは「である」調はでえきらいである。
であるのではないか、ならゆるす。あるのかないのかわからんから、である。
好きだ、好きだ、っていやあすむのに、好きなのであるとか、好きなのだ、
とかふわふわしたへりくつをぬかすやつは、くつをぬがしてやつざきにして
やる。これはボクのやつめうなぎの八つ当たりなのである。いつもの。
吾輩は猫である、とかいっても猫にひっかかれないですむのは
夏目せんせえのように、えれーひとだけである。
ボクなんかえらそうになんか言っても「勝手に猫をなのるなよ、なめんなよ、
ふん」と猫からそっぽむかれることひっし、なのである。
「である」なんてえのは、ながやでは、しようきんしのことばである。
うっかりくちをすべらそうもんなら、猫にひっかかれるわ、犬にしょうべん
ひっかけられるわ、猿には・・・るわ、とてえへんなもんきー、である。
しぬまぎわにはどう考えているのかしらん、のである。
少なくともいまわのボクはそう考えている、のである。
回転木馬のデッド・ヒート (講談社文庫) Amazon書評・レビュー: 回転木馬のデッド・ヒート (講談社文庫)より
4061843192
No.52
(5pt)

はじめに・回転木馬のデッド・ヒート

「はじめに」の中のデッド・ヒートにおいて、
「…のだ」とか「…である」調の断定文が多い。これが興味深い、のである。

理由:
べらんめー調の「べん」ににて、にてもやいてもくさくてくえんからである。
いまわデッド・レビューを書いてるボクは「である」調はでえきらいである。
であるのではないか、ならゆるす。あるのかないのかわからんから、である。
好きだ、好きだ、っていやあすむのに、好きなのであるとか、好きなのだ、
とかふわふわしたへりくつをぬかすやつは、くつをぬがしてやつざきにして
やる。これはボクのやつめうなぎの八つ当たりなのである。いつもの。
吾輩は猫である、とかいっても猫にひっかかれないですむのは
夏目せんせえのように、えれーひとだけである。
ボクなんかえらそうになんか言っても「勝手に猫をなのるなよ、なめんなよ、
ふん」と猫からそっぽむかれることひっし、なのである。
「である」なんてえのは、ながやでは、しようきんしのことばである。
うっかりくちをすべらそうもんなら、猫にひっかかれるわ、犬にしょうべん
ひっかけられるわ、猿には・・・るわ、とてえへんなもんきー、である。
しぬまぎわにはどう考えているのかしらん、のである。
少なくともいまわのボクはそう考えている、のである。
回転木馬のデッド・ヒート Amazon書評・レビュー: 回転木馬のデッド・ヒートより
406201839X
No.51
(5pt)

はじめに・回転木馬のデッド・ヒート

「はじめに」の中のデッド・ヒートにおいて、
「のだ」とか「である」調の断定文が多い。これが興味深い、のである。

理由:
べらんめー調の「べん」ににて、にてもやいてもくさくてくえんからである。
いまわデッド・レビューを書いてるボクは「である」調はでえきらいである。
であるのではないか、ならゆるす。あるのかないのかわからんから、である。
好きだ、好きだ、っていやあすむのに、好きなのであるとか、好きなのだ、
とかふわふわしたへりくつをぬかすやつは、くつをぬがしてやつざきにして
やる。これはボクのやつめうなぎの八つ当たりなのである。いつもの。
吾輩は猫である、とかいっても猫にひっかかれないですむのは
夏目せんせえのように、えれーひとだけである。
ボクなんかえらそうになんか言っても「勝手に猫をなのるなよ、なめんなよ、
ふん」と猫からそっぽむかれることひっし、なのである。
「である」なんてえのは、ながやでは、しようきんしのことばである。
うっかりくちをすべらそうもんなら、猫にひっかかれるわ、犬にしょうべん
ひっかけられるわ、猿には・・・るわ、とてえへんなもんきー、である。
しぬまぎわにはどう考えているのかしらん、のである。
少なくともいまわのボクはそう考えている、のである。
回転木馬のデッド・ヒート (講談社文庫) Amazon書評・レビュー: 回転木馬のデッド・ヒート (講談社文庫)より
4061843192
No.50
(5pt)

はじめに・回転木馬のデッド・ヒート

「はじめに」の中のデッド・ヒートにおいて、
「のだ」とか「である」調の断定文が多い。これが興味深い、のである。

理由:
べらんめー調の「べん」ににて、にてもやいてもくさくてくえんからである。
いまわデッド・レビューを書いてるボクは「である」調はでえきらいである。
であるのではないか、ならゆるす。あるのかないのかわからんから、である。
好きだ、好きだ、っていやあすむのに、好きなのであるとか、好きなのだ、
とかふわふわしたへりくつをぬかすやつは、くつをぬがしてやつざきにして
やる。これはボクのやつめうなぎの八つ当たりなのである。いつもの。
吾輩は猫である、とかいっても猫にひっかかれないですむのは
夏目せんせえのように、えれーひとだけである。
ボクなんかえらそうになんか言っても「勝手に猫をなのるなよ、なめんなよ、
ふん」と猫からそっぽむかれることひっし、なのである。
「である」なんてえのは、ながやでは、しようきんしのことばである。
うっかりくちをすべらそうもんなら、猫にひっかかれるわ、犬にしょうべん
ひっかけられるわ、猿には・・・るわ、とてえへんなもんきー、である。
しぬまぎわにはどう考えているのかしらん、のである。
少なくともいまわのボクはそう考えている、のである。
回転木馬のデッド・ヒート Amazon書評・レビュー: 回転木馬のデッド・ヒートより
406201839X
No.49
(4pt)

気楽に読める。

村上さんの、初期の短編集です。
長編を読む時間がない人は、まずは気になる
村上さんの短編集でも読んでみたらいいかがですか。
回転木馬のデッド・ヒート (講談社文庫) Amazon書評・レビュー: 回転木馬のデッド・ヒート (講談社文庫)より
4061843192
No.48
(4pt)

気楽に読める。

村上さんの、初期の短編集です。
長編を読む時間がない人は、まずは気になる
村上さんの短編集でも読んでみたらいいかがですか。
回転木馬のデッド・ヒート Amazon書評・レビュー: 回転木馬のデッド・ヒートより
406201839X
No.47
(4pt)

気楽に読める。

村上さんの、初期の短編集です。
長編を読む時間がない人は、まずは気になる
村上さんの短編集でも読んでみたらいいかがですか。
回転木馬のデッド・ヒート (講談社文庫) Amazon書評・レビュー: 回転木馬のデッド・ヒート (講談社文庫)より
4062749068
No.46
(5pt)

人生は回転木馬

この作品は「レーダーホーゼン」「タクシーに乗った男」「プールサイド」「今は亡き王女のための」「嘔吐1979」「雨やどり」「野球場」「ハンティングナイフ」の8篇からなる短編集である。

冒頭、著者は「はじめに・回転木馬のデッドヒート」として、これらの短編の考え方と経緯について詳しく説明をしている。ここに収められたものは他人から聞いた話であって、まったくの事実とはいかないけれど話の大筋は事実である。このような文章を小説と呼ぶにはいささかの抵抗があるし、小説と区別して〈スケッチ〉と呼ぶことにするとも・・・
また、小説の材料として今後このようなスタイルにしたものを無意識にその断片を選びとることがあるかもしれないけれど、ここにある〈スケッチ〉には同じ共通項があって、それらはいずれも「話してもらいたがっている」ものだとしている。
なるほど、この作品を読んでみるとそのことはよく分かるし納得できる。

ここで村上春樹は「他人の話を聞けば聞くほど、そしてその話をとおして人々の生をかいま見れば見るほど、我々はある種の無力感に捉われていく。」として大変興味深い指摘をしている。どういうことかといえば、「我々はどこにも行けないというのがこの無力感の本質だ。我々は我々自身をはめこむことのできる我々の人生という運行システムを所有しているが、そのシステムは同時にまた我々自身をも規定している。それはメリーゴーラウンドに似ている。」というのだ。

誰が云ったか忘れてしまったけれど、「人間みんなチョボチョボや!」ということかもしれない。だからという訳でもないのだが、僕は全篇を読み終えて共通の密度といえばいいのか個々の〈スケッチ〉についてある種の均質な空間を感じてしまった気がする。それは村上春樹ご自身がいうように紛れもなくこのテキストが小説だからなのだと思う。

〈スケッチ〉におけるマテリアルが事実であろうがなかろうが、楽しみ方はいろいろあっていいのだとも思う。まして小説として云々なんてナンセンスのきわみという他ない。僕はそう思う。何はともあれ、本著『回転木馬のデッドヒート』は不思議な話でいっぱいだ。どうぞ、お楽しみください。
回転木馬のデッド・ヒート (講談社文庫) Amazon書評・レビュー: 回転木馬のデッド・ヒート (講談社文庫)より
4062749068
No.45
(5pt)

初めて

村上春樹の小説は長編をいくつか読みましたが、短編は初めてです。
八編が収録されていますが、どの話も文句なしに面白かった。
回転木馬のデッド・ヒート (講談社文庫) Amazon書評・レビュー: 回転木馬のデッド・ヒート (講談社文庫)より
4062749068
No.44
(5pt)

奇妙な体験。

著者は、この作品は事実をスケッチしたものであるとくどいようにことわっています。
他人に聞いた話が自分の中に貯まって、発酵してきたかのように自らが書かれることを望んだのだと。
その話をそのまま文章にしたものであると。
さて、この言葉をそのまま信じていいのでしょうか。
人は奇妙なことに出会ったとき、すぐに忘れられる人とずっと憶えていて人格の一部になっている人と2種類あるのではないかと思います。
普通の姿をして普通の暮らしをしている場所に、実はとても奇妙な物語が宿されているようなのです。
他人の言葉にじっくりと耳を傾けるのが面白そうだと思いました。
村上氏の世界は案外近くにも存在しているのではないでしょうか。
回転木馬のデッド・ヒート (講談社文庫) Amazon書評・レビュー: 回転木馬のデッド・ヒート (講談社文庫)より
4062749068
No.43
(5pt)

これぞ村上春樹の世界観

村上春樹の作品群の中でも特に好きな作品です。日常の中の普通の人なら
見逃してしまうようなこと。
少し不思議に感じてもふっと、なんとなく通り過ぎて
しまうようなもの。そんな形にならないものを繊細にすくいあげている作品です。
圧倒的に引き込まれるわけでもない、末梢神経を刺激するような作品ではなく脳みその
やわらかいところをそっとふれる、そんな印象を私は持ちました。
回転木馬のデッド・ヒート (講談社文庫) Amazon書評・レビュー: 回転木馬のデッド・ヒート (講談社文庫)より
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