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(短編集)

女ともだち



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【この小説が収録されている参考書籍】
女ともだち (角川文庫 赤 541-19 レンデル傑作集 3)

女ともだちの評価: 7.00/10点 レビュー 1件。 Cランク
書評・レビュー点数毎のグラフです平均点7.00pt

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(7pt)

人の心の弱さをひたひたと感じさせる短編集

レンデルの短編集は過去に2冊読んでいるが、長編さながらに短編もレンデル特有の毒に満ちており、一読印象に残る作品が多いのが特徴。従って今回もそんな期待の中、読んでみた。

開巻最初の作品は表題作である夫婦の奇妙な“浮気”を扱った物。
男に対する免疫のない女性。
少し女性っぽく、そして女装をして完璧な女に成りすますことのできる男性。
女性は女性の心を持つゲイやオカマ、いわゆるトランスジェンダーに異性よりも抵抗なく接しやすいと云われるが、まさにクリスティンはその典型だった。
公の貌から私生活の貌へと変貌した男に怖さを覚える世慣れぬ女性の恐怖心がよく描かれた作品である。

次の「ダーク・ブルーの香り」も男と女の関係の話。
かつて愛した女性との再会を求めるのは女性よりも男の方がその思いが強いようだ。私も経験があるが、女性は恋に対して踏ん切りがつきやすく、別れてもすぐ次の恋に向かっていけるが、男は未練が残り、なかなか次に踏ん切れないでいることが多いのではないか。
斯く云う私もその経験者の1人なのだが。
本作の主人公の男もかつて別れた妻への思慕が募り、退職してから再会を望むようになった。彼の中に残る彼女の姿は若かりし頃の元妻の肖像。そして男は年不相応な若々しい風貌をしていることから、相手もそうではないかという錯覚に陥る。
このオチは容易に読めるだろう。
しかし愛は盲目で通常ならばそんな馬鹿な!と思われるようなことも盲目ゆえに信じてしまう。人を狂わせるのもまた愛なのだ。

「四十年後」はそのタイトル通り、回想の物語だ。
田舎の町で男女の不埒な関係がすぐに町中に伝わるような閉鎖された場所に送られた思春期の女性の回想譚。
出征中の夫を待つ美貌の妻。そこに現れた美男のパイロット。それを盗み見て男と女のロマンスと、セックスの妄想に耽る私。
いつの世も不倫に纏わる話の結末はこの上なく苦い。

いわゆる曰く付きの家というのがあるが、「殺意の棲む家」はそんな家を買った夫婦のお話だ。
幽霊が出るとか人殺しがあったとか、いわゆる曰く付きの家に住んだ人々には表面上は気にせずにいても、ふとそれが潜在的に意識され、そして妙な違和感を覚えるものである。スティーヴン・キングはそういう得体のしれない雰囲気を宿した物をサイキック・バッテリーと評したが、ある意味本作のカップルが買った家もそれに類するものだったのかもしれない。
真夜中に勢いよく閉まる窓。この実に些細な厄介ごとが、住民たちの神経を蝕んでいく。

「ポッター亭の晩餐」は一種面白みのあるデートシーンから始まるが、展開は予想外の方向へと移る。
イギリス男児特有のプライドの話。
最初はお財布代わりに誘われた男が、次から次へと高級料理を注文する女性に財布と心が蝕まれていく、半ばコメディな物語と思いきや、因縁の相手の浮気現場を目撃する展開になり、高額の食事代を立て替えられたことに奮起し、なけなしの貯金の中から鼓舞して返還をする若き男のプライドが示される。
原題の意味は「賄賂と堕落」だが、堕落は賄賂に屈したわけではなく、魂を売ったことに起因するのがレンデル流の捻りだ。

「口笛を吹く男」はレンデルでは珍しくアメリカと南米を舞台にした作品。
海外のメイドや使用人は手癖が悪く、すぐに家主の持ち物をくすねるが、本書のジェレミーもまたそんな盗癖を持った若者だ。そして彼がどこかの家の鍵を手に入れ、そこにある物をくすねてしまおうと企む。しかしそれは家主の壮大な復讐計画だったことが最後に判明する。
この復讐者マニュエルはいつも口笛を吹きながらその日暮らしをしている年輩の男性だが、のどかに見える口笛吹きが実は心の中では淡々と遠大な仕返しを練っていたと思うと、心に寒さを感じざるを得ない。

いわゆる老害を扱ったのが「時計は苛む」だ。
仲のいい老人たちが、いつか来るべき時と意識しつつ、また次第にボケが始まっていく恐怖に慄きつつもお互い行き来してそれぞれの生活に変化を与えながらその日その日を暮していく様を語りながらも、突然破局を迎える様がごくごく自然な成り行きで語られる。
欲しいと思った時計が既に売却済みだったことがしこりとなり、店に再び行ってみると店主は居眠りして気付かないので、思わず魔が差して時計を盗み出してしまう。
こんな些細な犯罪がやがて・・・。

特異な性癖を扱ったのが「狼のように」だ。
実に変わった内容だ。
40を超えた男が狼の被り物を着て狼ごっこに興じる。定職にも就かずアマチュア劇団に所属して役者として出演する生活を送る男。
しかしその狼ごっこがやがて彼の中で狼そのものと同化するようになる。
人間の心の狂気を必然性を以って語るレンデルだが、こんな話、レンデルしか書けない。
ちなみに原題の“Loopy”は英和辞典では「狂った」とか「ばかな」という意味が挙げられているが、本書ではラテン語で狼を表すルーパスから派生した言葉であるとされている。

次の短編「フェン・ホール」のタイトルは主人公プリングル達3人の少年がキャンプをしに連れられたリドゥン氏の家の名を指す。
父親の友人宅の近くでキャンプをすることになった彼らが遭遇した事故。それは前日の強風で倒れた木を剪定している時に起きた不意の事故。木を切った時にバランスが崩れ、根っこが穴に落ち、そこにいた妻が下敷きになって死ぬ。
しかしその前夜に夫婦が云い争う声を聞いていた彼らはそれが本当に事故なのか故意なのかが解らない。

不穏な空気を纏って物語が閉じられるのは次の「父の日」も同様だ。
結婚し、子供が生まれて家族が形成され、それは安らぎの場になったり、もしくは疎ましく思う場になったりと様々だが、愛情が強すぎるとそれを失う恐怖感に苛まれるようにもなるようだ。この実に特異な恐怖観念に囚われた男の話だ。
子供を大事にするあまり、外出時もベビーシッターに頻りに連絡を取り、安否を確認する、妻が綺麗になったら子供を連れて逃げやしないかと慄く。勝手な被害妄想だが、旅行最終日に現地の友人と食事に行った夫婦は夫しか戻ってこなかった。
彼の話では妻はその友人とドイツに帰ると云って家族を捨てたと云う。しかし彼の掌にはざらざらした石の表面に押し付けたような小さな穴がいっぱいついていた。それは滑りやすい崖で落ちないように踏ん張ったかのように。
果たして本当に彼の妻は家族を捨ててしまったのか。
それともいつか子供たちを盗られると思って夫が崖から突き落としたのか。
しかしこの結末はもはや自明の理だろう。
そして題名「父の日」には一読後、戦慄を覚える。のどかな言葉が一転して恐ろしさを帯びるところがレンデルらしいと云えばらしいが、それにしても…。

さて最後の短編「ケファンダへの緑の道」はそれまでとは毛色の違った作品だ。
何とも云えない味わいを残す作品だ。
小説家が小説家を語る時、そこには小説家自身が投影されているだろうと思えるが、レンデルは英国女流ミステリ作家としてP・D・ジェイムズと比肩する一流作家であるのに対し、本書に登場するアーサー・ケストレルは新作が発表されても批評家も取り上げない売れない作家であるところが興味深い。
本作はそんな不遇な小説家がヒットを放つ、というような話ではなく、あくまでレンデルはシビアに描く。
ファンタジーのシリーズ小説を発表しながら、決して書評に挙げられることはなく、毎月数多出版される作品群の中に埋没するだけ。従って毎回作品を発表した後は鬱に見舞われ、家に引きこもる。それを繰り返す。
そして初めて書評に挙げられた作品が最後の作品となる。

レンデルの第3集目となる短編集は1985年に本国イギリスで刊行された物で、バーバラ・ヴァイン名義であるの第1作『死との抱擁』が発表される前年に当たる。
ヴァイン名義の作品は犯罪を扱いながらも純文学に寄り添った作風であるのが特徴だが、その志向が滲み出ているせいか、本書収録の作品も純文学に寄り掛かったミステリが多いように思える。内容的には人間の心が思いもかけない行動を起こす物が多いように感じるのだ。

それは各編が男と女の関係の纏わる皮肉な結末を扱っているからだ。

特殊な不倫関係、別れた妻との再会を望む男、出征中の夫を持つ妻の不倫、曰く付きの家を購入した夫婦、父親の敵の浮気現場を見つけた息子、家主に隠れてセックスを交わす若い男女、40を超えたカップルと息子離れしない母親、価値観の違う夫婦、綺麗になった妻に子供と一緒に逃げられやしないかと恐れる夫。

そして内容は自分を変えたと錯覚したがゆえに陥った過ちだったり、幼い頃のトラウマとなったことが年月を経て判明した事実で自分の抱いた推測が確信に変わったり、噂だと一笑していたのにいつの間にかそれに取り込まれてしまったり、プライドを護ろうとしたことが相手に格の違いを見せつけられ、卑しき虚言者に陥る者や相手の寛容さを利用して金を騙し取ろうとしたが逆に罠に嵌る者もいる。

その中でも最も変わったのが「狼のように」に出てくるコリンとその母親だ。

後半に行くと更に真相は曖昧になる。
例えば「フェン・ホール」と「父の日」がそれに当たるだろう。

収録作品中男女の情愛がないのは「時計は苛む」と「ケファンダへの緑の道」だ。
前者は仲の良い老人仲間の話でそこにしかしそこには長らく築いた友好関係が存在するのだが、微罪によってそれが崩壊する、実に皮肉な様が描かれている。
後者は売れない小説家が初めて自作を批評される話だ。

この「ケファンダへの緑の道」が本短編集の中の個人的ベストだ。

全ての作品に共通するのは錯覚であれ、疑問であれ、懸念であれ、それらは最初はほんの些細な火種に過ぎない事だ。それがしかし各人の心の中で肥大し、暴走し、そして取り返しのつかないほどまで成長する。そしてそれが過ちへと繋がる。
それは我々一般読者でも抱くような小さな火種で決して他人事ではない。つまり日常と非日常の境は斯くも薄い壁で遮られているのだということ思い知らされるのだ。

しかし各編ページは少ないながらもなかなか入り込むのに手間取った感がある。長い物でも30ページ前後でほとんどが20ページ前後と実にコンパクトだ。
しかしそれでも読むのに時間がかかったのはレンデルの創作作法にある。

導入部がいきなり渦中から始まるため、各登場人物の設定やシチュエーションが頭に入ってこず、把握するのに何度も読み返す必要があったからだ。しかも案外各編の設定は特殊なため、なかなかその世界に入り込むのに苦労した。きちんと状況は書かれているが、数ページしてようやく設定が判ってくるため、それまでの地の文などに書かれた時間軸や場所、更に登場人物の相関関係、果ては性別までもが後からついてくる形となり、結構手こずった。

しかしそんな困難さが逆に物語の味わいを深めるのも確か。特に最後に収録された「ケファンダへの緑の道」を読むと主人公の口から小説をいかに読むかを示唆され、また悪意ある書評に対する作者への非難も行間から読み取れ、レンデルが目の前で訓辞を垂れているかのような錯覚までに陥る。

そしてこの作品の結びのように作者の思いが読者に届くことこそ小説家の本望だろう。私にはその思いは確かに届いた。

しかし作者の思いが届くには物語が読み継がれなければならない。レンデルの死後、彼女の作品の大半が絶版状態で読めなくなっている。英国女流ミステリ作家の大御所だった彼女でさえ、そんな
悲惨な状況だ。

今なお未訳作品も多いレンデル=ヴァイン。是非ともジョン・ディクスン・カーのようにいつか全作翻訳され、そして新訳復刊されるようになってほしい。


▼以下、ネタバレ感想

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