深夜の散歩
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福永武彦氏、中村真一郎氏及び丸谷才一氏という三名の著名な文学者が「探偵小説」の"愉しさ"を自在に綴った箴言も多い微笑ましい好著。私は「探偵小説」に関する丸谷氏のエッセイは読んだ経験があったが、他の二名に関しては初見。何れも「探偵小説」マニアである事が良く伝わって来て親しみが持てる。 文学者だからと言って、「探偵小説」を一段下に見下してる訳ではなく、全く逆で、「探偵小説」の熱狂的な愛読者である事が良く分かる。一応、文学と「探偵小説」とを区別しているが、その区別は混沌としており、例えば、ポーの諸作品は文学という点では三名とも一致している様で、首肯出来る。三名が拘る点や書き方にも特徴があって興味深い。福永氏は題名の「散歩」の如くに多彩な作品に触れ、その中で自身の「探偵小説」観や好みを映し出している。一方、中村氏は概ね「探偵小説」論を語っていて、その分類例・具体例として幾つかの作品を挙げている。特に、幼少期の体験に基づいて「文学として読む」試みをしている点が特徴。丸谷氏の流儀は福永氏のそれに近いが、まるで、純文学と「探偵小説」との比較文学論の趣きを呈している上に、好まない作家・作品・出版界に対する辛口のコメントも目を惹く。私はコリンズ「月長石」も読んでいるので、本書で言及される作品と同時代のものは殆ど読んでいるが、こういう見方もあるのかと啓発される点も多かった。 最終稿が25年以上前なので、最新ミステリの情報が得られる訳ではないし、若い方にとっては知らない古典名も出て来るが、個人的には懐かしい想いがした。本書中でどなたかが「探偵小説は深夜にユックリと読む物」と述べていたが、本書もユッタリした気分で読むと味わい深いと感じた。 | ||||
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「高名な文学者のセンセイ達」が上から目線で書いたエッセイですし、 称賛している作品の評価も「この当時はそうでした」感が凄いので 合わない人には徹底的に合わないと思います(笑)。 | ||||
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内容については、ほかの方が詳しく書かれているので、書誌的な話を書きます。 1997年のハヤカワ文庫版の『深夜の散歩』に収録されている瀬戸川猛資氏の解説「あまりにも予見的な」などを参考に書くと、「深夜の散歩」は1958年7月から1960年2月まで、雑誌「エラリー・クイーンズ・ミステリ」(EQMM)で連載されていた。3人とも高名な文学者だが、雑誌連載開始時点では、福永氏と中村氏が40歳で、作家としてのキャリアは15年足らず、丸谷氏は33歳で、訳書はあったものの、小説や評論は1冊も出ていない。現存の作家で比較すると、平野啓一郎氏よりも若く、作家暦も短かい時の仕事である。 最初の書籍化は『深夜の散歩―ミステリの楽しみ』として1963年にハヤカワ・ライブラリの1冊として刊行。 二番目は、1978年に講談社から、「決定版」として、このハヤカワ・ライブラリ版には収録されていない3人の探偵小説論を添えるかたちで、副題を「ミステリの愉しみ」に変更して単行本として刊行。 三番目は、1981年に講談社文庫版(ただし、丸谷才一氏の講談社単行本にあった探偵小説論3篇が版権の関係で収録されていない)として刊行。 四番目は、1997年にハヤカワ文庫版が刊行(こちらには、連載以外の探偵小説論は収録されていない)。「掲載作品リスト」(同時に索引にもなっている)が巻末に付いている。 そこで、五度目の刊行となる本書だが、帯にあるように文庫初収録の文章を含む完全版となっている。 連載分以外には、福永武彦氏の探偵小説論など6篇(講談社単行本に未収録の2篇が加わっている)、中村真一郎氏の探偵小説論など3篇(同じく未収録の1篇が加わっている)、丸谷氏の探偵小説論4篇(講談社単行本に収録されたもの)に加え、雑誌に掲載されながら未収録だった6篇の「マイ・スィン」。さらに、福永氏と中村氏の対談「しろうと探偵小説問答」が収められている。ただし、ハヤカワ文庫版にはあった「掲載作品リスト」(同時に索引にもなっている)はない。 一応書いておくと、福永氏は伽田怜太郎名義でミステリを書いており、創元推理文庫の『完全犯罪 伽田怜太郎全集』は入手可能だ。中村氏も『黒い終点』など幾つかのミステリを書いており、同作は『地獄の饗宴』として映画化されている。 余談になるが、福永氏は船田学名義でSFを発表しており、福永氏と中村氏は堀田善衛氏共に映画『モスラ』(1961年)の原作『発光妖精とモスラ』も書いている。 連載開始からすでに60年以上が経過した「ミステリ時評」が今なお再刊されることは驚きだが、古き名作を知ると同時に、20年前のハヤカワ文庫版解説で瀬戸川氏が指摘したような「予見的」な部分を見つけることも楽しいだろう。 | ||||
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新規読者の為に書き添えておくと、福永武彦・中村真一郎・丸谷才一いずれも既に鬼籍に入った人で。 私は元版を持っていなくて今回文庫化されてどの部分が初収録となるのか、書いてないから不明。 ここに収められている文章は昭和30年代に(一部を除き)雑誌「エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン」に掲載された、 海外ミステリ読者向け与太話ならぬエッセイなので、肩の力を抜いて楽に読み通せるものだ。 創元推理文庫やポケミスを書庫にズラッと並べて読破している強者にはこんな屋上屋を架す説明など無用だろうが。 三人のうち最も古典派だという福永武彦曰く「作品でいうと『Yの悲劇』や『僧正殺人事件』、作家ならクリスティ/カーはミステリの基礎教養として最低でも読んどかなくちゃその先に進めない」と。当時はハメット/チャンドラーらのハードボイルドが幅を利かしていた時代。また米ソ冷戦の頃だからアントニー・バークリーがちょこっとしか話題に上がらないのにスパイ小説のエリック・アンブラーは何度か出てきたりして、一冊まるごと〝令和のいまでも通用する評論〟という訳じゃなく(勿論現代でも有効な見方をしている部分はある)、「EQMM」や「ヒッチコックマガジン」時代の空気を感じつつ日本におけるミステリ鑑賞の年輪というか断層の旧さを楽しむべきではないか。 「ホームズを出してしまった事でルブランの『奇厳城』は一種のパロディーになり物語全体を冗談にしてしまった」と説く中村真一郎は正しいし(批判的だと解釈できるこの文章が当時の『奇厳城』単行本解説の一部ってのが凄い)、福永の「名探偵は探偵小説作家にとって一種の登録商標」という箇所に至っては、『明智小五郎vs金田一耕助』などと他人の大切な商品をオマージュだパスティーシュだの都合の良い建前のもとに先達の営業妨害をしている〝作家もどき〟の顔に拡大コピーして貼ってやりたいね。それ程にレギュラー・キャラクターの存在(加えてその成功)は重要なのだ、と。 ミステリ話のクオリティ以前に、丸谷才一のパートだけはなんというか行間から漂う島田雅彦的な気取りがどうにもいけすかない。自分で自分の事をフェミニストでございと言って好感を持たれる人って世の中にゃいないよな。福永と中村だけの本だったら★5つでもよかったが。 ところで東京創元社のお偉い人さん。 何年も前に海野十三と一緒にプレゼンされた筈の木々高太郎の文庫はなぜ出さぬ?そしてせっかく江戸川乱歩はパブリックドメインになったのに以前出していた初出挿絵入りの文庫「乱歩傑作選」未刊分(『猟奇の果』『地獄の道化師』『白髪鬼』『恐怖王』『偉大なる夢』etc)をなぜ出さぬ?近年他社が出す乱歩本はどれもこれも買う価値のないクズだらけだよ。パブリックドメインになって良かったことなんてひとつもないぞ。 | ||||
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家族も寝静まった深夜、枕もとの電灯を頼りに、灰皿を吸い殻でいっぱいにしながら、ひたすらミステリの世界に没入する…マニアが夢に描くシチュエーションで始まるこのガイドは、その後の私の読書遍歴に大いに影響しました。本そのものは押し入れに突っ込んだまま何年も取り出していないけれど、特に「メグストン島のほうへ」の紹介は記憶に残っていまして、以来30年のちにアンドリュウ・ガーヴの「メグストン計画」をようやく読み終えてほっとしたところです。書かれた時代における先端的作品の紹介に貢献した労作。 なお福永武彦は、別名 加田令太郎名義でミステリ短編を発表しており、「加田令太郎全集」(新潮文庫)にまとめられています。 | ||||
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