エロ事師たち

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評判

エロ事師たちの評価:

4.57/5点 レビュー 28件。 A ランク

Amazon書評・レビュー点数毎のグラフです

平均点4.57pt

Amazonレビュー一覧

Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です

※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください

全104件 61〜80 4/6ページ
No.44
(5pt)

とても感動した作品です

タイトルとは似つかわない内容で、登場人物のしたたかさ、一生懸命に生きろ躍動感が、伝わってくる作品です。
また、時代背景が、私の幼少時代でもあったのが、親近感を覚え、とても楽しく拝読しました。
エロ事師たち (1968年) Amazon書評・レビュー: エロ事師たち (1968年)より
B000JA62Z8
No.43
(5pt)

とても感動した作品です

タイトルとは似つかわない内容で、登場人物のしたたかさ、一生懸命に生きろ躍動感が、伝わってくる作品です。
また、時代背景が、私の幼少時代でもあったのが、親近感を覚え、とても楽しく拝読しました。
エロ事師たち (1967年) (ロマン・ブックス) Amazon書評・レビュー: エロ事師たち (1967年) (ロマン・ブックス)より
B000JA6VQ8
No.42
(5pt)

とても感動した作品です

タイトルとは似つかわない内容で、登場人物のしたたかさ、一生懸命に生きろ躍動感が、伝わってくる作品です。
また、時代背景が、私の幼少時代でもあったのが、親近感を覚え、とても楽しく拝読しました。
エロ事師たち (1966年) Amazon書評・レビュー: エロ事師たち (1966年)より
B000JAB5UA
No.41
(5pt)

とても感動した作品です

タイトルとは似つかわない内容で、登場人物のしたたかさ、一生懸命に生きろ躍動感が、伝わってくる作品です。
また、時代背景が、私の幼少時代でもあったのが、親近感を覚え、とても楽しく拝読しました。
エロ事師たち (新潮文庫) Amazon書評・レビュー: エロ事師たち (新潮文庫)より
4101112010
No.40
(5pt)

それほどエロくないです。

DVDの原作です。映画では表現できなかったところがよくわかりました。
エロ事師たち (1968年) Amazon書評・レビュー: エロ事師たち (1968年)より
B000JA62Z8
No.39
(5pt)

それほどエロくないです。

DVDの原作です。映画では表現できなかったところがよくわかりました。
エロ事師たち (1967年) (ロマン・ブックス) Amazon書評・レビュー: エロ事師たち (1967年) (ロマン・ブックス)より
B000JA6VQ8
No.38
(5pt)

それほどエロくないです。

DVDの原作です。映画では表現できなかったところがよくわかりました。
エロ事師たち (1966年) Amazon書評・レビュー: エロ事師たち (1966年)より
B000JAB5UA
No.37
(5pt)

それほどエロくないです。

DVDの原作です。映画では表現できなかったところがよくわかりました。
エロ事師たち (新潮文庫) Amazon書評・レビュー: エロ事師たち (新潮文庫)より
4101112010
No.36
(4pt)

極めて実践的かつプラトニックなエロ。

戦後、公安の目を盗んで性の享楽を売る男たちと女たちを主人公の「スブやん」を中心に描いた物語である。

男という生き物の持つ性欲を様々な形で満たすエロ事師たちと、
エロ事師たちにすがる客たちの織り成す諧謔と哀愁が未経験の味わいであった。

性行為それ自体ではなくてエロによるプラトニックな充足に重きを置くスブやんと仲間たちの姿勢に好感が持てた。
とはいえその実践方法もかなり具体的に書いてあり、単純なエロ与太話としても面白い。
天狗のお面を使ったプレイで陰部が痒くなるとか、プロの処女屋とか、まあよくもここまで書いてくれたものだと思う。

性行為それ自体よりも、行為におよぶ場所とか状況とか、精神的な揺らぎに男はエロスを見出すものだ。
生娘と交わりたい、自然な恥じらいが見たい、変なシチュエーションで変な交わり方がしたい(その様子を見たい、撮りたい)、
といった男たちの願望に誠実に向き合うエロ事師たちには脱帽させられた。

地の文に独特の調子があり、少々取っつきづらいが「火垂るの墓」よりはだいぶ読み易い。
私の偏見だが、古典の「語り物」が現代の小説の中で蘇生したかのような印象を受けた。
エロ事師たち (1968年) Amazon書評・レビュー: エロ事師たち (1968年)より
B000JA62Z8
No.35
(4pt)

極めて実践的かつプラトニックなエロ。

戦後、公安の目を盗んで性の享楽を売る男たちと女たちを主人公の「スブやん」を中心に描いた物語である。

男という生き物の持つ性欲を様々な形で満たすエロ事師たちと、
エロ事師たちにすがる客たちの織り成す諧謔と哀愁が未経験の味わいであった。

性行為それ自体ではなくてエロによるプラトニックな充足に重きを置くスブやんと仲間たちの姿勢に好感が持てた。
とはいえその実践方法もかなり具体的に書いてあり、単純なエロ与太話としても面白い。
天狗のお面を使ったプレイで陰部が痒くなるとか、プロの処女屋とか、まあよくもここまで書いてくれたものだと思う。

性行為それ自体よりも、行為におよぶ場所とか状況とか、精神的な揺らぎに男はエロスを見出すものだ。
生娘と交わりたい、自然な恥じらいが見たい、変なシチュエーションで変な交わり方がしたい(その様子を見たい、撮りたい)、
といった男たちの願望に誠実に向き合うエロ事師たちには脱帽させられた。

地の文に独特の調子があり、少々取っつきづらいが「火垂るの墓」よりはだいぶ読み易い。
私の偏見だが、古典の「語り物」が現代の小説の中で蘇生したかのような印象を受けた。
エロ事師たち (1967年) (ロマン・ブックス) Amazon書評・レビュー: エロ事師たち (1967年) (ロマン・ブックス)より
B000JA6VQ8
No.34
(4pt)

極めて実践的かつプラトニックなエロ。

戦後、公安の目を盗んで性の享楽を売る男たちと女たちを主人公の「スブやん」を中心に描いた物語である。

男という生き物の持つ性欲を様々な形で満たすエロ事師たちと、
エロ事師たちにすがる客たちの織り成す諧謔と哀愁が未経験の味わいであった。

性行為それ自体ではなくてエロによるプラトニックな充足に重きを置くスブやんと仲間たちの姿勢に好感が持てた。
とはいえその実践方法もかなり具体的に書いてあり、単純なエロ与太話としても面白い。
天狗のお面を使ったプレイで陰部が痒くなるとか、プロの処女屋とか、まあよくもここまで書いてくれたものだと思う。

性行為それ自体よりも、行為におよぶ場所とか状況とか、精神的な揺らぎに男はエロスを見出すものだ。
生娘と交わりたい、自然な恥じらいが見たい、変なシチュエーションで変な交わり方がしたい(その様子を見たい、撮りたい)、
といった男たちの願望に誠実に向き合うエロ事師たちには脱帽させられた。

地の文に独特の調子があり、少々取っつきづらいが「火垂るの墓」よりはだいぶ読み易い。
私の偏見だが、古典の「語り物」が現代の小説の中で蘇生したかのような印象を受けた。
エロ事師たち (1966年) Amazon書評・レビュー: エロ事師たち (1966年)より
B000JAB5UA
No.33
(4pt)

極めて実践的かつプラトニックなエロ。

戦後、公安の目を盗んで性の享楽を売る男たちと女たちを主人公の「スブやん」を中心に描いた物語である。

男という生き物の持つ性欲を様々な形で満たすエロ事師たちと、
エロ事師たちにすがる客たちの織り成す諧謔と哀愁が未経験の味わいであった。

性行為それ自体ではなくてエロによるプラトニックな充足に重きを置くスブやんと仲間たちの姿勢に好感が持てた。
とはいえその実践方法もかなり具体的に書いてあり、単純なエロ与太話としても面白い。
天狗のお面を使ったプレイで陰部が痒くなるとか、プロの処女屋とか、まあよくもここまで書いてくれたものだと思う。

性行為それ自体よりも、行為におよぶ場所とか状況とか、精神的な揺らぎに男はエロスを見出すものだ。
生娘と交わりたい、自然な恥じらいが見たい、変なシチュエーションで変な交わり方がしたい(その様子を見たい、撮りたい)、
といった男たちの願望に誠実に向き合うエロ事師たちには脱帽させられた。

地の文に独特の調子があり、少々取っつきづらいが「火垂るの墓」よりはだいぶ読み易い。
私の偏見だが、古典の「語り物」が現代の小説の中で蘇生したかのような印象を受けた。
エロ事師たち (新潮文庫) Amazon書評・レビュー: エロ事師たち (新潮文庫)より
4101112010
No.32
(5pt)

おもろかった

町田康がエッセイで紹介してたので購入しました。
タイトルとはイメージが違いましたね。
全然エロ小説ではなかったです、私の感想。
すごい。
エロ事師たち (1968年) Amazon書評・レビュー: エロ事師たち (1968年)より
B000JA62Z8
No.31
(5pt)

おもろかった

町田康がエッセイで紹介してたので購入しました。
タイトルとはイメージが違いましたね。
全然エロ小説ではなかったです、私の感想。
すごい。
エロ事師たち (1967年) (ロマン・ブックス) Amazon書評・レビュー: エロ事師たち (1967年) (ロマン・ブックス)より
B000JA6VQ8
No.30
(5pt)

おもろかった

町田康がエッセイで紹介してたので購入しました。
タイトルとはイメージが違いましたね。
全然エロ小説ではなかったです、私の感想。
すごい。
エロ事師たち (1966年) Amazon書評・レビュー: エロ事師たち (1966年)より
B000JAB5UA
No.29
(5pt)

おもろかった

町田康がエッセイで紹介してたので購入しました。
タイトルとはイメージが違いましたね。
全然エロ小説ではなかったです、私の感想。
すごい。
エロ事師たち (新潮文庫) Amazon書評・レビュー: エロ事師たち (新潮文庫)より
4101112010
No.28
(5pt)

滑稽で愛すべき「性」への執着!

最近の中高生はエロ本を買わなくなっという。無理もないことだ。携帯電話のボタンを三つ操作すれば、簡単にエロ本よりもはるかに過激なエロ動画が簡単に手に入るのだから。
 もちろんそのこと自体を、モラリストぶって批判するつもりは毛頭ないれど、かろうじてインターネット隆盛の時代に乗り遅れエロ本を買う世代であった私は、そんな最近の中高生を「かわいそう」に思えてならない。
 中学生がエロ本を買いに行くという工程それ自体には、過剰なまでの滑稽さやアングラさがある。店員の目を必死に気にしながら、そこまでして俺はこのエロ本を手に入れたいのか、という情けなさとそれでも手に入れたいだという欲望。そんなものを体感しながら、女の裸を見るとき、私はなんとなく「性」というものの多様な面白さを直感した。
 携帯やパソコンでは、そんな滑稽さやアングラさはなかなか経験ができない。簡単にエロ動画が手に入り、セックスへの手続きも簡略かされた今日の中高生は逆に「性」を満喫できていないのではいか。
 そんな事を考えながら私はこの『エロ事師たち』を読んだ。

 「男どもはな、別にどうにもこうにもたまらんようになって浮気しはるんとちゃうんや。みんな女房をもっとる、そやけど女房では果たしえん夢、せつない願いを胸に秘めて、もっとちがう女、これが女やという女を求めはんのや。実際にはそんな女、この世にいてへん。いてえへんが、いてるような錯覚を与えたるのがわいらの義務ちゅうもんや。この誇りを忘れたらあかん、金ももうけさせてもらうが、えげつない真似もするけんど。目的は男の救済にあるねん、これがエロ事師の道、エロ道とでもいうかなあ。」(P146)

 こう考えるエロ事師、ズブやんは、処女売春斡旋、ブルフィルム制作、乱交パーティープロデュースなど、男の性への「錯覚」への奉仕邁進する。
 そこには性への「錯覚」にすがらざるを得ない、男たちの愛すべき滑稽で苛烈なサガが余すことなく描写されている。性を扱った小説は多いが、単なる性を「官能」から捉えるのではなく、それに伴う滑稽さやみじめさがこの作品からは伝わってくる。

 他人の性の欲望に奉仕した挙句、 自身は最愛の恋人を前にして性的不能に陥ったズブやん。美青年であるのに性的なものへの嫌悪感からダッチワイフを恋人としたカボー。性を芸術であると主張するものの、商業の論理に次々と妥協を重ねる伴的。
 エロ事師たちにすがる客だけではなく、彼らエロ事師たちも、「性」を目のまえにしては自分の情けない姿を次々とさらけ出していく。

 本書が発表された1964年より、情報技術が発達し、性の解放も進み、エロ事師をたのまずとも私たちは簡単に「性的な錯覚」を満足させることが簡単になった。日経新聞に「官能」をうたった文学作品(笑)がどうどうと掲載されるようになった今日、私たちは野坂が描いたような滑稽さや苛烈さをなかったこととし、商品としての性を安全に清潔に消費している。
 
 性のアングラが消滅とともに、人間の持つ最大の魅力の一つを私たちはまた失おうとしているのではないだろうか。
エロ事師たち (1968年) Amazon書評・レビュー: エロ事師たち (1968年)より
B000JA62Z8
No.27
(5pt)

滑稽で愛すべき「性」への執着!

最近の中高生はエロ本を買わなくなっという。無理もないことだ。携帯電話のボタンを三つ操作すれば、簡単にエロ本よりもはるかに過激なエロ動画が簡単に手に入るのだから。
 もちろんそのこと自体を、モラリストぶって批判するつもりは毛頭ないれど、かろうじてインターネット隆盛の時代に乗り遅れエロ本を買う世代であった私は、そんな最近の中高生を「かわいそう」に思えてならない。
 中学生がエロ本を買いに行くという工程それ自体には、過剰なまでの滑稽さやアングラさがある。店員の目を必死に気にしながら、そこまでして俺はこのエロ本を手に入れたいのか、という情けなさとそれでも手に入れたいだという欲望。そんなものを体感しながら、女の裸を見るとき、私はなんとなく「性」というものの多様な面白さを直感した。
 携帯やパソコンでは、そんな滑稽さやアングラさはなかなか経験ができない。簡単にエロ動画が手に入り、セックスへの手続きも簡略かされた今日の中高生は逆に「性」を満喫できていないのではいか。
 そんな事を考えながら私はこの『エロ事師たち』を読んだ。

 「男どもはな、別にどうにもこうにもたまらんようになって浮気しはるんとちゃうんや。みんな女房をもっとる、そやけど女房では果たしえん夢、せつない願いを胸に秘めて、もっとちがう女、これが女やという女を求めはんのや。実際にはそんな女、この世にいてへん。いてえへんが、いてるような錯覚を与えたるのがわいらの義務ちゅうもんや。この誇りを忘れたらあかん、金ももうけさせてもらうが、えげつない真似もするけんど。目的は男の救済にあるねん、これがエロ事師の道、エロ道とでもいうかなあ。」(P146)

 こう考えるエロ事師、ズブやんは、処女売春斡旋、ブルフィルム制作、乱交パーティープロデュースなど、男の性への「錯覚」への奉仕邁進する。
 そこには性への「錯覚」にすがらざるを得ない、男たちの愛すべき滑稽で苛烈なサガが余すことなく描写されている。性を扱った小説は多いが、単なる性を「官能」から捉えるのではなく、それに伴う滑稽さやみじめさがこの作品からは伝わってくる。

 他人の性の欲望に奉仕した挙句、 自身は最愛の恋人を前にして性的不能に陥ったズブやん。美青年であるのに性的なものへの嫌悪感からダッチワイフを恋人としたカボー。性を芸術であると主張するものの、商業の論理に次々と妥協を重ねる伴的。
 エロ事師たちにすがる客だけではなく、彼らエロ事師たちも、「性」を目のまえにしては自分の情けない姿を次々とさらけ出していく。

 本書が発表された1964年より、情報技術が発達し、性の解放も進み、エロ事師をたのまずとも私たちは簡単に「性的な錯覚」を満足させることが簡単になった。日経新聞に「官能」をうたった文学作品(笑)がどうどうと掲載されるようになった今日、私たちは野坂が描いたような滑稽さや苛烈さをなかったこととし、商品としての性を安全に清潔に消費している。
 
 性のアングラが消滅とともに、人間の持つ最大の魅力の一つを私たちはまた失おうとしているのではないだろうか。
エロ事師たち (1967年) (ロマン・ブックス) Amazon書評・レビュー: エロ事師たち (1967年) (ロマン・ブックス)より
B000JA6VQ8
No.26
(5pt)

滑稽で愛すべき「性」への執着!

最近の中高生はエロ本を買わなくなっという。無理もないことだ。携帯電話のボタンを三つ操作すれば、簡単にエロ本よりもはるかに過激なエロ動画が簡単に手に入るのだから。
 もちろんそのこと自体を、モラリストぶって批判するつもりは毛頭ないれど、かろうじてインターネット隆盛の時代に乗り遅れエロ本を買う世代であった私は、そんな最近の中高生を「かわいそう」に思えてならない。
 中学生がエロ本を買いに行くという工程それ自体には、過剰なまでの滑稽さやアングラさがある。店員の目を必死に気にしながら、そこまでして俺はこのエロ本を手に入れたいのか、という情けなさとそれでも手に入れたいだという欲望。そんなものを体感しながら、女の裸を見るとき、私はなんとなく「性」というものの多様な面白さを直感した。
 携帯やパソコンでは、そんな滑稽さやアングラさはなかなか経験ができない。簡単にエロ動画が手に入り、セックスへの手続きも簡略かされた今日の中高生は逆に「性」を満喫できていないのではいか。
 そんな事を考えながら私はこの『エロ事師たち』を読んだ。

 「男どもはな、別にどうにもこうにもたまらんようになって浮気しはるんとちゃうんや。みんな女房をもっとる、そやけど女房では果たしえん夢、せつない願いを胸に秘めて、もっとちがう女、これが女やという女を求めはんのや。実際にはそんな女、この世にいてへん。いてえへんが、いてるような錯覚を与えたるのがわいらの義務ちゅうもんや。この誇りを忘れたらあかん、金ももうけさせてもらうが、えげつない真似もするけんど。目的は男の救済にあるねん、これがエロ事師の道、エロ道とでもいうかなあ。」(P146)

 こう考えるエロ事師、ズブやんは、処女売春斡旋、ブルフィルム制作、乱交パーティープロデュースなど、男の性への「錯覚」への奉仕邁進する。
 そこには性への「錯覚」にすがらざるを得ない、男たちの愛すべき滑稽で苛烈なサガが余すことなく描写されている。性を扱った小説は多いが、単なる性を「官能」から捉えるのではなく、それに伴う滑稽さやみじめさがこの作品からは伝わってくる。

 他人の性の欲望に奉仕した挙句、 自身は最愛の恋人を前にして性的不能に陥ったズブやん。美青年であるのに性的なものへの嫌悪感からダッチワイフを恋人としたカボー。性を芸術であると主張するものの、商業の論理に次々と妥協を重ねる伴的。
 エロ事師たちにすがる客だけではなく、彼らエロ事師たちも、「性」を目のまえにしては自分の情けない姿を次々とさらけ出していく。

 本書が発表された1964年より、情報技術が発達し、性の解放も進み、エロ事師をたのまずとも私たちは簡単に「性的な錯覚」を満足させることが簡単になった。日経新聞に「官能」をうたった文学作品(笑)がどうどうと掲載されるようになった今日、私たちは野坂が描いたような滑稽さや苛烈さをなかったこととし、商品としての性を安全に清潔に消費している。
 
 性のアングラが消滅とともに、人間の持つ最大の魅力の一つを私たちはまた失おうとしているのではないだろうか。
エロ事師たち (1966年) Amazon書評・レビュー: エロ事師たち (1966年)より
B000JAB5UA
No.25
(5pt)

滑稽で愛すべき「性」への執着!

最近の中高生はエロ本を買わなくなっという。無理もないことだ。携帯電話のボタンを三つ操作すれば、簡単にエロ本よりもはるかに過激なエロ動画が簡単に手に入るのだから。
 もちろんそのこと自体を、モラリストぶって批判するつもりは毛頭ないれど、かろうじてインターネット隆盛の時代に乗り遅れエロ本を買う世代であった私は、そんな最近の中高生を「かわいそう」に思えてならない。
 中学生がエロ本を買いに行くという工程それ自体には、過剰なまでの滑稽さやアングラさがある。店員の目を必死に気にしながら、そこまでして俺はこのエロ本を手に入れたいのか、という情けなさとそれでも手に入れたいだという欲望。そんなものを体感しながら、女の裸を見るとき、私はなんとなく「性」というものの多様な面白さを直感した。
 携帯やパソコンでは、そんな滑稽さやアングラさはなかなか経験ができない。簡単にエロ動画が手に入り、セックスへの手続きも簡略かされた今日の中高生は逆に「性」を満喫できていないのではいか。
 そんな事を考えながら私はこの『エロ事師たち』を読んだ。

 「男どもはな、別にどうにもこうにもたまらんようになって浮気しはるんとちゃうんや。みんな女房をもっとる、そやけど女房では果たしえん夢、せつない願いを胸に秘めて、もっとちがう女、これが女やという女を求めはんのや。実際にはそんな女、この世にいてへん。いてえへんが、いてるような錯覚を与えたるのがわいらの義務ちゅうもんや。この誇りを忘れたらあかん、金ももうけさせてもらうが、えげつない真似もするけんど。目的は男の救済にあるねん、これがエロ事師の道、エロ道とでもいうかなあ。」(P146)

 こう考えるエロ事師、ズブやんは、処女売春斡旋、ブルフィルム制作、乱交パーティープロデュースなど、男の性への「錯覚」への奉仕邁進する。
 そこには性への「錯覚」にすがらざるを得ない、男たちの愛すべき滑稽で苛烈なサガが余すことなく描写されている。性を扱った小説は多いが、単なる性を「官能」から捉えるのではなく、それに伴う滑稽さやみじめさがこの作品からは伝わってくる。

 他人の性の欲望に奉仕した挙句、 自身は最愛の恋人を前にして性的不能に陥ったズブやん。美青年であるのに性的なものへの嫌悪感からダッチワイフを恋人としたカボー。性を芸術であると主張するものの、商業の論理に次々と妥協を重ねる伴的。
 エロ事師たちにすがる客だけではなく、彼らエロ事師たちも、「性」を目のまえにしては自分の情けない姿を次々とさらけ出していく。

 本書が発表された1964年より、情報技術が発達し、性の解放も進み、エロ事師をたのまずとも私たちは簡単に「性的な錯覚」を満足させることが簡単になった。日経新聞に「官能」をうたった文学作品(笑)がどうどうと掲載されるようになった今日、私たちは野坂が描いたような滑稽さや苛烈さをなかったこととし、商品としての性を安全に清潔に消費している。
 
 性のアングラが消滅とともに、人間の持つ最大の魅力の一つを私たちはまた失おうとしているのではないだろうか。
エロ事師たち (新潮文庫) Amazon書評・レビュー: エロ事師たち (新潮文庫)より
4101112010