(短編集)
とむらい師たち
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この時点で、いや現在ではなおさらのこと!“死”というものをこういう形で取り扱った小説はない、といっていいと思う。他国ではいざ知らず、この日本国において“死”は日常から遠ざけられ、とうとう隔離されてしまった。“死”はおそらく葬儀屋たちに丸ごと一任されている。つまり、“死”はその本人のものでもなければ、家族や近親者のものでもない。“死”は専門家のものなのだ。専門家とは何か?“死”を商売にする者たちのことだ。生老病死―それぞれに専門家が居て、生命保険会社や老人ホームや病院やらが担当を受け持っているのと同じように、“死”の専門家として葬儀屋が存在する。彼らは穢れを忌み嫌う日本人から、そのすべてを委ねられたのだ。そこにスポットを当てたことがまず特筆すべきだが、それは伊丹十三が「お葬式」に蘊蓄を傾けエンタテインした程度とはわけが違う。主人公の出自は“隠亡”だ。隠亡とは何か、よりも先に、まずこの字面がスゴイ。亡き者を隠す、だもの。そもそもこの“隠亡”は“御坊”と書いた。死にまつわる仕事は下級僧侶の仕事だったのだ。つまり、修行である。それがいつの間にか水飲百姓以下の穢多や非人の仕事となっていったようだ。これと今の葬儀屋に直接のつながりはないが、“死”をブラックボックスにして隠しているという点では同じだろう。その葬儀屋をなぜ“とむらい師たち”と言い換えているのか。“弔い”とは「人の死を悲しみ、遺族を慰めること」である。儀式でしかない“葬儀”を本来に還してやることを意図したのではないだろうか。もっと言えば日常の裏でひっそりと行われていたものを表に押し出すこと。“死”と対峙するメメント・モリ(死を思え)こそがひとつのテーマであろう。かつて藤原新也が出した写真集も同じ意図だった。しかし、それをこれほどバカバカしいまでにけたたましくおちょくっとんのかいな!というくらいえげつのう描いたことに実はこの作品の真骨頂があると思われる。 | ||||
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「とむらい師たち」 この時点で、いや現在ではなおさらのこと!“死”というものをこういう形で取り扱った小説はない、といっていいと思う。 他国ではいざ知らず、この日本国において“死”は日常から遠ざけられ、とうとう隔離されてしまた。“死”はおそらく葬儀屋たちに丸ごと一任されている。つまり、“死”は当の本人のものでもなければ、家族や近親者のものでもない。“死”は専門家のものなのだ。専門家とは何か?“死”を商売にする者たちのことだ。生老病死―それぞれに専門家が居て、生命保険会社や老人ホームや病院やらが担当を受け持っているのと同じように、“死”の専門家として葬儀屋が存在する。彼らは穢れを忌み嫌う日本人から、そのすべてを委ねられたのだ。そこにスポットを当てたことがまず特筆すべきだが、それは伊丹十三が「お葬式」に蘊蓄を傾けエンタテインした程度とはわけが違う。 主人公の出自は“隠亡”だ。隠亡とは何か、よりも先に、まずこの字面がスゴイ。亡き者を隠す、だもの。そもそもこの“隠亡”は“御坊”と書いた。死にまつわる仕事は下級僧侶の仕事だったのだ。つまり、修行である。それがいつの間にか水飲百姓以下の穢多や非人の仕事となっていったようだ。これと今の葬儀屋に直接のつながりはないが、“死”をブラックボックスにして隠しているという点では同じだろう。その葬儀屋をなぜ“とむらい師たち”と言い換えているのか。“弔い”とは「人の死を悲しみ、遺族を慰めること」である。儀式でしかない“葬儀”を本来に還してやることを意図したのではないだろうか。もっと言えば日常の裏でひっそりと行われていたものを表に押し出すこと。“死”と対峙するメメント・モリ(死を思え)こそがひとつのテーマであろう。かつて藤原新也が出した写真集も同じ意図だった。しかし、それをこれほどバカバカしいまでにけたたましくおちょくっとんのかいな!というくらいえげつのう描いたことに実はこの作品の真骨頂があると思われる。 | ||||
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この時点で、いや現在ではなおさらのこと!“死”というものをこういう形で取り扱った小説はない、といっていいと思う。他国ではいざ知らず、この日本国において“死”は日常から遠ざけられとうとう隔離されてしまった。“死”はおそらく葬儀屋たちに丸ごと一任されている。つまり、“死”はその本人のものでもなければ、家族や近親者のものでもない。“死”は専門家のものなのだ。専門家とは何か?“死”を商売にする者たちのことだ。生老病死―それぞれに専門家が居て、生命保険会社や老人ホームや病院やらがそれぞれ担当を受け持っているのと同じように、“死”の専門家として葬儀屋が存在する。彼らは穢れを忌み嫌う日本人から、そのすべてを委ねられたのだ。そこにスポットを当てたことがまず特筆すべきだが、それは伊丹十三が「お葬式」に蘊蓄を傾けエンタテインした程度とはわけが違う。主人公の出自は“隠亡”だ。隠亡とは何か、よりもこの字面がスゴイ。亡き者を隠す、だもの。そもそもこの“隠亡”は“御坊”と書いた。死にまつわる仕事は下級僧侶の仕事だったのだ。つまり、修行である。それがいつの間にか水飲百姓以下の穢多や非人の仕事となって行ったようだ。これと今の葬儀屋に直接のつながりはないが、“死”をブラックボックスに隠している点では同じだろう。その葬儀屋をなぜ“とむらい師たち”と言い換えているのか。“弔い”とは「人の死を悲しみ、遺族を慰めること」である。儀式でしかない“葬儀”を本来に還してやることを意図したのではないだろうか。もっと言えば日常の裏でひっそりと行われていたものを表に押し出すこと。“死”と対峙するメメント・モリ(死を思え)こそがひとつのテーマであろう。かつて藤原新也が出した写真集も同じ意図だった。しかし、それをこれほどバカバカしいまでにけたたましくおちょくっとんのかいな!というくらいえげつのう描いたことに実はこの作品の真骨頂があると思われる。 | ||||
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エロ事師たちのような軽快さやポップさを求めて読み始めましたが、また違う印象を受けました。 表題作の「とむらい師たち」はエロ事師たちの雰囲気にどことなく似ていますが、 読みやすさは数段上がり、ユーモアさが抑えられ、刺激やエグみが増えています。 しっかりと練りこまれた話もあれば、途中からぶっ飛んでしまう話もあり、 後味の悪さが残るものが多く感じました。全体的に重苦しく胸に残り圧倒されます。 なかでも「死児を育てる」は圧巻です。読み終えた方の心に響く何かが必ずあるだろうと思います。 火垂るの墓に通ずる部分もあり、胸を打たれました。 戦後の人びと、空襲による焼け跡、死、性のにおいが文学として小説のなかでリアルに生き続けています。 とにかく猥雑で残酷であり、ピュアな方や女性が顔をしかめるであろうドギツイ描写も多々ありますが、 文学として独自の文体を作り上げた野坂昭如は読む価値があります。 力強く芯のある小説です。装飾だらけの美文やお上品な小説に厭きたかたにおすすめします。 | ||||
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初期短編の名作から選んだ文庫オリジナル編集。 浣腸とマリア マッチ売りの少女 とむらい師たち ベトナム姐ちゃん 死児を育てる 色即回帰 解説 東山彰良 | ||||
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