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彼らは廃馬を撃つ
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彼らは廃馬を撃つの評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.60pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全10件 1~10 1/1ページ
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だがあくまでもドライに。バカな催しを通して生死や人生を食い物にする傾向はより悪化しているように見える。 | ||||
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1935年に書かれ、1970年と1988年に出版されてはいずれも廃版となっては、三度の光を浴びて復刊したのが本書である。しかしこれもまた再版とはならず現在は廃版の状態である。「廃版」とタイトルにある「廃馬」に重なるイメージがあるのだが、本も馬も人もいつかは廃棄される運命にあり、撃たれる運命にあるのかもしれない。 先日読んだばかりの『屍衣にポケットはない』で独特な感性とタフでぶれない軸を持った作家ホレス・マッコイの名を知り、二つの世界大戦の合間に展開するアメリカという社会の、大戦間ならではの独特な歪みをさらに検証することができるのが本書であると言っていいだろう。 『屍衣にポケットはない』では、街を牛耳る悪玉金持ちに新聞という名の報道まで持ってかれようという権力悪に、ただの一匹で立ち向かう男を主軸に据え、彼を支える一筋縄ではゆかない男女のアシスト役も目立っていた孤立チームの奮闘ぶりが何とも言えない魅力に満ちていた。本書はその二年前に出版された、中編というほどの短い物語であり、180ページに満たない物語だが、衝撃度はこちらの方が強いかもしれない。 戦争で儲かる一握りの権力者に対し、戦争で疲弊する社会の悲惨を強く感じ取ることができる本作は、『屍衣にポケットはない』と同様、一握りの金持ち対大勢の貧者という図式があり、そこにたくましく生きようともがく青春群像がはかなくも作品として燃え立っている。 本書で描かれる二人の男女は、さして深い知り合いでもないが、映画のエキストラをお払い箱になり、千ドルの賞金がかかったマラソン・ダンス大会に出場する。一時間五十分踊って十分間の休憩を取るという無期限のダンス競技に勝てば千ドルの賞金を手にすることができる、というほとんど狂気と言っていいような酔狂な金持ち主催の過酷なイベントなのである。 日々の休みなきダンス・レースの中で一日一日と多くの男女が脱落してゆく姿をマスコミが食いつき、見物客も絶えない。金持ちのスポンサーがそれぞれのカップルにつくこともあるらしく、一体この狂騒のダンス大会は何なのだろうと首を傾げているうちに、作品のなかの日々は少しずつだが過ぎてゆく。 ラストの衝撃がちと応えるのだが、そこで改めて本書の風変わりなタイトルのイメージが銃弾のように読者の感性を抉る。本作は1969年代に『ひとりぼっちの青春』という邦題で映画化されている。マイケル・サラザンとジェーン・フォンダ主演のこの英画を当時の映画誌『スクリーン』で知った覚えがあるが映画自体は記憶にない。 本書は最初から最後までカルチャー・ショックである。馬鹿げたマラソン・ダンス大会を道楽で開催する金持ち たちと、そこに参加するしか生活の寄る辺さえ稼げない貧しい男女たち。おまけに本書の主人公たちは知人ですらなく、ただこの大会のために出合頭的にペアを組んだ二人である。だからこそ衝撃のラストが切なすぎる。 時代を投影する作品として『屍衣にポケットはない』とどちらも強烈な印象を残すのがこの時代の作家ホレス・マッコイ。職業小説家とは言え、小説だけで食べてゆけるほどの売れ行きにも恵まれなかったこの作家の才能は、時代を超えて、今のぼくらの手の届くところで生き続けている。食べてゆくだけでも大変なこの時代と、それに負けぬエネルギーを秘めた若い男女とその生き様、滅びの美学、すべてのノワールの要素を凝縮したような震撼の一作と言えよう。 | ||||
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面白い、引き込まれます。 | ||||
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「ひとりぼっちの青春」という名作映画の原作です。ネタバレは他のサイトでたくさん読めるので控えますが、ざっくりしたあらすじを、言うと、メンヘラが、偽りのチープな希望を頼りに、踊らされまくります(物理的に)。絶望から始まり、闇にストンと落とされるような小説です。 映画版とは違い、小説は男らしい筆致というか、あっさり進みます。壮大な感情描写もなく、閉塞的空間の中、突き放すような物語です。 しにたい気分のときに、この小説のラストシーンを読むと、致命傷になり得る魔力があります。同時に、この本を読んでトコトン落ち込んで絶望することで、もしかしたら自分の現実が浮上するきっかけになるかもしれないし、ならないかもしれない。確証がないわ。 私は絶望した時この本のラストシーンを読み返します。そのたび、何度もしにたくなって、そして、なぜか何度も救われた気分になります。 トコトン落ち込んだダークな気持ちの時は、希望を歌いやがる巷の作品より、こうした冷ややかな絶望感を味わう作品のほうが向いてるのかもしれません。 | ||||
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職にあぶれたハリウッドのエキストラが、賞金を目当てに過酷なダンス大会に参加し・・・というお話。 フランスの実存主義文学に、ケインの「郵便配達夫はいつも二度ベルを鳴らす」と共に影響を与えたという事で有名ですが、個人的に実存という言葉が難しくてよく意味が判りませんが、何の為に我々は存在しているのかを探るという解釈でいいでしょうか(違ったらすいません)。 ここで行われるグロテスクなマラソン・ダンスは死の舞踏を踊った20世紀の暗喩にも思えるし、低賃金の為に毎日重労働を強いられ搾取される現代のロスジェネ世代の若者を彷彿とさせもするし、様々な解釈が成り立ちますが、わずかな金の為に過酷な競争に身を投じる若者の悲劇を活写した悲痛な青春群像のお話と思って読み応えのある小説だと思いました。 マッコイはこれと「明日に別れの接吻を」くらいしか訳されておりませんが、非常にいい作家だった様で、未訳の物も翻訳して頂きたいです。 悲痛な青春群像を描いて短いながらも読み応えのある小説。機会があったら是非。 | ||||
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タイトルも、映画化作品名も知っていたけれど未読だった作品。「永遠の本棚」は相変わらずセレクトが良いです。 映画の製作時期からして、アメリカンニューシネマに向いた、すさんではいるけれど瑞々しい青春物語を描いた小説なんだろうと勝手に思っていました。 が、瑞々しさとは真逆のこの渇き、この無感動ともいえる鈍い絶望--「若者たちの希望と絶望」と内容説明にあるけれど、希望なんてあっただろうか--もっと昔に読んでいたなら、これを実存主義の先駆的作品とみなしたというサルトルに頷き、無邪気にカミュとの比較などしてしまったかもしれませんが…貧困という言葉が普通に使われるようになってしまった現在の日本に生きる身としては、太平洋の波の音が通底音となっているこの狂乱の世界を美しいと思うことにすら、少しばかり気が咎めるような、そういうやるせなさを感じます。 ホレス・マッコイは理詰めのフランス実存主義なんてくそくらえ、と思っていたんじゃないかなぁ--ここにはもっと素肌に感じる執拗な痛痒さがあります。 | ||||
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映画を先に見ているので、主人公のキャラクターがどうもしっくりこない感はあったものの、 170頁ほどの中編である上にパルプ作家らしい小気味良い展開で、あっという間に読み終えてしまった。 映画の最後のシーンが原作では冒頭にあり、活字ではこの方が読者を引き込むには効果的だと思う。 これを機に、また映画を観てみよう。 | ||||
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角川文庫(絶版)は、古本価格が高値でしたので、この名作が復刊されたのは よかったです。文庫版は、挿絵が付いていたと記憶しています。 マラソンダンスとは、男女何組かのカップルが、競技場で約八時間に一回という 休憩時間を除いて、四六時中踊りづづけ、最後まで残ったカップルに賞金が支払 われるというものであった。1930年代の大恐慌時代に入ると、これが、不況との 相乗効果でグロテスクな見世物と化した。過酷な状況のもと精神錯乱に陥る者、 突然失踪する者、お互い殴る蹴るは日常茶万事で、観客の多くは、このグロと 醜態を見たさに競技場に詰めかけるようになった。金持ちは、もちろん高みの見物 である。そんな地獄のレースに、駆り立てた人々の心の闇とは何だったのか… 詩的な文章の短い小説ですが、現在の社会状況を考えると深いものがあります。 シドニー・ポラック監督の映画のほうも、服装や楽隊の音楽にいたるまで、この時代 のアメリカを感じさせてくれていい映画でした。 | ||||
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原題 They Shoot Horses,Don't They?(原著1935年刊) かつて王国社から出た単行本は幾度も読み返した。再び広く読まれる機会が訪れた事は我が事のように嬉しい。 「神様のかわりにピンチヒッター」に立ち、廃馬を撃つ映画監督志望の青年…大恐慌下アメリカの絶望的な青春像を描き、第二次大戦後のフランス実存主義文学にも多大な影響を与えた簡潔で乾いた文体の中に込められた痛ましい心情、それは余りに切なく甘美でさえあり読了後も激しく胸を揺さぶり続ける。 読み上げられる裁判の判決文と語り手の回想が交互にフラッシュバックする構成も巧みで主人公たちが陥る苛酷で非情な運命を見事に浮き彫りにしている。 作者自身は同一視される事を極度に嫌ったらしいが、ジェイムズ・M・ケインの『郵便配達は二度ベルを鳴らす』(1934年)と並ぶ1930年代ノワール文学を代表する傑作であり、若者を単純な労働力として使い捨てる抑圧と強欲が横行する現在の日本でこそ読まれるべき作品だと強く信じる。 なお印象的な表紙写真はシドニー・ポラック監督、ジェーン・フォンダ主演によって1969年に映画化された際のものである。 | ||||
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まず最初に、アマゾンコムにお願いしたい事がある。実は本書は、書名の【彼らは廃馬を撃つ】で検索しても、作者名の【ホレス・マッコイ】で検索してもヒットせず、通常ではどうすればこの商品ページに辿り着けるのか、不明なのである。『彼らは廃馬を撃つ』の検索でヒットするのは、原書のペイパーバックのみ。で、なぜかこのレビュー、ペイパーバックの商品ページにも掲載されてしまっている。最近のアマゾンはこういうところが本当にいい加減だ。 では一体アンタはどうやってこの邦訳書にレビューを書いたんだ?と言われそうだが、全く別の商品(もう何だったか忘れた)を検索していた時に、たまたま関連商品として出てきて「おおっ!」とばかりに欲しいものリストに入れたのだった。それ以来、このページには、欲しいものリストから入っている、とそういう訳だ(笑)。 ただでさえマイノリティな作家、ホレス・マッコイの読者が、アマゾンで本書を探しても見つけ出せないという悲しい事態が起きないように、検索でちゃんとヒットするよう、ぜひプログラムを改善して頂くよう切望する。 さて、本書『彼らは廃馬を撃つ』(‘35)は、’69年にシドニー・ポラック監督、ジェーン・フォンダ、マイケル・サラザン主演で『ひとりぼっちの青春』として映画化され、むしろその原作として知られているのではないだろうか。 1920年代から30年代にかけて、アメリカ各地で開催された「マラソン・ダンス」。昼夜を問わず踊り続け、最後に残ったペアに多額の賞金が渡されるという、アメリカならではの奇矯なコンテストを描いた物語である。時は折りしも大恐慌時代で、職にあぶれ貧困に餓えた若者たちがこの会場に群がり、参加者は食事にありつけるため、肉体・精神ともに限界を超えボロボロになってもダンスを続ける、鬼気迫る様相が展開した。こうした大会は、もちろんショウビジネスとして開催されたものなので、参加者たちをより追いたてるようなイベントが次々と追加されたり、ペアに公開結婚式を挙げさせる(で、大会の後にすぐ離婚)、といった見世物的な側面も強く、ライバルを蹴落とすために睡眠薬や下剤を使用したり、あるいは精神を病んで退場する者が続出したりと、人間の負の面が露呈する状況を興行にしてしまうという、アメリカの狂気の一端が垣間見え、「大恐慌時代の不気味な現象のひとつ」と呼ばれている。 1時間50分踊り、休憩は10分のみ・・・という非情なルールで昼夜踊り続けるという過酷な状況の中で、参加者たちが疲弊し、精神を病んでいく様子は、映画の中で俳優たちが迫真の演技で挑み、まさにトラウマ映画と呼ぶべき鬼気迫る作品になっている。その絶望的なラストシーンは、筆者が初めて観たとき、呆然となってしまった。 なぜこれほどまでに、彼ら彼女らは自らを追い立てるのか?その答えを求めて、手に取ったのが原作である本書だった。 一読して意外だったのは、この原作小説は非常に簡潔な文体で書かれていて、登場人物たちの心理に深く入り込んでいくような描き方をしていない、という事だった。 一応、主人公の青年の一人称で書かれているのだが、冷静に、そして客観的に事柄が描写されるだけで、主人公の苦悩や心の叫びといったものはほとんど描写されない。だから、いわゆる「トラウマ度」は、俳優の迫真の演技も相まって、映画の方がはるかに高いし、怖い。 登場人物や物語の展開は、ほぼ映画と同じで、コンテストの話題づくりのために公開結婚式を仕掛けるエピソードもある。ただし、ラストで言及される映画と違い、物語の中盤で早々に行われる。また、良風母親連盟といった良識ぶった女性の団体が、コンテストが低俗で下品で有害だとして中止を訴える描写や、殺人容疑で手配されていたイタリア人の若者がコンテストに紛れ込んでいて、刑事にしょっぴかれてゆくというエピソードなどは、映画にはない小説オリジナルの部分で、この辺はマッコイ自身が観て体験したものが投影されているのかもしれない。 何よりも驚いたのは、映画ではラストまで伏せられている「ネタバレ」が、いきなり最初のページで描写されている、ということである。ここに、映画と小説の根本的な違いがある。 筆者が本書を読みながら感じたのは、いわゆるパルプ・ノワールと呼ばれる、犯罪小説の文体に近いという事だった。ある種の扇情的な要素が−特に各章の頭の章立ての文句に感じられる。そしてそれはあながち間違いではなかった。ホレス・マッコイは、『ブラック・マスク』といった雑誌で犯罪小説を書いていた作家だったのだ。 ホレス・マッコイは、1897年にテネシー州ペグラムで生まれた。アメリカ南部を転々としながらタクシーの運転手を始めとする様々な仕事を遍歴し、第一次大戦では陸軍の航空部隊に従軍、その後、テネシー・ウィリアムズを輩出することになるダラス・リトル・シアターの創立に関わる中で執筆活動に関心を持ち、1920年代後半から『ブラック・マスク』誌などのパルプ・マガジンに犯罪小説を寄稿するようになる。そして1931年、俳優・脚本家を目指し、ハリウッドに向かう。 しかし、夢の都と信じたかの地は、大恐慌時代の真っ只中。せいぜいエキストラのような仕事にしかありつけず、マッコイはここでも日雇いのような仕事を転々とする事になる。農園での労働、プロレスラーの代役、ストライキの監視員、ソーダファウンテンの売り子などで食いつなぐ極貧生活が待っていた。そんな中で彼が就いた仕事のひとつが、「マラソン・ダンス会場でのガードマン」だった。当時、西海岸には多くの桟橋が作られ、ダンスホールなどの遊興施設が活況を呈していた。マッコイが警備員として仕事をしていたのは、サンタモニカ桟橋のダンスホールで、後に時代の趨勢の中で多くの桟橋が解体され、焼失などしてしまう中で、サンタモニカ桟橋は、現在も残っている数少ない桟橋のひとつだそうだ。 こうして目の当たりにしたマラソン・ダンスの様子をマッコイは嫌悪し、それが本書を執筆するきっかけになったと言われている。本書が一種パルプ・ノワールのような簡潔な文体で書かれているのは、もともとパルプマガジンを中心に執筆活動をしていたことが背景にあるようだ。 しかし、彼の野心作であったこの長編第一作は、出版されたもののアメリカ本国では全く売れなかった。その代わりにハリウッドから声がかかり、以降20年に亘り、亡くなるまで脚本の仕事を続けることになる。しかし、マッコイの映画界における仕事というのはきちんとした記録として残されておらず、一説には100本以上の映画に関わったと言われる中で、確認されているのはわずか30本ほどの作品で、しかもほとんどが共作だという。ヘンリー・ハサウェイ、ラウォール・ウォルシュ、ニコラス・レイといった、中々骨太な監督たちと仕事をしていたというので、きっとマッコイならではのアイディアや設定が活きた映画というのが少なからずあったはずなのだが、残念ながら彼の功績は映画史の中に残されていない。 ここまで読んで、誰かを連想する方もいるのでは・・・そう、「ダイムストア(安雑貨店)のドストエフスキー」と呼ばれたパルプ・ノワールの狂犬、ジム・トンプスンの経歴にそっくりなのだ。トンプスンも生前は正統な評価を受けず、彼の小説に感銘を受けた若きキューブリックに声をかけられ、初期の映画の脚本執筆に協力している。 そしてジム・トンプスンの例にもれず、作家としてのマッコイを最初に評価したのはフランス人だった・・・そう、あの「セリ・ノワール叢書」に、マッコイの初期2作品『彼らは廃馬を撃つ』(‘35)と『No Pockets in a Shroud(屍衣にポケットはない)』(‘37)が収録され、その簡潔な文体がむしろ幸いしたのか(笑)、「実存主義文学」とか「プロレタリア文学」といった評価を受け激讃される。ヘミングウェイ、フォークナー、スタインベックと並び論議される「注目のアメリカ人作家」に祀り上げられたのだった。まさにスッポンから月への急上昇。ここに至り、保守的なアメリカ出版会もその噂を聞きつけようやく重い腰を上げて、マッコイの小説が続々刊行され、1940年代後半になり、マッコイはようやく名声と成功を得ることになる。それは晩年の、亡くなるまでの数年間のことだった。 マッコイが残した長編小説はわずか6冊で、日本で出版されているのは、第一作『彼らは廃馬を撃つ』と第四作『明日に別れの接吻を』(‘48)の2冊のみ。他は、短編の犯罪小説が数篇、ミステリー雑誌などに掲載された程度である。 日本で熱意をもってマッコイを紹介されたのは、本書を翻訳した常盤新平氏で、「以前から翻訳したかった小説だった」と後書きに書かれており、氏によるエッセイ集『ニューヨーク紳士録』の中でも、マッコイについて語っている。 そして、その常盤氏を「私の翻訳の師匠」と仰ぐ小鷹信光氏が『パパイラスの舟』の中で「実存的抒情航路」というタイトルでホレス・マッコイ論を書かれ、同氏が編纂した『ブラック・マスクの世界』の第1巻で、マッコイのノワール短編「黒い手帳」を掲載・紹介している。これはテキサス航空警備隊の「フロスト隊長シリーズ」ものの一篇で、マッコイが陸軍航空隊に従軍していた時の経験を元に書かれたものだと思われる。 他には、『明日に別れの接吻を』の後書きで、翻訳者の小林宏明氏がマッコイの経歴などについて詳しく、かつ判り易く紹介されている。 他に、日本語で読むことのできるマッコイ論としてはトマス・スチュラークによる「ホレス・マッコイの客観的抒情性」(ミステリ・マガジン 1980年11月号)があるというが、残念ながらその中味は未確認、ぜひ読んでみたい。 最後に、筆者が現在知りうる、日本語で読めるマッコイの作品を以下に記す。 【長編小説】 『彼らは廃馬を撃つ』常盤新平・訳 角川文庫/後に王国社からハードカバーで改訳版が発売 『明日に別れの接吻を』小林宏明・訳 ハヤカワ・ミステリ文庫 【短編小説】 『黒い手帳』村山汎・訳 国書刊行会「ブラック・マスクの世界1」所収 『マーダー・イン・エラー』小鷹信光・訳 「ミステリマガジン」1972年6月号 『グランドスタンド・コンプレックス』小泉徹・訳 「ミステリマガジン」1973年10月号 『テキサスを駆ける翼』佐和誠・訳 「ミステリマガジン」1977年10月号 『ハリウッドに死す』名和立行・訳 「EQ」1978年5月号 | ||||
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