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忘却の河
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忘却の河の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.74pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全19件 1~19 1/1ページ
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40年以上振りに読んだ。 ほとんど覚えていなかった。 読んだはずなのに。 この読後感はなんだろうか。 三途の川を渡る時、その水で洗うことで障りが流れていく。その水を飲むことで忘れて行く。まるで赤ん坊のような存在となると思う。 閻魔大王は行状をご覧になって、再生か極楽かを決める。 亡くなった夫人を除いて、家族は最後は再生したかの様に見える。夫人もあの世で、かつての彼と会って再生しているのだろうか。 別の作品も読んでみたい。 | ||||
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ネタバレを含みます。 実は、或るお世話になった方から、「同じ読むなら、こういう作品をお読みなさいよ」と、昔に私、言われていたのでした。それが、『忘却の河』でした。 時代は、戦後すぐか、戦後二十年ほどたった頃といった処のようだ。 主人公(初老の社長)は復員して帰ってから会社を興し、今では秘書つきの社長になっている。 主人公は、戦友が死なず、自分が生き残ったことに後ろめたさを抱いている。 また、妻との間の初めての子を幼い内に病気で失くす、という経験もあり、その二つの事が、主人公のなかで大きなトラウマになっている。 颱風のある日、自社ビルの脇で蹲っていた女を、主人公は善意から彼女のアパートまで送っていく。 ところが、彼女の容態は急を要するほどに悪かったので、そのまま救急車を呼んでやる。(携帯電話など勿論なかった時代に、公衆電話を探しまわって救急車を呼ぶ) 水商売で生計を立てていた女だったが、病気に罹り経済的に困窮している。 主人公は、金銭的に彼女を助けたり、病院に見舞いに行ったりする。 この行動は、実は、二つの罪への罪滅ぼしの意味が内心にあったのだと、読んでいて感じた。 退院後の女が無事にやっていけるだろうか、との心配から、主人公は女のアパートにときどき伺うようになる。 そのアパートの前に掘り割りがあり、ーーー水の澱んだゴミの浮く猥雑な所ーーーその掘り割りを、初めは川と思いこんでいたので、象徴としてタイトルに結びつく訳だが。それに、主人公自身、ローマ神話の忘却の河という存在を記憶していた。 全てを忘れてしまう、という死人がその水を飲む川、それが忘却の河としている。 久しぶりに訪れた彼女の部屋は、既に引き払われていた。 管理人に訊き、彼女の実家へ伺うと、彼女は身ごもって海に身を投げて死んだのだと分かる。 明らかに、自分との関係で出来てしまった子だった、と思える。 せめて、相談してくれたら、認知してやるつもりも生活を全面的に支えてやるつもりもあったのに……。 嗚呼、自分とは、何と罪深いのだろうか。戦友が死んだのに自分は生きて帰ってきた。妻との子は幼い内に失した。そして、今度は、顔も見ない内に子の命を奪ってしまった。 女の故郷の近くの賽の河原へ行って、小石を積んで懺悔して帰ってくる。 忘れてしまいたい。忘れさせてほしい。自分の罪をなかったことに出来れば、どんなに自分も周りも救われるだろうか。そういう思いが、ひしひしと伝わる。 女が、「私には、これくらいしかお返しすることができないで」(本文の文章通りに再現できていないかもですが)と、主人公に身体を供しようとする。女の独り言のような話しの描写が、切々と胸に迫り、琴線を刺激する。 素朴な言葉。繰り返す単純なモノローグの文体。 それだからこそ、著者の内面がダイレクトに伝わるのだろう。 | ||||
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ある家族の物語。夫、妻、2人の娘、娘の一人に関わる男の独白で、物語が進んでいく。 会話に「 」を使っていなかったり、三人称が混ざったりする独特の文体だが、とまどうことなく読める。 この本は仕事の休憩時間に少しづつ読んでいたのだが、第4章の「夢の通い路」があまりにも素晴らしく、気がつくと涙が滲んでいたので、あわてて持ち帰って、続きは家で読んだ。式子内親王のいくつかの短歌を自然に絡めた文章で、見事に妻の心情を表現している。人生何十年も生きていると、だんだんスレてきて、本を読んで泣くことなどそうそうなくなってくるのだが、久しぶりに本を読んでいて泣いてしまった。 福永作品は、時に「甘すぎる」(文章が感傷的すぎる)と言われ、軽んじられることがあるが、ここまで極めていると凄いと思う。 どの章も完成度が高くて、それぞれ短編としても出せるくらいじゃないかと思っていたら、本人のあとがきによると、実際に、ひとつづつ連作形式で発表したものだそうだ。 テーマは、愛と後悔だと感じた。あるいは人生のあきらめ(若い娘2人については、まだそんなに重い話はない)。 この物語の夫婦ほど重い体験はそうそうないにしても、誰でも人生でひとつやふたつは、家族関係にしろ恋愛にしろ、苦い後悔を抱えているものだ。 それを普段は思い出さないように、蓋をして生きているものである。あの時は、仕方なかったよねと自分に言い訳しながら。そのへんの痛いところを突かれるので、この小説は凄いのだと思う。 家族の構成員の中で、この2人はこのことを知っているが、あとの2人は知らないというようなことも実際にはよくある話で、そういう細かい描写があるのも、この物語にリアリティーを与えている。 『草の花 』も悪くないのだが、『忘却の河 』のほうが、ずっと深くて素晴らしい。福永武彦は、もっと読まれるといいなと願っている。 | ||||
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私は今46歳で、夫、中高生の2人の息子達がいる。 たまたま近所の本屋で何気なく手に取ったこの本を、出だしの数ページを立ち読みして気に入り、衝動買いしたのが数年前。 その後読まずに本棚にあったままだったのをふと思い立ち、今日一日で夢中になって読んでしまった。 特に「夢の通い路」が心に響いた。 久しぶりに文章が心を捉えて離さなかった。 このような読書体験を与えてくれた筆者と、この本を店頭に並べてくれた書店に、心から感謝したい。 | ||||
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大学の講義で読みましたが、とても面白かったです。 父、母、長女とその彼、次女 この5人が、各章に分かれて読者に語りかけます。 教会にある懺悔室で、この一家の人々の独白を聞いているような気分になります。 それぞれの心の痛みが、お互いを歪め合い、複雑に密接に絡み合っている様子は 実際の一家を福永武彦が横で見ていたのではないかと思うくらい、リアルです。 人の性格や、心のひずみは、変えようと思っても中々変わらない、 全編通して暗い小説ですが、最後にささやかな救いがあってよかった。 美しい小説でした。 | ||||
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だったので、また読みたくなり、購入しました。昔とはまた別な感想を持ちましたが、話の面白さは衰えてないと思いました。 | ||||
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何かにぐっとつかまれてそのままその人の意識の奥の底のほうへぎゅーっと連れてゆかれる。母が亡くなりそれが家族の転機となる。これがあと数年あとだったらどうなっていただろうか。長女は、次女はまだ家にいるのだろうか。父親はどうだろうか。父親に対しては「本当は優しい人」なのだと何度も語られるが、本当にそうだろうか。読んだ後も意識の底に引きずられたまま、なかなか上がってこれない。こんな小説はあまりない。 | ||||
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あまりにも古すぎた。古いだけで、これを古典と言うには本当の古典文学に申し訳ない。 | ||||
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大好きな作家です 文章と文章の間にも詩と言うか情感を感じます。もっとKindle版に福永武彦の作品をお願いします | ||||
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人間の実存的問題ともいえる「愛と孤独」を一貫したテーマとした福永文学の中でも、 この『忘却の河』は特筆されるべき傑作である。 主人公である私、その妻(既に故人であるが独白者として登場する)、 二人の娘から成る家族を中心的登場人物に据えて、他者がまったく知ることのない それぞれの個人の意識を独白形式で示しながら、人間に秘められた「孤独の問題」を提起させ、 それを「愛」というキーワードに沿って、誠実に解き明かしてゆこうとした見事な作品である。 それぞれの登場人物は、各々が個人的な人生の問題を抱えている。 作品の中では、それを丁寧に読者の前に提示して披瀝してみせる。 読者はそこで、家族といえども一人一人はまったく異なる人生の疑問を抱え、 自分の人生を悩みながら見つめていることを知るのである。 福永の作品全般において、世の中に必ず起こりうる経済上の貧困問題や 醜悪な人間関係を臭わせる人物を登場させることはない。 そして、登場人物には悪人も登場しない。 作品中の人物たちはみな真面目な人生を歩み、他人(ひと)を愛しながらも、 結局は、愛する者たちとの別離へと至る運命を迎えることとなる。 つまり福永は、「愛するが故の孤独」という、人間にとって必然的な運命を描き出すことを 徹頭徹尾文学的主題としているのである。 しかし、この『忘却の河』が福永文学の他の作品と趣向が異なるのは、 そのような物語の行く先において「救い」を示しているところである。 家族一人一人がそれぞれの孤独の意識の中で孤立していた状況が、 次第に結びつけられてゆく。冒頭に述べた、この作品が福永文学の中でも 特筆に値する意味をもつという理由は、この意味においてである。 それにしても、福永武彦という文学者は、どの作品においても考え抜かれた ストーリー構成の中で、この上ない美しい文章を紡ぎ出し、 「愛と孤独」の状況を人間の底知れぬ意識の深みを通して描き出している。 そして、読者はすっかり彼の世界の中に、読み沈められてしまう。 福永武彦は現代にはもはや存在しない、まさに偉大で希有な作家であった。 | ||||
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親からの頼まれ物で、手頃な値段で購入出来て良かったと思う、親からも、感謝されたので、良かったと思う。 | ||||
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プルーストが、どこかで、ある絵画を取り上げていた。その絵画は、境界が曖昧に描かれていた。海に浮かんでいるべき船の面影が、陸の建物にのり移り、陸にあるべき建物の描写が、海に浮かぶ船にのり移っている。 というのは、私の曖昧な記憶による、いい加減な記述だけれど、福永氏は、本作において、これに似た描写をなしている。福永氏のそれは、過去と現在との〈さえ〉――この〈さえ〉には、〈境界〉という意味と〈罪障〉という意味とがある、と作中にある――が曖昧に描かれている。ということはつまり、過去に犯した〈さえ(罪障)〉と現在のそれとの〈さえ(境界)〉が曖昧に、というよりは、お互いがお互いを相食みながら、描写されている。 罪の自覚のないところに、愛は存在しない、そんな言葉に出会った。これも、私の曖昧な記憶による、いい加減な記述だけれど、あるいは、と私は考えた。太宰は「人間失格」の主人公である葉蔵に、〈罪〉の対義語は〈罰〉ではないか、と結論めいたことを導き出させている。あるいは、これは、違うのではないのか、〈罪〉の対義語は、〈愛〉ではないのか。 誰かを苦しめた、悲しませた、傷つけた、負の感情を抱かせた、自分はだめな人間だ、自分は汚い奴だ、そういった罪の意識を自覚できるかが、人を愛せるかどうかの〈さえ(境界)〉をなしているのではないだろうか。私は、人を愛することができないらしい。 閑話休題。藤代の次女は、自分は藤代の子ではないのではないか、と疑念を抱いている。しかし、その疑念は的外れなのではないか。 前田愛氏の説だったと思うが、文学作品において、〈二階〉(あるいは、これに類した空間)には、〈非現実〉の世界が広がっているのだという。芥川の「羅生門」や、太宰の「人間失格」にも、これはあらわれている、という指摘も目にした。目的地は、もう近い。 「忘却の河」においては、藤代が間歇的に訪れては、過去を回想する空間として、アパートの〈二階〉が登場している。藤代の次女の部屋は、〈二階〉にある。父と娘、二人は空間を異にしてはいるものの、〈二階〉で時を過ごす、という習慣を共有しているのである。共通の習慣は、共通の嗜好のあらわれではないか? よって、私は、次女は藤代の実の子である、と考えている。 附記。イエス・キリストは、人類が犯した〈罪〉をあがなうべく、十字架にかけられる。これは、究極の<愛>の行為である。<罪>と<愛>。<罪>は地上のもの、<愛>は天上のもの、<罪>は人のもの、<愛>は神のもの、福永氏が、そんなことを意識の<さえ>(閾)にのぼらせたかどうか、それは、私は知らない。しかし、これは、私のカンであるが、この作品を読み解く一つの鍵として、<さえ>という言葉が登場しているのではないか、と私は見ている。 | ||||
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人気作家、池澤夏樹氏のご尊父にあたる作家。現代作家を中心に読む読者であっても、興味をそそられるところだが、そのストーリー、表現、構成において、完璧な調和。読後には、人間のはかなさのようなものが心にのこる。美しい一遍。 | ||||
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ある家族の物語。 悲痛。 テーマは愛、憎しみ、罪、贖い、魂の救済。 父と長女、 父と次女 この2関係が、それぞれの形で最後に和解に到達してくれたことで救われた気持ち。 この終わりでなかったら、居た堪れなくて読後感最悪だったかもしれない。 それにしても、果たして、人は救われることなどあるのだろうか。 | ||||
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福永武彦。偉大な作家である。 彼の作品をいろんな人に読んでもらいたい、 知ってもらいたいと、切に思う。 だが、彼の作品の数々が絶版の憂目にあっている。 現状は厳しい。 そんな中での「忘却の河」復刊。 名作は手元に置いておきたいものである。 本屋に並んでいて欲しいものである。 「死の島」の復刊も願う。 | ||||
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帯には、『人生に二度読む本』とあった。かつて、この作品をタイムリーで読んだ世代の為に、再び文庫本として世に出たのならば、初めて読んだ私も出版社の良心や美意識をちょっとばかり感じました。ベストセラーのリストを見ては読みたくないかも、の連続。書店では一冊も手にする事無く帰宅する事も少なくない。ネット書店を通じて、気軽に手にしたこの一冊の余韻に浸っています。家族それぞれの秘めた胸の内をもしそれぞれが知っていたならば、ここに出てくる家庭の様子も違っていたかも知れないのかな?けれども、多くを相手に語ることはないけれども、心の中での語りの部分、その深さに愛情を感じました。空気を読めと実生活の中で言われても、何でよ〜!と思ってしまいますが、逆に語らない、その部分を慮っていく事も大事なんだなと思いました。 | ||||
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連作長編である。 それぞれの物語は、主人公の独白で構成されている。 40年前が舞台になっているので少々古めかしいが、普遍的なテーマを扱っているから第一章を読み終える頃には違和感はなくなる。 若かりし頃、自分の優柔不断が原因で自殺した恋人、自分より遙かに若い戦友の死に立ち会った体験、藤城は孤独な思いを抱えたまま年を重ねている。 物語はそこから始まるが、藤城が主人公と定まったわけではない。 漂泊の魂と孤独な愛 というバトンが次の走者に手渡されるのである。 今の若い人が書いた小説は、個人が持つ焦燥感についてはよく表現されていると思うが、なぜ焦燥感があるかの分析はしていない。 『イライラするのよね、でも満たされるときもあるからそれはそれでいいんだと思う。 とりあえず今の恋人は大事にしたい。 いつか幸せになれるかもしれないし・・・』 読み手は共感するけれど、そこまでで終わりである。 人が生きるのは大変なことである。 しかし我々はいずれは死んで忘却のかなたに去っていくのだ。 人はなにを手がかりにして生きていけばよいのだろうか。 当時46歳の福永武彦は、このテーマに正面から取り組んで、登場するそれぞれの人物に答えを出している。 久し振りに、小説らしい小説を読んだ。 | ||||
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多くの人が指摘するように、この小説の構成は完璧である。 私はこの作家の「草の花」を最高だと思っていたが、それをある人に言ったら、「あの作品は甘すぎるよ」とした上で、「忘却の河」と「死の島」こそが最も優れていると言われた。いまでも私は「草の花」がいちばん好きだが、でも「忘却の河」を読み返してみて、あらためてそのストーリー構成の見事さに圧倒され、考え込んでしまった。 | ||||
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内容自体は哲学にも通じるものがあり、重く深いものです。 人間が生きるうえでの悩みや憤りと言うものが、全面に表現されています。 一章毎に異なる人物が主となり心情が語られ、最終的には全ての人物のすれ違っていた心が繋がります。 私の文学人生において、ベスト5に入る作品です。 現在文庫本の増刷はありませんが、作品集等では読むことが出来ると思います。 是非一度読んでみてください。静かでありながら深い感動が得られるはずです。 | ||||
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