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(短編集)

芝公園六角堂跡



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【この小説が収録されている参考書籍】
芝公園六角堂跡

芝公園六角堂跡の評価: 2.63/5点 レビュー 16件。 Dランク
書評・レビュー点数毎のグラフです平均点2.62pt


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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です

※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください

全2件 1~2 1/1ページ
No.2:
(3pt)

私達が読みたいのはこんな貫多じゃない!

有名な大きな賞を受賞し、貫多はもうお金にも生活にも困っていません。
なので、もうゲスいことをして生きる必要などなく、
昔から憧れていたミュージシャンのライブに招待されるほどの作家になりました。

でも私はこの貫多の成功を素直に喜べません。
生活レベルや社会的な立場が変わり、「ギラギラ感」「むちゃくちゃ感」がなくなった。
だからこの作品はこれまでのに比べるとつまらない。
西村賢太の私小説の魅力はそこだったのに、
作家としてそれなりに成功した故にそれを失ってしまうなんてなんという皮肉なことか。
相変わらず言葉のチョイスは抜群に面白いけど、
私たちが読みたいのは、こんな貫多じゃないんだよなぁ。
芝公園六角堂跡Amazon書評・レビュー:芝公園六角堂跡より
4163905251
No.1:
(3pt)

読み物として読者を愉しませる地点に向けて主人公をどこまで「虚構化」できるかが今後の課題

本書は2015年から2016年にかけて文芸誌に掲載された短編を4編収録。

「芝公園六角堂跡」(文學界(掲載誌)2015年7月号)
「終われなかった夜の彼方で」(文學界(掲載誌)2016年新年号)
「深更の巡礼」(小説現代(掲載誌)2016年2月号)
「十二月に泣く」(すばる(掲載誌)2016年6月号)

芥川賞受賞後の「北町貫太」を描いたもの。

将来、西村賢太の作品群を分類する場合には、
「前期」=(芥川賞受賞前)と「後期」=(芥川賞受賞後)
という大きな枠組みが作られる事が推測される。

「前期」の諸作品に頻出する貧困や肉体労働をベースにしたモチーフは
「後期」には使えない道理であり、
それが作品全体から受ける印象を大きく変容させているためだ。

「貧困譚」で頻出する自虐的な記述から生み出される諧謔味が無い本作に於いては、
これまでの西村作品を魅力のあるものに見せていた要素が消滅しているようにも感じられ、
事実、レビューなどを参照しても、失望の声が少なくないように見受けられる。

実際、「ダメ人間を演ずるとき用の、例のユニフォーム姿」(12頁)と称して、
敢えて見すぼらしい恰好をするという記述などを目の当たりにすると、
前期作品において読者に植え付けた「人生の落伍者」的イメージを裏切らない為の
作者流の配慮の有り様なのだろうと一応は理解しつつも、そのリアルな屈折ぶりと
小賢しい「営業戦略」ぶりに、
読者としてどこか白けた気分になってしまうのは避け難いのである。

ここで改めて、四編の概要を記しておく。

『芝公園六角堂跡』
都内で愛好家を自任するミュージシャンの演奏を鑑賞した後、大正期の私小説作家である藤澤清造が
凍死したという場所に佇み、作家の半生と自身の若き頃に思いを馳せる。
そして、この十年間私小説を書き続けてきたそもそもの根本的な動機は藤澤修造の没後弟子たる
資格を得る為であるという事を忘れかけてしまっているのに気づき、反省を深める。

『終われなかった夜の彼方で』
「芝公園六角堂跡」を書き上げた動機についての説明と後日譚。
馴染みの古書店に於ける、藤澤修造の直筆資料の入手を巡る話。
私小説作家としての初心に立ち戻ることを決意するという内的モチーフを
中核に据えているという意味では「芝公園六角堂跡」と似通っている。

『深更の巡礼』
貫太が藤澤清造の没後弟子を名乗る前に傾倒していた無頼派作家、
田中英光の作品集の発刊に関連しての諸作業にまつわる話。
本編に於いても「芝公園六角堂跡」を書き上げた動機についての記述がある。
『藤澤修造の〝没後弟子〟との看板が、無意識のうちにもどこか形骸化したような自身の心情を、
ここで一度しっかりと検分しておく、火急の要に迫られて書いたのである』(122頁)
また「終われなかった夜の彼方で」と同様、藤澤修造関連資料の落札にかける貫太の
執念の強さを書き込んでいる。標題の「巡礼者」は最終行から取ったもの。
『貫太は田中英光作品のゲラに、或る種の巡礼者の面持ちをもて没入するのだった』(148頁)

『十二月に泣く』
2015年の12月、寛太が能登七尾にある藤澤修造の菩提寺に赴いたときの話。
掃苔の最中に藤澤修造の直筆資料が出てきたとの連絡が骨董店から入り、
不意に感情を高ぶらせて嗚咽を漏らす。

古書店の店主との遣り取りなど、ある種の生々しさがあって、興味をひく部分もある。
しかし、当然の事ではあるが、藤澤修造の没後弟子を名乗る貫太の姿も、ともすると
変人扱いされかねなかった無名時代のそれと、社会的に認知されて経済的な困窮からも
脱したそれとでは、その印象の意味合いがまるで異なったものとなってくるわけであり、
狙いの古書(藤澤修造関連資料)を高値で落札するという行為一つを取ってみても、
借金をしてでもそれらを入手しようと奮闘していた無名時代の健気さが希薄になっている分、
どうかすると身銭を切る素振りにさえ嫌味な空気が漂いがちになったりもするのだ。
同様の意味あいに於いて、本書のなかで自身を「五流のゴキブリ作家」
などと卑下する記述に対しても、違和感を覚えないわけにはいかなかった。

この「違和感」を別の言葉に置き換えるとすれば、自己像と「受賞後の貫太」
との距離感が、私小説作家としてまだ上手く掴み切れておらず、社会的成功を収めた
北町貫太のパーソナリティを小説作品として昇華できる程には十分に「虚構化」できていない、
という事になるのだろうと思う。

そのような意味では、作者が本書の刊行に際してメディアに向けて発信した情報、
「読み手がどう思おうといい。受け狙い的な記述は一切なく、書きたいことを書いた…」
という言葉も、貫太像を虚構化する作業を放棄した
(或いは技術的な困難に直面している)と解釈することもできるように思う。

以上の事柄を踏まえた上で感想を述べると、「私小説」という括りの中で、
読み物として読者を愉しませる地点に向けて、西村賢太が、
世間に名前の知られた職業作家に成長した北町貫太の存在をどこまで虚構化できるのかが、
今後の課題になるのだろうと思う。
芝公園六角堂跡Amazon書評・レビュー:芝公園六角堂跡より
4163905251

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