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(短編集)
一人称単数
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一人称単数の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.83pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全166件 161~166 9/9ページ
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最期に収められている、一人称単数は、村上春樹さんしか、書けないかもしれない。いい小説を読んだ。 何度も読み直してしまった。どういうことかなあと。これも、実はエッセイではないか?実話ではないか? そんな風に思えた。だがしかし、まさか? 村上春樹さんに、こんなことが、あり得るのか?? そこのところを聴きたい。 経験していなくて書けたとしたら、やはり素晴らしい。と、ここでは書いておこう。 短編集が好きなので、全体には、一つ一つが、独自のスモールワールド観が出ていて、とても楽しめました。 「ヤクルトスワローズ詩集」は、エッセイとして、とても楽しめました。 全体がエッセイ?実話?それとも全体がフィクション?いやノンフィクション? わからなくなるところが、いいのかもしれない。 全体に、村上さんの人間味が身近な感触で、すごく感じられたのは良かった。 もう丸1.5日で読んでしまいました。 しかし、もう少し、違うものを期待していた自分がいた。 それは、否めないけれど、勝手な自分の願望だと思う。星が一つ少ないのはそのためです。 | ||||
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短編「ウィズ・ザ・ビートルズ With the Beatles」のp.79に出てくるパナソニックのトランジスタ・ラジオの具体的な製品はなんなのか。そもそもそんなものは存在しないのか。 インターネットを検索すると、いろいろな種類のものが見つかります。 ナショナル・パナソニック R-803。これは1963年製のポータブルラジオ。同R-807 Transister 8。こちらは1964年製のポータブル。据え置き型だと1963〜64年でヒットしたらしいR-8 "パナペット"というのがある。R-8型の後継機種のR-80 パナペット7ってのもあるけど、1965年製で微妙に遅い。私はR-80だとカッコ良くてといいなと思うのですが、どうなんでしょう。あまり話の筋に関係ないですかね。でも、ラジオから「クロージョーアーイアンダイキッシュユー」って流れてくるのを想像するのって良く無いですかね? いかにも1960年代初期って感じで。。。リアルタイムじゃないので偉そうには言えませんが。 あと、最後に納められている短編「一人称単数」について。 一人称単数の主人公は、バーであった見知らぬ女性から「あなたは、私の友人に過去にひどいおぞましい仕打ちをした」、となじられてしまう。主人公にはそのような記憶はないのだが、反論せず、そのバーから逃げ出してしまう。 そんなひどいことをしたなんて記憶にない。記憶にはないのに、主人公はその内容を知ることを恐れている。 実は本当は何かやってしまったんじゃないのか。それを思い出してしまうんじゃないのか。 この短編の最後は、「「恥をしりなさい」とその女はいった。」だ。 目を背けたくなるようなおぞましい、ひどいことをしてしまった記憶は、忘れてはいけないのではないか、つらくても逃げてはいけないのはないか。やってしまったことを、受け止めてそのきつい記憶(言い換えると責任)を抱えていかなければならないのじゃないか。 この小説はそういっているように思う。 いままでの村上作にないイラスト風の表紙は、イラストに親しんでいる若い読者に読んでほしいというメッセージなのではないか。このイラストが本の発行日までオープンにされなかったのは、若い読者に書店で手にとってみて選んでほしいというメッセージなのかも、と勝手に推測している。 PS. ペリー・コモ の歌うジミ・ヘンドリクスの曲って本当にあるんじゃないかと思って探したけど見つかりませんでした。ジミ・ヘンドリクスが演奏するフランク・シナトラの曲(一部のみ)ってはありましたが。 (7/28追記)他の方々のレビューを読んで、再度読み返してみてこの小説の別の見方もあるかな、とも思ってきました。主人公に声をかけてきた女性の言い分があまりにも一方的です。ひとがどんな服装(スーツ姿)で何を読書してようが、それが楽しかろうがそうでなかろうが、他の人に迷惑をかけているわけでないし、大きなお世話ですよね。これはSNSなどでの作者への、匿名の悪意に満ちた人々の発言の当て付けのようにも思います。すくなくとも、この女性との前半の部分はそう感じます。 | ||||
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①今回の短編集は最後の短編を除き、すべて文芸誌『文學界』に掲載された作品であり、既に読んでいるので新鮮味はない。 最後の短編『一人称単数』のみが書き下ろしである。よって、この作品から読んでみた。 ②まず、表紙に注目したい。二枚の絵で構成され、上の絵は冬枯れた公園にベンチが二つ横に並んでいる。誰もいない。下の絵は黄緑をバックに黄色いブラウスを着た若い細身の女性が横向きに描かれている。ロングヘアーが幾分風になびいている。 ③このような表紙の図柄は村上作品では初めて見た。この図柄と表題の『一人称単数』はいかなる関係があるのだろうか? それともないのであろうか? ④『一人称単数』では、二人の〈一人称単数〉の「私」が登場する。決して二重人格というような大げさなものではなく、例えて言えば、「普段着(日常的気分)の私」と「フォーマル(非日常的気分)の私」である。Tシャツ・ジーンズを着て、野球帽を被り、インタビューに登場した村上春樹は前者なイメージであり、ブランド物のスーツを着用し、ネクタイをしっかり締めてイスラエルで文学賞受賞のインタビューに答えた村上春樹は後者のイメージであろうか? ⑤普段着の村上春樹の方が読者には親しみがあり、フォーマルな村上春樹にはどこか違和感を感じるのは、よほど村上春樹は普段着がよく似合うのであろう。彼はサラリーマン経験がない。ジャズ喫茶のマスターを辞めて作家業に専念している。 ⑥しかし、時には作者村上春樹はフォーマルな出で立ちで外出するようだ。本作では行きつけのバーで読書をしながらウォッカ・ギムレットを飲んでいる主人公=村上春樹が登場する。右から2人分離れたスツールには50代と思われる美貌の女性が座っていた。この女性を観察する村上は読書に集中出来ない。そのうち、この女性が隣に席を移したかと思うと、突然村上に話かけ、「かつて(三年前)に水辺で自分にひどいことをした。」と村上を非難し始める。 ⑦耳覚えのない村上は不快感を隠せず、店を立ち去る。 しかし、本当に村上は耳覚えないがないのであろうか?この作品のラストで村上は彼女の言葉が不当な糾弾でありながら彼女に具体的な説明を要求することが出来ず、怖れていた。それは「実際の私ではない私が、三年前に〈どこかの水辺〉で、ある女性ーおそらくは私の知らない誰かーに対してなしたおぞましい行為の内容が明らかになることを。そしてまた、私の中にある私自身のあずかり知らない何かが、彼女のよって目に見える場所に引きずり出されるかもしれないことを、…。」それよりはこの場を離れる方が良いと判断した原因となる何かを想起することを避けるように村上を強いたのである。「部分部分は鮮明でありながら、同時に焦点を欠いていた。その乖離が私の神経を奇妙な角度から締め上げていた。」 ⑧これだけの引用でも、村上には心当たりがある何事かを彼女に対してなしたのであろう。〈どこかの水辺〉とは、どこでも良いどこかの非日常的場所の象徴を意味し、おそらくはそうした場所で愛し合う男女が交わし合う性的な行為(愛撫等)を想起させる。 ⑨表紙の上に描かれた冬枯れた公園の「二つのベンチ」は、かつて愛し合った男女を思い出す瞬間の凍りついた気分を、下の絵は春ののどかな日に愛を夢見て心浮き浮きする女(もしかしたら村上自身)を象徴的に描いたものであったかもしれない。 ⑩花に「花言葉」があるように、カクテルには「カクテル言葉」がある。〈ギムレット〉はジン+ライムジュースのカクテルであり、「遠く離れた恋人を想う」という意味がある。村上春樹が訳したレイモンド・チャンドラー作の『長いお別れ(ロング・グッドバイ)』で、探偵フィリップ・マーロウが「今はまだ〈ギムレット〉を飲む時ではない」と述べている。 ⑪村上はこの作品を念頭に置いて、ウォッカ・ギムレットを飲みながら、バーで出会った見知らぬ女によって、「遠く離れた彼女を想う」場面に連れ戻されたのである。 なかなかの佳作である。 他の短編もそれなりに楽しめる。 お勧めの短編集だ。 | ||||
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もはや初期の短編作品を初めて読んだときのようなハッと驚く輝きのようなものは感じられないものの、今回の短編集からは、初期の短編「中国行きのスロウボート」の雰囲気を思い出しました。 本書に収められた短編は村上春樹の言葉を引用すると「僕の些細な人生の中で起こった、一対のささやかな出来事」だ。「しかし、それらの記憶はあるとき、おそらくは遠く長い通路を抜けて、僕のもとを訪れる。そして僕の心を不思議なほどの強さで揺さぶることになる。」 そしてそれらは「ぼくらの人生にはときとしてそういうことが持ち上がる。説明もつかないし筋も通らない、しかし心だけは深くかき乱されるような出来事」であるという。 そういう意味において、個人的には「ウィズ・ザ・ビートルズ」と「謝肉祭」が好みです。 「ウィズ・ザ・ビートルズ」には、村上春樹ならではの比喩が登場します。 二つほど引用します。 「あるときには記憶は僕にとっての最も貴重な感情的資産のひとつとなり、生きていくためのよすがともなった。コートの大ぶりなポケットの中に、そっと眠りこませている温かい子猫のように」 「顔を合わせるたびに彼女は、いつも奇妙に感情を欠いた目で~冷蔵庫の奥に長い間放置されていた魚の干物がまだ食べられるかどうかを精査するような目で~僕を見た」 一方「ヤクルトスワローズ詩集」などは小説というよりエッセイ風~風の歌を聞けのあとがき的~にしあげたものですが、ユーモアがありなかなか楽しめます。 黒ビールを売る売り子が、たぶんこれまで普通のラガービールを求められお客さんをがっかりさせた経験が何度があったのであろう、「すみません。これ黒ビールなんですが」と謝る場面がある。村上春樹自身、小説を書いていて黒ビールの売り子と同じような気持ちを味わうことがあり、世界中の人々に謝りたくなるという「すみません。これ黒ビールなんですが」と。 でも我々はやはり、その「黒ビール」を村上春樹に期待しているのですね。 | ||||
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『女のいない男たち』以来、六年ぶりの短編集。 少し奇妙で回顧的要素の多い私小説的な八つの短編作品。収められているほとんどの作品において、語り手が著者であろうことが作中より窺い知ることができます。著者の過去作では(こちらは著者が聞き手ですが)、同じように不思議な体験談をフィクションとして構成した『回転木馬のデッドヒート』を思い起こしました。静的な印象の作品が多く、とりわけ新規の読者への訴求力は弱いかもしれません。また、いくつかの作品内では関西弁が用いられており、私的要素が強い作品集とはいえ、村上春樹の小説作品としては珍しいのではないでしょうか。 以下、各作品の簡単な情報と印象に残ったフレーズなどです。 ---------- 『石のまくらに』18ページ 十九のときに関係をもった年上の女性と、彼女がつくった歌集について。 「人を好きになるというのは、医療保険のきかない精神の病にかかったみたいなものなの」 『クリーム』22ページ 十八で浪人生の僕は、受け取った案内状の指示に従って山の高級住宅街にあるピアノ・リサイタルの会場に向かうのだが…。国立大学を落ちて一年間の浪人生活を神戸で送るといったあたり、著者の経歴と一致が多い。 「中心がいくつもあってやな、いや、ときとして無数にあってやな、しかも外周を持たない円のことや」 『チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ』19ページ 大学生の頃に僕が書いた架空のレコード批評と、二つの不思議な後日談。 「しかしもし、あんたがそのレコードをいつか手に入れたなら、私にもぜひ聴かせてもらいたいものだね」 『ウィズ・ザ・ビートルズ With the Beatles』49ページ もっとも長い作品。十七歳ではじめて付き合ったガールフレンド、彼女の兄の告白、当時のポップソング、そして後日談。物語の舞台はおもに神戸。本書装丁は、本作の冒頭で登場する「「ウィズ・ザ・ビートルズ」のLPを抱えていたあの美しい少女」をイメージしたもの。 「妙なことを訊くみたいやけど、君には記憶が途切れたことってあるか?」 『「ヤクルト・スワローズ詩集」』25ページ 小説というよりはエッセイといって良さそう。かつて半ば自費出版したとしている「ヤクルト・スワローズ詩集」を交えつつ、ヤクルトスワローズを中心に、阪神タイガース、父の死、母のことなど。 「そう、人生は勝つことより、負けることの方が数多いのだ」 『謝肉祭(Carnaval)』31ページ 五十歳のころに出会った「これまで僕が知り合った中でもっとも醜い」と同時に「実に普通ではない存在だった」彼女との究極のピアノ音楽をめぐる対話と交流、別れと結末。 「幸福というのはあくまで相対的なものなのよ。違う?」 『品川猿の告白』30ページ あらゆるものが年老いて古び、劣化している小さな旅館で出会った年老いた猿。僕が猿の身の上話を聞くくだりがコミカル。本書の扉絵は本編に由来している。 「いや、ちょっと待ってくれ、どうして猿がこんなところにいて、人間の言葉を話しているんだ?」 『一人称単数』17ページ 唯一の書き下ろし。もっとも短い。スーツを身に纏う機会がほとんどない僕は、まれに気が向いたときにスーツを着て出歩く。そんな珍しいある一日、僕はなぜか漠然とした違和感を抱いて街に出掛ける。 「私はどこかで人生の回路を取り違えてしまったのかもしれない」 | ||||
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2014年の「女のいない男たち」以来、6年ぶりだと言う村上春樹氏の短編集「一人称単数」を読んだ。さすが短編の名手だけあって、楽しめる。 『石のまくらに』の冒頭では、学生時代にアパートに泊まりに来る女性の話が出てくるので、またかな、と思っていたら、この女性の不思議な短歌集の話であることが分かり、安心して読み進むことができた。『クリーム』では、村上氏に馴染み深い神戸の街が出てくる。昔同じピアノ教室で習っていた年下の女の子から浪人生である僕はリサイタルに誘われて、神戸の山手にある会場を訪れる。だが、そこは無人の屋敷であった。諦めて帰路につく僕が訪れた公園で、奇妙な老人に出会うと言う話である。『チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ』も、奇妙な話である。1955年に亡くなったバード(チャーリー・パーカーの愛称)についてレコード批評と架空のレコードをでっちあげたら、15年後にニュー・ヨークでそのレコードに遭遇すると言う内容である。そしてバードは、僕の目の前に現われるのだ。『ウィズ・ザ・ビートルズ With the Beatles』は、村上氏の高校時代に流行したビートルズがもちろん登場する。氏が卒業した兵庫県立神戸高校も、登場している。僕は高校時代ある女の子と交際していたのだが、ある日女の子の家を訪れると彼女は不在で、ちょうど在宅していた4歳年上の兄に、僕は芥川龍之介の最晩年の傑作『歯車』を朗読すると言うビートルズとはだいぶ異なる話が展開される。「ヤクルト・スワローズ詩集」』は、恐らく実際に出版されたことのある、でも作品内で語られているように僅少の部数のようだ、ヤクルト球団の賛歌である。氏は関西出身であるにもかかわらずヤクルト・ファンであるのは有名なのだが、おまけにファン・クラブの名誉会員らしい。『謝肉祭(Carnaval)』は、クラシック音楽の作品名が頻繁に登場する作品である。クラシック音楽好きの女性と知り合い、音楽についてさまざまな会話が展開されるので、クラシック、特にピアノ音楽に関する知識があると楽しめるだろう。ちなみにDebussyとFranckのヴァイオリン・ソナタも登場しているのだが、いずれも音楽史上でも指折りのヴァイオリン・ソナタである。そして小説の名前どおり、Schumannの「謝肉祭」聴き比べが始まる。その結末は……。『品川猿の告白』、そう「東京奇譚集」で登場した品川猿が群馬のM温泉に登場して、BrucknerやRichard Straussについて語るのだ。そして猿の雌にどうしてもなじめないビール好きの猿が選んだ行動は、前の作品とよく似たものだった。そして本の題名ともなっている『一人称単数』は、短編集「TVピープル」の『ゾンビ』に似た怪奇小説と言えるだろう。主人公の私は、村上氏と同じく中華料理が苦手な人物である。その私が、珍しくスーツを着て訪れた初見のバーで話しかけられた女性とは……。BartokとStravinskyの生年について知っているなんてさすが村上氏である、2人の生年は実は1年しか違わないのだ。 村上氏の短編集は、まず間違いなく楽しめるので、誰にでもお勧めできるのだが、今回は特に不思議な結末が用意されている作品が目立つので、そうした傾向の作品が好きな方にはうってつけだろう。これだけ気の利いた短編を次々と生み出すことができるのだから、もっと頻りに短編集を発表してほしいものだ、もちろん「騎士団長殺し」に続く長編も、読んでみたいのだが………。 | ||||
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