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(短編集)

一人称単数



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【この小説が収録されている参考書籍】
一人称単数 (文春e-book)

一人称単数の評価: 3.83/5点 レビュー 166件。 Dランク
書評・レビュー点数毎のグラフです平均点3.83pt


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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です

※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください

全166件 141~160 8/9ページ
No.26:
(4pt)

次の長編の空気を予感させる

村上春樹の短編集には、「いつもの」安心感がある。際立って目新しい何かがあるわけでもないし、読み飛ばした作品すらある。だけど、村上春樹の作品を読み続けている身としては「これだよ、これ」といった穏やかな心地よさを感じながら読み進めることができた。馴染みのある、村上春樹の文体。

個人的には、最後の「一人称単数」が形を少し変えて次の長編の冒頭となるのではないか? という気がした。予感と言うよりは、ただの期待かもしれない。
一人称単数 (文春e-book)Amazon書評・レビュー:一人称単数 (文春e-book)より
B089NDCT8P
No.25:
(2pt)

味の素の粒を噛んだときのように、ぞっとする。

私は村上春樹の文体が嫌いである。翻訳されることを意識して書かれた文体だからである。特に長編小説は、翻訳されることが強く意識されている。私は翻訳はしないが、直感的に、そう感じてしまう。澱みがなく、読みやすい。次に出てくることば、次に何が書かれるか「予測」しやすい。
 どんな作品でも(あるいは日常会話でも)、ことばは常に次にどんなことばがあらわれるか、「予測」しながら読む(聞く)のがふつうのやり方だ。この「予測」をどれだけていねいに導くか、あるいは裏切るかが「作品」の価値を決めるときがある。すぐれた文学は「予測」させると同時に、その「予測」を許さないという両面から成り立っているが、「予測を許さない」という部分が多くないと、「初めて読む」という感動が起きない。村上春樹の小説は(私は、嫌いだからほとんど読んだことはないのだが、読んでいるかぎりでいえば)、「予測」が非常に簡単である。すらすらと読める。私は目が悪く、「速読」はむりなのに、である。
 で。
 その「予測可能な文体」のなかに、ときどき、あまりにも「予測」をそのまま利用したことばがあらわれるときがある。このときに、私は、どう言っていいのかわからないが、ぞっとする。ウェルメイドの「料理」であるはずなのに、「味の素」の粒が溶けずにそのまま残っていて、それを噛んでしまったという感じ。それまでの「ていねい」に準備されてきた(つくられてきた)ものが、「手抜き」によって崩れていく。もともと村上春樹の文体は好きではないが、この瞬間は、ぞっとするとしかいえない。
 この部分こそいちばん大切に書かないといけないのに、「味の素(もうつかわれなくなった定型)」で処理されている、と感じる。
 ひとつだけ例を挙げる。「謝肉祭(Carnaval)」の、女友だちが詐欺師だったとわかったあとの部分。女友だちは「醜い」が、「特殊な吸引力」でひとをひきつける(主人公も、その吸引力にひきつけられた)。その夫はハンサムだ。
 その二人の組み合わせから、主人公は、こんなことを考える。
<blockquote>
彼女のそのような特殊な吸引力と、若い夫のモデル並みに端正なルックスがひとつに組み合わせられれば、あるいはそこで多くのことが可能になるかもしれない。人々はそのような合成物に抗いがたく引き寄せられていくかもしれない。そこには悪の方程式のようなものが、常識や理屈を飛び越えてたちあげられるかもしれない。(178ページ)
</blockquote>
 「特殊な吸引力」については、充分に書き込まれているから、そこには不満はない。しかし、「悪の方程式」はどうだろうか。女の魅力と男の魅力があわさって、他人を簡単にだますということなのだろうが、あまりにも「手抜き」のことばではないだろうか。
 「悪の方程式」に中心があるのではなく、女の「特殊な吸引力」がテーマであることは理解できるが、その「特殊な吸引力」の「もうひとつの証拠」のようなものが、こんな「犯罪小説の定型の説明」につかわれるようなことばで書かれてしまうことに、私は納得ができない。
 ここがいちばん肝心なところ。
 「悪の方程式」を「悪の方程式」ということば(慣用句)ではなく、具体的に書かないと、何といえばいいのか……「女友だち」がストーリー(主人公の人生)から簡単に排除されてしまう。「排除の根拠」になってしまう。
 「悪の方程式」というのは、たぶん、日本語だけではなく、外国の犯罪(小説)の説明につかわれることばだと思うが、そう思うと、よけいにいやになる。
 最近、日本では「夜の街」ということばが、「悪の方程式」のようにつかわれているが、そういうことも思い出した。世間に流布している「定型」を利用した表現をキーワードにつかうのは、なんともおもしろくない。ある主張のためにことばを利用する「政治家の文体」を感じる、といえば、私の「ぞっとする」を言い直したことになるかなあ。
一人称単数 (文春e-book)Amazon書評・レビュー:一人称単数 (文春e-book)より
B089NDCT8P
No.24:
(4pt)

どこまでがフィクションかは分からないが。

8つの短編。全体に、作者の老いが透けて見えるのは気のせいだろうか。かつてのようなドキドキした感じを受けないのは、単に読み手の私が歳をとったせいかもしれないが。
 「歳をとって奇妙に感じるのは、自分が歳をとったということではない。……驚かされるのはむしろ、自分と同年代であった人々が、もうすっかり老人になってしまっている……とりわけ、僕の周りにいた美しく溌剌とした女の子たちが、今ではおそらく孫の二、三人もいるであろう年齢になっているという事実だ(p.73)」というフレーズなど「まったく同感」と思う分だけ、異世界を構築するのに巧みだった村上春樹が「こちら側」にきてしまったようで残念である。
 引き込まれて怖くなった小説が1編。私だって、無意識のうちに、誰かに激しく憎まれるようなことをしてしまっていて、憎悪の視線を浴びているかもしれないのだ。
一人称単数 (文春e-book)Amazon書評・レビュー:一人称単数 (文春e-book)より
B089NDCT8P
No.23:
(4pt)

今日、今、この時、この瞬間

「一人称単数」(村上春樹 文藝春秋)を読み終えました。翻訳物をいくつか読んでいる合間に、楽しく読ませていただきました。8つの短編が収録されていますが、先頭から3番目までは、2018/7月号の「文学界」で既に読んでいましたので、再読になります。

 「石のまくらに」・・・作者は、まるで長編小説に向かうためのトレーニングが必要だと言わんばかりに自分の世界を丹念に追いかけていますね。主人公のOne night standの相手が残した短歌が秀逸だと思います。
 「クリーム」・・・・・老人とぼくの対話は、チャンドラーの「プレイバック」、舞台であるエスメラルダ(サンディエゴ、ラ・ホヤ)のあるホテルに住みつくヘンリー・クラレンドン四世とフィリップ・マーロウとのうっとりする会話の「再現」のように凛としています。そして、「一人称単数」は、この短編に連環するのではないでしょうか?
 「チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ」・・傑作です。不思議な出来事があって、ユーモアと小説のキレを併せ持ついい<作り物>だと思いました。すべての短編小説は、”閃光の人生”を切り取ってはじめていい小説だと言えますから、今回もまたとても楽しい読書体験だったと思います。「ペリー・コモ・シングズ・ジミ・ヘンドリックス」が許されるなら、「ジェイムズ・ブラウン・シングズ・ブルーノ・マーズ」なんぞはどうなのだろうか?
 「ウィズ・ザ・ビートルズ」・・表題のLPを抱え、スカートの裾を翻して歩く美しい少女の鮮烈なイメージ。哀しみのサヨコ。サヨコの兄が「・・・・代わりに君がわかってやってくれればと思う」というダイアローグに不覚にも心を動かされました。
 「ヤクルト・スワローズ詩集」・海流の中の島。素敵なメタファーです。
 「謝肉祭」・・・・・・変わらない村上春樹の世界。対比は対比のまま残り、繰り返し考えさせられながら残り続けます。何かできると思い上がった自分と結局何もできなかった自分にもたらされる悔恨。少し過剰すぎるメタファー。
 「品川猿の告白」・・・ブルックナーを聴く猿に思うこと。過剰でもなければ、不足もない唯一無二の短編。
 「一人称単数」・・・・ある種の受け止めきれない悪意。

 最後に、<石のまくらに>に戻りましょう。とてもいい短歌だと思います。過去はもういいですよね。"1973年のピンボール”からの勝手な引用(「遠くからみれば、たいていのものは綺麗に見える」)を持ち出すまでもなく、過去は淡い霞の中にあって、時の流れが囚われを少しずつよきものに変えて行ってくれます。いつだって、今日、今、この時、この瞬間がぬきさしならないものなのだから。
一人称単数 (文春e-book)Amazon書評・レビュー:一人称単数 (文春e-book)より
B089NDCT8P
No.22:
(5pt)

ファンがなにを喜ぶかを知っている書きっぷり

村上春樹も齢を重ね、彼の読者も同時に齢を重ねる。
期待を裏切らず、誰もが若き日を夢想する。
一人称単数 (文春e-book)Amazon書評・レビュー:一人称単数 (文春e-book)より
B089NDCT8P
No.21:
(4pt)

最後の話が秀逸

村上春樹の本を長く読んできた人でしたら、どこかで読んだような話ばかりだなあ、と思うかもしれません。
でも、最後に収録されている書き下ろし短編が凄いです。男性主人公に、女性がかけるあの一言の衝撃。これまで読んできて感じてきた様々なモヤモヤを一気に昇華させてくれます。
この短編のお陰で、読後の気持ちがとても清々しく、笑いが溢れ、「これまでの自分に対してここまで言った後に、もし次があるとしたら、村上春樹は果たしてどんな話を書くのだろう。」という希望まで感じました。
一人称単数 (文春e-book)Amazon書評・レビュー:一人称単数 (文春e-book)より
B089NDCT8P
No.20:
(2pt)

中にはがっかりする短編も…

短編小説集ということですが、その中のいくつかはエッセイのようなものに感じます。
途中、女性として生理的にとても嫌な気持ちにさせられる表現がいくつかありました。
しかし、最後の「一人称単数」では、「私」(村上春樹氏らしい人物)が、見知らぬ女性からバーでいわれなき非難めいた言葉を浴びせられますが、それがむしろ個人的にスカッとしました。
女性読者が途中で不愉快になることも想定し、短編が編集されているとしたら、それはそれで見事ですね。
一人称単数 (文春e-book)Amazon書評・レビュー:一人称単数 (文春e-book)より
B089NDCT8P
No.19:
(5pt)

海外の人に「日本の短編小説を一冊紹介して」、と言われたらこの本を推したい。

隠喩の飛距離、ユーモアの切れ味、融通無碍な視点、心の機微を捉える繊細な眼差し、どれも過去最高レベルと言っていいかもしれない。
大御所の作品ということで、“ひとつ辛口のレビューを書いてやろう”と割と斜に構えてページを捲ったのだが、文句なしに面白かった。
齢71にしてこの水準。売れ続けるのはやはり理由があるのだなぁ。

正直、氏の作品は長編に関して言えばかつての神がかり的な輝きはもう失われていると思う。
最近の長編、『1Q84』や『騎士団長』が『ノルウェイの森』や『羊をめぐる冒険』なんかに比肩しうる作品である、とはお世辞にも言えまい。

長編作品を書きあげるには肉体的にも精神的にも相当な負荷がかかる仕事であるだろうし、そのために必要な体力は(氏の才能と努力をもってしても)、やはり年々衰えていくものなのかもしれない。

しかしエッセイや短編など割りあい実験的で身の軽い作品であれば、氏はいまだ進化を続けているような気がする。

言ってみれば、三ツ星レストランのオーナーシェフを任せられるような体力はもうないが、冷蔵庫のあり合わせでささっと旨いモノを作らせたら未だ他の追随を許さない料理人って感じだろうか。

レビュータイトルにあるように、もし外国の人に「日本のカルチャーを知りたいので、最近出版された短編小説で一番面白かったものを教えてくれませんか」、と言われたなら、相手がいかなる文化、宗教、人種に属していようとも自信を持ってこの本を手渡す。
一人称単数 (文春e-book)Amazon書評・レビュー:一人称単数 (文春e-book)より
B089NDCT8P
No.18:
(4pt)

沈黙の世界

村上春樹の描く生活には圧倒的な沈黙の世界が併存しているように思える。論理的に「語り得ない」と確定される境界ではなく,語り出そうとする瞬間に反粒子のように垣間見られる「ざわめく沈黙」とでも言うべきOxymoronの世界。それは,ある種の喪失―自分の名前が思い出せない(「品川猿の告白」)―やシューマンの「謝肉祭」を繰り返しきき,語り合うという儀式的な繰り返し(「謝肉祭(Carnaval)」)を媒介にして「物語」と接続する,ただそれだけのことを村上春樹は繰り返し描いているように思える。ところで,この短編集のタイトルとなっている「一人称単数」についてだが,村上春樹のいくつかの長編,例えば「ノルウエーの森」,「ねじまき鳥クロニクル」には,そのエスキスとなった短編が存在する。「一人称単数」はそのようなエスキスなのではないかという印象を受ける。
一人称単数 (文春e-book)Amazon書評・レビュー:一人称単数 (文春e-book)より
B089NDCT8P
No.17:
(3pt)

村上春樹の年齢

この短編集には必然性がない。
一人称単数 (文春e-book)Amazon書評・レビュー:一人称単数 (文春e-book)より
B089NDCT8P
No.16:
(5pt)

切なく、強引な、昭和末期のノスタルジー

38年前(笑)大学3年生の9月、神宮球場のライト外野席でたまたま、並んだ30過ぎ位の、ヤクルトファンのあんちゃんが、黒ビールを呑んでいました。

珍しくカープが大量リードしていたのですが、あんちゃんは、至極平静にグラウンドを眺めていました。

試合後半、ウォークマンで音楽を。
『何を聞いとるんですか?』に
『マイルスデイヴィスだよ(笑)君、広島の人?』『いいえ、山口県柳井市です』
『いいところらしいね
一人称単数 (文春e-book)Amazon書評・レビュー:一人称単数 (文春e-book)より
B089NDCT8P
No.15:
(3pt)

品川猿サーガ

『1Q84』あたりから顕著に、村上春樹は年々説教臭く、回りくどくなってきている気がする。御年71歳ということなので、もう、そういう時期なのかもしれない。
スキャンダルというか、cancel culture的なものとは比較的無縁なわりに、村上春樹が好きだ!と心地よく公言するのがいつからか難しくなったように思う。それはフェミニズム的なものの影響なのかもしれないし、単に時代が変わっただけなのかもしれない。SNS的なもので村上春樹が好きだ、と公言しているような連中は老けたろくでなしばかりだし、SNS的なものでアンチ村上春樹を公言したり、村上春樹風の文体で大喜利をやっているような連中も老けたろくでなしだ。村上春樹はいつからか、本人の意図せざる所でそういう文脈に絡め取られてしまったような気がしてならない。表題作の「一人称単数」からは、そんな状況に対する怒りのようなものが感じられる(気がする)。
短編集として、『一人称単数』は、冒頭の二編を読んでいると胸が苦しくなるほど、回りくどく、説教臭く、結構、キツいものがある。ただ、「チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ」あたりから、だんだん力が抜けてきたような味わいが出てきて、良い。「異常な展開」というか、「わけがわからないという体験」を求めてDavid Lynchの映画を見るような意味合いで、「品川猿の告白」「謝肉祭」あたりはすごく面白い。
『一人称単数』はコンビニで売られていて、それはものすごい達成という気がした。『1Q84』で、主人公達が作る物語が、世界に蔓延る悪意に対するワクチンになるように、一時は村上春樹の小説がそういう役割を果たすのでは、と考えさせられるような時期があった。不寛容な時代に寛容なメッセージを届ける大作家というか。ただ、もう村上春樹にそういう期待感を抱いている人なんていないのではないだろうか。いっそ、村上春樹は細々と「品川猿」サーガ的なものを書くべき時期なのかもしれない。個人的な、奇妙な、自分のための物語。ひょっとするともうそれで十分なのかもしれない。
村上春樹が亡くなる時は、それは、一つの時代の終わりとしてそれは悲しいんだろうな、という気持ちになるような作品だった。
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B089NDCT8P
No.14:
(4pt)

花鳥風月

日常の中にあるちょっとした非日常に心地良さを感じる小説でした。

東京奇譚集を読んだときは、面白くてスタイリッシュな生活もあるんだなあと読むのが楽しみでしたが、それ以降はその感覚がなくなった。

東京奇譚集を読んだのが大学最後の年で、就職をし結婚をし子供達に恵まれ、日々それなりに幸せに過ごしているのか、日常の不思議さよりも、日々誠実にどう生きるのかに興味が移ってしまった。

それでも、楽しみにしている作家さんです。
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B089NDCT8P
No.13:
(5pt)

言葉とその連なりがなす、震えるような体験

またまた不思議な世界へ引き込まれ、味わい、言葉やその連なり、企みや喜びを味わってきました。
絵画や音楽や映像では表現できない世界です。
ひとつ間違えば、単なるホラ話になってしまいますが、この方のものは、最初の1字から引き込まれます。
■いっちゃう時に、歯形がつくくらいタオルを噛みしめながら、男の名前を呼ぶ女が詠んだ短歌、「やま かぜ に/ 首 刎 ねら れ て/ ことば なく あじさい の 根 もと に/ 六月 の 水」・・・。
『言葉』とは何か?
「僕ら の 身 に その とき 本当に 何 が 起こっ た のか、 そんな こと が 誰 に 明確 に 断言 できよう?   それでも、 もし 幸運 に 恵まれれ ば という こと だ が、 とき として いくつ かの 言葉 が 僕ら の そそば に 残る。」
「しかし その よう な 辛抱強い 言葉 たち を こしらえ て、 あるいは 見つけ出し て あと に 残す ため には、人 は ときには 自ら の 身 を、 自ら の 心 を 無条件 に差し出さ なく ては なら ない。 そう、 僕ら 自身 の 首 を、 冬 の 月光 が 照らし 出す 冷ややか な< 石 の まくら に> 載せ なく ては なら ない の だ。」
■「人の意識の中にのみ存在する円」を語る老人
■魂の深いところにある核心にまで届く音楽
■「with the beatles」を抱えた素晴らしく美しい少女とすれ違った頃にデートした、後に自殺する中産階級の少女(ノルウェーの森に繋がる)
■シューマンを溺愛する、知り合った中で最も醜い女性と驚異的 にハンサムな夫との詐欺事件
■愛する女性の名前を盗む、深化した品川猿
■一人称単数の私
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B089NDCT8P
No.12:
(4pt)

一人称単数 自身のこと。「私」、「僕」、「俺」など。

全体的に「思い出」や「死」のイメージが横溢しているように感じました。一人称単数 自分自身。本当はあるようでもそれは無くて、周りに関わった人、(特に異性)、ビートルズやスワローズなどの音楽やスポーツと出会い、夢中になったりと、時代の思い出に集約されていることで、今の自分自身が出来上がっているような感じです。そんなに大したオリジナルな人生じゃないけど、印象的な思い出の層が重なって、今もこうして生きている。そう思わせてくれる本でした。『クリーム』は若い人に向けて、考える事の大切さをメッセージとして伝えたいのだと思います。アップダイクの『一人称単数』は古書で買えないのですが、読むと更にわかってくる事がありそうです。
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B089NDCT8P
No.11:
(5pt)

作者自身の一人称単数表現と新たな長編小説の予感

村上春樹の短編の物語を深く味わうための、ある種の決まりごとがあります。
それは、物語が置かれた場所に読み手の方も同質化して、そこに留まるということ。

一人称単数という物語は、作者自身の人生の振り返りのではないかと考えました。
普段着ることのないスーツを身にまとい外出するという秘密の儀式。
その日は理由のない罪悪感と倫理的違和感を感じてしまいます。
ふらりと入ったバーでウオッカ・ギムレットを飲みながら小説を読んでいて、ふと鏡の中に写った自分がよそ者のように思え、同時に自分の人生は回路を取り違えてしまったのかという思いが沸き上がってきます。
そこからこの物語の深部に入り込んでいくのです。
女との会話はメタファーの世界にありながら実際的です。
言葉のやり取りとかみ合いは例のごとく、お見事。

「恥を知りなさい」と、知らない女性に、身覚えのない罪を叱責され、逃げるように店を出ながら感じたことは、自分が覚えていない罪がもしかしたら本当かも知れないという、否定できない自分がいることです。

バーの階段を上りきって外に出たら、そこは蛇が樹に巻き付き、顔なしの男女が硫黄の息を吐いている世界です。
春の宵だった景色が、凍り付くような世界に姿を変えているのです。
決して抜け出してはいないという、持続する怖さがそこにあります。
そして、恥を知りなさいという女の声が響くのです。

物語としては、作者自身を一人称単数で表しているように思えます。
想像の域を出ないのですが、村上氏自身が今現在自分の人生を振り返る時期に来ているという事だと。
純文学的な部分をメタファーというオブラートに隠して表現してきた今までの作風から、新たな作風に走るのか。
次の長編への期待が膨らみます。
なにしろ、短編は次なる長編小説への試行錯誤のたたき台なのですから。
そして、最近の氏のメディアとのコミットの再構築から、何かしらの変化を感じてしまうのは私だけでしょうか。
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B089NDCT8P
No.10:
(5pt)

もはや融通無碍の境地

数年前から「もう書けないものはない」と謙虚に豪語?していた村上春樹の熟達の境地を示した短編集です。

とくに最後の「一人称単数」の衝撃的な展開とラスト。いつもの(悪い意味での)村上節だと思って読み進むうちに景色が一気にホドロフスキー化します。リンチ? いや、ホドロフスキーだと思う。ボルヘスに読ませたい超絶な逸品です。老練といってよいか? 

「男と女」での「木野」や、「東京奇譚」の「猿」、「神の子」の「蜂蜜パイ」といい、短編集の末尾を飾る作品が、次の作品群の何物かを示唆することの多い村上ですけど、この「一人称単数」の不穏な恐ろしさが、ぜひ、次の長編にぬりこまれることを期待したいです。

丸谷才一や夏目漱石を想わせるところも多数。古井由吉の亡き今、好き嫌いは別にして、これだけ日本語を巧みに操れる作家は村上春樹のみ。

圧倒的な文章力にわれわれはひれ伏すのみというか、ひれ伏すことができることを、何者かに感謝すべきなのでしょうね。
一人称単数 (文春e-book)Amazon書評・レビュー:一人称単数 (文春e-book)より
B089NDCT8P
No.9:
(4pt)

ビートルズ

かつてない感覚の装丁の中で目に入るのがビートルズのアルバム。
横顔の女性は、それに気付かぬまま通り過ぎている。
そんな断面が8つの短編で構成されている作品になっている。
うまくかみ合わないことが、なぜか納得させられる。
こういう短編は興味深い。
一人称単数 (文春e-book)Amazon書評・レビュー:一人称単数 (文春e-book)より
B089NDCT8P
No.8:
(5pt)

やれやれ

僕は読書用の椅子に座って、ウィズ・ザ・ビートルズをレコードで再生し始めた(それはレコードだったかもしれないし、Youtubeだったかもしれない)。本を片手に、グラスにウィスキーを注ぎ、つまみのカシューナッツに手を付けた。だが高校の薄暗い廊下、美しい少女、揺れるスカートの裾のことは思い出さなかった。僕の記憶として浮かび上がったのは、十年以上前に、東京のそれほど混雑していない駅の、出発間際の電車のドアの横に立っている、美しい少女に一目ぼれしたことだった。長くて黒い髪、白いワンピース、揺れそうなスカート。彼女は僕と見つめあっているようだった。それは幻想だったかもしれないし、幻想でなかったかもしれない。そのとき以来、僕は彼女を見かけていない。だが僕の心の印画紙に鮮やかに焼き付けられたのは、ひとつの時代のひとつの場所の、一つの瞬間の、そこにしかない精神の光景だった。
やれやれ、いったいどこに正義なんてものがあるのだろう。
僕は本を閉じて、二杯目のオンザロックに口をつけた。『二度にわたる二人の出会いと会話は、彼らの人生のどのような要素を象徴的に示唆していたのでしょうか。』私には関係のないその問いが、頭の中でリフレインされた。
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B089NDCT8P
No.7:
(5pt)

私の中にある私自身のあずかり知らない「私」

「私の中にある私自身のあずかり知らない何かが、彼女によって目に見える場所に引きずり出される<かもしれない(傍点あり)>ことを」(233頁)

「『恥を知りなさい』とその女は言った」(235頁)

来たー。新しい村上文学の反撃がすぐそこまで。
それを読むまで死ねない、と感じました。

《かんそうぶん》
おさるさん、かくれてないで、でてらっしゃい、とかのじょはいいました。
ぼくはいいました。「はじ」ってなあに?
おしえてあげる、とかのじょはいいながら、ぼくをこうえんのまんなかまで
ずるずると、ひきずりだしました。
ぼくははずかしくて、おしりがまっかになりました。

《感想文》
公園のベンチの後ろの植え込みの中に隠れた猿は思いました。
僕はレコードを盗んだわけではありません。

あなたがベンチで物思いにふけっていたので、
あなたの横に置いてあったレコードを植え込みの上に移動しただけです。
あなたが気付くように、
レコード・ジャケットの頭をのぞかせて、いたずらしただけです。

少女は「あら ない(存在しない)」と一声つぶやき、
植え込みから顔を出しているジャケットには気づかずに、
過ぎた初恋のように、目を閉じて行ってしまいました。

猿は家にレコードを持ち帰って、プレイヤーで聴いてみました。
なつかしい音に涙が出ました。
猿が高校生だったころのままの記憶がよみがえってきました。

「五十歳前後」(226頁)に見えた女性は、あの時の少女だったのか。

《備考》
本書の短篇8作のうち、7作は初出で読み終わっていました。
唯一の「書き下ろし」短篇「一人称単数」が読みたくて、購入しました。
わずか16頁の短篇のために。やっぱり買ってよかった、と思いました。
一冊にまとまってみると、個々の作品が違った印象になるのには驚きました。
不思議な統一感。
短篇「一人称単数」それだけでは、長篇小説のほんの出だしだけの予告編に過ぎない。
これからどんな長篇小説が生まれてくるのか、期待感でワクワクしてきます。
これまでの全作品を包括するような集大成の長篇小説になりそうに感じます。
小説のテーマは「恥」では? 「『恥を知りなさい』とその女は言った」(235頁)から。
男と女の間の恥?
いつもとは違った服装の自分が遭遇する、不可解な未知のドラマ。
鏡の向こう側の自分とよく似た(うりふたつの)人間の恥?
いくらなんでも自分の恥は、恥ずかしくて書きたくないですよね、誰(猿)でも。
自分ではない自分、自分によく似た「僕」の話としてなら、恥でも書けるのでは。
語り手は、「僕」とか「俺」とか、「私」とか「あたい」とか、<アイ>とか<ミー>とか、
「わたくし」とか「わし」とか、とにかく「一人称単数」で書かれることでしょう。
「一人称単数」で、いろんなことができる、と村上さんは考えていました。
それを具体化した小説が、これからどんどん出てきそうに感じます。
これまでの村上春樹さんの数多くの短篇で「切り口」が示されてきた
「ひとつの世界」(本書の帯より)。
ダイヤモンドが、カットの方法ひとつで色々に輝くように、
たくさんの切り口で刻まれた短篇小説が集合すれば、
核になるような長篇小説が出てきそうです。
「村上春樹全作品集」みたいな単純な寄せ集めではなく、
中心の硬い種のような長篇小説に凝集、圧縮、結晶化した物語が読みたいです。
人間にはどこかに恥部があります。
人間には必ず弱点があります。中華料理をまったく食べられないとか……
人間は矛盾の中で生きています。
弱者に対して、無自覚、無意識に加害者となってしまう罪と罰。
イタズラとオヤジのげんこつ。
殺さなければ殺される戦争。戦争責任の記憶喪失。
生き物を殺して食べなければ自分が死んでしまう。
死ぬときは一人。お一人様、単数で、孤独に死ぬ。無言でフェイドアウト。お先に。
ビートルズのレコードを胸の上においてください。

《追伸》
表紙カバーの装画(豊田徹也さん)が漫画っぽくて良かった。
大事そうに抱きかかえていたビートルズのレコード『ウィズ・ザ・ビートルズ』を、
なぜか公園の植え込みの中に投げ棄て(置き去りにして)、
目を閉じたまま無言で画面左手に去っていく少女の絵が印象的でした。
目を閉じた少女にいったい何があったのでしょう?
胸のふくらみの中の下着には要塞のような頑丈なワイヤが入っているはずなのに。
硬い頑丈なワイヤで支えられた、やわらかい胸のうちは誰にも見えません。
自宅の鴨居から吊り下げられた
「沈黙する堅いロープの結び目に向けて、一歩一歩、歩を進めていた」(84頁)担任教師。
自殺に向かう教師の胸のうちの声は、高校生の「僕」にはまったく聞こえなかった。
この表紙カバーの装画になった短篇小説「ウィズ・ザ・ビートルズ With the Beatles」は、
本書『一人称単数』に収められた8作のうちの「ひとつ」。

《追々伸》
<『一人称単数』としたわけ>
村上春樹さんの愛読者は、本当の話を好むから。
嘘がつけないぼくの嘘の話でも、面白ければ信じてもらいたいから。
えっ、うそでしょ、ほんと、と驚きながら、面白がる顔が見たいから。
「歌集『石のまくらに』」なんて実在しないのに……
「チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ」は、ぼくが作った架空のレコード。
「ウィズ・ザ・ビートルズ」は、ぼくが彼女と一緒に聴きたかったレコード。
彼女に完全に無視されて、ひとりで聴いたビリー・ホリデー。
ビリー・ホリデーに似ていた彼女。
「ヤクルト・スワローズ詩集」も未刊。出版の予定も聞かん。
「謝肉祭(Carnaval)」の中で語ったジャズの話は、ほんとやろか。
「品川猿の告白」は、「愚にもつかない猿の身の上話」(206頁)なんやろか。
「一人称単数」は、実在する「私」でしょ。
「実際の私ではない私」(233頁)も、鏡の中の私も、一人称単数です。
「私の中にある私自身のあずかり知らない」(233頁)私は、一人称単数ではない。
ゆえに、本書には含まれない。乞うご期待。

読者注)
アップダイクは、自分の話を<一人称単数>という<ジャンル>でくくりました。
几帳面に、我々と言う時には、<一人称複数>という<ジャンル>を作って区別しました。
一人称単数 (文春e-book)Amazon書評・レビュー:一人称単数 (文春e-book)より
B089NDCT8P

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