(短編小説)
ミリアム
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早熟の天才と言われたトルーマンカポーティの短編9つを収める短編集。以前には龍口直太郎氏の翻訳によるものが同じ新潮社より出版されていた。しかし、その本に入っていた「感謝祭の客」と「クリスマスの思い出」はこの文庫には入っていない。 元々1948年にアメリカで出版された“Tree of the Night and other stories”には上記の2作品は含まれていなかった。 カポーティーは1924年生まれだから原作出版当時24歳だった。この短編集にある「ミリアム」でオー・ヘンリー賞を受賞した時は21歳だった。ニューヨークのレキシントン街に独居する老婦人に起こる夢とも現実とも分からぬ出来事を描いている。21歳の若者にどうして老女の生活や心情を描けるのか。それをミステリー仕立てで引き込んでゆく力は類稀な筆力といえる。一方、「誕生日の子供達」では、カポーティが生まれ育った南部と思われる町での、都会からやってきたらしい少女と、対照的な田舎の少年達との出会いと別れを描く。2作ともに人物描写は細やかにそして事の顛末を丁寧に描いて結末へと向かう展開は読む者を飽きさせない。 他の7作(原作では6作)もいくつかの都会と南部の町での主人公を取り巻く出来事が描かれる。 ・「夜の樹」“The Tree of the Night”(アトランタへ向かう列車に乗り込んだ若い女性) ・「夢を売る女」“Master Misery”(イーストンの町とニューヨークが舞台。女性) ・「最後の扉を閉めて」“Shut the Final Door”(サラトガ、ニューヨーク、ニューオリンズと移ってきた男の話) ・「無頭の鷲」“Headless Hawk”(ニューヨークと思しき町での男の暮らし) ・「銀の壜」“Jug of Silver”(ワチャ郡に住む少年) ・「僕にだって言い分がある」“My Side of the Matter”(ルイジアナ州ーナッシュビル線にあるアドミラルズの町に引っ越した若い男) ・「感謝祭の客」“The Thanksgiving Visitor”(アラバマ州の田舎町に住む少年の歳時記にまつわる出来事) 龍口直太郎氏の翻訳は少し硬い感じだが、川本氏の訳のは読みやすい。また、原書も読んだが、龍口氏の訳では曖昧であった箇所が川本氏の訳で納得できたところもあった。数人の方が翻訳の監修をされていたようで、自分で英語を読んだ時もよく分からなかったところが上手く訳出されていた。 日本の私小説に似たような趣があり、割と自然に主人公の置かれた場面に入っていける。しかし、その状況はいくぶん現実的ではないものもある。南部を舞台にしたものはのどかさも感じられるが、都会を舞台にしたものは殺伐としたものもある。 それにしても、このような色々な場面を様々な人物を主人公にして20代で描けるのは確かに「早熟の天才」と言えるだろう。 | ||||
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カポーティ原作の映画「ティファニーで朝食を」は観たことあるし、カポーティの苦悩を描いた映画「真実のテープ」も観たことがあるけれど、著作を読むのは初めて。この短編集、果たして面白いのか、面白くないのか。 最初の「ミリアム」は「トワイライト・ゾーン」や「世にも奇妙な物語」風の味わい。アメリカではドラマにもなったそうで、これはまだ話がわかる。けれど、「夢を売る女」など、それ以外の短編はワケがわからないものも多数。 本書は1994年発行の比較的新しい改訳版。それでも読んでいて話の意味がわからない。カフカか? 以前の古い日本語による訳書だと、さらにワケがわからなかっただろう。 そんな中で最後のお話「感謝祭のお客」は珠玉の一編。著者自身の子供時代のことをベースに書いたのだとされる。「許されない罪が一つだけあるの。わざと酷いことをすること」は名言だ。 | ||||
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カポーティの中篇『草の竪琴』(1951年)を読んだついでに、この初期短篇集も読んでみました。 本短篇集には9編の作品が収められています。 ただしほんらいの『夜の樹』(1949年)は8編の短篇で構成されていて、本書にはその8篇はすべて収録されたうえで、あらたに「感謝祭のお客」(1967年)がくわえられています。また同じ新潮社からかつて刊行された龍口(たつのくち)直太郎訳の旧版『夜の樹』(単行本のみで出版)に入っていた「クリスマスの思い出」(1946年)はこの新訳版には入っていません。 本書所収の短篇では、マレビト(客人)ともいうべき存在が、変わらぬ日常のなかに生きている人(たち)のもとを訪れ、いくらかその秩序をかきまわし、そして去ってゆくという話のパタンが多く見られます。 ところで、この短篇集のなかで評者の好みはというと、大都会を舞台にひんやりとした大人の孤独の人影を映しだす「ミリアム」や「無頭の鷹」より、アメリカ南部の町を舞台に少年少女が登場してくる「銀の壜」やとりわけ「誕生日の子どもたち」(1949年)です。 「誕生日の子どもたち」はつぎのようにはじまります: 「昨日の午後、六時のバスがミス・ボビットを轢き殺した。それについてはどんな感想をいったらいいかぼくにはわからない。結局、彼女もまた十歳の女の子だったのだ。それでもぼくには、町のだれもが彼女のことを決して忘れないだろうということはわかる」 この作品は倒叙的な物語構成をとっていて、ここから1年前に遡って、「ぼく」の住む南部の小さな町にミス・ボビットが引っ越してきたところからあらためて時系列に沿って物語がはじまります。 「ぼく」たちの目の前にあらわれたミス・ボビットは10歳ながらレディーのように気取った仕草や上品なしゃべり方をします。ダンスもうまく、町の男の子たちをとりこにするばかりか徐々に町の大人たちも一目置く存在となってゆきます。そのあたりの経過がいくらかのユーモアをふくませた筆致で描かれていて、楽しく読めます。 しかし1年後ミス・ボビットはハリウッドに行くためについに町を出てゆくことになり、その出発の日、6時のバスが来る頃、彼女は、歩道の向かい側にいる、自分に好意を寄せてくれていた、バラの花をかかえた男の子たちのところに駆け寄ろうとしたそのとき… こうしてこの作品でも、『草の竪琴』と同様、軽い内容に最後とても重い内容を並置ないし対置させるというカポーティの物語パタンが見られるのですが、ともあれなぜこの作品が好きなのだろうかとあれこれ考えてみると、どうやらやはり『草の竪琴』と同じく、アメリカ南部の小さな町を舞台に、少年の視点で語られる物語というところで惹きよせられる、もう少しいうと、この物語の世界になにか懐かしいような親しみを覚えるからといったらいいでしょうか(小説史的にはこうした物語の源流にはマーク・トウェインのあの『ハックルベリー・フィンの冒険』(1885年)があるのでしょう)。 そして、アメリカ南部などには行ったことがないのに、なぜ懐かしさとか親しみを覚えるかというと、この少年の視点で語られる、ときに不幸や悲劇といった出来事が起こる物語というのが、昔小さいころたくさん見た、少年が主人公のアメリカ製のTVドラマとか、やはり不幸や悲劇といった出来事がときに起こる、少年や少女が主人公の日本製TVアニメにあった物語の世界に近似するからでは、と思いあたります。 ちなみに、「感謝祭のお客」(1967年)では、いじめっ子オッド・ヘンダーソンについて「彼の耳は『ちびっこギャング』に出てくるアルファルファの耳のように人目をひく」という一文があり、かつて日本でも放映され人気のあったアメリカのTVドラマ「ちびっこギャング」がそこで言及されています。 | ||||
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以前から探していたものが見つかり満足しています。 | ||||
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あまりに高評価だったので買ってみたが、大したことなかった。少なくとも私には、天賦の才のようなものは感じられず、平凡な、つまらない作品集に見えた。 ほかのカポーティの作品にはなかなか素晴らしい読後感を残してくれたものもあったが、この本はそうではなかった。 | ||||
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