1973年のピンボール

【この小説が収録されている参考書籍】

評判

1973年のピンボールの評価:

3.84/5点 レビュー 137件。 C ランク

Amazon書評・レビュー点数毎のグラフです

平均点3.84pt

Amazonレビュー一覧

Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です

※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください

全144件 41〜60 3/8ページ
No.104
(4pt)

ピンボールの魔術師を彷彿

3フリッパーのスターシップでベストスコアを叩き出すシーンは、ザ・フーのロジャー・ダルトリー演じるトミー少年がピンボールの魔術師としてピンボールに打ち込むシーン(エルトンジョンカバー「ピンボールの魔術師」のMVの中)、目がイってしまっているシーンを彷彿とさせます。
スターシップとの邂逅シーンも圧巻です。
ただし、村上春樹初心者は別のモノから読み始めるべきですし、3部作の2作目に当たるので、まずは1作目の風の歌を読んだ方が良いでしょう。
1973年のピンボール Amazon書評・レビュー: 1973年のピンボールより
4061168622
No.103
(5pt)

私はこの店を覚えている必要がある場合、私は再び戻ってくる。

美しく完成品は、サービスが良い、非常に良い買い手、あなたのような買い手は私の喜び、再び私たちの店に来ることを願っています!ありがとうございました! あまりにも良い品質と思われる。 私は仕事と外見の両方が大好きです。 うれしい私はこれで私の前に置き換え 強くお勧めします。 ショッピングのしやすさ
1973年のピンボール (講談社文庫) Amazon書評・レビュー: 1973年のピンボール (講談社文庫)より
4062749114
No.102
(5pt)

私はこの店を覚えている必要がある場合、私は再び戻ってくる。

美しく完成品は、サービスが良い、非常に良い買い手、あなたのような買い手は私の喜び、再び私たちの店に来ることを願っています!ありがとうございました! あまりにも良い品質と思われる。 私は仕事と外見の両方が大好きです。 うれしい私はこれで私の前に置き換え 強くお勧めします。 ショッピングのしやすさ
1973年のピンボール Amazon書評・レビュー: 1973年のピンボールより
4061168622
No.101
(4pt)

後年の村上氏が、あちこちに窺える初期の名品

本当に久しぶりに、村上春樹の第2作目の作品である「1973年のピンボール」を読んだ。これで2回目のはずなのだけれども、やはり時代を感じるとともに、こんな小説だったのか、と改めて感じさせられることも多かった。

やはりピンボールの魅力に取りつかれた人が蒐集した多くのピンボールが、倉庫の中で整然と並べられている光景を描いている部分が、何とも言えない。

懐かしいのは、他の作品でも登場する双子の女の子、あの「ノルウェイの森」でも悲劇的な役割を負う女性である、同一人物ではなさそうだが、直子、それから第1作でも登場したジェイ、鼠、だろうか。そして人ではないけれども「井戸」は、「ノルウェイ…」、「ねじまき鳥クロニクル」等でも取り上げられ、論文まで書かれているほどだ。

それから主人公である‟僕”が、カントの「純粋理性批判」を読む場面が幾度も出てくる。哲学史の中でも後世に与えた影響の最も大きな本のひとつであることは間違いないのだが、非常に難しいのでも有名だ。主人公によく読ませたな、と感心する。

この作品は、前作「風の歌を聴け」と同様に、村上氏はまず英語で書き、その後、日本語に翻訳したとしている。英語の堪能な村上氏ならではの、小説の書き方だろう。この2作の後、英語で書いてから日本語に訳すと言う手法は取っていないようだ。

ところで日本では本が文庫化される時には、巻末に‟解説”なるものがつけられるのが通常だった。ところが、その中にはもちろん役立つ解説も少なからずあったのだが、村上氏の文庫本には「風の…」にも、この「1973年の…」にも、おそらく以降のすべての文庫本に“解説”がついていない。恐らく村上氏の考えが、この解説のない文庫本の背景になっているのだろう。
1973年のピンボール (講談社文庫) Amazon書評・レビュー: 1973年のピンボール (講談社文庫)より
4062749114
No.100
(4pt)

後年の村上氏が、あちこちに窺える初期の名品

本当に久しぶりに、村上春樹の第2作目の作品である「1973年のピンボール」を読んだ。これで2回目のはずなのだけれども、やはり時代を感じるとともに、こんな小説だったのか、と改めて感じさせられることも多かった。

やはりピンボールの魅力に取りつかれた人が蒐集した多くのピンボールが、倉庫の中で整然と並べられている光景を描いている部分が、何とも言えない。

懐かしいのは、他の作品でも登場する双子の女の子、あの「ノルウェイの森」でも悲劇的な役割を負う女性である、同一人物ではなさそうだが、直子、それから第1作でも登場したジェイ、鼠、だろうか。そして人ではないけれども「井戸」は、「ノルウェイ…」、「ねじまき鳥クロニクル」等でも取り上げられ、論文まで書かれているほどだ。

それから主人公である‟僕”が、カントの「純粋理性批判」を読む場面が幾度も出てくる。哲学史の中でも後世に与えた影響の最も大きな本のひとつであることは間違いないのだが、非常に難しいのでも有名だ。主人公によく読ませたな、と感心する。

この作品は、前作「風の歌を聴け」と同様に、村上氏はまず英語で書き、その後、日本語に翻訳したとしている。英語の堪能な村上氏ならではの、小説の書き方だろう。この2作の後、英語で書いてから日本語に訳すと言う手法は取っていないようだ。

ところで日本では本が文庫化される時には、巻末に‟解説”なるものがつけられるのが通常だった。ところが、その中にはもちろん役立つ解説も少なからずあったのだが、村上氏の文庫本には「風の…」にも、この「1973年の…」にも、おそらく以降のすべての文庫本に“解説”がついていない。恐らく村上氏の考えが、この解説のない文庫本の背景になっているのだろう。
1973年のピンボール Amazon書評・レビュー: 1973年のピンボールより
4061168622
No.99
(4pt)

村上ワールドの始まりです

この三部作から村上春樹を読んでみようと思いました。面白そうです。
1973年のピンボール (講談社文庫) Amazon書評・レビュー: 1973年のピンボール (講談社文庫)より
4062749114
No.98
(4pt)

村上ワールドの始まりです

この三部作から村上春樹を読んでみようと思いました。面白そうです。
1973年のピンボール Amazon書評・レビュー: 1973年のピンボールより
4061168622
No.97
(5pt)

直子への鎮魂歌

前作「風の歌を聴け」のテーマを引き継ぎながらも、物語の構造はがらりと変わります。
次作「羊をめぐる冒険」への布石でもある本作ですが、唯一無二の世界観が光ります。
僕はピンボールをめぐる探索に挑み、一方で鼠は700キロ離れた街で思索を深めていきます。

【「僕」の物語】
直子を失った4年間の絶望の日々に終止符を打つために、僕は出口を捜し始める。
そんな日曜日の朝に双子が僕の部屋に現れて、僕の運命を導き始めた。
過去にしか繋がりを持たない僕の心を象徴する古い配電盤を彼女たちと見つけ、
死にかけたその配電盤を記憶の貯水池の底に沈める。
それから、繰り返されるピンボール・ゲームのような自己完結してしまった僕の世界観と向き会う。
東京の果てにある養鶏場の冷凍倉庫で、「3フリッパーのスペースシップ」に再会するシーンが物語のクライマックス。
そこには他にも恐ろしい数のピンボール台が、忘れられた過去の思想のように眠っていた。
僕はピンボール・マシーンに最後の別れを告げる。
全てが終わり、気がつくと僕の耳は素晴らしく鋭敏に世界中の物音を聞き分けていた。

【鼠の物語】
この小説は「僕」の話であるとともに鼠の話でもある。
鼠の自己対話は独立していながらも、同時進行する僕の意識世界と共振していく。
金曜日の夜に鼠は女に電話するのをやめる。
深い眠りがやってくるまで、「肉体が少しずつ実体をなくし、重さをなくし、感覚をなくしていくのに耐える。」
彼はきっと過去の記憶を追体験しているのではないだろうか。
鼠は誰にも何も語らないことを決意し、古い街を出て行く。

鼠の謎は持ち越されました。
次作「羊をめぐる冒険」ではこれまでの閉じた小さな人間関係の物語が、
歴史と文化を背負ったスケールの大きな物語へと展開していきます。
長編作家村上春樹がいよいよ誕生します。
1973年のピンボール (講談社文庫) Amazon書評・レビュー: 1973年のピンボール (講談社文庫)より
4062749114
No.96
(5pt)

直子への鎮魂歌

前作「風の歌を聴け」のテーマを引き継ぎながらも、物語の構造はがらりと変わります。
次作「羊をめぐる冒険」への布石でもある本作ですが、唯一無二の世界観が光ります。
僕はピンボールをめぐる探索に挑み、一方で鼠は700キロ離れた街で思索を深めていきます。

【「僕」の物語】
直子を失った4年間の絶望の日々に終止符を打つために、僕は出口を捜し始める。
そんな日曜日の朝に双子が僕の部屋に現れて、僕の運命を導き始めた。
過去にしか繋がりを持たない僕の心を象徴する古い配電盤を彼女たちと見つけ、
死にかけたその配電盤を記憶の貯水池の底に沈める。
それから、繰り返されるピンボール・ゲームのような自己完結してしまった僕の世界観と向き会う。
東京の果てにある養鶏場の冷凍倉庫で、「3フリッパーのスペースシップ」に再会するシーンが物語のクライマックス。
そこには他にも恐ろしい数のピンボール台が、忘れられた過去の思想のように眠っていた。
僕はピンボール・マシーンに最後の別れを告げる。
全てが終わり、気がつくと僕の耳は素晴らしく鋭敏に世界中の物音を聞き分けていた。

【鼠の物語】
この小説は「僕」の話であるとともに鼠の話でもある。
鼠の自己対話は独立していながらも、同時進行する僕の意識世界と共振していく。
金曜日の夜に鼠は女に電話するのをやめる。
深い眠りがやってくるまで、「肉体が少しずつ実体をなくし、重さをなくし、感覚をなくしていくのに耐える。」
彼はきっと過去の記憶を追体験しているのではないだろうか。
鼠は誰にも何も語らないことを決意し、古い街を出て行く。

鼠の謎は持ち越されました。
次作「羊をめぐる冒険」ではこれまでの閉じた小さな人間関係の物語が、
歴史と文化を背負ったスケールの大きな物語へと展開していきます。
長編作家村上春樹がいよいよ誕生します。
1973年のピンボール Amazon書評・レビュー: 1973年のピンボールより
4061168622
No.95
(5pt)

ラバー・ソウルにノルウェイの森が収録

他の方々の本作レビューをひと通り読んで、まだ書かれてなさそうなネタバレを。

双子がビートルズのアルバム「ラバー・ソウル」を主人公に内緒で買ってきて、レコードにかけて流した時になぜ主人公は黙ってしまったのか・・・本作ではその明確な理由は書かれてないが、この伏線は作品を越えて回収される。

ビートルズの楽曲「ノルウェイの森」は「ラバー・ソウル」に収録されているからだ(現在は複数のアルバムに収録されているだろうが、当時は初出と思われる)。
小説「ノルウェイの森」の中で、ヒロインの直子が大好きだった楽曲。

出版された順番は違うけど、物語内の時系列は1968-69「ノルウェイの森」→1970夏「風の歌を聴け」(処女作)→1973秋「1973年のピンボール」なので、本作の前に「ノルウェイの森」を読んでいると、ピンボールに込められた想いや嵌った理由がだいぶ理解できると思う(本書にも、喪失した恋人として直子が出てくるので、小説同士に何らかの繋がりがあると見ていい。若干矛盾が生じる箇所もあるが、そこはパラレルワールドってことで)。

あと幾つか思うところを書くと、個人的には本作自体が「ピンボールというゲーム機器本体」に見立てられてるのでは、と思った。

~虚無的に感じられる部分は「死んだ時間を提供するだけのピンボール(=今の生き方)をいいかげんやめたい、でもやめられない、変わりたい、変われない」という日々の堕落と呪術性(中毒・依存)を表す~
↑煙草・酒・ゲーム・パチンコ・スロット・スマホなどに嵌り過ぎてダメ人間になった経験がある人はこの感覚がわかると思う。

~配電盤を捨ててみたり養鶏場の冷凍倉庫に行ったり(主人公)、ジェイに町を出ることをなかなか告げられず何度もバーに通ったり(鼠)~
↑人間は本当にやめたい何かを卒業する時、時間を無駄にして決意と挫折を繰り返したり、誰にも秘密の個人的葬式儀式を何度も繰り返した果てにある日ようやくやめることができるものだと思う。

『依存した何かを喪失した恋人に見立てる自己正当化(=擬人化)、堕落と中毒の繰り返しの果ての卒業・旅立ち』・・・これらも人間の持つ普遍性であり、これが本作のテーマ(=寓意・アレゴリー)の1つではないかと思った。人類普遍のと言った大きなものではなく、地べたに這いつくばるような個人のちっぽけな日常的テーマではあるけど。

それを読者に感じさせるためには読み進めるのが退屈と思われたとしても、変わらないダラダラとした虚無の日々や何度も行う卒業的儀式の描写は必要だし、その果てにようやくピンボールを卒業できる(本作を読了する)というカタルシスを味わえる構成になってるんだと思う。

大体、作者が読者に対して「ハヴ・ア・ナイス・ゲーム」とか「もしあなたが(本作=ピンボールを通して)自己表現やエゴの拡大や分析を目指せば、あなたは反則ランプによって容赦なき報復を受けるだろう」とか皮肉的なこと言っちゃってるし。他にも「リプレイ、リプレイ、リプレイ」とか、「繰り返しだ」というフレーズも多いし。だから虚無の日々や葬式的儀式が何度もリプレイされているのだろう。

本作自体をピンボール機器に見立てる(=読者に虚無と中毒を体感させた果てに卒業させる)という実験的試みがわかりづらくて人によっては退屈なのが、本作が3部作の間に挟まっていまいち人気がないとされる理由ではないだろうか。あるいは現実逃避したくて読書しようと本書を手にしたのに、現実の自分と同じ様に何かに依存して虚無の日々を送る主人公達をまざまざと見せつけられたら、この作品を読むのは苦痛に感じ、好きになれないかもしれない。

あと、「主人公と鼠」は直喩やメタファー・キーワード的単語を入れ換えても文脈が通じるものが多いので、2人1役と思って問題ないと思う。それを狙ってわざと共通する言葉を使ってると思うし、直接的絡みはないけど2人は無意識下でつながってるという設定かと。たとえば、鼠が「いったいどれだけの水を飲めば足りるのか」と思ったら、主人公が双子に「バケツ一杯分もの水を飲まされ」ますよね(私も3.11の時は被災者じゃないのになぜか異様に水が飲みたくなった)。

そして、何かの中毒になってる人間は誰かの助けなしには脱出しづらいもの・・・救いの存在の象徴として双子が現れ、癒され、卒業儀式を行うことを啓示され、まだ引きずる時もあるだろうけど一応は卒業できたから双子は去っていったんだと思う。だから本作ラストで、トラウマでもある「ラバー・ソウル(ノルウェイの森)」を聴くことができたのだと思う(小説「ノルウェイの森」の冒頭では、1986年37歳になっても飛行機内で流れた「ノルウェイの森」に心を乱されるから完全にトラウマを無くすことは不可能みたいだが)。
1973年のピンボール (講談社文庫) Amazon書評・レビュー: 1973年のピンボール (講談社文庫)より
4062749114
No.94
(5pt)

ラバー・ソウルにノルウェイの森が収録

他の方々の本作レビューをひと通り読んで、まだ書かれてなさそうなネタバレを。

双子がビートルズの「ラバー・ソウル」を主人公に内緒で買ってきて流した時になぜ主人公は黙ってしまったのか・・・本作ではその明確な理由は書かれてないが、この伏線は作品を越えて回収される。

ビートルズの楽曲「ノルウェイの森」は「ラバー・ソウル」に収録されているからだ。
小説「ノルウェイの森」の中で、直子が大好きだった楽曲。

出版された順番は違うけど、時系列は1968-69「ノルウェイの森」→1970夏「風の歌を聴け」→1973秋「1973年のピンボール」なので、本作の前に「ノルウェイの森」を読んでると、ピンボールに込められた想いや嵌った理由がだいぶ理解できると思う。

あと幾つか思うところを書くと、個人的には本作自体が「ピンボールというゲーム機器本体」に見立てられてるのでは、と思った。

~虚無的に感じられる部分は「死んだ時間を提供するだけのピンボール(=今の生き方)をいいかげんやめたい、でもやめられない、変わりたい、変われない」という日々の堕落と呪術性(中毒・依存)を表す~
↑煙草・酒・ゲーム・パチンコ・スロットなどに嵌り過ぎてダメ人間になった経験がある人はこの感覚がわかると思う。

~配電盤を捨ててみたり養鶏場の冷凍倉庫に行ったり(主人公)、ジェイに町を出ることをなかなか告げられず何度もバーに通ったり(鼠)~
↑人間は本当にやめたい何かを卒業する時、時間を無駄にして決意と挫折を繰り返したり、誰にも秘密の個人的葬式儀式を何度も繰り返した果てにある日ようやくやめることができるものだと思う。

『依存した何かを喪失した恋人に見立てる自己正当化(=擬人化)、堕落と中毒の繰り返しの果ての卒業・旅立ち』・・・これらも人間の持つ普遍性であり、これが本作のテーマ(=寓意・アレゴリー)の1つではないかと思った。人類普遍のと言った大きなものではなく、地べたに這いつくばるような個人のちっぽけな日常的テーマではあるけど。

それを読者に感じさせるためには変わらないダラダラとした虚無の日々・何度も行う卒業的儀式の描写は必要だし、その果てにようやくピンボールを卒業できる(本作を読了する)というカタルシスを味わえる構成になってるんだと思う。

大体、作者が読者に対して「ハヴ・ア・ナイス・ゲーム」とか「もしあなたが(本作=ピンボールを通して)自己表現やエゴの拡大や分析を目指せば、あなたは反則ランプによって容赦なき報復を受けるだろう」とか皮肉的なこと言っちゃってるし。他にも「リプレイ、リプレイ、リプレイ」とか、「繰り返しだ」というフレーズも多いし。だから虚無の日々や葬式的儀式が何度もリプレイされてるのだろう。

本作自体をピンボール機器に見立てる(=読者に虚無と中毒を体感させた果てに卒業させる)という実験的試みがわかりづらいのが、本作が3部作の間に挟まっていまいち人気がないとされる理由ではないだろうか。

あと、「主人公と鼠」は直喩やメタファー・キーワード的単語を入れ換えても文脈が通じるものが多いので、2人1役と思って問題ないと思う。それを狙ってわざと共通する言葉を使ってると思うし、直接的絡みはないけど2人は無意識下でつながってるという設定かと。たとえば、鼠が「いったいどれだけの水を飲めば足りるのか」と思ったら、主人公が双子に「バケツ一杯分もの水を飲まされ」ますよね(私も3.11の時は被災者じゃないのになぜか異様に水が飲みたくなった)。

そして、何かの中毒になってる人間は誰かの助けなしには脱出しづらいもの・・・救いの存在の象徴として双子が現れ、癒され、卒業儀式を行うことを啓示され、まだ引きずる時もあるだろうけど一応は卒業できたから去っていったんだと思う。だから本作ラストで、トラウマでもある「ラバー・ソウル(ノルウェイの森)」を聴くことができたのだと思う(小説「ノルウェイの森」の冒頭では、1986年37歳になっても飛行機内で流れた「ノルウェイの森」に心を乱されるから完全にトラウマを無くすことは不可能みたいだが)。
1973年のピンボール Amazon書評・レビュー: 1973年のピンボールより
4061168622
No.93
(5pt)

村上春樹さんの本は奥深い

本でも持っているが、通勤中など読みたいときにすぐに読めるように電子書籍でも買ってしまいました。
1973年のピンボール (講談社文庫) Amazon書評・レビュー: 1973年のピンボール (講談社文庫)より
4062749114
No.92
(5pt)

村上春樹さんの本は奥深い

本でも持っているが、通勤中など読みたいときにすぐに読めるように電子書籍でも買ってしまいました。
1973年のピンボール Amazon書評・レビュー: 1973年のピンボールより
4061168622
No.91
(5pt)

この小説に埋め込まれた「暗喩」

僕と鼠と双子の姉妹が「現在」の主な登場人物。そして「過去」に、僕は直子と付き合っていた。僕は、彼女と1969年から1973年(大学2年から社会人2年目)の間付き合って、彼女が死んでしまったということを胸の内に抱え込みながら、現在通訳をやっている。双子、ピンボール、バーテンダーのジェイ、親友の鼠、通訳の仕事と事務所の女の子。詩的な文章で日常を描写しながら、僕の心の深い所に刻まれている思いを、明に暗に紡ぎ出している。

この話を一つの大きな暗喩の提示だとすると、「スペースシップ」というピンボールマシンはすなわち僕が付き合っていた直子を指し、最後に50台のピンボールマシンを集めた倉庫に行くのは、彼女が現在勤める異質な世界(夜の稼業?)に僕が会いに行ったことを示している。「スペースシップ」でゲームを行うことは、彼女との性行為のメタファーだ。よって彼女はもちろん死んでおらず、15章に出てくる傍線部分は、そういう世界に行かざるを得なかった彼女に対して、僕が無力(経済的に? 踏み越えるべき何らかの一線を踏み越えることが出来なかった?)で、結局何もしてやれなかった悔恨や、叫びたいような衝動、そして混乱を、ピンボールのゲームにオーバーラップさせているのだ。双子の姉妹について(わざと)人物造形が立ち上がってこないように描いているのは、直子への思いが強く残っているために、その後付き合った女の子はそのようにしか見えなかったことを表す。
・・・と私は解釈した。読み手による解釈の楽しみを味わわせてくれる小説だった。
1973年のピンボール (講談社文庫) Amazon書評・レビュー: 1973年のピンボール (講談社文庫)より
4062749114
No.90
(5pt)

この小説に埋め込まれた「暗喩」

(あらすじに触れている部分あり)
僕と鼠と双子の姉妹が「現在」の主な登場人物。そして「過去」に、僕は直子と付き合っていた。僕は、彼女と1969年から1973年(大学2年から社会人2年目)の間付き合って、彼女が死んでしまったということを胸の内に抱え込みながら、現在通訳をやっている。双子、ピンボール、バーテンダーのジェイ、親友の鼠、通訳の仕事と事務所の女の子。詩的な文章で日常を描写しながら、僕の心の深い所に刻まれている思いを、明に暗に紡ぎ出している。

この物語を一つの大きな暗喩の提示だとすると、「スペースシップ」というピンボールマシンはつまり僕が付き合っていた直子のことであり、最後に50台のピンボールマシンを集めた倉庫に行くのは、彼女が現在勤める異質な世界(夜の稼業?)まで僕が会いに行ったことを示している。「スペースシップ」でゲームを行うことは、彼女との性行為のメタファーだ。よって彼女はもちろん死んでおらず、15章に出てくる傍線部分は、そういう世界に行かざるを得なかった彼女に対して、僕が無力(経済的に? 踏み越えるべき何らかの一線を踏み越えることが出来なかった?)で、結局何もしてやれなかった悔恨や、叫びたいような衝動、そして混乱を、ピンボールのゲームとオーバーラップさせているのだといえる。双子の姉妹について(わざと)人物造形が立ち上がってこないように描いているのは、直子への思いが強く残っているために、その後付き合った女の子はそのようにしか見えなかったことを表す。

と、読んだ。解釈の楽しみをじわりと与えてくれる小説だった。
1973年のピンボール Amazon書評・レビュー: 1973年のピンボールより
4061168622
No.89
(5pt)

この小説に埋め込まれた「暗喩」 (私の解釈)

僕と鼠と双子の姉妹が「現在」の主な登場人物。そして「過去」に付き合っていた直子。彼女とは、1969年から1973年(大学2年から社会人2年目)の間付き合って、彼女が死んでしまったということを胸の内に抱え込みながら、現在通訳をやっている自分の生活を描いている。双子、ピンボール、バーテンダーのジェイ、親友の鼠、通訳の仕事と事務所の女の子という日常の情景を詩的な文章で綴っている。

この物語を一つの大きな暗喩の提示だとすると、「スペースシップ」というピンボールマシンは、付き合っていた直子という女性を表し、最後に50台のピンボールマシンを集めた倉庫に行くというのは、彼女が現在勤めている異質な世界(夜の稼業?)に会いに行ったという解釈ができる。「スペースシップ」でゲームを行うことは彼女との性行為のメタファーだ。そう解釈するなら彼女はもちろん現在も死んでおらず、15章に出てくる傍線が引いてある部分はそういう世界に行かざるを得なかった彼女に対して、無力(経済的に?)な自分は何もしてやることが出来なかったということを表現しているのではないか。双子の姉妹について人物造形が立ち上がって来ないように描いているのは、直子への思いが強く残っているからその後付き合った女の子はそのようにしか見えなかったことを表している。

というのが私の解釈です。
1973年のピンボール (講談社文庫) Amazon書評・レビュー: 1973年のピンボール (講談社文庫)より
4062749114
No.88
(5pt)

この小説に埋め込まれた「暗喩」 (私の解釈)

僕と鼠と双子の姉妹が「現在」の主な登場人物。そして「過去」に付き合っていた直子。彼女とは、1969年から1973年(大学2年から社会人2年目)の間付き合って、彼女が死んでしまったということを胸の内に抱え込みながら、現在通訳をやっている自分の生活を描いている。双子、ピンボール、バーテンダーのジェイ、親友の鼠、通訳の仕事と事務所の女の子という日常の情景を詩的な文章で綴っている。

この物語を一つの大きな暗喩の提示だとすると、「スペースシップ」というピンボールマシンは、付き合っていた直子という女性を表し、最後に50台のピンボールマシンを集めた倉庫に行くというのは、彼女が現在勤めている異質な世界(夜の稼業?)に会いに行ったという解釈ができる。「スペースシップ」でゲームを行うことは彼女との性行為のメタファーだ。そう解釈するなら彼女はもちろん現在も死んでおらず、15章に出てくる傍線が引いてある部分はそういう世界に行かざるを得なかった彼女に対して、無力(経済的に?)な自分は何もしてやることが出来なかったということを表現しているのではないか。双子の姉妹について人物造形が立ち上がって来ないように描いているのは、直子への思いが強く残っているからその後付き合った女の子はそのようにしか見えなかったことを表している。

というのが私の解釈です。
1973年のピンボール Amazon書評・レビュー: 1973年のピンボールより
4061168622
No.87
(5pt)

虚無と倦怠と音楽と―ピンボールの目的は自己表現にあるのではなく、自己変革にある…


 最近、新潮文庫から出刊された村上春樹さんの『雑文集』によれば、「小説家とは、多くを観察し、わずかしか判断を下さないことを生業とする人間」であると述べている。さらに、「良き物語を作るために小説家がなすべきことは、ごく簡単に言ってしまえば、結論を用意することではなく、仮説をただ丹念に積み重ねていくことだ」と語る。そして、「仮説を決めるのは読者であり、作者ではない。物語とは風なのだ。揺らされるものがあって、初めて風は目に見えるものになる」(前掲書「自己とは何か(あるいはおいしい牡蠣フライの食べ方)」から)と言っている。

 この『1973年のピンボール』は、「群像」新人文学賞を受賞した『風の歌を聴け』に続く、「僕」と「鼠」の二段構えの物語だ。前作では、1970年の8月8日から8月26日までの出来事を縦糸とし、アメリカのデレク・ハートフィールドという作家(もちろん、私は知らない)を横糸として筋立てているわけだが、本作では、1973年の秋から冬にかけての出来事を縦糸とし、擬人化されたスペースシップ型ピンボールを横糸として、物語が展開されている。それぞれにメインとなる女性も登場するのであるけれど、前作では左手の指が4本しかない女性が何とも印象的だ。

 この作品では、「僕」は「双子の姉妹」と同棲、同衾している。村上さんは、小説の素材を前掲書で「マテリアル」と称しているけれども、本作では、この「双子の姉妹」が「マテリアル」として相応しかったかどうか、私は些か疑問が残る。確かに、「物語とは風なのだ。揺らされるものがあって、初めて風は目に見えるものになる」であろうし、読者は、村上さんが敢えて残した“余白”に、想像力を働かせ、己れ自身を投影する形で行間を埋めざるを得ない。ただ、私個人としては、「仮説」として不安を抱かせる「双子の姉妹」に恃むよりは「一人の女性」を望みたい。
1973年のピンボール (講談社文庫) Amazon書評・レビュー: 1973年のピンボール (講談社文庫)より
4062749114
No.86
(5pt)

虚無と倦怠と音楽と―ピンボールの目的は自己表現にあるのではなく、自己変革にある…


 最近、新潮文庫から出刊された村上春樹さんの『雑文集』によれば、「小説家とは、多くを観察し、わずかしか判断を下さないことを生業とする人間」であると述べている。さらに、「良き物語を作るために小説家がなすべきことは、ごく簡単に言ってしまえば、結論を用意することではなく、仮説をただ丹念に積み重ねていくことだ」と語る。そして、「仮説を決めるのは読者であり、作者ではない。物語とは風なのだ。揺らされるものがあって、初めて風は目に見えるものになる」(前掲書「自己とは何か(あるいはおいしい牡蠣フライの食べ方)」から)と言っている。

 この『1973年のピンボール』は、「群像」新人文学賞を受賞した『風の歌を聴け』に続く、「僕」と「鼠」の二段構えの物語だ。前作では、1970年の8月8日から8月26日までの出来事を縦糸とし、アメリカのデレク・ハートフィールドという作家(もちろん、私は知らない)を横糸として筋立てているわけだが、本作では、1973年の秋から冬にかけての出来事を縦糸とし、擬人化されたスペースシップ型ピンボールを横糸として、物語が展開されている。それぞれにメインとなる女性も登場するのであるけれど、前作では左手の指が4本しかない女性が何とも印象的だ。

 この作品では、「僕」は「双子の姉妹」と同棲、同衾している。村上さんは、小説の素材を前掲書で「マテリアル」と称しているけれども、本作では、この「双子の姉妹」が「マテリアル」として相応しかったかどうか、私は些か疑問が残る。確かに、「物語とは風なのだ。揺らされるものがあって、初めて風は目に見えるものになる」であろうし、読者は、村上さんが敢えて残した“余白”に、想像力を働かせ、己れ自身を投影する形で行間を埋めざるを得ない。ただ、私個人としては、「仮説」として不安を抱かせる「双子の姉妹」に恃むよりは「一人の女性」を望みたい。
1973年のピンボール Amazon書評・レビュー: 1973年のピンボールより
4061168622
No.85
(5pt)

面白い

自分は氏の小説の大半が嫌いですが、この本と『風の歌を聴け』は大好きです。 美人のガールフレンド(候補)と行ったレストランでの食事を「凝縮された食費の味」と表現する主人公は他の作品には出ないですよね。 読みやすい上に安いので沢山の人に読んで欲しいです。
1973年のピンボール (講談社文庫) Amazon書評・レビュー: 1973年のピンボール (講談社文庫)より
4062749114