正欲
評判
正欲の評価:
3.85/5点 レビュー 459件。 D ランク
Amazonレビュー一覧
Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全459件 401〜420 21/23ページ
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正欲の評価:
3.85/5点 レビュー 459件。 D ランク
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この「了解不能な内面」を端的に表すシンボルとして、本書では「極めてマイナーで、同じ嗜好を持つ人間は非常に少なく、でも現実世界に全然いないというわけでもない」性的欲望として、対物性愛(objectophilia)が設定される。対物性愛で多く言及されるのは塔や橋梁などの巨大構造物への性愛だが、主人公たちの場合は大量の水の動態への性愛を持っている。朝井本人もこれをインタビューで「自分の中にある分からないモノ、結局つかめないモノの象徴」と語っている。
主人公たち3人(桐生夏月・佐々木佳道・諸橋大也)が共有するこの性的欲望は、それが物自体に向かっているために、本質的には他者を必要としない。そのことが逆に、彼らが「他者と普通に関係し、共に生きること」を不可能にしている。異性愛をひな形とするカップル主義に満ちた世界のなかで、3人は社会的に強い疎外感を感じ、誰にも理解してもらえない地獄を生きている。そんな彼らはネットや現実世界を通して互いに巡り会い、性的欲望を理解し合える相手を得たことで自己受容でき、生き続けることに希望を見い出す。佐々木と夏月は、誰にも理解されなかった性的欲望を共有できる同志として、結婚する(このあたりで、序盤で執拗に描写された3人の孤独感はおおむね解決しているともいえる)。そこで一転して悲劇が起こる。
佐々木と大也は、矢田部という仲間からシェアされた画像をめぐって児童ポルノ所持法違反で警察に逮捕され、男児小児性愛者と誤認され、メディアに報道され、社会的制裁を与えられる。彼らの性的欲望を「誤解」する無理解な検察官に、主人公たちは諦念と沈黙で応じる。彼らはようやく得た同志との繋がりを「いなくならないから」という言葉に託し、前向きに生き続けることを選ぶ。
…というのが本書のざっくりした展開なのだけど、実は朝井のいう「自分の中にある分からないモノ、結局つかめないモノの象徴」であるマイナーな対物性愛と、彼らが終盤で被る辛い体験のあいだには、直接・必然の繋がりはない。プロットを整理して読み直すと、最後の「悲劇」は主人公3人の性的欲望の特殊さや了解不能さそれ自体によってではなく、その性的欲望が男児小児性愛と混同(誤解)されたせいで起きたことに気づく。
■物語をドライブする前提としての「小児性愛=〈悪い性欲〉」
この物語の梃子になっているのは、登場人物たちと読者の間に成立している「小児性愛は〈悪い性欲〉である」という隠れたコンセンサスだ。
本書タイトルの『正欲』が、異性愛主義と、それを性的対象や性的同一性に沿って拡張した「きれいな性的多様性」(たとえばLGBTQIA+...)のことだとすれば、主人公たちの対物性愛は一貫して〈正欲ではないが、罪のない性欲〉として描かれている。〈正欲〉から逸脱してはいるが、あまりにマイナーで一般の理解を超えているため、社会から「倒錯性欲」として名指しで糾弾されたり排除されたりすることもない。実践においても(本質的にはモノをめぐる欲望なので)自己充足的で、他の人間を傷つけることもない。社会に認められてはいないが、イノセントな性欲なのだ。一方で小児性愛については、主人公たちも他の登場人物も、はっきりと「社会が許容してはいけない類の性的多様性」=〈悪い性欲〉と位置づけている。そして朝井は、大半の読者もこの価値観を共有していることを知っている。
この暗黙の合意を梃子として使うことで、主人公たちの「罪のなさ」と悲劇性が際立つ。彼らの〈正欲ではないが、罪のない性欲〉が、世間の無理解によって〈悪い性欲〉と混同されたせいで、彼らは不当に罰を受けることになるのである。一部レビューでも指摘されているが、もしこの「〈悪い性欲〉との混同」という偶然の要素がなかったら、主人公たちの物語は「マイナー趣味の仲間とオフ会で出会えて癒されました、生きる希望が湧きました」という平和で平坦な話で終わってしまう。〈悪い性欲〉はこの平和に悲劇性を注入し、物語としての起承転結を整えるための欠かせない小道具として使われている。
その一方で、ここで〈悪い性欲〉とされている小児性愛が「なぜ・どのように〈悪い〉のか」という問題には、朝井はおそらく意識的に深入りを避けている。主人公たちの対物性愛は、物語序盤から少年youtuberという存在を通してうっすらと小児性愛の領域と紐づけられ、終盤に向けての伏線とされているのに、多様性を浅薄に賞揚する脇役たちも、保守的で頑迷な脇役も、そして主人公3人も、小児性愛がなぜ・どうタブーなのかについては触れないし、そのタブー性への異議申し立てもしない。逮捕の発端となったパーティー参加者・矢田部の心理はほとんど描写されず、読者が彼に感情移入を促されることもない。矢田部が本筋の外で犯した児童買春事件も、捜査のきっかけとして軽く言及されるだけで終わる。終盤の取調べのくだりは、実際には男児たちに性的関心がない佐々木や大也に対し、彼らの本当の性的欲望を理解できない警察や検察官が児童ポルノ所持容疑をかける、いわば理不尽な誤認逮捕のように描かれる。小児性愛が〈悪い〉ことは、本書では物語が語るべき対象というよりも語りの前提になっていて、その〈悪い〉ことを行ってしまう当事者の内面や動機や主張は一切顧みられない。
だからこそ多くの読者は、主人公たちが受ける処遇を不当で非合理だと〈安心して〉憤ることができるし、「何も罪のない主人公たちのことを理解も受容もできない『多様性の賞揚』なんぞマジクソ欺瞞ですわ〜」という感想にも誘導されていくことになる(実際、amazonにはそういうレビューが多い)。
では、もし仮に主人公3人が、矢田部と同様に小児性愛の傾向も持ち合わせた人物として設定されていたら? あるいは、矢田部が4人目の主人公として、その内面的葛藤や、仲間と出会えたことによる救済や自己受容を克明に描かれていたらどうだったろう? その場合は、主人公たちへの共感と憐憫、そして類型的な多様性賞揚への疑問や批判がレビューの多くを占めることはなかったのではないか。もしそういう筋書きだったら、この話は「一般社会に理解されない、孤独で善良な人たちの救済と悲劇と再生」の物語ではなくなってしまうからだ。主人公に共感し、彼らの運命に憤るような読みは、〈悪い性欲〉自体の容認・肯定にもつながってしまうからだ。それは、読者を居心地良くさせない。
〈悪い性欲〉をめぐる問いを周到に避けたのは、筆者の思慮深さによるものなのかもしれない。実際、多くの人はそんな葛藤を突き付けられることを読書体験に求めていないのかもしれない。自分自身の性的想像力の範囲をほんの少し拡げてみて、今まで想像したことのない〈非-正欲〉のありように思いをめぐらすという試みにさえ、戸惑ったり衝撃を受けたりする読者がこれだけいるのだ。〈悪い性欲〉の〈悪さ〉自体を懐疑し、それまで読者が内面化してきた倫理観を問い直すような強いプロットを筆者が選ばなかったことは理解できなくもない。
しかし、本書の狙いのひとつが「性的多様性を賞揚する世の中の流れは、その背後に〈社会が許容してもよい性的欲望/許容できない性的欲望の区別〉という傲慢な線引きを隠している」という欺瞞を暴くことにあるなら、むしろ主人公たちの〈正欲に入れてもらえないが、罪のない性欲〉よりも、この〈悪い性欲〉こそが問題の核心なのではないか、とも思う。
佐々木は冒頭の独白で、軽々しく「多様性」という言葉を使うマジョリティを「想像を絶するほど理解しがたい、直視できないほど嫌悪感を抱き距離を置きたいと感じるものには、しっかり蓋をする」と非難しているが、実はこの物語の中で、彼らの対物性愛についてマジョリティが「直視できないほど嫌悪感を抱き距離を置きたいと感じる」シーンは一度もない。あまりに「想像を絶する理解しがたい」ものだから、そもそもマジョリティはそれが性的な欲望だととらえないし、主人公たちもその欲望をマジョリティに向けて説明しようとは一度も試みない。実際には、本書で「直視できないほど嫌悪感を抱き距離を置きたい」欲望として取り扱われているのは、誰でもはっきりと想像し、理解できる〈悪い性欲〉=小児性愛のほうなのである。
このあたりの、微妙に辻褄の合わない感じに、筆者のどういう思惑が現れているのかを読後ずっと考えているが、せっかく『正欲』というタイトルを冠した小説なのだから、この「〈悪い性欲〉はなぜ・どのように〈悪い〉のか(あるいは悪くないのか)」という問題には、もう少し真正面から向き合ってもらいたかったなあと思う。私達の社会が〈悪い性欲〉と規定しているものの筆頭が小児性愛、獣姦、近親姦だが、いまは獣姦をテーマとしたノンフィクションの『聖なるズー』がベストセラーになる時代だ。小説よりもノンフィクションのほうがタブーの領域を直視し、読者もその葛藤と向き合っているのだとしたら、何だか癪だなと思った。
■「多様性の欺瞞」の告発としては、微妙に成立していないプロット
著者は性的な多様性を容認する社会の動きを、異性愛のカップル主義を踏襲したまま相手の性別を違える自由を加えただけの、表面的でうわべだけのもののように描く。それを体現するのが、八重子・よし香・優芽ら、いかにも浅薄に造型された斬られ役たちだ。
だが現代のLGBTQIA+運動は、アセクシュアルやアロマンティックのように「性的な欲望のない人」や「性的欲望とパートナーシップを結合させて生活を構築する意志のない人」も配慮と社会的受容の視野に入れている。クィア理論以後のセクシュアリティ運動の根底にあるのは、他者の権利侵害や抑圧構造の再生産を伴わないすべての性的欲望(あるいはその不在)を肯定する論理だ。「他人を害しない限り、個人の性的な好みや生活形態にとやかく言わないでくれ」という不干渉の倫理を、あらゆる関係や対象に拡げようとしている、と言い換えてもいい。その意味では、冒頭の佐々木の言葉にある「ほっといてほしいんです。ほっといてもらえれば、勝手に生きるので」という訴えは、性的マイノリティの運動の根本部分にちゃんと先取されている(なお90年代の米国のレズビアンゲイ運動は、「十全な判断能力を持たない未成年者への性的アプローチは、たとえ相手の同意を得ていても、他者危害原則に反する」という理由で小児性愛者の団体を運動体から排除した。この経緯を見ても、小児性愛は昔から「性の多様性」をめぐる喉の小骨、包摂不能な異物だったことがわかる)。
その立場から改めて見てみると、主人公たちの〈非-正欲〉は、自給自足的で他者危害もない、平和なものだ。現代社会が認めた「きれいな性的多様性」(LGBTなど)と絶望的に折り合わず、今後も「性の多様性」をめぐる運動から排除され続ける宿命にあるような〈悪い性欲〉ではない。多様性を賞揚する人々が今後も「解像度」を上げていけば、いずれ彼らの対物性愛が〈正欲〉の側に包摂される可能性は充分あるのだ。おめでたい多様性礼賛者として描かれる優芽やよし香たちも、その浅薄なおめでたさゆえに、彼らに普通に共感を示すようになるかもしれない(よし香が「価値観をアップデート」して「知らないんですか? オブジェクトファイルっていう人達もいるんですよ」なんて言い出す姿を想像するのは、とても容易い)。そして八重子は、大也が逮捕された後も彼との「繋がり」を維持する決意を滲ませている。
一方で物語終盤には、田吉という人物が登場し、佐々木を「男もいけるロリコン」と決め付け、彼らのような「異常者」への憎悪と蔑視を滔々と語る。彼は佐々木や小児性愛者を上から目線で断罪し、「社会にとって害悪なんだから、ずっと牢屋に入れといてくださいよ。ほんとに。できるだけ重い処罰にして、できるだけ出所しないようにしてくださいね。社会から隔離ぐらいすべきですって」「社会復帰支援とか、そういうのあいつらには意味ないんですって。仮に性犯罪者がうちの会社に再就職とかしようとしてきても、もう絶対拒否しますね、俺は。気持ち悪すぎる。ありえないです。あいつらは永遠にどっかに隔離しといたほうがいいんですって」とまで罵る。この田吉の長広舌は、主人公たちへの社会の無理解と蔑視・排除の感情を印象づけるハイライトとなっている。
しかしこの田吉は、多様性礼賛のムーブメントに共感して「価値観をアップデート」される類の人間ではない。旧弊な社会秩序と価値観に固執し、それ以外には想像力を巡らせることなく切って捨てる人物で、LGBTだのダイバーシティだのといったお題目を認めるとも思えない。筆者はこの物語のハイライトで、結局は多様性賞賛派ではなく、田吉というステレオタイプな超保守的人物に主人公たちを執拗に非難させることで『自分の中にある分からないモノ、結局つかめないモノの象徴』への社会の無理解・差別・排除などを表現することを選んだわけで、ここも「多様性を賞揚する社会の欺瞞」という本書のモティーフとうまく折り合っていないように感じる。
大也に「自分が想像できる"多様性"だけ礼賛して、秩序整えた気になって、そりゃ気持ちいいよな」とまで詰られた八重子が、それでも大也との「繋がり」を維持しようとする姿勢と、同僚の佐々木に対する田吉の圧倒的な切断と排除の姿勢を比べると、結局主人公たちを実際に苦しめている本丸は、たとえ浅薄でも「価値観をアップデート」して「解像度」を上げて彼らと繋がりを持とうとし続ける多様性賞揚派ではなく、田吉のように自らの価値観を一切疑うことなく「正常」以外を蔑視し断罪し続ける人々のほうだった、と読むこともできる。見方を変えれば、本書は「多様性賞揚の欺瞞」を描こうとしながら、その主題から逸脱するような要素がちゃんと含まれているわけで、これは筆者の意図以上の読みの可能性に向けて常に開かれている、小説というメディアの妙味かもしれない。
「上辺だけで多様性を礼賛するリベラルたちに、重大で本質的な問題提起を突き付けている」という論調で本書を賞賛する人達のなかには、実際にはこの田吉のような心性にもとづいて「リベラルの多様性賞揚」を論難したい人々が結構含まれているように見える。「朝井先生、よくぞ言ってくれました!」と快哉しつつ、といって、本書の主人公たちのような孤立した個を尊重して、彼らに寄り添おうという気持ちはさらさらない人々。「理解しえないものを理解しようとする姿勢」自体を否定し嘲笑し、自分たちがこれまで信じてきた「正常」の線引きを守りたい人々。他者を排除し断罪することに対して、誰かのお墨付きを得て安心したい人々(田吉は検察官の寺井に対して、繰り返し「そう思いません?」と同意を求める)。そういう、現実世界にたくさんいる田吉たちの「多様性批判」や「リベラル批判」の文脈で本書が持ち出されるのは、本書に含まれた問題提起の射程をごく狭く切り詰めてしまうことでもあり、残念だなあと思う。
最後に、本書の登場人物はわりと顔の肉が重力に負けがちである。