温室デイズ
- 青春小説 (221)
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「学校まで一緒に行こうよ」 私は瞬の横に駆け寄った。 これでいい、辛い物語がホッコリとした。 さすがや、 瀬尾まいこはん、 この爺を泣かせ負って。 | ||||
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本自体は当然問題無いが、内容が想像と全く違いガッカリでした | ||||
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私が中学生、小学生だった頃は、こうしたイジメは無かった。 イジメはいくらでもあったけど、皆で寄ってたかって、それも長期間で、というのは存在しなかったように思う。 いじめられっ子はいたけど、カウンター勢力はすぐ出来て、助けたり遊んだり気を使ったりした。 クラスの大半がいじめても、数人は堂々と助けていた。 そして助ける人間に対してイジメの刃が向くことは無かった。 次第に虐める側が少なくなり、助ける・気を使う側の方が大勢を占めるようになる。 思えば牧歌的な時代だったのだろう。 小学校3~4年の時、体のデカイ男子が思い切り暴れていた。 誰彼なくイジメ倒すので、それに辟易した私はクラス中を味方につけ、土曜日の放課後、そのイジメっ子を階段の踊り場に呼び出しリンチした。 集団リンチ。 こいつさえおとなしくさせれば、クラスは平穏になって普通の小学生ライフが楽しめる。 まあ楽しくはなかったが・・・。 最初は4~5人の、腕に自信のある男子がいじめっ子をとっちめる役。 1:40人なので、イジメっ子は戦意なんて始めから喪失している。 かなり可哀想なところまで殴る蹴るをして、頃合いを見て、特に女子が「そろそろやめてあげなよー!」と言い始める。 私が最後まで実行犯。羽交い締めにされて事は終わった。 その日以降、彼は完全に大人しくなった。 そしてその時の事を話題にする生徒もほとんどいなかった。 もちろんそれ以上、そのイジメっ子を虐めることは誰一人しなかった・・・。 今にして思えば、きっとそのイジメっ子は家庭内で問題を抱えていたのだろうと想像する。 しかし子供時代の私達はそこまで思いを馳せることは出来なかった。 全く可哀想なことをしてしまったと今でも時々思い出す。 でも、ここで言いたいのは、この小説の子どもたちは人を味方につけるのが全く出来ない。 味方になってくれる人を突き放すことまでする。 どうしてだろう? なんで一人で戦おうとするのか? 親に言うのが恥ずかしいなら先生。 先生が動かなかったら友だち。 友達が駄目なら先輩や近所のお姉さんとか、誰か真剣に聞いてくれる人っているでしょ、と思う。 実際この小説内でも、誰かの味方になってあげたい、クラスを良くしたいって思う生徒がいる。 でも、そんな彼らも孤独に問題を解決しようと頑張る。 不器用だ。 あまりに不器用。 つまんない所で意地っ張り。 思春期手前ってこんなにアタマ悪いのかな。 もっと考えろよ。 解決策をいくつか発想して上から順番に試してみろよ。 でもね、主人公の最後の行為は、こうした私の小賢しい考えを吹き飛ばして魂の行動となった。 みちるも優子もとっても尊い面を持っている。 頭が下がるし、不器用に戦っている(=何らかの行為に出ている)子どもたちを皆応援したい気持ちになる。 でもリアルな現場では誰もこういうふうに戦ってないの? | ||||
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学生時代が辛かった人に読んでほしい1冊。 心が痛くなるけど同時に温まります。 | ||||
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学校の闇の部分をえぐり出している。例えば、教師がいじめを見て見ぬ振りをしてしまう所などの細かい描写はリアルだ。 教師は、実利的な理由からいじめを容認する。それは、いじめられる生徒が教師のクラスコントロールにとって都合の悪い存在だからだ。教師は、クラスをいかにコントロールするか、よく言えばまとまったクラスにするか、ということを考えるのが仕事といっても良い。クラス担任の場合はなおさらだ。もっと消極的に、学級崩壊を起こさないように、授業が成立するためにという場合もある。本質的に望ましい集団とは何か、ということを考え実践するというよりも、より実利的で事務的なことで行動している。学校という小さい世界と、日々の忙しさや精神的な種々の重圧からそこに倫理的な思慮は置き去りにされる。 現実を表しているが、解決策がいけない。重松清の「エビスくん」という話を読んだ時にも感じたが、問題行動を起こす子どもに対する見方が一面的で古臭い。不良少年である「伊佐くん」に対する教師の言動は間違っているとは言え現実を表しているが、もしこの学校に格闘家の屈強な先生がいたら暴力行為は収まる。不良というのは案外にそういうもので、実際に中学生の不良は自分より強い暴走族には向かっていかないし、ヤクザに対してなどなおさらだ。つまり、できるからやっている。アドラーのいうところの「目的」が達成されるから暴力行為を行い、ものを破壊するのだ。自分より屈強な相手がいて暴力が通じない、ものを壊したらそれなりのペナルティーを与えられるとなれば「目的」が達成されないので行動は起こらない。それを同級生が合理化のごとく、カウンセリングをするというのはリアルなのかもしれないが不良を曖昧な存在にしてしまっている。そして、行為に肯定的なメッセージを与えることにもなり兼ねず、その行動を助長する。 暴食行為や器物損壊行為を、いじめという言葉や不良という言葉で曖昧にしてしまっている表現はいただけない。この小説ではその部分のリアルさに欠ける。特別支援学級(例えば知的障害のある)の子どもに向かって、「生きている価値がない」と言ったら。国籍を理由に人格を侮辱するような言動を繰り返していたら。そこが描写されれば、最後のような終わり方にはならないはずだ。 著者は教育について専門的な知見を持っていないのだろうが、これを読んだ子どもは、学校とはこういうものなのだという諦めに近い感情を呼び起こしはしないか。結果として、仲間外れをしている現状、いじめがある現状を肯定することにはなりはしないかという懸念がある。 | ||||
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