カノン
- 難病 (28)
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当初、脳の移植という小説の世界に入りづらくて、せめて終章だけでもと読みはじめ、最終的に全章を読んでしまいました。日常と異なる世界の物語を読むには、そんな読み方もあるのかと改めて知った次第です。 | ||||
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脳の自己と身体の自己の物語、 時間の物語、 そして、親子の物語として紡がれて、終る。 歌音の夫・拓郎の女性関係はなかったという体で書かれているが、もしその要素が入っていたらどうなっていただろうかと考えてしまう。あえて外したのだと思うが、拓郎の健気な描写は不憫に思える。 | ||||
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近未来の話、海馬移植手術を巡るアイデンティティの物語。または、心とは何かを探る物語。海馬には記憶が保管されているという。その海馬の移殖により、新たな脳と肉体との折り合いをつけていく話だが、まずは、新しい海馬という記憶に脳と肉体がこれまでの習慣を主張して干渉するという。その後、新しい海馬と肉体が融和し更に新たな人格を形成するか、海馬と肉体が反発しあって破滅に向かうかということである。 58歳の広告業界の副部長、寒河江は末期がんで余命幾ばくもない。そして、ファッション界の雑誌編集者で小さな男の子を育てているカノンは海馬の委縮によって死期が迫る状況であり、正常な判断ができるうちに小さな子供のために海馬の移殖を望んだ。この二人が海馬を交換し、人生を交換することになる。 58歳の初老の男性が、小さな子供の母親になっていく格闘は見ていて辛い。リハビリと称して、女性言葉やしぐさ、メイクまで習得することになる。そして、紆余曲折があり、とうとう58歳の寒河江は、死んでいく自分の肉体とカノンの海馬に禁じられた面会をして、過去と別れを告げた。そして、新たな自分を肯定し、誇り高く「私はカノン」と高らかに叫ぶ。 寒河江・カノンは女性として夫との肉体関係は拒絶するが、子どもの母親役は必死で取り組む。それは、寒河江にとって役割をこなすことが身についていたためではないか。そして、役割をこなすことが心の不均衡を癒す効果があることを知っていたためではないか。それでも、何度も「だめだ」と思い、自殺を考えたが、子どものために死にゆく寒河江の体に入ったカノンの海馬のことを思うと死ねなかった。 この海馬移殖コーディネーターの黒沢が最後に、彼がこの移植の一例目であり夥しいリストカットの痕を見せた場面は、最後の「私はカノン!」というカノンの生命の叫びと共に深く印象に残った。 | ||||
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外岡秀俊の北帰行がとてもよかったので、カノンを購入しました。海馬を取り換えるという設定にのることができず、最後まで違和感を持ち続けてしまいました。58歳の男性が30代の母親になるという設定はジェンダーの観点からも興味深いものかもしれないのですが、他の人格として生きるということがどうしても納得できなかったので、この評価にしました。文章は素晴らしかったです。 | ||||
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私は今まで色んな男女入れ替わりモノを読んできましたが、一般文芸の作品においてこの作品ほど「自分とは何か」について突き詰めて考え出せられた一作はないと思います。 作品の主軸は脳移植モノをテーマとしたホームドラマなのですが突き詰めれば「何を以て『自分』とするか」という哲学的テーマが随所に散りばめられているように感じました。そこは作者の中原先生の手腕というべきところでしょうか。 作品内で主人公の歌音(北斗)は『氷坂歌音』として生きるため担当医の主導の元『リハビリ』という体で、彼女の性格、仕草、口調から何から何までをトレースして本人になろうとします。すべては残された息子の達也に母親という存在を残すためです。 リハビリを終え、退院をした頃には歌音(北斗)は口調や言動、仕草まですっかり以前の歌音と瓜二つになっていました。ここで『リハビリ』という単語が用いられるのが上手いなあと思いました。歌音の肉体にとって、北斗の意識や人格は歌音の肉体にとって『異物』なんです。そのために歌音(北斗)は、歌音であろうとするために自身のアイデンティティを歌音に寄せていきます。 物語が後半になる頃には身も心も歌音に染まりきり、「北斗」の面影はほとんどなくなってしまいます。そこにいるのはもう末期がんに冒された58歳の男性ではなく32歳の子持ちの女性となった歌音の姿。 では何を以て、「彼女は『北斗』だった」と言えるのか。 歌音になる際に、北斗は以前の自分の家族、妻の佐和子や娘のカオルと会うことを法律で禁止されています。生前の社会的地位や財産、家族などを全部手放して「歌音」に生まれ変わったのです。そしていま歌音(北斗)は北斗としての人格を捨て完全に歌音として振る舞っています。移植した海馬の脳細胞も、もう完全に歌音の脳細胞に置き換わっていることでしょう。 つまり今の歌音には「自身が寒河江北斗であった」と証明する証拠がないのです。もうほとんど歌音として生きているので、事情を知らない外部の人間からしてみると、今の彼女はどこからどう見ても歌音にしか見えません。 そんな今の彼女は本当に「寒河江北斗」だと言えるのでしょうか。末期癌に冒され本来の歌音の海馬が移植された北斗の肉体はじきに死ぬと思われます。そして当の北斗本人は今はもう完全に歌音として生きている。これはある意味「寒河江北斗という人間はもう死んでしまった」と言えるのではないでしょうか。 本人の意識からすれば生きているつもりでも、家族の佐和子やカオルからしてみれば「北斗」という人間はもう死んでいる。たとえどこかで別人の体で生きていると分かっていても、客観的な目線で見ればそれは「北斗という人間は死んでいる」と言えるのではないでしょうか。 あくまでこれは私個人の意見なので、実際にこの作品を読んだ方は違う印象を歌音(北斗)に持たれるかもしれません。これが読書の醍醐味ですよね。「読む人によって人物の印象は変わる」。読書会などでこの本を読む機会があればぜひこの作品の登場人物の印象を互いに交換してみるのはどうでしょうか。なにか新しい発見が見つけられるかもしれません。 あとこれは私がこの本を読み始めて1年後ぐらいに気付いたことなのですが、歌音(北斗)の一人称が「私」から「わたし」に変わるシーンが存在します。極めて自然に変化しているのでなかなか気づけないかもしれません。この作品、実は一人称に一定の法則が存在します。私はこのシーンを歌音(北斗)の意識が「歌音のフリをする北斗」から「歌音」に変わったシーンであると解釈していますが皆さんはどうでしょうか。 この作品、ぜひ学校図書などに薦めて読んでいただきたいです。 この作品以降、息子の達也くんや氷坂家がどのように成長していくかも気になってしまいます。ひいては続編、またはドラマ化などに期待したいですね。 | ||||
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