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街とその不確かな壁
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街とその不確かな壁の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.89pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全34件 1~20 1/2ページ
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村上春樹なので期待したが、残念でした。 | ||||
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この本を読む一年程前にハードボイルドの方を読んでしまっていたため、初めの方の同じようなストーリーに違和感を感じていた。福島?の図書館のあたりでリズムが出てきて、その違和感を忘れ、後書きで解消した。 | ||||
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不確かな壁の内側の街は世界の終りであって、それが40年前にも共通した真我だと解釈しているのですが、10代の頃に読んだハードボイルドワンダーランドの方が、私にとっては主体との隔絶を感じます。あーだから今回は「不確か」なのかと、はたと思いあたりましたが、それでも記号士が暗躍し何と戦っているのか良くわからないワンダーランドの方が、あたかも自分が生きるこの資本社会を表象しているようで、その点「壁」がより鮮明になるという意味で今はまだ共感できるものがあります。でも、自分も作者のように70歳半ばにもなれば不確かなものになっていくのだろうか、、と想像しています。そうでなければ書き直す意味がなかったのでは?と、今はまだそう思っています。 | ||||
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全体的に静かおとなしく、やや暗めのトーン。 始めて村上春樹を読む人には向いていないと思う。 第一部の序盤は読むのがキツかった。 村上春樹を読んで「つまらない」と感じたのはこれの冒頭が初めて。 第二部からはいつもの村上春樹。面白く最後まで読めた。 「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」と一部共通する点があるが、続編というわけではないので、読んでいないと理解できないということはない。読んでいても わからない点はわからない。 | ||||
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ハルキストのみなさんのような 体系的な知識はなく、 村上さんの経歴についても ベーシックなことしか知りませんが、 村上さんの姿勢が好きで、 また、どの本も(エッセイでも) どこかに深く共感できる部分があり、 ほぼ全ての本を読んでいると思います。 そして、どの本も読み始めると 一気に読み終えるのですが 『街と〜』はそうではありませんでした。 なにかが、ちぐはぐな印象を受けました。 (辻褄が合わないということではなく)。 理由はわからなかったのですが、 「あとがき」でこの物語の成り立ちを読み なるほど、と思いました。 やはり深く共感できる部分はありました。 でも、第三部をあんなに急いで まとめてしまわなくても よかったのではないかなと思いました。 | ||||
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注文したその日に配達していただきました。 即日配達には大変満足していますが、しっかりしたダンボールで梱包して欲しかったです。ハードブックは重さもあるのでそうして欲しいです。受け取った本の角が潰れて痛んでいました。 | ||||
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村上春樹の作品をすべてではないが、それなりの数を読んできた者として、これは初めて退屈と感じた作品だった。なぜかファンの間でそれほど評価の高くはなさそうな『騎士団長殺し』も、個人的には面白く読んだ。でもこれは駄目だった。『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を読んだときの興奮の残滓によってなんとか読み進めることができたが、なかなか厳しい読書だった。その理由はたとえば── ・「言うなれば」が多すぎる ふだん「言うなれば」という言葉を口頭で用いるひとは限られていると思う。つまり癖のある表現だと思う。にもかかわらず、この小説ではじつに多くの人物がセリフのなかで「言うなれば」を用いている。もちろん村上春樹の小説では頻出する単語であるけれども、さすがにどの人物もこの単語を口にするところを読んでいくと、だれもかれもが同じ顔をもった人間のように思えてきて、げんなりした。この言葉だけを取り出して評価を下すのも偏狭だと思うつつ……これに限らずどのセリフも全体的にどうもモノローグ的な感じがするので、それを象徴するものとして挙げておく。 ・女性への目線がきもい 例のごとく愛する女性の理由なき消滅から物語ははじまり、女性の登場人物にそういう役割を負わせつづけることの暴力性にすでにしてやや食傷気味だったのだが、それはまあ伝統芸としてよしとしても、その少女を失って以後40代半ばになるまでひたすら10代後半の少女のことを想い続けている中年男性である主人公の、その他の女性に向ける目線がきもくて耐えがたかった。たとえば物語でのちに大きな存在になるコーヒーショップの女性を初めて(初めてですよ)見たときの印象は、「その女性は三十代半ばくらいに見えた。ほっそりとした体つきの、とりたてて美人とは言えないまでも、感じの良い顔立ちの女性だ。化粧は薄い。もっと若く見せようと思えば簡単にできただろうが、そのような努力はとくに払われてはいないようだ。そういうところに程よい好感が持てた」と描写されるが、こういった品定めするような視線のあり方が嫌だ。 そもそもこの小説に出てくる女性たちは総じて感じがよく、受動的で、主人公の気取った冗談にも愛想良く笑ってくれたりする、男性にとって大変都合のいい存在だ。コーヒーショップの女性がセックスにまつわる個人的な懊悩を思い切って打ち明ける場面でも、主人公は「ロシア五人組」の思い出せないメンバーの話をして、あえて深刻さをずらしつつ受け止めるという態度を(そのほうが楽だし)とっているように見えるが、そのような主人公の振る舞いを受け入れるのも結局女性の側の努力にあり「おかしな人」と言って主人公に話を合わせてくれる。男女の関係の非対称性について、この主人公がほとんど気づいていないらしいのが、ずいぶんな身分だなと思ってしまう。 ・ファッションが古い たとえばイエロー・サブマリンの少年の二人の兄のうち、医学部に通う次兄のほうのファッションは次のように描写される。「弟はぴったりしたグレーのタートルネック・セーターに、ベージュのチノパンツ、紺のピーコートという格好だった」と。おいおい。「都会風に洗練されていた」という設定の現代の若者がこんな服装しているわけないだろう……。もちろん作品の時代設定が過去だったり、あるいはいつか再びピーコートが流行る未来だったりする可能性もあるのだが、すくなくとも現在時点の流行の感覚からすれば、かなりダサめのファッションである。ベレー帽をかぶりスカートを穿いている子易さんのファッションが一番かっこよく都会風だと思う。ちなみに主人公のファッションについては、たとえば「ベージュの丸首セーターに、オリーブグリーンのチノパンツという格好」といった具合である。うーん。 一方、よかった点としては、 ・壁に囲まれた街で切り離された影のキャラがかわいい。 ・子易さんの妻が自殺の前にベッドに残した2本の葱が印象深い。 ・ブルーベリー・マフィンが食べたくなる。 否定的なレビューをする意味ってほとんどないのだけれど、ほかの評価と自分の評価とがあまりに食い違うので、備忘としてここに書き留めておきたい。 | ||||
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「なぜ無ではなく、何かが存在するのか」 この問いは哲学の世界で古くから語り継がれてきた問題だ。その背後には、「存在」と「無」を二項対立として捉えるものの見方がある。このような見方をすると、「無」とは「非存在」ということになり、実在しない「無」を我々はどうやって認識したり、議論の対象にできるのかという問題に行き着く。人間の認識能力の限界に突き当たるわけだ。 これに対してベルクソンは、あるはずのものが我々の認識能力では捉えられない時、そこに「無」を感じることを指摘した。逆にいえば、我々にとって無いはずのものを認識した時には、そこに神や幽霊の「存在」を実感することになる。ベルクソンは、そうした人間の認識能力の境界線に向けて問いを立てた。 本書では、壁の向こう側にある異世界の街に移り住んだ主人公が、金色の毛に覆われた獣が存在し、時間や影が存在していないことに気づく。そこでは存在や無を「実在/非実在」として見るのではなく、人間の認識能力の境界線に生じた「意外性の知覚」として実感させようとしている。 「彼のさらなる死によって、無というものの確かな存在を感じとることができた」という本書の中の表現は、そうしたものの見方を浮かび上がらせる。 壁とは、我々の認識能力の限界を象徴しており、それは我々の生き様と共に、意識しないうちに刻々と変わっていく。その境界線において、時に我々は意外な差異を知覚し、「存在」や「無」を実感することがある。本書は、認識できないはずの「無」を、あるいは無いはずの「存在」を実感させることを試みた小説ではないかと思う。 | ||||
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小説家として駆け出しの頃に書かれた中編小説をブラッシュアップしたもので、しかも初期の代表作の1つである「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」とは別の形で昇華させたものだという。作者のあとがきによると、1人の小説家の創り出せる「物語」の源泉には自ずと限りがあり、それを形を変えながら提示していくしかないんだという。 正にそのとおりの作品だと思ったし、村上作品を割と熱心に読んでいる読者なら、既視感しか感じないものだと思う。それをどうとらえるかは受け手によって別れるところだろうけど、個人的には少し物足りないとは思った。 それでも、毎晩寝る前にベッドの上で一章ずつ読み進めていくにはピッタリ(穏やかな展開とゆっくり読んで15分くらいのボリューム)だったし、そうすることで作者がこの小説を書き上げている姿(早朝から決まった時間に毎日少しずつ書き溜めていくらしい)も思い浮かべられたりして、それはそれでなかなか良い読書体験だった。 願わくば前作「騎士団長殺し」のような、同じ源泉でもまた違った形で創り出された物語を読めたいなと思う。 | ||||
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ハルキストでもない僕だが、内容も知らないままこの新刊を買った。それは一種の習慣とも言えるし反射とも言える。まるで消防士が火災の種類を選り好みしないように。 この小説の主人公は、30代後半から40代初めくらいの、清潔な一人暮らしを営む知的職業に従事する男性だ。こう言う人は若い頃を感傷的に思い起こす事もできるし、現実の問題に立ち向かう知力も行動力も経験もあるからストーリーが展開しやすいのかもしれない。まるでディック・フランシスの競馬小説の主人公が全てそうであるように。 寝る前に大部の本を落とさないよう少しずつ読んでいる。655ページの本の392ページまで進んだ。毎度お馴染みの幽霊はすでに登場した。この後、ベッドのお相手をしてくれるちょいワルの人妻か、淫らな女妖怪が出てくるのを期待するが、なかなか出てこない。それまでは虚しくページを繰るしかないのだ。まるで映画開始から1時間経っても出てこないキングコングを待つ観客のように。 | ||||
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村上原理主義者です。大学生の頃は村上春樹に耽溺できたが、今は難しいのかな。年も重ねて会社で既得権益チューチューマンをしてる私からすると、青臭いお兄さんの話だなと思った。私自身もかなり奇妙な体験が多く非現実な世界に生きてるが、この作品には馴染めず。うーん、なんだろう、誰か教えてくれないかな。やれやれ。 | ||||
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昔からある村上ワールドを感じられます。 | ||||
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本作のモチーフは、「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」 の「世界の終わり」と被っているが、読み味は異なる。 「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」では、 「世界の終わり」と「ハードボイルドワンダーランド」との二つの物語間の 「往復運動」が、力強い牽引作用を作品全体に与えてくれているが、本作にはそれは無く、 「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」の読書体験が身体に染み込んでいる 者にとっては、 これはある種の「欠落感」、「苦痛」をもたらすものとなる。 もっとも、作者自身にとっては、1980年に発表された中編小説 「街とその不確かな壁」をベースにした作品であろうものなので、作者の関知する ところではないのかもしれないが、 いずれにしても、 単行本での刊行の無い「1980年版」を未読の大方の読者にとっては、 本書を「消化」する作業は、なかなか難しい事になるのではないかと思う。 以上を勘案すると、ネット上で見受けられる大方の意見に反し、 私などは出来栄えの点で本作品を凌駕して いると考えられる、「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」 を未読の状態で本作を読んだ方が、よほど面白く読めるのではないか、 と思う程なのだ。 ここで結論を述べると、本作は、自分にとっては読み進めるのが辛かった。 その理由は、今では自分の中で、かなり明確なものになっている。 その点について、ここに簡単に書き記しておきたい。 ●本作での語り手の素性(※ウィキペディア参照) 「現実の世界に生きる、ぼく(僕)」 物語の主人公。高校三年生。海に近い静かな郊外住宅地に住んでいる。 高校卒業後、東京の私立大学へ進学。 一留後、書籍取次会社へ就職。 のち福島県のZ**町の図書館館長へ就職する。司書資格は所持していない。 「壁で囲まれている世界で生きる、私」 どこからか街へ来て影を捨て街に住んでいる。図書館で夢読みの仕事を行っている。 ●「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」に於ける 「世界の終わり」の章での語り手の素性 (※ウィキペディア参照) 「世界の終り」の章は、一角獣が生息し「壁」に囲まれた街(「世界の終り」)に 入ることとなった僕が、 「街」の持つ謎と「街」が生まれた理由を捜し求める物語である。 外界から隔絶され、「心」を持たないがゆえに安らかな日々を送る「街」の人々の中で、 僕は「影」を引き剥がされるとともに、記憶のほとんどを失った。 図書館の「夢読み」として働くことになった僕の仕事は、 一角獣の頭骨から古い夢を読み解くことである。 一方、僕は「影」の依頼で「街」の地図を作る作業を続け、 図書館の少女や発電所の管理人などとの会話の中から「街」の謎に迫っていく。 二つの作品に於ける語り手の素性を並べると明らかなのだが、 「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」での壁に囲まれた街に生きる語り手の 「成り立ち」--言い換えれば、二つの章の往還運動のコントラストの強烈さ--が素晴らしすぎる為、 逆に「街とその不確かな壁」では、壁で囲まれている世界と現実の世界との関係性に於ける緊張感が、 いまひとつ脆弱かつ平板なものに映ってしまうのだ。 以上のような理由から、登場人物たちの魅力も自分の心の中で響いてくることは無かった。 本作に於ける、主人公を含めた登場人物に対して自分が抱いた感想は、 「抽象度が増した」というものだった。生々しさが無いのだ。 丁寧に書かれてはいるけれど、全体的に生硬で、過去の作品群と比較すると、 瑞々しさが失われてしまったという印象を持った。 「これはやっぱり、作者の高齢化が原因なのだろうか」などといった事も考えてしまった。 この分厚い一冊の本の中には、間違いなく一個の世界が立ち上がっている。 だが、これは傑作ではない。 それが、本作を読み終えた後の、正直な感想だ。 | ||||
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あの時代の日本の文化の伸び代の中に出現した人なんだなと思う。歳を重ねて熟してって概念じゃない。どちらにしろ青春時代の大切な作家さんです。 | ||||
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著者としては、あなめずらしやな巻末の"解説文"も含めて 本文の総頁数は六百六十一。 なんて書くと、ソレだけで圧倒されちゃうヒトも居ようが 今回もサクサク読め、実質1日半で読了。 壁に囲まれた街での《私》と《影》によるやり取りの件を読んでると なぜかエーヴェルス『プラークの大学生 Der Student von Prag』と 東映の特撮TVドラマ『ザ・カゲスター』が頭の中で渦巻いてウルさかった! 村上長編ここ数作品で恒例となっている脳内キャスティング。 今回も主人公に当たる "私=僕"は最大公約数的な《名優》という意味合いから 役所こうじ(漢字がわかんない)。 子易さんは『マカロニほうれん荘』の"きんどーさん"・・・ は、いいとして後半からキーパーソン的な役割を担う イエロー・サブマリン少年が 『レインマン RAINMAN』のダスティン・ホフマンで終始してしまっている のに我ながら想像力の枯渇を覚えガクゼン。 | ||||
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発売日に届いた街とその不確かな壁を今頃読みました。読みやすいけど余りに比喩的な創作で心情的には馴染むけれどピンときませんでした。以前ほぼすべての作品を読み終えたと思い念のためネットで確認してみると「街とその不確かな壁」と言う作品が書籍化されてないことを知り、図書館でバックナンバーを借りて読みました。その改修版が今年出た「街とその不確かな壁」でした。 突っ込みどころは「胸の前で腕を組み、心配そうに私を見下ろしていた。」 普通腕を組むか? 小さな町なのに駅前に繁盛する喫茶店があるか。? 自前の図書館も持てない町にピザのデリバリーがあるか。? 雪国なのにヒールのある靴を履くか。? | ||||
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村上春樹の小説は昔、何冊か読み、まったくピンと来なかったため、遠ざかっていた。 今回は新聞のインタビュー記事を読み、興味を抱いたため手に取った。 現実と憧憬の世界を丁寧に描いており、面白く読むことができた。 が、第二部、第三部の終わり方はよく分からん、という思いがした。 最後の最後で消化不良となったのは残念。 C.S.ルイスの『天国と地獄の離婚』的なものを描きたかったが、 ルイスが持つキリスト教信仰が無いため、こういう終わり方になってしまっただろうか? キリスト教信仰と言えば、途中、聖書の詩編114:4 「人は吐息のごときもの。その人生はただの過ぎゆく影に過ぎない」 という言葉が出てくる(英訳を村上が重訳した?)。 本書のテーマに重なる言葉だろう。 しかし、本来この詩は人間の儚さを語ってはいない。直前の部分で 「主よ 人とは何ものなのでしょう。 あなたがこれを知っておられるとは。 人の子とはいったい何ものなのでしょう。 あなたがこれを顧みられるとは。」 と、神に知られ、神に愛されているという驚きを語っている。 人は影のようなものだが、決して虚しい存在ではない。 私はそう信じたい。 | ||||
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まあ、楽しめました。 でも、さすがに古希を過ぎてパワーが落ちてきた感じです。 (私が読み切れていないだけだと思うので、あくまで個人的な感想です) 私は、「街」は誰もが持つ深層心理だと読みました。 夢読みは深層心理の探り手で、誰もが自分自身について深く考えることかと。 パーカーの少年は本ばかり読んでいた自分の16歳の頃の投影でしょうか。 子易さんは父親の理想像かな。 コーヒーショップの女性は処女膜強靭症かな、なんてね。 でも、深層心理を探るのは、何度も井戸の中に入ったりしてやってるし、今回は「そうくるか」という驚きがなかったです。 ああ、またやってるな、という感じ。 比喩にしても、昔は畳の上をのたうち回らされたものですが、この本に関しては、逆にイメージがわかないものもあった。イメージがわかない比喩って何?(たぶん私の想像力があまりに乏しいためだと思うけど)。 かなり冗長だと感じました。でも、それを楽しむんですよね。たぶん。 | ||||
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タイトルや設定からいかにも『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の関連作のようだが、実際両者に物語としての接続性はない。 ただ、類似点は数多くあり、自分は『世界の終り』を読んでいるのだろうか…という錯覚に陥ることが何度かあった。 元々はこちらが先で、『世界の終り』がこの題材を使って作られた派生作品のようだが。 「いまの自分だから当時のアイデアをかたちにできた」と作者は語っていたが、粗削りでエネルギッシュな時代の本作を読みたかった。それが『世界の終り』なのかもしれないが… 村上春樹の文体は、やたらシンプルでそっけないのに最小限の説明でリアルな映像投影をしてくるという初期と、割と普通の文体で比喩少なめの中期、説明がくどくて比喩多めな近年という感じで変化している気がする。 比喩表現が多用されるようになってきたのは喜ばしいが、初期のような皮肉が効きつつも的確な比喩、というよりはちょっとベタッとした感じの比喩が目立つ。比喩が書かれるときの文章が 「まるで〇〇のように。」 という書かれ方ばかりなのも気になる。昔の比喩はもっと自然に文章に紛れ込まされていた。 肝心な内容も少し期待外れ。昔の作品みたいに性描写がないのは好感を抱いたが、反面、キャラに生命力を感じなかった。 酒も女も興味ない反面、ダラダラと生きるようなダメ人間でもない。社会に爪弾きにされたわけでもなければ、何かを手に入れようとしているわけでもない。人生を悲観するでもなければ、他人に皮肉を言うでもない。 「きみ」のことを思い続けているのは分かるが、子易さんが出てきてから特に、何がしたい人なのかいまいちわからなくなってしまった。 そして一部と二部・三部で違う話を読んでいるような気持ちになった。 それがプラスに生きれば良いのだが、無理に話をつなげて大作感を出そうとしているように思えてしまった。 個人的には『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』が好きかな。 本作発売前にあらためて読み返して「やっぱり面白い!」と実感したので、余計にそう思う。 | ||||
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非常に完成度の高い作品。非の打ち所がなく、安心して読める。 ただその分、感情が揺さぶられ、打ちのめされることもあまりなかった。 芸術作品は劇薬の如きものであるべきだし、読書とは血を流すような作業であるべきだと思う(無論比喩的な意味で)。 あまりに高い完成度は、その危うさを失わせてしまう気がする。 | ||||
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