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天路の旅人
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天路の旅人の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.51pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全104件 1~20 1/6ページ
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一気に読みたいところですが、時間が取れず少しずつ読み進めています。大変興味深く、それから、それから…という感じです。 | ||||
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強い意志で人間はどのようにでも生きられる事が思い知らされる。 | ||||
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密偵として中国奥地の状況調査しつつ、チベットの自然と人々の仏教と共にある生活に馴染み、自身がもっと知りたいと辛い旅を克服していく姿の驚愕しました。 読みつつ、地名をMAPで追っかけたりしました。その姿が迫力満点ですよ。 是非お読み下さい! | ||||
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迅速に届くのは良いと思いますが、最近は送料が非常に高くなったと感じています。 | ||||
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小説 指輪物語のフロド達の旅のような空気を感じながら読んでいきました。 ただし、これはノンフィクションで舞台は現実の内陸アジアであり、第二次大戦中・戦後の実在の日本人が実際に辿った記録であるのが驚きです。 旅が進む中でグラデーションのように土地々々で文化や習慣が変わっていきます。三蔵法師の物語や世界史のシルクロードの話として漠然としたイメージはありましたが、目を瞑ると自分がラクダやヤクに乗って旅をしているような気持ちになりました。 | ||||
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西川一三さんの旅、沢木さんの文章、ページ数は多いが、まったく飽きることなくラストまで読み進めた。おもしろい。 | ||||
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最高に面白かったです 自身の人生を振り返りました こんなふうに生きたいと思いました 主人公だけではなく、周囲の人たちについても思いました 主人公の西川氏がブッタに見えました それを紹介して下さった沢木氏にも大感謝です | ||||
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同著者の作品は他にもいろいろ読んできたが、『深夜特急』を越えるものはなかった。この本は『深夜特急』を初めて読んだ時に感じた(もう30年以上前だが)興奮に近いものがあった。内容もとても興味深いものだが、本書の構成の妙が、時を経て経験を積んできた著者の手腕を感じた。ルポライターとして、チベットの奥地を彷徨った主人公に会い、話を聞き始めるところから始まり、いつも間にかに読み手は主人公の視点でチベットの風景を眺めている。長い間荒涼としたチベットを旅をしてきた読者は、主人公の旅が終わるとともに、またいつの間にか、一読者の視点に戻っている。『深夜特急』の第三部は発刊までに長い間待たされたために、エンディングにやや物足りなさを感じたが、本書は非常に爽やかな読後感があった。 | ||||
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深夜特急が「旅への渇望」をもらたす書としたら、天路の旅人は「旅への渇望の終焉をもたらす書」と思った。深夜特急を読むとリュック一つ背負って世界を旅したくなるが、天路の旅人を読んだあとは、毎日を大切に、できる事をしっかりやって生きていこうという気持ちになる。なぜなら西川一三の旅と人生を想像し追体験することで、これ以上はない深い満足感を与えてくれるからである。旅人としてはこれ以上の経験は誰にもできないと思うし、すべてやりつくされていると思ってしまうのである。 そして、西川一三を小説にできるのは、深夜特急の沢木耕太郎さんしかいなかっただろうと思った。 チベット、インドの8年間の部分もよいが、その後の人生の描写もよい。ラマ僧としての西川と「姫髪」という理容卸し店主の西川に共通して感じる ”何か” が、本質的なテーマである気がする。小説冒頭の姫髪店主への取材の部分は最後にもう一度読み直すことをお勧めする。 今の生活を飛び出して、旅やら冒険やら自分探しやらを渇望している人も多いと思うが、行動を移す前に是非この本を読んでほしい。ここに描かれている西川一三の奇跡のような旅を読んでも満腹にならず、自分もと思える人は旅立つが良いと思う。 | ||||
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残置諜者という旧日本軍の役職があった。戦後数十年して沖縄以南の孤島で小野田幹夫・横井庄一両氏が日本の敗戦を知りながら旧戦地での諜報活動を続けていたのが発見された。本書は明言されていないもののモンゴルに諜者として残された二人の人物の物語。一人は敗戦後モンゴルからチベット高原ヒマラヤを越えてインドの仏教遺跡を目指し、詳細な旅行記を残した。一人はモンゴル語の大学教員となった。二人の家族に残した最期のことばが印象的。「こんな男がいたことを覚えておいてくれ」また一人は意識混濁状態で「これは(敵前)逃亡ではなく潜行であります」。小生、あの戦争、日本は勝ち方も負け方も知らなかった(未だに知らない)と思っているが、沢木氏にはその視点が欠けていて末尾の記述に濁りがある。 | ||||
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読書していて残りページが無くなっていくのが勿体なくてしょうがない経験は久しぶりだ。 最後の最後にに主人公西川一三の「旅」が30年の時を隔てて著者沢木耕太郎の「旅」である「深夜特急」に繋がっていく下りがもう... この本が面白かった人は当然に「深夜特急」が待っている、さらに河口慧海の「チベット旅行記」、栗谷川福子「ありのままのイスラエル」も... | ||||
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大作だが楽しく読めた。生きていくのに最低限必要なものだけを持って、ただ純粋に旅をする。そこにある自然に感動する。毎日同じことを繰り返し暮らすことを受け入れ、それを楽しみ満足する。人生に必要なものは少ない、今あるもので満足し、シンプルに生きること、そこに幸せを見出すことを学ばされる。 | ||||
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不思議な人を描いた本である。 冒頭、作者は盛岡駅で西川一三に出会うところが筆を起こす。 この西川は当時(今から二十数年前)すでに80歳近くであったが、『秘境西域八年の潜行』の著者である。この本は、第二次大戦中に満州の興亜義塾に居た西川が戦争末期に密偵としてラマ僧に扮し、8年にもわたり徒歩でモンゴル→チベット→インド→ネパール→インドへと「巡礼の旅」を続けた、その手記である。 二度書籍化されているが、二度目の中公文庫版は上中下の3巻にわたり総ページ数は2000ページにものぼる。 沢木は二十数年前に西川のことを知り、この本を読み、そして西川が盛岡で商売を営んでいることを知って会いに行く。 そして1年以上にわたって毎月盛岡に赴き、酒を飲みながら当時のことを話してもらうということを繰り返した。 しかし、どう作品にしてよいか戸惑いつつ時間が過ぎ、西川は鬼籍に入る。 その訃報を機に西川の未亡人の話を聞くようになり、また偶然にもこの書籍の膨大な手書き原稿がある編集者の手元に残されていることを知る。 そこから、本書は西川の旅を辿り始める・・・。 とまとめると、かっこいいのだが、冒頭の現代の部分で期待を膨らまされ、旅を辿る部分を読み進めると、「なんだ、これは『秘境西域八年の潜行』をリライトしただけじゃないか」と思えてくる。 おいおい、沢木さんも随分安直な仕事をするようになったんだな、と。 ところが、さらに読み進めていくと次第に引き込まれ、最後にまた現代に戻って書かれている部分まで読むと、なんというか腑に落ちてしまう感覚を得た。 冒頭部分から、沢木は西川が1年の元日以外364日淡々と働き、仕事が終わってから毎日つまみ抜きで酒を2合飲み、昼食はカップヌードルとおにぎり2つと決めている様を描写している。 それを、働けなくなるまで何十年も続けたのである。 その西川は、この潜行の八年間では、ほぼすべての行程を歩き(インドでは汽車にも乗ったが)、寝るのは野宿や行き当たった家の戸を叩いて泊めてもらう。 ダライラマの居るラサでは、住み込みの僧として修行することを認められるが、8年の修業を1年ほどでやめて、巡礼という名目でインドへと向かう。 その巡礼は、人としても最低限の生活である。 しかもラマ僧というのは仮の姿であって、彼自身が心底からのラマ教徒であったわけではない。 が、日本の敗戦を知っても、彼はこの巡礼を続けるのである。 つまり、彼は旅を続ける中でこそ自分自身でいられた、そういう人であった。 あるいは、そういう人になっていったのだ。 最後のところで、沢木は書いている。 西川は『秘境西域八年の潜行』で彼の旅を書いたが、自分は西川という稀有な旅人を書いたのだ、と。 うん、確かに、その通りである。 単なる手抜きリライトという感想を途中で抱いてしまって申し訳ないと、読み終えて思ったのであった。 | ||||
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大自然の力強さを実感する沢木耕太郎の表現力にどんどん惹き込まれていく素晴らしい内容の一冊です。 | ||||
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第二次大戦末期、西川一三(かずみ)は、敵国である中国大陸の奥深くまでを探索するために「密偵」として 送られた。日本の敗戦が決したあとも、彼はアジア大陸の奥深くまで、未知なる世界への歩みを進めていく。 所持金が少なくなりながらも、単身旅を続ける西川氏の姿に生きる活力をもらいました。 | ||||
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内容を全く知らないまま読み始めたが、すぐに本書が太平洋戦争時から終戦後にも、諜報員として中国、チベット、インド各地をほとんど徒歩で歩き回った人物が、自ら記した「秘境西域八年の潜行」という本がベースになっている事を知った。 その諜報員は西川一三。1918年9月生まれ2008年2月没。1943年から1949年の間、上記の各地をチベット修行僧に扮して徒歩で廻り、現地情報を得ていた。 自著のタイトルには8年と書かれており、各地訪問期間が6年間なのは、出発前の2年間駐蒙古の日本大使館が主催する情報部員育成機関に入塾しており、2年間の養成機関での勉強と実地での調査6年間の、計8年間の滞在という事だろう。 沢木耕太郎は、1988年11月に放映されたTBSのドキュメンタリー番組で西川一三の存在を知り、数年後(1991年前後?)に初めて西川一三に面会をする。 それから一年間、一カ月に一回、週末に西川一三の下を訪れ、一回3時間半を二回。つまり土日の二日間で計7時間の取材を12回程度行った事になる。 ところが、沢木耕太郎はこの題材の「調理の仕方」が見えなかったのだろう。 本書の冒頭の書き出しに四半世紀前と書かれているが、取材開始から一年で取材を切り上げ、そこから実に25年以上の月日が流れてから本書の執筆活動に取り掛かった訳だ。 問題は本書をどの様に読むかだ。自分は普段から旅行記を読み慣れているので、普通の旅行記として何の問題も無く読み進めることが出来た。 しかしルポルタージュを期待して本書を読むと、いささか物足りないかも知れない。 自分にとってもどかしかったのは、西川一三本人が書いた「秘境西域八年の潜行」に書かれている西川一三の心情と、沢木耕太郎が書いた「天路の旅人」での西川一三の心情にどれだけ差異が有るのか?という点。 正直、「天路の旅人」を読み終わった今、改めて「秘境西域八年の潜行」を読む気にはなれない。 それは本書の中で再三指摘されている様に、「秘境西域八年の潜行」は元々3,200枚という膨大な原稿から2,000枚にカットして出版されており、その後カットした1,200枚の中からチベットの部分を別巻として出版している。 だから沢木耕太郎曰く、旅の流れが切断されたり前後関係がわからなくなったりとしているらしい。 その点を踏まえて沢木耕太郎は本書を書いているので、出発から日本への帰還まで綺麗な流れで西川一三の旅が描かれている。 この沢木耕太郎が書いた西川一三の旅の面白さは、やはり沢木耕太郎の腕による数多くの西川一三の心情だろう。 でも読み終わってふと思うと、100時間に足らないインタビュー時間の中で、これだけの心情を聞き出せたのか?という疑問が残ってしまう。 つまり、そこに沢木耕太郎の想像した西川一三の心情が書かれてしまっているのでは?という点だ。 本書の読み易さの一つは、沢木耕太郎が上手く「深夜特急」のスタイルを取り入れている事だ。 それはワザと取り入れたのか、沢木耕太郎の書き癖なのかはわからないが、恐らくは西川一三の年齢から言っても、物書きとしての経歴が一切無い点から言っても、更には本書で窺い知ることのできる西川一三の性格から言っても、「秘境西域八年の潜行」にはそこまで自身の心情を豊富に書いては居ないのだろうな、という点。 西川一三の旅を非常に読み易くリライトしたのが本書だと思うので、読み辛さが想像出来る「秘境西域八年の潜行」を読む気にはなれない。 然しながら本当に西川一三の心情はこうだったのか?という疑念は残ってしまう。 その最大の疑問は、西川一三の信念。 現地を諜報員として調査し、現地でその人生を全うして欲しいという辞令に西川一三は疑う事なく突き進んだという事。 そしてその辞令は日本の敗戦を知っても西川一三には生き続けていた事。 だから、現地を調査したい(しなければならない)という心情の中での移動(イコール旅)だったのか? 西川一三が本来持っていた旅することへの興味が、敗戦後も引き続き旅をする事にしたのか? どうも沢木耕太郎の筆になると西川一三が旅好きな人物に描かれてしまう。それが本当の西川一三の姿なのか、あくまでも主眼は現地調査で、その目的の為の移動(イコール旅)だったのか? 最後に不満を一つ挙げれば、本当に西川一三は現地でバレなかったのか?という事。 令和の今、自分の周りに何人か外国出身外国籍の人が居る。 出身国は様々だが、いずれも日本人を妻とし、日本人だけの会社に勤め、在日歴20年以上となっている。 中には東北アジア出身者が居て、顔だけでは外国人とわからないが、何十年経っても特有のアクセントなど、やはり日本語の発音が日本人とは異なる部分が多々有る。 リライトだけでは無く、そう言った部分を炙り出して欲しかった。 | ||||
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なんだか勿体ない本。 第二次世界大戦前夜の西域を僧侶に身をやつして踏破した西川氏の冒険譚がベース。 すごく素材はいい。導入部や終章あたりの沢木氏の文章は流石に沢木節で読ませる。 ただ中身がスカスカ。 まるでフルーツサンドイッチ。 多分沢木氏は実際に彼の地を旅したかったのだろう。 で、自分の目で見て描きたかったのだろう。 それが叶わずGoogle Earth見ながら西域を描いたとらしいのでなんか盛り上がりにかけました。 | ||||
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なぜこれほど、お待たせ? じらすのか? 当初は、盛岡?まで 毎週土曜日に、通いだして、 突然 止めてしまった。 そして、何時。。いつ。。復活するのか 分からずに、ずるずると。 その続きも、not so smoothly で、まったく呆れてた。 意地だけで、高い値段に。最後まで読み終わったが。 感想も、 Not so good でした。 | ||||
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1月に放送された番組で本書を知り、著者である沢木耕太郎さんの魅力あふれるインタビューに感銘を受け、やっとのことで読破しました。 番組で紹介されたとおり、西川一三という方が第二次対戦末期、敵国の中国へ通謀員として、アジア大陸の中国からインドまでの地域を、ほとんど徒歩で八年かけて横断したという話しなんですが、何より興味深いのは、西川が旅の途中で得たサバイバル術、そして沢山の人生哲学を、読者である私たちが学んでいける点にあると思います。 著者が初めて出会った西川は、その時既に80歳になろうとする老齢。 度重なる和食屋での会話のやりとり、控えめな振る舞いから、西川の人物像が伺うことが出来ます。 沢木さんのユーラシア大陸横断の経験と西川自身によって書かれた著作物に、似たような経験を持つことで関係が親密になっていく様子がみて取れました。 取材の途中で西川が亡くなり、奥さんや娘さん、残された「秘境西域八年の潜行」の生原稿、50時間に及ぶ対話のテープを元に、沢木さんをガイド役に、西川一三の冒険が始まります。 子供の頃から中国大陸への憧れを抱いていた西川は、中学卒業後の就職先に南満州鉄道を選んだ。 身長は180センチを越え、肉体的にも頑健だったが、視力が悪いため、軍隊に入ることは諦めていた。 御国のため、夢の実現のため、高給取りである満鉄の身分を捨て、興亜義塾の塾生となる。 興亜義塾の寮に入った時の荷物は、「吉田松陰全集」全十二巻。 そこでの塾内教育で、蒙古語、中国語、ロシア語を学ぶ。 熟外教育では、衛生観念の異なる蒙古人社会を徹底的に学ぶ。 卒業を目の前にして、西川は酒に酔って暴力行為を犯し、退学処分となる。 酒の勢いで漢人のボーイを殴ったことに弁解しない西川。 著者は、「吉田松陰全集」を読み続けていた西川に、強い「尊皇」の念と、「愛国」の心があったと分析する。 同じく退塾となった中野富美男と共に、蒙古を離れず、西北への潜入を目指す。 そこで西川は漢人に温かく迎えられたことで、お互い誠実な対応をしあう、この誠の心というものを知る。 「至誠(しせい)」は人生の旅における最大の武器だと悟る。 興亜義塾のある北京に戻り、改めて興亜義塾の卒業証書を受け取れることが出来た西川だったが、生活が落ち着くと、蒙疆の地で役に立つ存在になりたいという思いが強くなり、ひとりで内蒙古の奥地へと向かうことになる。 ※「蒙疆(もうきょう)」……日本独特の用語で、内蒙古とその周辺を意味する言葉。 西北に潜入したいという願望が抑えられなくなった西川は、日本人にとって道の部分の多い地域についての知見を深めることは、結果として中国との戦いに大いに益すると確信する。 興亜義塾の塾生たちにとっての西北とは、独特の魔力を持つ言葉で、いつか行かなくてはならない夢の土地のようなものになっていた。 北西に行くには「国境」を突破しなくてはならない。 方法は一つ。巡礼者に扮するのだ。 西川は、敵国に「潜入」し、「永住」せよとの辞令を手渡される。 実はこの時、西北地域への潜入を望んでいた、木村肥佐生がいた。 木村は、日本に帰還した八年後、「チベット潜行十年」という書物を出すことになる。 トクミン廟(びょう)にいた西川は、三人のラマ僧を伴って、西寧(せいねい)にあるタール寺へと向かう。 駱駝を用いての旅で、西川は旅人としての無力を味わい、謙虚な気持ちも生まれ、三人のラマ僧から、巡礼をする旅人としてのイロハを学んでいくことになる。 廟の高僧から「ロブサン・サンボー」という蒙古名を貰っていた西川は、ラマ僧たちから、ロブサンと呼ばれるようになる。 凍え死にしそうな寒さの中を前進していく過酷な旅でも、夜が明け、太陽が顔を出し、背中に当たる陽光の暖かさを感じたりすることで、西川は、「幸せとはこういうことを言うのか……」と思うようになる。 旅に出ると、生活が単純化されていくと、その結果、旅人は生きる上で何が大切なのか、どんなことが重要なのかを思い知らされることになる。 火がおきてくれば湯が沸き、太陽の光を浴びれば体が暖かくなる。たったそれだけで幸せになる。 しかし、その幸福な気分も長くは続かず、雪が降り出すと、再び過酷な旅は続くのである。 砂漠地帯に足を踏み入れることなる西川たちは、ついにゴビ砂漠に到達した。 ゴビ砂漠は、旅の難所のひとつだったが、中国軍の監視の目の届かない、安全地帯であった。 砂漠を歩く西川は、白骨化した動物の死骸が横たわっているのを見て、人間の力ではどうしようもない、大自然の巨大な力を感じた。 その大自然の意思を天と呼ぶのかもしれない。 自分は、その天が命ずるままに、目の前に続く道を歩いていけばいいのではないだろうか……。 西川たちは、バロン廟で状況を見定めることにする。 そこで、旅を共にしていたバド少年が天然痘で九年の生涯を終える。 西川にとって、この別れが、やがていくつも繰り返されることになる最初のものとなった。 バロン廟での暮らしにいくらか慣れてきた西川は、アヘンの密売に成功し、大金を手に入れるが、やがてその金のほとんどが紙屑同然になってしまう。 しかし、無一文になったことで、西川は旅人として逆に多くのものを得るようになる。 三川出身者との付き合いが増えるようになると、三川人が持つ、西北の全域にネットワークを使わせてもらえば、自分の報告書を内蒙古にある日本の外務省に届けることも可能ではないかと、希望を抱く。 旅を共にしてきた二人の仲間と別れ、独り立ちを決意する西川。 ラマ僧として生きていくため、薪割り、炊事、裁縫も含めて身の回りのことを全て自分でやり抜く術を覚えなくてはならなかった。 やがてバロン廟で暮らすことに習熟はしたが、密偵としての役割を果たすには限界を感じ、さらに多くのものを手に入れるために、西寧(せいねい)の近くにあるタール寺をめざすことに決める。 「もしかしたら、困難を突破しようと苦労していてる時が旅における最も楽しい時間なのかもしれない。 困難を突破してしまうと、この先にまた新たな困難が待ち受けているのではないかと不安になる。 困難のさなかにあるときは、ただひたすらそれを克服するために努力をすればいいだけだから、むしろ不安は少ない。」 ーー西川は、タール寺へ向かう旅での経験を経て、このような認識を抱くようになる。 タール寺に到着した西川は、情報収集には圧倒的に便利だと考え、多くの巡礼者と同じ日々を送ることにする。 日々の叩頭やタール寺の巡回路を巡る日々を続けていくうちに、西川には、これから先の不安や懸念が消えていき、頭の中が澄んでいくような気がしてきた。 これも信仰の力のひとつでもあるだろうと思えた。 タール寺にいるあいだに、チベットへ行こうという西川の思いは、しだいに強固なものになっていった。 チベットのラサは、蒙古のラマ教徒にとって、回教徒におけるメッカと同じく、いつかは巡礼したいと願っている究極の土地だった。 西川も、巡り着いた廟でラマ僧たちと起居をともにしているうちに、しだいに自分にとってもラサが行くべきところだと思えるようになってきたのだ。 西川は無意識のうちに、密偵としての任務とは別に、自分の知らないところに行きたい、見てみたいという情熱に強くとらわれるようになっていた。 外国との門を閉ざし続けている謎の国チベットへ潜入するというのは、若い西川には心が躍る大冒険のように思えた。 西川は、ラサに近づくために、まずはシャンに向かうチベット人のラマ僧たちに同行する。 道中、西川は、チベットのラサを出てインドに抜けていくことが出来るという話に強い印象を受ける。 それまで、チベットのさらに向こうにはまったく意識がいっていなかった。 西川は、シャンで出会った老人から、木村肥佐生が日本の密偵だと疑われ、捕らえられていることを知る。 シャンで下男として住み込むようになった西川は、半年後、チベットに向かう巡礼者たちに同行する。 1945年、つまり日本が八月十五日に連合国に対して無条件降伏をすることになる年ということである。 三ヶ月に渡るラサへの旅の途中で、西川は戦争が終結したことを知る。 ようやくたどり着いたラサに、西川は一週間足らずしかいなかった。 戦争終結は、中国との「和平」ではなく「日本敗戦」と聞いたからだ。 西川は、インドまで行けば日本人に会えるかもしれない。そしてもう少し正確な情報を手に入れたいと思った。 インドへ向かう途中、シガツェのタシルンポ寺への巡礼中、同行していたバルタンが蒙古人のラマ僧全員に喜捨しようと提案する。 一度は断った西川だが、自分以上に金がないはずのバルタンが、持たざる者であるラマ僧たちに与えようとしている。 そのバルタンの清らかな心根のためにも、西川は協力することにする。 そのおかげで、二人は法会を催し、ラマ僧たちに顔を売ることができ、心地よく滞在することが出来た。 西川の持ち金は無駄ではなかったのだ。 シガツェを出発した二人は、托鉢をしながら旅を続ける。 西川には物乞いのようなことをしてまで旅をするつもりはなかったが、一日に得られる二椀分のツァンパとお茶だけで命をつなぎ、野宿しながらインドに向かうというこの新しい旅の在り方が、自分を鍛えてくれるように思えた。 さらに、すれ違う巡礼者と挨拶することの重要性も思い知ることになる。 まず互いにご機嫌を伺い、出身地を訊き、出発地と経由地と目的地を訊く。 そこで互いに必要な旅先の情報を得るのだ。 地図も磁石も持たない巡礼者にとって、すれ違う巡礼者が地図であり案内書でもあるのだった。 西川はこのとき初めてヒマラヤ超えをすることになる。 西川は、インドの最初の都市、カリンポンで木村肥佐生に出会い、日本の敗戦の詳細を知ることになる。 西川には天皇が無事だということが唯一の慰めだった。 自分の使命は無になり、西川はただ生きていくことだけを考えればいいようになった。 西川はカリンポンからチベットのラサに向かって出発する。 カリンポンで出会った若いチベット人のラマ僧の死に遭遇し、修行をするという行為に憧れをいだくきっかけが生まれる。 修行のために厳しい日々を送るというのは、目的地に到達するために困難を乗り越えて進む旅に似ているように思えたのだ。 ラサに着いた西川は、デプン寺に入って、イシ師の下でラマ僧としての修行をすることになる。 修行している西川のところに、英国謀報部の仕事を引き受けて来たと言う木村がやってくる。 チベットのカム地方、打箭路(だせんろ)へ潜入するという木村に、西川は同行する決意を固める。 二人はまず、東チベットの街、チャムドへ向かうことにする。 ラサを出てから二ヶ月、およそ七百マイル(およそ千百二十キロ)の旅だった。 ところが、過酷な旅で心身ともに疲れ果てた木村が、もうここで旅を終えてラサに引き返そうと言い出す。 だが、西川には、いちど約束したからには、最後まで全うしなくてはならないのではないかという思いがあった。 依頼主は、木村が日本人の密偵だと知って、送り出している。それを、道半ばで放棄してしまうのは日本人として恥ずかしくないか。いやその前に、男としての意地はないのか。ここで引き返すのは反対だと述べる。 よくよく考えてみれば、木村の頼まれた仕事に、自分がそこまでこだわるのは滑稽すぎることだった。 しかし、西川は旅を全うすべきだと思った。 それは、自分でも気がついていなかったが、この旅が木村のためでなく、自分のための旅になっていたからだったのだ。 西川は、困難にぶつかるたびに奮い立つ自分がいるのを感じていたが、このカムへの旅はこれまでに遭遇したことがないほどの困難がいくつも立ち塞がっていた。そして、それをひとつひとつ乗り越えていくのには喜びにも似たものがあった。 そこで、せめて玉樹まで行ってみようということになった。 玉樹は中国領である青海省の街であり、もし中国がチベットに侵攻するなら打箭路と並ぶ拠点になりうるところだった。 それは、これまでの旅とは比較にならない過酷だったが、玉樹は、侵攻はおろか、気配すらも窺えなかった。 一週間で調査を打ち切ると、出発点のラサに戻ることにした。 歩いては野宿をし、歩いては野宿する日々が続く。 雨に降られ、水の中で眠るようなつらい夜もあった。 ラサに着いた時には、カリンポンの物乞い仲間のほうがまだましというような姿だった。 しかし、この冬から秋までの七ヶ月のあいだ、病気ひとつせず、なんとか無事に戻ることが出来た。 西川は心の中で熱くつぶやいていた。 まだ生きている、と。 西川は、これ以上、イシ師に嘘をつくことは耐えられないと思った。 しかし、西川が最終的に木村と共にカリンポンに向かうことにしたのは、それだけではなかった。 カムへの旅を終え、生きることの確かな手応えを得るようになっていた。 自分は、どんなところでも、そしてどのようにしても生きることができるのではないか。 その自信が新しい土地を旅してみたいという思いを強くさせた。 カリンポンに着くと、チベット新聞社のタルチンの家に寝泊りさせてもらった。 タルチンは西川に新聞社の手伝いを頼んだ。 西川は、いつかインドの巡礼に出る準備が整ったときに自由に辞めさせてくれるのを条件に、応じることにした。 放浪に必要なものは金より言葉と思い知らされたからだ。 西川は、懸命に働き、懸命に語学の勉強をする日々が続いた。 カリンポンに来て一年になろうとした頃、西川は、全仏教徒にとって聖地である、ブッダガヤ、クシナガラ、ルンビニの三大聖地への巡礼に行こうと決める。 まず向かったのはカリンポンにある火葬場だった。 そこに住む老修道僧が歌う御詠歌をうたえるようになるまで修行したいと思ったのだ。 托鉢をし、ただ恵んでもらうだけの存在にはなりたくない。何かを返したい。そのとき頭に浮かんだのが御詠歌だった。 三ヶ月の修行によって、自在に御詠歌をうたうことができるようになった西川は、カルカッタへ旅にでることにした。 仏陀の三大聖地にラージギルとサルナートまで巡ることができ、次の目的地は祇園精舎だ。 托鉢をしながら旅をし、御詠歌をうたうと、行く先々で歓待を受けた。 「今の自分は、綺麗に欲がなくなっている。何をしたいのかとか、何を得たいのかとか、何を食べたいとかいったような欲望から解放されている。一日分の食糧があれば、どこで寝ようがかまわないと思っている。水の流れに漂っている一枚の葉のように、ただ眼の前の道を歩いている。その欲のなさが、人の好意を誘うのかもしれない……」 西川は、ヤムナー河の河畔で会った不思議なインド僧に、 「それだけ歩かれたのなら、仏を見ることができたでしょう」と言われるが、いえ、まったくと答えた。 インド僧に食事を振舞うと、 「あなたには、きっといいことが舞い込む」と言われ、実際にビルラ寺では豪華なもてなしを受けた。 「もしかしたら、あの僧は仏の使いだったのかもしれない」と、彼は思った。 西川には、日本人にとって未知の国も同然であるアフガニスタンに潜入したいとう願望が生まれるが、旅の途中、パキスタンのスパイ容疑で逮捕されてしまう。 アフガニスタン行きを諦めるほかなく、それなら、チベットと同じく鎖国を続け、日本人にとっては秘密の国のひとつであるネパールへ行くことに決める。ネパールを歩いてからは、西ではなく東を目指す。それも、蒙古ではなく、インドシナのビルマ、シャム(現・タイ)、仏印という、自分にとっての未知の国への旅をするのだ。 ネパール領に入ると、ネパール人の容姿ほど日本人に似ている民族はないように思えた。 集落で招かれた、貧しそうな小さな家で、家族の誰よりも先に蔵物の鍋をご馳走になり、西川は、初めて本当の仏の姿を見た、と思った。 「あのインドの河畔で遭遇した不思議な僧は仏の使いのようだったが、この人は仏そのもののおうに思える。仏はこのような普通の姿をして現れるのかもしれない……」 西川は、一年ぶりにカリンポンを訪れ、木村がラサで元気に暮らしているという噂を聞く。 さっそくビルマ潜入の夢を実現させようと、まずはティースタ河とジャングルの鉄道工事の現場で働く。 西川には義務として与えられる労働は軽く感じられ、夜は本を読み、語学の勉強をする。それで賃金がもらえる。 寝るところも食べるものの心配もいらない。その上、金が溜まっていく。 西川にとっては極楽のようなところだった。 旅における駝夫の日々といい、下男の日々、物乞いたちのとの日々、この工事現場での苦力の日々といい、人から見れば、全て最下層の生活と思われるかもしれない。実際、経済的には最も底辺の生活だったろう。しかし、あらためて思い返せば、その日々の生活のなんと自由だったことか。誰に強いられたわけでもなく、自分が選んだ生活なのだ。やめたければいつでもやめることができる。それだけでなく、その最も低いところに在る生活を受け入れることができれば、失うことを恐れたり、階段を踏み外したり、坂を転げ落ちたりするのを心配することもない。 なんと恵まれているのだろう、西川は思った。 工事現場の日々も楽しくなってきたある日、西川は、現場監督に付き添われて来たインド人に、日本人だということがバレてしまう。ラサを強制送還されそうになった木村がすべてを話してしまったのだ。 ダルマサールに戻った翌日、西川は木村に会い、木村がインド警察に自首する歳、西川の名前を出してしまったという。 二人は、プレジデンシー刑務所の未決囚の塔に送られる。 西川は、この刑務所での生活に、怒りと不安とで、つらく苦しいものになるかと思っていたが、実際は工事現場での生活以上に快適だった。 インドの巡礼では決して遭遇しなかったような人種に出会うことが出来た。 西川と木村は揃って、日本へ送還される。 西川は、この足掛け八年に及ぶ長い旅が本当に終わってしまうのだなという物寂しさを覚えた。 それまで、西川は、どこかで、まだ旅を続けられるのではないかと思っているようなところがなくもなかった。 このとき、数え齢の二十六歳で内蒙古を出発した西川は、同じ数え齡で三十三になっていた。 ここで西川の旅は終わる。ーー 一年間、著者は西川一三の話しを聞き続けたが、日本から帰ってきてからの日々については自分からあまり積極的に話したがらなかった。 故郷の地福に帰ったが、すぐにGHQから出頭命令が届く。 何らかの罰が加えられると思ったが、自分が呼び出された真の理由は、二週間前に勃発した朝鮮戦争で、アメリカ軍のために、持っている情報を手に入れたいと考え、調書を取ることだった。 帰国から一年が過ぎた頃、GHQの聞き取りも終わり、西川は本格的に自分が経験した八年のことを書き継いでいった。 完成まで三年かかった原稿は、三千二百枚で、あまりにも膨大すぎた。 いろいろなところを訪ね歩き、数年の迷走の果てに、出版に希望は薄れていったが、芙蓉書房の編集者によって、千二百枚分がカットされ、千九六七年に上巻が刊行された。 書き上げてから実に十五年近くが過ぎていた。 一九八八年、西川の旅についてのドキュメンタリー番組が放送され、一九九〇年に中公文庫から全三巻が出されると、西川は「これで元通りの版が出る」と言って喜んだが、実際は完璧に元通りにはならなかった。多くのカット部分が既に散逸してしまい、復元出来ない部分も数多くあった。 木村は、日本政府の依頼を受け、モンゴル人民共和国との国交樹立に貢献し、蒙古との関わりを続け、亜細亜大学の教授になった。 西川は木村と異なり、盛岡の一商売人としての生活を守り続け、頑なに三百六十四日働くという姿勢を崩さなかった。 著者は西川に、どうして自分の語学力を生かした仕事に就かなかったのか、質問をした。 西川は思いがけない話しを始めた。 「ヒマラヤを初めて越えたときm、インド側から登ってくる荷物を積んだ馬たちが、びっしょり汗をかいているのに驚かされた。 それとは別にもうひとつの感慨を抱いたことをよく覚えている。 かつて暮らしていた内蒙古では、遊牧民に飼われていた馬たちは、思い荷物などを背負わされることなく、緑の草原を自由に駆け巡っていた。馬の一生にもこれほどの違いがあるのだ……。 自分は、もしかしたら、蒙古高原の馬のような存在になれるかもしれないと思ったこともある。しかし、やはり、自分はあのヒマラヤですれ違った馬たちと同じく、汗をかきながら荷を運ぶ人間だったのだと思う。」 西川は、二〇〇八年二月、八十九歳で亡くなった。 著者、沢木さんが25年かけて書き上げた渾身の作を黙読し、改めて、西村の歩みを書き出していくと、私自身が見過ごしてしまっていた西村の小さな気づきが数多く見つけ出すことが出来ました。 かつて、沢木さんがユーラシア大陸横断で探し求めていた「生きるヒント」を、西村一三も夢中になって追い求めていたんだ。 沢木さんは、西村の中国大陸横断の詳細を事細かく書かれましたが、重要なのは、そこじゃない。 西村一三は、あらゆる危険、恐怖を克服し、幸福な人生を全うするには何が必要なのかを暗中模索し、見つけ出すことが出来たのです。 この書籍は、巷に溢れている自己啓発本を読むより学ぶことが多かったです。 YouTubeで、本作にあたって、沢木さんのインタビュー動画を視聴しました。 「純度の高い旅」とは何か? 絶対的な財産とは、ズバリ、金を持っていないこと! お金があったら純度の高い旅は出来ない。 お金があったら、お金で簡単にカタがつくが、「旅」としては、お金に支配されている。 お金がなければ、自分が「旅」を支配できる。 「純度の高い旅」という言い方をすれば、西川は圧倒的に「純度の高い旅」をし続けていたことになる。 フラットな生き方。置かれている状況に応じて普通に生きる。普通に楽しむ。 無限の自由を得る喜びとは、 西川の生き方、存在の仕方、歩き方は魅力的じゃない?(笑) それは、何かが起こったときに、やわらかく反応できる心。 柔軟に心を構えていれば、面白いことは向こうから寄ってくるんですよ!(沢木談) 私は、これまで旅という経験をあまり重ねてきませんでしたが、「人生」を旅と考えれば、お金のない私でも、小さな幸せを追求して、小さな喜びを受け取る器を持つことで、たとえ老いを重ねて行動範囲が狭くなったとしても、沢木さんが仰るとおり、面白いことは、限りなく自分に近づいてきてくれるのではないだろうか。 本書を二度読んで、いっそう幸福な気持ちになれました。 どうもありがとうございました。 | ||||
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新品なのに、帯がズタズタに破れてました。 返品したいけど作業自体めんどくさいから諦めます。 内容には何の関係もないので、沢木さんには申し訳ないですが。 | ||||
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