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イエスの生涯
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イエスの生涯の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.36pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全89件 1~20 1/5ページ
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仏教で説かれる慈悲は空(シューニャ)から生ずるが、イエスの説く愛はどこが源流なのか興味がある。 ガラリアの春のように、誰にでも、どこまでも寄り添い、許す彼の愛。ならず者を語源とするヘブライの民や弟子たちには理解できず、預言者やキリストとしての父性的な民族指導者を彼に期待した。そして、幻滅と失望。死んだあとになって、彼が何者であったかを悟る弟子たち。 中沢新一は、イエスの教えは青年の思想で、世界を敵にしてしまったと述べているが、説教の場所がガンジス川のほとりだったら、少なくとも磔にはされなかったのではないか。 本書は贖罪信仰や三位一体といった神学論や奇跡物語が出てこないので、キリスト教徒でない私でも抵抗なく読める。ただし、生前、死後を問わず、本当に奇跡を起こさなかったかはわからない。むしろ、人間として苦しみながら最期まで愛を貫き通して死んでいったことに真価があると思う。 人生の価値は、この世に生まれてから、出会った命にどのように向き合ったかで決まると思う。 筆者の迫り方は、踏み絵に描かれた男に重なる。 | ||||
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敬虔なキリスト教信者であられる著者が冷静かつ客観的視点で、人間イエスを淡々と語って居られる。そう言うイエスが何故に世界に信者を集める教祖たり得たのか?キリスト礼賛の書とは一線を画しつつも、あるいは完璧な礼賛書なのかもしれない。 | ||||
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著者自分の願望の読み込みでした。個人の感想としては否定しませんが、本質とかけ離れています。さらにまことしやかに書かれているため読む側が飲み込まれて惑わされるのを危惧しています。 | ||||
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ハレルヤが聞こえない。この人は本当にキリスト者なのか、最後の晩餐の破壊的描写や、粛清とか玉砕とかぶっそうな言葉の使用を見ると、彼の幼児期のトラウマの記憶が推察される。『沈黙』はアメリカ映画のもなったが、そして数々の受賞歴はあるが、そしてまた『ユダの福音書』発見の予感はあるものの、それにしても窮屈な境涯に身を置いたものと同情に堪えない。 | ||||
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難しい。途中で読むのやめた | ||||
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四つの「福音書」を資料と推測に基づいて、遠藤周作氏が独自に解釈した小説です。 本書『イエスの生涯』は、クリスチャンではない日本人の私にも、自然に読むことが出来ました。 遠藤周作氏が「四福音書」を解釈していくと、イエスおよびその周囲の人間のドラマが、身近に感じられるのです。 ユダやぺトロについての『新約聖書』の違和感も、本書によってある程度、納得できた気がします。 博愛というよりむしろ偏愛によって、見棄てられた者や軽蔑されている者と交わり続けたイエス。 彼等の「永遠の同伴者」であろうとしたイエス。 著者・遠藤周作氏はその暖かい筆致で、誰でも親しみが持てるイエスを記しています。 「彼はただ他の人間たちが苦しんでいる時、それを決して見棄てなかっただけだ。女たちが泣いている時、そのそばにいた。老人が孤独の時、彼の傍らにじっと腰かけていた。奇跡など行わなかったが、奇蹟よりもっと深い愛がその窪んだ眼に溢れていた。」 (『イエスの生涯』Kindle版 P.200 印刷書籍 P.244~P.245) 「イエスの生涯はそれだけだった。それは白い紙の上に書かれたたった一文字のように簡単で明瞭だった。簡単で明瞭すぎたから、誰にもわからず、誰にもできなかったのだ。」 (同 Kindle版 P.200 印刷書籍 P.245) | ||||
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戦後日本の名著というべき本です。 | ||||
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マーティン・スコセッシ監督が遠藤周作の『イエスの生涯』を映画化するというニュースがあったので、本棚から引っ張り出してきて再び読んでみた。 カテゴリーは小説になっているが、イエスの評伝ととらえた方がしっくりくる作品だ。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの福音書そのものも、聖書作家がイエスの死後、彼を目撃した弟子たちや地方に伝わっているイエス民話や伝承を集め、当時入手できたキリスト語録などの資料を使い、彼らなりにイエスの生涯をまとめた評伝だ。マタイにょる福音書は紀元70年頃に成立したと言われているので、イエスの死の30年後ぐらいにまとめられたと思われる。 遠藤周作の描くイエス像は、無力だという特徴がある。 「イエスは群衆の求める奇跡を行えなかった。湖畔の村々では人々に見捨てられた熱病患者のそばにつきそい、その汗をぬぐわれ、子を失った母親の手を、一夜じっと握っておられたが、軌跡などはできなかった。そのやがて群衆は彼を「無力な男」と呼び、湖畔から去ることを要求した。だがイエスがこれら不幸な人々に見つけた最大の不幸は、彼らを愛する者がいないことだった。彼等の不幸の中核には愛してもらえぬ惨めな孤独感と絶望が何時もどす黒く巣くっていた。必要なのは「愛」であって病気を直す「奇蹟」ではなかった。人間は永遠の同伴者を必要としていることをイエスは知っておられた。自分の悲しみや苦しみをわかち合い、共に涙を流してくれる母のような同伴者を必要としている。」 「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」という詩篇を口に出し死んでいくイエスを描いた受難物語のクライマックスを、遠藤周作は次のように描く。 「もし敢えて言うならば、イエスはこの物語では無力無能力の人として描かれているのである。彼は衆議会の訊問にもピラトの裁判にも相手を説得することもできなかった、兵士の侮辱にも抗うこともできなかった。群衆の裏切りにもただ沈黙されて耐えているだけだった。おしらくエルサレムの周辺に身をひそめていた弟子たちは最後の瞬間、イエスがこれを覆す奇蹟を待っていただろうが、それは何一つなされなかった。ゴルゴダの刑場でボロ布のように釘づけられた彼を見た者には神があるいは手をさしのべるかと期待したものもいたろうが、神は彼の苦しみを放っておかれたようにさえ見える。」 マーティン・スコセッシ監督が、遠藤周作のイエス像を映像化したとしたら、それは神としてではなく、人間イエスを表現したとも言えるだろう。これが西洋人にどう映るのだろうか。最後に遠藤周作は次のように語っている。 「もちろん私はこの「イエスの生涯」の俯瞰によってイエス自身をとらえられたとはつゆとも思っていない。我々は自分の人生を投影してこの人を考えるからである。少なくともこの人の生涯には我々の人生を投影してなお掴み難い神秘と謎があるのだ。」 遠藤周作は、イエスを「人」として捉えているのである。そこには西洋人の三位一体論を感じない。 | ||||
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キリスト教がここまで広まった事も知りたいが、イエスがキリストになったのかを教えてくれる本は今までなかった。しかしながらまだまだ勉強が必要だ。。。 | ||||
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この作品は元々昭和48年、遠藤周作氏が50歳の時に刊行されたものです。 「解説」にもありますが、ジャンル―評伝なのか歴史小説なのか―は意見が分かれるところだと思います。いずれにしても、遠藤氏自身によるイエス像、そして弟子像、そして彼らを取り巻く聖書の世界に関する考察と言えるでしょう。個人的には少し学術的、所によっては少し推理小説のようだとも思いました。前者に関しては、あまり知られていないであろう旧約聖書の「ミカ書」が登場したり、同じ事柄に関してどの部分で聖書学者らの意見が概ね一致しているか、などの考察がされているからです。後者に関しては、とりわけ「謎」とか「秘密」という言葉が使われているからです。たとえば、何故大司祭らはイエスを処刑したかったか、また何故、以前は「弱虫」だった弟子たちがイエスの復活後絶対的な自信、確信をもって布教活動を行うことができたか、その謎に迫る、という感じなのです。(あくまでも真面目な内容です。)また何故福音書はイエスの行った「奇蹟」に関しては弱々しい記述しかしていないか、など、小説家らしい洞察力、想像力も垣間見ることができます。 さらに私がとても遠藤氏らしいと感じたのは、この「沈黙」の作者にとってはイエスはとりわけ「無力」(この言葉が本当に何回も使われています)、無能、そして「同伴者」なのです。対する弟子たちはというと「弱虫」(この言葉も何回も登場します)、「ぐうたら」、そして「卑怯者」なのです。そしてイエスの死に「沈黙」する神… 同時に私が興味深く思ったことが二点あります。一つ目は、遠藤氏にとってはイエスの行った様々な「奇蹟」など、自らの体から溢れる愛に比べたら「みすぼらしい」だけのものであるということです。二つ目は、聖書に書かれていることが必ずしも「事実」でなくても、人間の魂が欲する以上「真実」になる、という見解です。概ね同感です。 「沈黙」同様、全体的にややクセのある内容で、本書を読んだ人が必ずしも遠藤氏に賛同することは無いと思いますが、個人的には200ページと小さな本ながらとても勉強になりました。 最後に、「解説」を書かれたのは井上洋治神父さまです。この方は確か、昭和20年代に遠藤氏が留学のためにフランスに向かわれたときにやはりフランスに留学された方です。たしか、同じ船で渡航された方で、留学中には遠藤氏がわざわざ訪問された神父さまだと思います。この方が書かれた本書の「解説」は的を得ていて読む価値があると思いました。 | ||||
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「イエス・キリストは実在したのか?」や「歴史の中の新約聖書」などキリストや、キリストを記録した新約聖書についての本を読みましたが、本書は小説という形でイエスと弟子達の心の動きに焦点を当てて、彼らの辿った行動とその意味について深く踏み込んだ本です。 遠藤周作さんの本を読むのは実は初めてですが、小説家だしキリスト教文化の薄い日本人が書いた本だしと正直あまり期待していませんでしたが、旧約聖書や新約聖書や他の聖書学者達の文献について非常に細かく研究されている印象を受けました。遠藤さん自身がカトリック信者であるのも理由なのでしょうが、実際に何が起きたのかを究明したいという非常に強い意志を感じます。 本書を読んで本当によかったなと感じたのは、イエスは神の愛を苦しむ人々に分け与えたいという気持ちで村々を周られているのに対して、群がる人々はイエスをローマの圧政からユダヤ人を救うメシアであると勝手に期待を膨らませ、それが裏切られるとイエスを軽蔑し罵倒していたということがわかったことです。 イエスについては色々な奇蹟ばかりが取り上げられますが、遠藤さんが最後に語られているように真実の愛に比べれば奇蹟など取るに足らないことだという言葉が非常に印象的でした。 それに比べて、イエスを捕まえてたらい回しにする役人達がいかに近視眼的で保身ばかりを考える愚か者かということも本書で初めてわかりました。 奇蹟という実利と技術だけを期待し欲と保身だけで動く、これってまさに現代人そのものです。 こうして考えてみると仏教のゴータマ仏陀とよく似ているなとも思いました。ゴータマも従来の戒律と厳しさだけのバラモンから離れて、苦しむ人々を楽にさせてあげたいという気持ちに駆られて村々をまわっていたわけで、同時代に全く違う場所に生まれた二人の共通点を考えさせられました。 | ||||
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読んでよかったです。 聖書を通して感じていたイエス様より、よりリアルな人としてのイエス様が見えた気がしました。 小説ですが、聖書を熟読して理解し、さまざまな広い知識のもとで書かれた小説なので、理解が深まりました。 遠藤周作先生のイエス様の本を もっと読みたくなりました。 | ||||
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一人の人間としてのイエスの物語を聖書と照らし合わせて書かれていて本当に解りやすい。 この本と出合ったことで 自分の人生・・・と言ったら大げさですが、心の中に何か芽生えたというか、考え方が多方向から見れる様になったというか、聖書って堅いものっていうイメージから解放されました。 この本がきっかけで聖書読む人もでてくるんじゃないかなー もう10回以上読み返してます。 | ||||
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歴史上実在した一人の人間としてのイエスとはどういう人物だったのか? というテーマを扱う「史的イエス」に関する著作です。 ルナン、シュヴァイツァー、ブルトマン、クルマンなど、 名だたる碩学たちが研究を積み重ねている一方、篤信のキリスト教徒からは批判を受ける研究分野です。 「小説家」である遠藤周作がわざわざこのジャンルの著作を書かなくても… という気もしましたが 著者は「小説家」という立場で、このテーマを書かずにはいられなかったのでしょう。 学者からも保守的なキリスト教徒からも批判されることは覚悟のうえで 自身の「イエス像」を描きたい。書かずにはいられない。 そういう”内的必然性”が著者をしてこの作品を書かしめた。 この点では、『海と毒薬』や『沈黙』などの小説とも通底しています。 内容の是非はともかく、小説家・遠藤周作らしい作品です。 遠藤周作作品が好きな方にはおすすめです。 | ||||
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最初に新旧訳聖書を読んだのは小学校3年生の時だった。 そのときに初めて神さまと宗教というものがはっきりわかった。仏壇になんまんだぶといっているのも宗教なんだとわかった。でも神様と仏さまって国が違うから違うの???という感じだったことを思い出した。とりあえず、魚とパンがみんなに行き渡る奇跡のシーンは、「神様信じたらこんなことが起こるの???」という衝撃だった。ちなみに小学校の図書館で借りた。 映画の『パッション』も見たし、キリスト教に関わる本も読んだが、イエスの生涯として読むのは久しぶりな気がする。そしてこれはあくまで遠藤氏が聖書に向き合われた内容だと言うことも理解している。 イエスという人間、それを取り巻く人々と当時の社会情勢、状況、そして現地に赴かれた印象など、作家らしい感覚で綴られている。 これが正しいイエスの生涯だとは思わないが、信仰を持って向き合われた方の読み方の思いがけないところでの深さにハッとさせられる。 自分は浄土真宗の教えを聞いている身ではあるが、イエスがなぜ神の愛を証すために十字架にかかったのか、その気持ちを思うと苦しくなる。そしてどう見てもポンコツだった弟子たちがなぜ使徒といわれるまでの活動をイエスの「復活」後にしていくことになったのか。独自視点は推測であることは承知の上でも頷けるものだった。 イエスの周りのひとたちは、分別いっぱいの幸せをもとめていて、それを静かにそういうものだと悲しみながらも受け入れている姿が浮き上がる。愛って暖かい感じがするけど、それを伝えるということは難しいものだな。ことばにするとイメージだけで思ってしまうけれど。 とりあえず、遠藤周作のキリスト教に関する三部作の一冊目を読了。 | ||||
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悪魔に憑かれた人や熱病にうなされる人をマラリアと推測したり、現代的な見方で楽しめるイエスの生涯。神がいない、存在を感じられないこの日本で信仰を保つことの難しさを感じます。 聖書と比較して、何度も読み続けたい名作です。 | ||||
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大学生時代に何度も四福音書を読んだので、今度はこちらを読んでみました。私はミッションスクールだったが、基督教学を受けている人は是非読んで欲しいと思う。遠藤氏によるとイエスの奇蹟は後世の創作若しくは伝承と書いているがそうかもしれない。しかし「神の愛」を伝え続け、最後にはついに処刑されたイエスの姿は、その悲劇的な最後とともにメシア(救世主)だと我々に語りかけてくる。単調になりがちな福音書を生き生きとさせてくれる注釈書です。 | ||||
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イエスの奇跡を否定したような書き方をしているため、純粋なキリスト教信者には受け入れがたいかもしれないが、そのおかげで信徒以外でも興味深く読める。奇跡など起こさなくても人間としての魅力で多くの人を救っていたのだろうと思わせてくれる。この本と阿刀田高氏の「新約聖書を知っていますか」はイエス入門として、奇跡など信じない現代人におすすめできる。 | ||||
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ローマ帝国によって支配されている時代背景や、傀儡政権のように統治する宗教指導者や権力者、政治犯たちの心理を小説家の想像力で描くことで、イエスの生き様の意味を浮き彫りにする。 小説家の表現力と、クリスチャンとしての感性に魅せられて、緊張感が途切れることなく一気に読んでしまった。なかなか理解できなかった新約聖書の世界が映像となって浮かび上がってきた。 イエスが生まれた当時のユダヤ民族はローマ人に支配され、政治や宗教の権力者は、ローマ人と妥協しながら権威を維持していた。 人々は自分たちのクニをもたらしてくれるメシアの出現を待ち望んでいた。イエスが最初に弟子入りした男は、民族のリーダーとして期待され、信者を増やしていったが、危険人物として殺された。 すると、一番弟子のイエスに期待が集まる。 ユダヤ教の神は人々を容赦なく罰する父のような厳しい存在だ。 それに対してイエスは、弱いもの、貧しいものによりそう母のような神を求めた。 奇跡をおこして信者を増やし、ユダヤのリーダーになってくれという期待が高まる。 イエスの求めるものと、周囲の期待のギャップが深まる。独立運動のリーダーになることを拒んだイエスは、民衆から見放された。 自らの死を覚悟して、ユダヤのナショナリズムがもっとも高まる日に弟子たちと共にエルサレムにおもむく。もう一度、リーダーになることを望む民衆が大きく盛り上がったそのとき、イエスはふたたび拒絶する。弟子のユダが裏切り、それ以外の弟子たちもイエスが逮捕されると逃げ出した。 イエスの影響力の大きさを危惧して捕縛を躊躇していた権力は、民心がイエスから離れるのを見て十字架にかけて殺した。 イエスは、人々の支持を失い、奇跡も起こさず、無力な人間として殺された。 なぜイエスはそんなつらい思いをしなければならなかったのか。 だれよりも苦しみを背負わなければ、苦しむ人に寄り添えないからだ。「愛」ゆえに無力で無能で救いのない、徹底的にみじめな最期を迎えなければならなかったのだという。 新約聖書は、どん底まで突き落とされる物語だからこそ、深みがあり、さまざまな意味が付与される可能性が生まれた。遠藤周作はこう解釈したけれど、まったく異なる解釈をした本もある。なんとでも解釈できるという融通無碍さが、聖書を2000年間も人々の心に大きな影響を及ぼすテクストにしているのだろう。 | ||||
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大変良かった | ||||
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