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イエスの生涯
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イエスの生涯の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.36pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全89件 41~60 3/5ページ
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聖書の記述について、史料的信頼度は低い。伝承や伝聞の寄せ集めだ。それをどう解釈するかというところで、信者であるとバイアスがかかるのは如何ともし難い。 | ||||
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史実に忠実かどうか、聖書の解釈として正しいのかどうかは兎も角、筋の通った、かつ倫理の通ったキリストという人の物語として、とても面白く読めました。無神論者の読者でもイエスの物語を強い共感をもって理解することができました。良書です。 | ||||
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キリストが復活してるかどうかの謎は良いが。ハッキリ書いてほしい。 | ||||
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遠藤先生が、エルサレム近郊を回られた実査も入れた、イエス様の生涯の後半に焦点を当てた論文というか、エッセイです。 素人にも読みやすいです。教義的な難しい議論はあまりなく、イエス様の苦悩と、それを全く理解できない弟子たち。イエス様の生前の奇跡のお話には距離を置かれて、イエス様は苦しむ人たちへの、病気を治すとか物理的な支援はすることができなかった。 愛して寄り添うだけだった、というのは大変印象的。弟子たちも、反ローマの代表としてイエス様が政治的に立ち上がることを期待していた部分があって、ユダじゃけではなく、全ての弟子がイエス様に失望感を持ってしまった・・・というのも、理解しやすい議論でした。 ユダ論が大変興味深いです。聖書の作成過程に興味を覚えますね。 「沈黙」の直後に読んだので、やはり「沈黙」はイエス様とユダのお話ではないか、と思ってしまいました。 | ||||
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キリスト者は読まなければならない本だと思います。 文末に「もう一度イエスの生涯を書きたい」と記して天に召されました。盟友、井上洋治神父がその遺志を継がれ「わが師イエスの生涯」を書き終え天に召されました。今頃、天国でお互いの肩を叩き合ってイエス様にご報告されているのでしょうか? | ||||
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キリスト教は4つの福音書があり、イエス・キリストの人生を描いている。そこにすんなりは入れる人はいいけど、入れない人にはこの本があります。 つまり、4つの福音書に幻惑されず、統一した見方を提示しているからです。 遠藤周作としては、弟子たちから離れて存在するイエス・キリスト像を描かれてますね。奇跡という現世利益の追求に冷めている、イエス・キリスト像でしょうか。バラバが映画で描かれているような、ならず者ではなく、過激な宗教革命家という解釈は面白かったです。 当時のユダヤ社会は激動の時代であり、弟子たちはイエス・キリストに現実の世界を変えてほしいという希望があったみたいですが、イエス・キリストはそれを拒絶し、十字架にかけられ、普遍的な愛へ身を捧げるんでしょうか。裏切ったり、頼りない弟子たちを罵るわけでなく、自分を助けてくれない神を罵るわけでなく、神へ身を捧げるシーンはやはり胸に込み上げるものがあります。 日本においても、キリスト教はメジャーな宗教だと思いますが、当時のユダヤ社会だけでなく、現代においても必要な宗教だと思いますが、その内容が必ずしも理解されてはいない、キリスト教の愛というテーマを感じ取れる名著です。 | ||||
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韓国人です。翻訳版を読んでちゃんとオリジナルバージョンも読みたいなーと思って買いました。やはりいいですね。人間イエス、彼の本心とここに来た理由などについてもう一度考えてみるいい機会だったです。 | ||||
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普通に面白いです。あくまでも遠藤周作の考えるイエス像ですが、なぜか説得力はあります。 | ||||
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聖書の読み方に今までにない興味を持って行間を読めるように努めようと思った。牧師の視点とは異なった読み方が聖書を面白くしてくれるのでは・・・・・・ | ||||
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期待していたよりも、良質な状態で、早く着荷しました。満足しています。 | ||||
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「人間はイエスの時代から変わっていない」ということがリアルに解ります イエスのことを知ることはいけない、足を踏み入れてはいけないという記憶があります。 人から聞いたイエス、教科書や本などに書かれていることも信じ過ぎず、またイエスを疑うこともありませんでした。 ただの遠い異国の見知らぬ男性の、残酷な事件だった 。こうして大人が無関心になっていくのだと思います 大人になりイエスを身近に知る方との出会いがイエスを知りたいと思うようになりました。 私は女性ですが、愛について全く違う視点で読めると思いました | ||||
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遠藤周作は沈黙も読みましたけども、終始こんな感じのイエスを描いてはるのかしら。飢えや病気、貧困、そうしたものに現実的にはなんにも役に立たないイエス。最後には人びとから嘲笑され唾を吐きかけられるイエス。惨めな最期。そんな中にあっても神の存在を1ミリも疑わなかった信仰の篤さ。それに奮える弟子たち。ていうパターンがあるですね。 読んでて暗い気分になるけれど、さもありなん、当時はほんとそんな感じだったのかなと思わせるリアリティは充分にあるですね。 ┏━━━━━━━━━━ 夷狄(いてき) 16 ┗━━━━━━━━━━ はじめて見た言葉。「ユダヤ人たちは五百数十年の間、その国土が夷狄の支配するままになっているのを見ねばならなかった」ていう文脈で使われているですね。 ┏━━━━━━━━━━ 彼等(ヨハネのグループの人たち)はイエスを師(ヨハネ)の愛弟子とは思っていたろうが、同時に自分たちの仲間の1人だと長い間、考えていた。後になって彼等がイエス教団とある軋轢を持つようになるのもそのためである。28 ┗━━━━━━━━━━ ヨハネのグループの中で修行していたイエス。そのうち頭角を現して、自分の派閥を持つようになって、他の仲間から嫉妬されるようになるってことだと思われます。イエスが世に出る前にこんな動きもあったのね。 ┏━━━━━━━━━━ 同じ宣言でありながら洗者ヨハネのそれは烈しい威嚇である。荒野の叫びである。略。だがイエスの宣言は福音である。福音とは文字通り悦ばしきことの知らせなのだ。ヨハネのそれのような、聞く者を震え上がらせる威嚇の言葉などない。神の怒りや罰などに少しも触れていない。58 ┗━━━━━━━━━━ 厳しいヨハネ。優しいイエス。北風と太陽みたいなものかも。 ┏━━━━━━━━━━ だがイエスもまた、民衆のこの心理をよく見抜いておられた。この半年の間、人びとから取り囲まれ、村から村、町から町へ悦びの声に迎えられた時から、彼はいつの日か、これら人間たちが自分を棄てることを予感されていたからである。神の愛を語ることは易しい。しかし愛は多くの場合、現実には無力だからだ。直接には役に立たぬからだ。94 ┗━━━━━━━━━━ さもありなん。2000年も語り継がれる人間だからねえ。孤独っぷりも並大抵じゃないはずでありますね。この「現実的にはなんの役にも立たない惨めなイエス」のイメージは、この本でも遠藤氏のほかの著作でも、何回も出てきます。 ┏━━━━━━━━━━ 聖書の中には必ずしも事実ではなかった場面があまた織り込まれていることを私は認める。しかし事実でなかった場面もそれがイエスを信仰する者の信仰所産である以上、真実なのだ。それは事実などという枝葉末節のことをはるかに越えて、その時代の信仰者がそれを心の底から欲した場面であるから真実なのである。145 ┗━━━━━━━━━━ 聖書を読むにあたって遠藤氏が態度表明したところですね。人はなぜか小説やドラマでもすぐに「実話なのか?」と問うけど、そんなことは「枝葉末節」であると。実話でなければ価値がないとも言うですね、「そんなのフィクションだ」とか。小さい頃からさんざんフィクションに心躍らせ感動しそれで自分が成長し苦しいときは心の支えにすらなっているのに、今さら何を言うとんのじゃと。 ┏━━━━━━━━━━ こうした群集による支持と人気とが、もうすぐ劇的な終わりをつげるのをイエスは知っておられた。もう、すぐ、あななたちは私を見捨てるだろう。もう、すぐ、あなたたちは私を捕らえる者たちに味方するであろう。なぜなら、私はあなたたちが望むようなことをしないからだ。もうすぐ私はあなたたちには「無力なる男」「何もしない男」に見えるようになるだろう。その時、その私をあなたたちは怒り、あのイザヤ書に預言されたように侮り、軽蔑するだろう。154 ┗━━━━━━━━━━ ┏━━━━━━━━━━ 彼は愛のメシアではあったが民衆の期待するような政治的メシアとは全く関係がなかった。彼は人間の永遠の同伴者たることを切に願われたが、人間の地上の指導者になることは考えられもしなかった。163 ┗━━━━━━━━━━ 私がこの本を読んではじめて、イエスが政治家ではないということを知ったですね。 イエスという男―逆説的反抗者の生と死 とか読むと、ローマに対してかなり政治的に反抗したように描かれていたので。あくまで政治とは一線を画していていた、そのことに自覚的な人だったのかもですね。 ┏━━━━━━━━━━ なぜなら彼の死は愛のための死だったから、もっとも惨めで、みすぼらしい形で来るにちがいなかったからである。自分を愛してくれる者のために死ぬのは易しい。自分を愛してもくれず、自分を誤解している者のために身を捧げるのは辛い行為だった。172 ┗━━━━━━━━━━ こういう説明がくり返し出てくるからねえ、ふんとにこっちまで胸が苦しくなるだよね。 ┏━━━━━━━━━━ 弟子たちはそのように弱虫だった。弱虫だったからこそ、彼等はこの取引をしたあと自責と屈辱のため、烈しく泣いた。177 ┗━━━━━━━━━━ ┏━━━━━━━━━━ 「十字架につけよ」というこの時の衆議会議員と群集の答えは見逃すわけにはいかな。これは、イエスを異端者としてではなく政治犯として処刑せよという要求である。 大祭司カヤパ(ユダヤの偉いさん)は計算しておいたのである。政治革命家はやがては人びとの記憶から消える。だがイエスのように政治を無視した愛を説いたものは人びとの心に語り伝えられるだろう。イエスはユダヤ人の記憶から消さねばならぬ。196 ┗━━━━━━━━━━ 政治と論理。短期的に強いのは政治だけど、長く残るのは論理であると。その通りでありましょうね。だからユダヤの偉いさんは、恩赦でバラバ(政治リーダー)を釈放してイエスを死刑にしたかったのだね。「バラバを! バラバを!」の意味がようやっと分かりました、あたくし。 ┏━━━━━━━━━━ イエスの十字架の両側には二人の政治犯の十字架がたてられた。204 ┗━━━━━━━━━━ イエスの磔刑は1人じゃなかったのね。あと二人いたのね。 | ||||
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周囲の期待とイエスが求めた愛の具現化のギャップが 彼に十字架を背負わせた。 そのイエスという人間が見えてくる本である。 | ||||
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素晴らしい本でした。流石に人間の心の機微が読める作家遠藤さん、それに半端ない研究調査をして書いておられる事がさり気なく分る。 | ||||
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聖書では読み切れないイエスの横顔が、リアルに感じることができる本でした。十字架の意味を改めて考えるきっかけになりました。イエスが神かどうかに関係なく、人間愛に満ち溢れたイエスという存在に圧倒されました。 | ||||
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なかなか自分を捨てられない、どうしようもない欠けだらけの 人間のために命を投げ出してくださった方。自分よがりしか できない人間を許し愛してくださった方。 | ||||
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遠藤先生はこの本を書いて「迷いかが断ち切れた」といったそうです。 私も同じです。 ただ神の愛は貫かれている。 ただこの作品を書いたことでノーベル賞こうほからはずされたとも聞いています。 | ||||
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昔に読んだまま、大切な一冊として持っていたが、誰かに貸したきり戻ってこず、どうしても手元に置きたい一冊なので再購入。 | ||||
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いろいろな賛美と批判が本書に向けられているのは 承知の上ですが、やはり優れていると言わざるを得ないです。 遠藤周作というひとりの作家が、クリスチャンとして、 自らの考える(ときに資料にもよるが、「想像だが」と 断っているところも多数)イエス像を描き出し、 いつもとかわらぬ達意の筆で、しかも引用される 聖書の句はラゲ訳というのでしょうか、現物を 知りませんが、非常に格調が高く、(それを読みたくて 文語訳を買ってみたら違ったという……無知とは悲しい) それらがあいまって大変に慈しみ深いイエスの姿が 描き出されています。 僕はキリスト教信者ではなく、単に聖書に関心を 抱いて聖書の他にキリスト教関連・イエス関連の 書籍を独学している素人に過ぎませんから、 その前提でお聞きいただきたいのですが、 聖書やイエスに関心があるのであれば、 ぜひとも遠藤周作の筆になる本書をひもといて みられてはと思った次第です。 彼独自の理解についてはそれを気にして 別の本に当たれば、あるていど問題点は見えてきますし、 これ一冊で終わるのであれば、もちろんそれとして 一定のイエス像を描くことができるのであり、 小説家の書いたイエスとしてはそういうものだと 僕は思っています。 | ||||
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イエス様がなんで全世界を覆い尽くす「愛」を残し、それが2000年近くたった今でもイエス様は人類に「愛」を訴え続けている。そのこと自体が既に「神」「奇跡」なのだと思う。イエスを残した「愛」を弟子が受け継ぎ、そしてそれを、また弟子が受け継ぎ、未だにそれは強く続いている。私はクリスチャンではないが、イタリアに旅行に行った時はさすがに「神は存在するんだ。」と強く感じ、イエス=キリストの偉大さを感じた。なんで数年しか布教をしなくて、悲運のうちに亡くなったイエスが今になっても世界を動かし続けているのか?その理由を知りたくて、この本を読んだ。でもこの小説を読んだだけでは、その理由は分からない。この本のイエスは神ではなく、人であり、それも人々には勝手に期待をかけられ、その期待を一方的に裏切ったとされ、とんでもない仕打ちを受けて死んでしまう可愛そうな人間だ。また最後には弟子たちに裏切られ死んだことになっている。通常であれば「失意のうちに死んだ」と表現される生涯である。それでも 最後の最後まで、弟子たちの為に、愛を注いだ。何と最後まで人がいいんだと身近に感じてしまう。でも裏切った弟子たちはその後は「キリストの使徒」として、命をかけてその教えを布教しようとした。なんでそんな奇跡が起こったのかそんな疑問で本を続けたが、結局は分からなかった。やっぱり「神の奇跡」なのであろうか? | ||||
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