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(短編集)
星への旅
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星への旅の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.18pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全3件 1~3 1/1ページ
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昭和33年から昭和42年にかけて発表された短編6編を収録したもの。 「鉄橋」(昭和33年) 「少女架刑」(昭和34年) 「透明標本」(昭和36年) 「石の微笑」(昭和37年) 「星への旅」(昭和41年) 「白い道」(昭和42年) の6編である。「死」をテーマにした作品が多い。最初の「鉄橋」や表題作の「星への旅」は自殺がテーマとなっている。 「鉄橋」は死にそうもないプロボクサーが鉄橋で轢死する。自殺か事故か、その謎解きをするサスペンス仕立ての小説だ。 また「少女架刑」は、病死した少女が献体をし、自分の身体の部分部分がそれぞれ切り取られていく様子を、あたかも少女の魂が冷静に観察している。 「星への旅」は、若い少年少女たちが集団自殺へ向かっていく様子を、その仲間の一人の目を通して見つめていく。 吉村の作品は「漂流」「破船」「島抜け」「三陸海岸大津波」などのドキュメンタリー・タッチの作品を多く読んでいる。それらに比べるとここに収録されたものは、それ程面白いとは思えなかった。表現がくどく解りにくいと感じた。 流石に昭和中期の作品で「ガソリンカー」などというのが出てくる。電化される以前の鉄道気動車のことか。この辺でもつい最近まで「ディーゼルカー」なるものが走っていた。国鉄に勤める親を持った友人から聞いた。 | ||||
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一気に読めました。「漂流」を読んでいるうちに、この本も良みたくなって購入しました。 | ||||
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歴史小説等で知られる作家吉村昭(1927-2006)が死を主題にして書いた初期の短編作品。 「鉄橋」(1958年) 一人の男の死という散文的な出来事に多角的な光をあてることで、その平板化された出来事の実相が立体的に再構成されていく。 「少女架刑」(1959年)「透明標本」(1961年) 逆に人の死・屍体と云うものを徹底して即物的に描くことで、却ってそこに死の美を浮かび上がらせ、同時にそれに魅せられてしまう人間の暗い情念の存在を描出する。 「石の微笑」(1962年) 死というのは各人が背負ってきた生の在りように応じて各人の生のすぐ身近に在るものらしく、死と生の境界が実は通常思われている以上に曖昧であることが、巧く暗示されていく。 「星への旅」(1966年) "日常"。鈍重な惰性態でしかない"時間の経過"。現代と云うのは、世界の隅々までがこうした"日常"に覆われてしまったのではないか。世界の全てが"日常"でしかなくなってしまった。過剰な"日常"。世界からは、自己の内面と結び付けられるところの内実という意味の彩りが失われる――それは同時に、自己の内面そのものの酸蝕でもある。何も無いはずのところへ向けての、何者とも名指し得ない、焦慮と倦怠。"日常"という縁の無い空虚の大穴は、既に底の知れてしまっている何を放り込んでみたところで、埋まるものではない。そこに、死と云う観念が desperate な希望と云う逆説として、少年少女の空漠たる内面に憑いたのではないか。死への憧憬、死への飛翔・・・"日常"を超越し無化する回路としての死。「然し、それは全て、ロマン主義的にその image が照らし出されている死でしかないのではないか、果してそれが死の実相であろうか・・・」そう問うてみることも可能だろうが、そもそも死の実相なるものが何らかの規定を伴って存在するということそれ自体に、意味があるのだろうか。 "これが、死というものなのか" 死すらも"日常"に内在化されてしまったら。もはや出口無しだ。生は何処までも散文的にできている。死がそうであるように。 その他「白い道」(1967年)を所収。 | ||||
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