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(短編集)
竹光始末
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竹光始末の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.35pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全20件 1~20 1/1ページ
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読んでいる、という主体的な行為ではないのだろうと思えるのです。藤沢作品の文章を目で追ってページをめくり続けることは。 読まされている、読み手は抗いがたく。一旦スイッチをいれれば、必然的に最後の一文まで読みしかなく、そして「面白い」といった感慨を抱かずにはいられない。そういう装置みたいなものに、否応なく、そして心地よく運ばれていく体験。それが藤沢作品を読むことだと思われます。 「竹光始末」はそういう装置として別格のものでしょう。この短い枚数のなかに、そういった体験を成り立たせるための技巧がどれほど尽くされていることか! 特筆すべきは話の流れの緩急、メリハリ、リズムではないでしょうか。この作品には事件らしい事件、大したイベントは発生していません。家族連れで困窮した浪人が、仕官の条件となる上意討ちに竹光のまま赴く話。それだけ。肝心の手討ちは成り行きも含め数ページで終わってしまいます。 ですが、この手討ちのシーンに展開が圧縮されていて、激しくエモーショんが揺さぶられ、読む者に強い印象を残さずはすみません。 ながいながい待機(主人公にが良いことが起こってほしいという読み手の期待)のあと、手討ちが命ぜられると、あれよあれよという間に敵と対峙することとなります(わずか数行。刀を取り戻す暇も与えられない)。決闘という危険な行為(藩主の嗜好として多数での捕り物とならず)に対して心の準備も整わない読うちにら読み手は何者ともしれない敵に対峙させられることとなります。 すると敵からおいしい話がもたられます(この展開そが新規なアイデア、すぱらしい着想。映画にも採用される道理)。ここで厄介ごとが回避されたときの人の普通の反応として、緊張の緩和がもたらされ、それが主人公だけではなく、読み手にも生じている、藤沢により生じさせられてることが重要です。これこそが装置たるゆえんです。 と同時に、しかるべき人生経験のある多くの読み手は、「甘い話に気をつけろ」という反射的な緊張が生じ、それが主人公より一歩先を行くことで、竹光を明かすシーンに対して、一気に緊張を高めることとなります。装置は確実に読み手の感情を支配しています。 そうして敵の反転は、「そらみたことか」という叱責を主人公に来たし(これは読み手の優越感を高めてもいる)、緊張の頂点に達した状況が武芸の超越で一瞬のうちに難問が一挙に解決されるというカタルシス、入り組んだ困難が自己の獲得した能力で一撃で解決されるという快感、夢、ファンタジーが達成されます。 この終盤の展開をめまぐるしいと感じさせ、強烈な快感を作り出しているのは、たんにこの箇所の構成だけではなく、あえてその推移を緩やかとしていたそこまでの展開との対比でもたらされていると思われます(主人公に対する共感を醸成するよりほかの機能がうすい。クルミを夫婦二人で食べているシーンなど)。 他にも「装置」のすばらしさをあげればきりがないのですが(家族連れての仕官さがしの浪人というアイデアにすごい美人妻と娘二人との円満な家庭(うっかりすると又子供ができてしまう)を設定するなど。じつは主人公は金銭以外では大変な幸運にめぐまれている。同時にこれは多くのひとが努力のはてに多かれすくなかれ手にしている点で共感をもちやすい)、読み手はただ藤沢周平を信じて「よまされてしまう快感」を味わえばいいのだと思われます。 | ||||
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2022年、初めて藤沢周平文学に接しました。 没後25年にしてほぼ全作品が文庫で図書館で並んでいること自体、著者の実力は折り紙付きですので、渺たる筆者が何を申しても愛読者の皆様はいささかも痛痒など覚えぬと思いますので、「一見さんこんにちは」のアマノジャクな感想です。小言ですので読みたくない愛読者の方はここで回れ右して下さいませ。 堪能し、時代小説としての魅力に陶酔したのだが、筆者はこうした江戸時代人がいたとは信じられない。この短編集の本質は、著者藤沢周平が感じていた、抑圧されたサラリーマンの反作用としてのサディズムと嗜虐、プロフェッショナルの技術者としての「腕に覚えあり」のプライド、そこに生まれる死と性の官能で、20世紀人の投影と思えた。 一作一作、無惨痛切、身につまされたが、半面、その世界の狭さに唖然としながら読了した。 テーマは藩と個人の一方的関係、生活苦と義理人情的葛藤で充満しており、それが時代小説の魅力だとしてもその世界は狭い。 著者は意図的にそれ以外の要素を切り捨てている…これは当然で、そうでなければ小説は成立しない。時代小説としての魅力に陶酔しながら、この短編集の本質は、著者藤沢周平が感じていた負の感情(不条理、やりきれなさ、憤懣、怨念)であることに盲目ではいられなかった。 時代小説の衣をまとっているが、この本質は現代文学ではストレートに書けない、非現実の設定を用いられることでしか効果的に書くことの出来ないルサンチマンにある。 そのダークサイドが「石を抱く」のヒロイン造形やラストの展開、「乱心」の主人公と対峙する敵役(主人公の友人なので仇という訳ではないが)の異様さ、「冬の終わり」の葛藤を持った主人公とそれ以上の後ろ暗さを抱えたヒロインとその夫、といった狂気を宿した人物となる。 「俺は捕まるのはいやだ」 「それでは腹を切るか」 と、弥四郎は言った。清野はしばらく黙っていたが、やがて 「腹を切ってもいいぞ。どうせ助かるまい」 と言った。 「よし。腹を切れ」 「その代わり、貴様に介錯を頼む」 そういうと、清野はにやりと笑った。一瞬の笑いだったが、弥四郎は清野から寄せてくる敵意を感じた。 さながら死を楽しんでいるがごとき筆致に官能がある。 フランツ・カフカの影響もあるのではないだろうか?カフカも嗜虐のなかにねじれた官能性を花開かせる。20世紀の巨大な組織と社会の息苦しさを感じている現代人を感情移入させたことに共感しつつも、藤沢周平は「サラリーマンの時代小説」という評言はまことに至言、と抑圧と官能の双方にうなりながら読了した。 節度ある生への態度、死を覚悟した半面の平安な日常への執着といった彼らの反応は、近代日本人が明治以後叩き込まれた武士道的な人生哲学、人に迷惑を掛けない、お互い様、不条理であっても全体のために責任を問われたら潔く切腹、といったような、近代日本人に洗脳された世界観に満ちている。 藤沢文学が20世紀末期、司馬遼太郎とはまったく別の読者層を獲得し、大成功したのはむべなるかな、と一作だけしか読んでいないのに大口叩いてすみません。 藤沢周平の読者層は司馬遼太郎とはあまりかぶらず、発刊当時の企業小説、高杉良や清水一行と言った著者たちや、あるいはよりハードボイルドな藤原伊織や高村薫といった著者たちも頭を過るような作風だった。 堪能した。対決のあと斬られるにせよ、腹を切るにしろ、あるいはめでたく出世するにせよ、簡潔でありながら余韻を残す最期で、エロスとタナトスの官能さえ漂わす。 これから幾つか著者の作品を読むだろうと思う。だが反面、それは武家社会の全体像から見れば底辺であり、テーマも意図的に社会から離れ、風俗と文化に限定された作品世界であることを念頭においての読書になるだろう。 武家は当時の政治担当者である。 250年鎖国しているにしても、この登場人物の多くは日本の中でどういう風に生きていくとか、政務が苦手な武家がいるとしても、藩で分割統治されている日本列島で、儒教なり仏教なりの世界観、国内での国際政治というべき諸藩との外交、藩内の財政・農政といった、17-19世紀という条件のなかでも、武家の世界観として理解していてしかるべき実務的知見を持っているようには思えなかった。 潔いのだけれども視野狭窄。武士道とは結局は社会的圧制への忍耐と、それが耐えられなくなったら死で全てを解決する厭世哲学なのか?と総合的な意味での世界観の狭さを感じざるを得なかった。 現実の幕末で、政権担当者としての視野や、政策実行者としての冷酷さを持っていた薩摩藩、土佐藩、長州藩、といった全国の諸藩における武家の高層・全体では、この町人と武家の周辺をさまよっている階層をズームアップしている藤沢文学(そうした立場にある作品があるなら、それはそれで読みたいですが)は、武家社会はいくら何でもここまで底辺の下層だけであるわけはないと思うし、当時の政治担当者がこれだけだとしたら余りにも統治能力が低い世界ではないかなあ。 これでは徳川幕府は250年どころか25年も持たないのではないかしら。この視野はまるでプロレタリア文学みたいな異議申し立ての水準にとどまるし、20世紀の零細サラリーマンをタイムトリップさせた感じではないかしら、その抑圧感情の描写は入神の域だけれども…と限界は感じた。 でも社会人経験を10年もすれば、これぐらいの疑問は持つものではないかと思う。 以上、時代小説を今までほぼ読んだことがなく、がためにジャンルの約束を理解できていないために違和感を感じた読者の感想でした。 アマノジャクでスイマセン…。 | ||||
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表題作『竹光始末』は、映画「たそがれ清兵衛」の「上意討ち」のシーンに使われたものですが、本作は映画よりも、もっと哀れな話です。仕官の推薦状を持って、家族四人で海坂藩を訪れたものの厄介者扱いされ、やむなく討手を引き受けるという筋書きになっています。 相手を討ち取り、「武家というものは哀れなものだの」とつぶやく丹十郎は、藤沢周平作品ならではの哀しみを背負う侍の姿です。 | ||||
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ユーモラスで悲しく、そしてどれもいとおしい六篇です。 あとがきで、なぜ時代ものを書くのかと聞かれて、明確には答えを出せず、自己分析を強いられた結果、次のようなところにたどり着いたと藤沢周平は書いています。 「むしろ気がついたら時代小説を書いていたという、あいまいな言い方が一番ぴったりするかも知れない。つまり少々キザな言い方になるのを勘弁して頂けば、時代小説を書くということは、私の存在そのものに理由があること」なのだ、と。 読者は本書を読むうちに、かなしさとやさしさを幾重にも折りたたんだ「藤沢周平の存在」に触れています。それが藤沢周平の時代小説を読むという、代え難い経験なのだと思います。 | ||||
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虚を突く展開、それに人情、息を呑む剣戟、一途な武士魂など、藤沢周平氏の巧みな創りの中に、時代小説のしみじみとした味わいを、堪能させてくれる小篇集。 | ||||
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時代小説は好きです。一気に読みました。短編集ですが気に入った小説がありました。気に入らないことはありません。 | ||||
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庶民的な秀逸作品です。 | ||||
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註文してある本が届くまで何か再読しようと本棚を眺め、何冊もある藤沢周平の文庫本のなかから『竹光始末』を手にしてしまった。 本書は、六篇の作品で構成されているのだが、やはり本書のタイトルにもなっている「竹光始末」が一番の秀作だろう。 山田洋次監督の映画「たそがれ清兵衛」で真田広之が演じたクライマックスの場面で、この「竹光始末」が挿入されていたのでその映像を重ねて読んでしまった。 もう大昔から何度も何度も再読していたので読みはじめるとすべて記憶が蘇るので読書の楽しみはあまり感じなかった。 が、やはり藤沢周平の時代小説は、他の時代小説作家より心休まる作品が多く評者の好きな作家である。 | ||||
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作品のうち「恐妻の剣」は、私を筆頭に身につまされる方が多いかと思います。 家庭では逆らわず、目立たず、静かに暮らす・・・現代の男(夫)に通じるものがありますが、しかし主人公にある藩命が・・・さて? また、表題となっとている「竹光始末」の内容も、また「遠方より来る」もまた現代とどこか通じている部分があって深く共感します。 「乱心」は、現代にはびこるちょっと怖い心の病を表しているのかも。 つまり、時代小説とはいえ、ここに書かれている作品はすべていまを映す鏡のようです。 | ||||
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book of great quality. no stain, liked to have bought the amazon, the service was very good, thank you for the service. | ||||
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藤沢周平の作品は、江戸時代の情緒がとても繊細に表現されているので大好きです。 | ||||
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藤沢作品を読破中で、商品も綺麗で気持ちよく読みました。良かったです。 | ||||
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藤沢周平の作品集です。外れない作品集です。普通の人々の生き方は時代が変わっても、変わらない。時代が変わっても、生きる事柄は変わらない。大切なものはもっと変わらない、ということを教えてくれます。いいですやっぱり。なんとなく生活に疲れたり、違和感を感じたときにチョット手にとって読んでみると、一服の清涼剤になります。ワンコインで贅沢な気分が味わえる作品集です。 | ||||
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2009年6月、東京のラジオ局ニッポン放送では1年間に渡り藤沢周平作品の朗読番組を毎週日曜日朝6時20分より放送している。「花のあと」「玄鳥」「竹光始末」「ちゃんとよべ」「闇の梯子」などがこれまで放送されています。 早朝とはいえ、朝仕事の時間帯なのでラジオを共に藤沢作品を早朝に聴く至福の時間を過ごしている。番組のナビゲーターは書評家としても有名な俳優児玉清氏。伴奏はジャズ・ヴァイオリニストとして超売れっ子の川井郁子さん。 そういう訳で、藤沢作品ビギナーの私は、ミーハーなので毎月放送された作品を聴きながらも、結末が気になり文庫を買い求めるという、これまた至福の時間を過ごしている。 ところで「恐妻の剣」、なにやら読んでいると馬場作十朗なる男。かの中村主水の若い頃に見えてきた。 | ||||
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時代小説というと、小気味よい主人公とそれを支える美人、頼もしい子分格の若者、というのが思い浮かぶのだが、藤沢周平は違う。 もちろん、頼もしい健脚が主人公の小説もあるけれど、現代劇のサラリーマンのような、平凡な小心な小さな善人が迷いながら、今日より明日が幸せになりますように、と願う生き方を描いてくれると、「さすが藤沢周平!」と思う。 この「竹光始末」に書かれた6編の短編は、どれもそう。主人公は特別のヒーローではない。 それだけに人として、こんな風に生きたいという、等身大の魅力がある。 中でもいちばん魅力的なのは、「遠方より来る」の平九郎。 ぼくの好みかもしれないが、大言壮語はするわ、人を頼るわ、妙な自信を持っているわ、なんだか憎めない。 憎めないので、主人公の三崎甚平も、士官の口を探してくれる。 「食わせ物」なので、結局だめになるのだけれど、そのときの往生際が実に小気味よい。 人間、こうでなくっちゃ! | ||||
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初出は昭和51年7月立風書房。藤沢ファンはご存じのように表題作『竹光始末』はあの山田洋次監督の『たそがれ清兵衛』の一部として使われていて、この映画をご覧になった方はなるほどあの部分に使われているのか、と読んでいて思われることだろう。 私見では昭和50年代の藤沢作品と昭和60年代から平成初めの藤沢作品ではカラーがかなり違うと思う。昭和50年代の作品は暗いままずっと続くが、昭和60年代から平成初めのものは暗い中に一筋の光が見え、そして明るさを随所に感じるものも多い。真の藤沢作品と言えるのは昭和60年代から平成初めの独特の明るさを持った頃だと僕は思う。 同じく私見では昭和50年代頃は長いサラリーマン生活から作家として独り立ちした頃で、何となくその頃の苦労を作風に引き摺っている気がする。『恐妻の剣』など読むと強くそう思う。共感はできるが昭和60年代から平成初めの頃の作品のような読後感がない。大作家にもそういう過程はあるということなのだろう。 | ||||
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人生の機微とほのぼのとした人情を描いて、相変わらず読む者の心を温かくしてくれる好短編集。 タイトル作「竹光始末」は糊口を凌ぐため、大切な剣を売ってしまい、竹光を差している浪人が仕官のため、戦いに挑むというもの。切羽詰まった状況の筈なのに、読む者に不思議なユーモアとペーソス感を与える筆運びが素晴らしい。また、浪人夫婦が子沢山なのが微笑ましい。主題は夫婦の愛情物語だったのですね。「恐妻の剣」は家庭持ちの男なら微苦笑せずにはおられない。私も秘めた(?)能力を、ここぞと言う場面で発揮したい。 いずれもハデな物語ではないものの、各々人間の心、男女の機微をしっかりと捉まえて、読む者に勇気と感動と微笑を与えてくれる秀作。 | ||||
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この本の奥付を見ただけで凄さが解かる。 ■ 竹光始末: 「たそがれ清兵衛」のあの場面は、ここを使っていたのですね?はじめて知りました。 言わなくてもいい事を、人がいいからつい喋っちゃって、何とも人情味があるというか、でもやられないでよかった。武士の魂(刀)を質に出し、代わりに“竹光”を刺して。いざっ!危ない・・・! ■ 恐妻の剣: どんな「秘剣」と思えば・・。命を賭けて戦って帰って来たのも知らず、この妻と子供ときたら・・。なんともしがない「婿殿」だ。しかし、いい人だなー ■ 石を抱く: これは究極の愛か?今なら「愛の流刑地」だ! 読みながら、ハラハラしました。 ■ 冬の終わりに: これも、いい話だなー。いい人過ぎちゃって、何とも言葉が無い。しかし、隣は何をする人ぞ? 怖し!! ■ 乱心: これは深いなー。 私てっきり、最後は「藤沢 桃太郎侍」が登場して、成敗するのかと思ってました。 最後は、どう理解すればいいのか? ■ 遠方より来る: あれ?これどこかで読んだことあるなー?何かの短編に入っていたでしょう? 読んだことあるもの。 しかし、この足軽、いい人過ぎるなー *所感* やはり、藤沢作品は安心する。読んでいて安心。 また、みんないい人で。 今の世でいうなら、人間が良すぎて「万年平社員」ってな感じでしょうか? しかし、藤沢作品のこの「人間味」がなんともいいなー。 今の世でも、この“わびさび”は十分通じる。 私も、一生“長屋の下級武士”で居よう。 | ||||
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どうして面白いんでしょう。 筋立てはどこかパターン化しているようにも思えます。 でも新鮮で、織り成す物語に惹き込まれていくのです。 貧しさと、刃を合わせる緊張。そこに浮き彫りにされる、 なにか美しげなもの。 ここには様式がありますね。見上げれば感嘆の声を 上げざるをえないような、そびえる塔のような。 「時代小説を書くということは、私の存在そのものに理由がある」 著者あとがきの言葉です。 ますます読みたくなる藤沢周平でした。 | ||||
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短編集である。「竹光始末」ほとんど映画にもなった山本周五郎「雨あがる」の世界。しかし藤沢調ではある。山本は長屋生活も体験しているのに(しているからこそか)小説の中では貧しさに暗さはない。藤沢は貧しきことの哀しさを人一倍描く。山本と藤沢を読み比べると面白い。「冬の終わり」賭場の者に追われる堅気の男、ひっそりと暮らす母子、彫り物の腕はいいのに賭場の世界にどっぷり浸かっている男、旅から帰ってきたやくざ者、彼らはやみに落ちたり、落ちそうになっている者たちである。季節は冬の終わり、夜は特によく冷える。しかし季節は巡る。明日は春がくるかもしれない。人の道さえはずさなければ、いつか…… | ||||
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