(短編集)

竹光始末



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    竹光始末(新潮文庫)
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    初公開日(参考)1981年10月
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    短編集

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    竹光始末(新潮文庫)

    1981年10月31日 竹光始末(新潮文庫)

    一家の糊口を凌ぐために刀を売り、竹光を腰に仕官の条件である上意討へと向う浪人の心意気『竹光始末』。口喧しい女房を尻目に、藩の危機を未然に防ぐ一刀流剣士の手柄『恐妻の剣』。他に『石を抱く』『冬の終りに』等、小説巧者・藤沢周平が、世の片隅で生きる男たちの意地と度胸を、ユーモラスに、陰翳豊かに描く傑作時代小説、全6編。(「BOOK」データベースより)




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    No.20:
    (5pt)

    竹光始末、読ませる装置

    読んでいる、という主体的な行為ではないのだろうと思えるのです。藤沢作品の文章を目で追ってページをめくり続けることは。

    読まされている、読み手は抗いがたく。一旦スイッチをいれれば、必然的に最後の一文まで読みしかなく、そして「面白い」といった感慨を抱かずにはいられない。そういう装置みたいなものに、否応なく、そして心地よく運ばれていく体験。それが藤沢作品を読むことだと思われます。

    「竹光始末」はそういう装置として別格のものでしょう。この短い枚数のなかに、そういった体験を成り立たせるための技巧がどれほど尽くされていることか!

    特筆すべきは話の流れの緩急、メリハリ、リズムではないでしょうか。この作品には事件らしい事件、大したイベントは発生していません。家族連れで困窮した浪人が、仕官の条件となる上意討ちに竹光のまま赴く話。それだけ。肝心の手討ちは成り行きも含め数ページで終わってしまいます。

    ですが、この手討ちのシーンに展開が圧縮されていて、激しくエモーショんが揺さぶられ、読む者に強い印象を残さずはすみません。

    ながいながい待機(主人公にが良いことが起こってほしいという読み手の期待)のあと、手討ちが命ぜられると、あれよあれよという間に敵と対峙することとなります(わずか数行。刀を取り戻す暇も与えられない)。決闘という危険な行為(藩主の嗜好として多数での捕り物とならず)に対して心の準備も整わない読うちにら読み手は何者ともしれない敵に対峙させられることとなります。

    すると敵からおいしい話がもたられます(この展開そが新規なアイデア、すぱらしい着想。映画にも採用される道理)。ここで厄介ごとが回避されたときの人の普通の反応として、緊張の緩和がもたらされ、それが主人公だけではなく、読み手にも生じている、藤沢により生じさせられてることが重要です。これこそが装置たるゆえんです。

    と同時に、しかるべき人生経験のある多くの読み手は、「甘い話に気をつけろ」という反射的な緊張が生じ、それが主人公より一歩先を行くことで、竹光を明かすシーンに対して、一気に緊張を高めることとなります。装置は確実に読み手の感情を支配しています。

    そうして敵の反転は、「そらみたことか」という叱責を主人公に来たし(これは読み手の優越感を高めてもいる)、緊張の頂点に達した状況が武芸の超越で一瞬のうちに難問が一挙に解決されるというカタルシス、入り組んだ困難が自己の獲得した能力で一撃で解決されるという快感、夢、ファンタジーが達成されます。

    この終盤の展開をめまぐるしいと感じさせ、強烈な快感を作り出しているのは、たんにこの箇所の構成だけではなく、あえてその推移を緩やかとしていたそこまでの展開との対比でもたらされていると思われます(主人公に対する共感を醸成するよりほかの機能がうすい。クルミを夫婦二人で食べているシーンなど)。

    他にも「装置」のすばらしさをあげればきりがないのですが(家族連れての仕官さがしの浪人というアイデアにすごい美人妻と娘二人との円満な家庭(うっかりすると又子供ができてしまう)を設定するなど。じつは主人公は金銭以外では大変な幸運にめぐまれている。同時にこれは多くのひとが努力のはてに多かれすくなかれ手にしている点で共感をもちやすい)、読み手はただ藤沢周平を信じて「よまされてしまう快感」を味わえばいいのだと思われます。
    竹光始末(新潮文庫)Amazon書評・レビュー:竹光始末(新潮文庫)より
    B0099FHXP2
    No.19:
    (4pt)

    管理された武士の世界観。その狭さと官能→20世紀人の投影。

    2022年、初めて藤沢周平文学に接しました。
     没後25年にしてほぼ全作品が文庫で図書館で並んでいること自体、著者の実力は折り紙付きですので、渺たる筆者が何を申しても愛読者の皆様はいささかも痛痒など覚えぬと思いますので、「一見さんこんにちは」のアマノジャクな感想です。小言ですので読みたくない愛読者の方はここで回れ右して下さいませ。

     堪能し、時代小説としての魅力に陶酔したのだが、筆者はこうした江戸時代人がいたとは信じられない。この短編集の本質は、著者藤沢周平が感じていた、抑圧されたサラリーマンの反作用としてのサディズムと嗜虐、プロフェッショナルの技術者としての「腕に覚えあり」のプライド、そこに生まれる死と性の官能で、20世紀人の投影と思えた。
     一作一作、無惨痛切、身につまされたが、半面、その世界の狭さに唖然としながら読了した。
     テーマは藩と個人の一方的関係、生活苦と義理人情的葛藤で充満しており、それが時代小説の魅力だとしてもその世界は狭い。
     著者は意図的にそれ以外の要素を切り捨てている…これは当然で、そうでなければ小説は成立しない。時代小説としての魅力に陶酔しながら、この短編集の本質は、著者藤沢周平が感じていた負の感情(不条理、やりきれなさ、憤懣、怨念)であることに盲目ではいられなかった。
     時代小説の衣をまとっているが、この本質は現代文学ではストレートに書けない、非現実の設定を用いられることでしか効果的に書くことの出来ないルサンチマンにある。
     そのダークサイドが「石を抱く」のヒロイン造形やラストの展開、「乱心」の主人公と対峙する敵役(主人公の友人なので仇という訳ではないが)の異様さ、「冬の終わり」の葛藤を持った主人公とそれ以上の後ろ暗さを抱えたヒロインとその夫、といった狂気を宿した人物となる。

    「俺は捕まるのはいやだ」
    「それでは腹を切るか」
    と、弥四郎は言った。清野はしばらく黙っていたが、やがて
    「腹を切ってもいいぞ。どうせ助かるまい」
    と言った。
    「よし。腹を切れ」
    「その代わり、貴様に介錯を頼む」
     そういうと、清野はにやりと笑った。一瞬の笑いだったが、弥四郎は清野から寄せてくる敵意を感じた。

     さながら死を楽しんでいるがごとき筆致に官能がある。
     フランツ・カフカの影響もあるのではないだろうか?カフカも嗜虐のなかにねじれた官能性を花開かせる。20世紀の巨大な組織と社会の息苦しさを感じている現代人を感情移入させたことに共感しつつも、藤沢周平は「サラリーマンの時代小説」という評言はまことに至言、と抑圧と官能の双方にうなりながら読了した。
     
     節度ある生への態度、死を覚悟した半面の平安な日常への執着といった彼らの反応は、近代日本人が明治以後叩き込まれた武士道的な人生哲学、人に迷惑を掛けない、お互い様、不条理であっても全体のために責任を問われたら潔く切腹、といったような、近代日本人に洗脳された世界観に満ちている。
     藤沢文学が20世紀末期、司馬遼太郎とはまったく別の読者層を獲得し、大成功したのはむべなるかな、と一作だけしか読んでいないのに大口叩いてすみません。
     藤沢周平の読者層は司馬遼太郎とはあまりかぶらず、発刊当時の企業小説、高杉良や清水一行と言った著者たちや、あるいはよりハードボイルドな藤原伊織や高村薫といった著者たちも頭を過るような作風だった。

     堪能した。対決のあと斬られるにせよ、腹を切るにしろ、あるいはめでたく出世するにせよ、簡潔でありながら余韻を残す最期で、エロスとタナトスの官能さえ漂わす。
     これから幾つか著者の作品を読むだろうと思う。だが反面、それは武家社会の全体像から見れば底辺であり、テーマも意図的に社会から離れ、風俗と文化に限定された作品世界であることを念頭においての読書になるだろう。
     
     武家は当時の政治担当者である。
     250年鎖国しているにしても、この登場人物の多くは日本の中でどういう風に生きていくとか、政務が苦手な武家がいるとしても、藩で分割統治されている日本列島で、儒教なり仏教なりの世界観、国内での国際政治というべき諸藩との外交、藩内の財政・農政といった、17-19世紀という条件のなかでも、武家の世界観として理解していてしかるべき実務的知見を持っているようには思えなかった。
     潔いのだけれども視野狭窄。武士道とは結局は社会的圧制への忍耐と、それが耐えられなくなったら死で全てを解決する厭世哲学なのか?と総合的な意味での世界観の狭さを感じざるを得なかった。
     現実の幕末で、政権担当者としての視野や、政策実行者としての冷酷さを持っていた薩摩藩、土佐藩、長州藩、といった全国の諸藩における武家の高層・全体では、この町人と武家の周辺をさまよっている階層をズームアップしている藤沢文学(そうした立場にある作品があるなら、それはそれで読みたいですが)は、武家社会はいくら何でもここまで底辺の下層だけであるわけはないと思うし、当時の政治担当者がこれだけだとしたら余りにも統治能力が低い世界ではないかなあ。
     これでは徳川幕府は250年どころか25年も持たないのではないかしら。この視野はまるでプロレタリア文学みたいな異議申し立ての水準にとどまるし、20世紀の零細サラリーマンをタイムトリップさせた感じではないかしら、その抑圧感情の描写は入神の域だけれども…と限界は感じた。

     でも社会人経験を10年もすれば、これぐらいの疑問は持つものではないかと思う。
     以上、時代小説を今までほぼ読んだことがなく、がためにジャンルの約束を理解できていないために違和感を感じた読者の感想でした。
     アマノジャクでスイマセン…。
    竹光始末(新潮文庫)Amazon書評・レビュー:竹光始末(新潮文庫)より
    B0099FHXP2
    No.18:
    (5pt)

    藤沢作品ならではの哀しみ

    表題作『竹光始末』は、映画「たそがれ清兵衛」の「上意討ち」のシーンに使われたものですが、本作は映画よりも、もっと哀れな話です。仕官の推薦状を持って、家族四人で海坂藩を訪れたものの厄介者扱いされ、やむなく討手を引き受けるという筋書きになっています。
    相手を討ち取り、「武家というものは哀れなものだの」とつぶやく丹十郎は、藤沢周平作品ならではの哀しみを背負う侍の姿です。
    竹光始末(新潮文庫)Amazon書評・レビュー:竹光始末(新潮文庫)より
    B0099FHXP2
    No.17:
    (5pt)

    どれもいとおしい六篇

    ユーモラスで悲しく、そしてどれもいとおしい六篇です。
    あとがきで、なぜ時代ものを書くのかと聞かれて、明確には答えを出せず、自己分析を強いられた結果、次のようなところにたどり着いたと藤沢周平は書いています。
    「むしろ気がついたら時代小説を書いていたという、あいまいな言い方が一番ぴったりするかも知れない。つまり少々キザな言い方になるのを勘弁して頂けば、時代小説を書くということは、私の存在そのものに理由があること」なのだ、と。
    読者は本書を読むうちに、かなしさとやさしさを幾重にも折りたたんだ「藤沢周平の存在」に触れています。それが藤沢周平の時代小説を読むという、代え難い経験なのだと思います。
    竹光始末(新潮文庫)Amazon書評・レビュー:竹光始末(新潮文庫)より
    B0099FHXP2
    No.16:
    (4pt)

    偽りなし!

    虚を突く展開、それに人情、息を呑む剣戟、一途な武士魂など、藤沢周平氏の巧みな創りの中に、時代小説のしみじみとした味わいを、堪能させてくれる小篇集。
    竹光始末(新潮文庫)Amazon書評・レビュー:竹光始末(新潮文庫)より
    B0099FHXP2



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