おろしや国酔夢譚

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評判

おろしや国酔夢譚の評価:

4.60/5点 レビュー 43件。 B ランク

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平均点4.60pt

Amazonレビュー一覧

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※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください

全295件 21〜40 2/15ページ
No.275
(4pt)

感動、様々に!

・「自分はこの国に生きるためには決して見てはならないものを見て来てしまった」、「自分は自分を決して理解しないものにいま囲まれている」、この小説の終末に出る、10年近い異国での明日をも知れぬ過酷な漂流生活から生国日本に帰還を果たした、主人公大黒屋光太夫の行き着いた思いである。
 小説は、光太夫ら17名の遭難から、3人の帰還に至る顛末が、9割以上を占め、アリューシャン列島からペテルブルグまでの広大なユーラシア自然を舞台に、描かれる。望郷の念果たせずに、累々と重なる仲間の死を始め、果てしのない悲惨、その中で漂流民のぎりぎりの生死選択が、井上靖氏の静かに突き放すような筆致で、劇的に展開する。
 取り様は、読む人の数ほどあろう。ロシア史の一端も知れるし、250年前の漂流譚として、また先が皆目読めぬ全くの別世界で、人はどう生き抜いたか、生き得るか、とも読めよう。更に時代は違うが、個人と国家、その冷酷さを見る、或いは光太夫の言動にリーダーシップの在り方を探る、それも可能である。
 しかしながら井上靖氏は、この小説に「酔夢譚」の表題を付した。して生国帰還後の主人公光太夫の生涯を見れば、命懸けの念願を果たしながら、現実を前に抱かされたのが、件の思いである。10年漂流中に生きる糧として記録した異国での詳細は、幕府に秘匿を命じられて、凡そ活かすことが出来ずに四半世紀余り、「半幽囚」の内に、生涯を閉じねばならなかった。
 違いは様々あれど、人生斯くありなん、氏の作意に添えたかはさて置き、そんな気に引き込まれる読書となった。
おろしや国酔夢譚 Amazon書評・レビュー: おろしや国酔夢譚より
4163002901
No.274
(4pt)

感動、様々に!

・「自分はこの国に生きるためには決して見てはならないものを見て来てしまった」、「自分は自分を決して理解しないものにいま囲まれている」、この小説の終末に出る、10年近い異国での明日をも知れぬ過酷な漂流生活から生国日本に帰還を果たした、主人公大黒屋光太夫の行き着いた思いである。
 小説は、光太夫ら17名の遭難から、3人の帰還に至る顛末が、9割以上を占め、アリューシャン列島からペテルブルグまでの広大なユーラシア自然を舞台に、描かれる。望郷の念果たせずに、累々と重なる仲間の死を始め、果てしのない悲惨、その中で漂流民のぎりぎりの生死選択が、井上靖氏の静かに突き放すような筆致で、劇的に展開する。
 取り様は、読む人の数ほどあろう。ロシア史の一端も知れるし、250年前の漂流譚として、また先が皆目読めぬ全くの別世界で、人はどう生き抜いたか、生き得るか、とも読めよう。更に時代は違うが、個人と国家、その冷酷さを見る、或いは光太夫の言動にリーダーシップの在り方を探る、それも可能である。
 しかしながら井上靖氏は、この小説に「酔夢譚」の表題を付した。して生国帰還後の主人公光太夫の生涯を見れば、命懸けの念願を果たしながら、現実を前に抱かされたのが、件の思いである。10年漂流中に生きる糧として記録した異国での詳細は、幕府に秘匿を命じられて、凡そ活かすことが出来ずに四半世紀余り、「半幽囚」の内に、生涯を閉じねばならなかった。
 違いは様々あれど、人生斯くありなん、氏の作意に添えたかはさて置き、そんな気に引き込まれる読書となった。
おろしや国酔夢譚 (1968年) Amazon書評・レビュー: おろしや国酔夢譚 (1968年)より
B000JA4QIS
No.273
(4pt)

江戸時代のロシアとの出会い

江戸の異文化交流を楽しむ。
新装版 おろしや国酔夢譚 (文春文庫) Amazon書評・レビュー: 新装版 おろしや国酔夢譚 (文春文庫)より
4167902087
No.272
(4pt)

江戸時代のロシアとの出会い

江戸の異文化交流を楽しむ。
おろしや国酔夢譚 Amazon書評・レビュー: おろしや国酔夢譚より
416312960X
No.271
(4pt)

江戸時代のロシアとの出会い

江戸の異文化交流を楽しむ。
おろしや国酔夢譚 (徳間文庫) Amazon書評・レビュー: おろしや国酔夢譚 (徳間文庫)より
419599358X
No.270
(4pt)

江戸時代のロシアとの出会い

江戸の異文化交流を楽しむ。
おろしや国酔夢譚 (文春文庫) Amazon書評・レビュー: おろしや国酔夢譚 (文春文庫)より
B009DECMHI
No.269
(4pt)

江戸時代のロシアとの出会い

江戸の異文化交流を楽しむ。
おろしや国酔夢譚 (文春文庫) Amazon書評・レビュー: おろしや国酔夢譚 (文春文庫)より
4167104016
No.268
(4pt)

江戸時代のロシアとの出会い

江戸の異文化交流を楽しむ。
おろしや国酔夢譚 Amazon書評・レビュー: おろしや国酔夢譚より
4163002901
No.267
(4pt)

江戸時代のロシアとの出会い

江戸の異文化交流を楽しむ。
おろしや国酔夢譚 (1968年) Amazon書評・レビュー: おろしや国酔夢譚 (1968年)より
B000JA4QIS
No.266
(5pt)

「大黒屋光太夫」の「ロシア漂流記」を見事に描いている

北搓聞略(大黒屋光太夫ロシア漂流記)の現代語版と言って良い。
 著者は「歴史作家」として名高い。
 「大黒屋光太夫」は天明2年(1781年)12月13日に伊勢の「白子」(現在の「伊勢市」)から「神昌丸」(乗員 16名-船頭「大黒屋光太夫」)木綿、薬種、紙などを乗せて「江戸」に向かったが、嵐に会い遭難し
遠く「ロシア」の「カムチャッカ島」に天明3年(1982年)5月20日に漂着した。「神昌丸」はここで嵐のため破損して使い物にならなくなった。6ヶ月も海に漂っていたことになる。ここで乗員7名が死亡し、残り9名となった。
 ところが「ロシア戦艦」(ニジビモク艦長)も天明6年(1986年)7月に漂着したが、同じように破損して使い物にならなくなった。「神昌丸」が漂着してから3年。孤島での厳しい生活下では乗員が亡くなるはずだ。生き残っているのが奇跡だろう。
 「日本人」と「ロシア人」は何としてでも「ロシア」本土に行きたいと新たな船を共同で建造しようとし成功して「ニジビモク号」と名付けて、天明7年(1987年)7月18日に「ロシア」本土に向かった。乗員はロシア人-16名、日本人-9名)で、船頭は「大黒屋光太夫」で「ニジビモク艦長」は「雑役夫」に成り下がった。これは操船技術の差であろう。船はまず「カムチャッカ半島」の「ウスチャムチャク」に着いた。ここでも「日本人」3名が死亡し残り6名となった。ここから川船で「アルク-ツク」(場所不明)を経由して「ロシア」本土の「イルク-ツ」に翌(1788年〔天明8年〕)に到着した。ここで昔同じく「ロシア」に漂着して「ロシア人」と結婚した「日本人」との混血児に出会った。彼らは「日本語学校」の教師をしていた。当時「ロシア」は「日本」に交易のため遣使したいと考えており「日本語学校」の教師が必要だったのである。それを聞いてか乗務員の「新蔵」、「庄蔵」はここに残り「日本語学校」の教師をしたいと希望するようになった。
 幸いなことにここで「硝子工場」を営む富豪「ラックスマン」と出会い日本への「帰国嘆願書」を作成してもらい、それを役所に提出した。「ラックスマン」は「日本」に興味があり2回目の旅をしたいと考えており彼らに「日本地図」の作成を依頼した。ここでも1名が亡くなり残り5名となった。
 1790年〔天明10年〕1月13日に「ラックスマン」と一緒に首都「サントペレルスブルク」に向かい、途中5月8日に「モスクワ」経由して「サントペレルスブルク」に到着して皇帝「エカテリ-ナ二世(女帝)」(彼女は1762年に即位し、2回にわたる「露土戦争(対トルコ戦争)」で勝利し「トルコ」が支配していた「バルカン半島」の領有権を得た。さらに隣国の「ポ-ランド」を屈服させ、それと共に「リトアニア」も植民地化した<ロシア帝國>の中興の祖である)に5月28日に接見し9月29日に「日本」への帰国許可を得て11月26日に「新蔵」と「庄蔵」を除いて2名で「サントペレルスブルク」から離れて「モスクワ」に向かい12月11日に到着し、さらに「イルク-ツク」に12月23日に到着した。翌1791年〔天明11年〕4月20日に「イルク-ツク」から「オホ-ツク」に着き、9月13日に「エカテリ-ナ号」に乗船して10月9日に「根室港」に到着した。この間「ラックスマン」が同道していた。彼も「日本」への2度目の渡航が叶ったのである。
 「大黒屋光太夫」が天明2年(1781年)12月13日に伊勢の「白子」から出向してから約9年6月が経過していた。
 翌寛政5年(1793年)5月26日に「箱館」に着いた。「大黒屋光太夫」と「磯吉」はこの地に留まり故郷には帰らなかった。その理由は定かではない。「大黒屋光太夫」は文政11年(1828年)4月15日に78歳で、「磯吉」は天保9年(1839年)に75歳で、それぞれ亡くなっている。当時にしては長生きであった。
 本書は「大黒屋光太夫」の「ロシア」滞在記を明らかにしており、当時の「ロシア」を知るうえで貴重なものとなっている。是非とも購入して読まれることをお勧めしたい。
新装版 おろしや国酔夢譚 (文春文庫) Amazon書評・レビュー: 新装版 おろしや国酔夢譚 (文春文庫)より
4167902087
No.265
(5pt)

「大黒屋光太夫」の「ロシア漂流記」を見事に描いている

北搓聞略(大黒屋光太夫ロシア漂流記)の現代語版と言って良い。
 著者は「歴史作家」として名高い。
 「大黒屋光太夫」は天明2年(1781年)12月13日に伊勢の「白子」(現在の「伊勢市」)から「神昌丸」(乗員 16名-船頭「大黒屋光太夫」)木綿、薬種、紙などを乗せて「江戸」に向かったが、嵐に会い遭難し
遠く「ロシア」の「カムチャッカ島」に天明3年(1982年)5月20日に漂着した。「神昌丸」はここで嵐のため破損して使い物にならなくなった。6ヶ月も海に漂っていたことになる。ここで乗員7名が死亡し、残り9名となった。
 ところが「ロシア戦艦」(ニジビモク艦長)も天明6年(1986年)7月に漂着したが、同じように破損して使い物にならなくなった。「神昌丸」が漂着してから3年。孤島での厳しい生活下では乗員が亡くなるはずだ。生き残っているのが奇跡だろう。
 「日本人」と「ロシア人」は何としてでも「ロシア」本土に行きたいと新たな船を共同で建造しようとし成功して「ニジビモク号」と名付けて、天明7年(1987年)7月18日に「ロシア」本土に向かった。乗員はロシア人-16名、日本人-9名)で、船頭は「大黒屋光太夫」で「ニジビモク艦長」は「雑役夫」に成り下がった。これは操船技術の差であろう。船はまず「カムチャッカ半島」の「ウスチャムチャク」に着いた。ここでも「日本人」3名が死亡し残り6名となった。ここから川船で「アルク-ツク」(場所不明)を経由して「ロシア」本土の「イルク-ツ」に翌(1788年〔天明8年〕)に到着した。ここで昔同じく「ロシア」に漂着して「ロシア人」と結婚した「日本人」との混血児に出会った。彼らは「日本語学校」の教師をしていた。当時「ロシア」は「日本」に交易のため遣使したいと考えており「日本語学校」の教師が必要だったのである。それを聞いてか乗務員の「新蔵」、「庄蔵」はここに残り「日本語学校」の教師をしたいと希望するようになった。
 幸いなことにここで「硝子工場」を営む富豪「ラックスマン」と出会い日本への「帰国嘆願書」を作成してもらい、それを役所に提出した。「ラックスマン」は「日本」に興味があり2回目の旅をしたいと考えており彼らに「日本地図」の作成を依頼した。ここでも1名が亡くなり残り5名となった。
 1790年〔天明10年〕1月13日に「ラックスマン」と一緒に首都「サントペレルスブルク」に向かい、途中5月8日に「モスクワ」経由して「サントペレルスブルク」に到着して皇帝「エカテリ-ナ二世(女帝)」(彼女は1762年に即位し、2回にわたる「露土戦争(対トルコ戦争)」で勝利し「トルコ」が支配していた「バルカン半島」の領有権を得た。さらに隣国の「ポ-ランド」を屈服させ、それと共に「リトアニア」も植民地化した<ロシア帝國>の中興の祖である)に5月28日に接見し9月29日に「日本」への帰国許可を得て11月26日に「新蔵」と「庄蔵」を除いて2名で「サントペレルスブルク」から離れて「モスクワ」に向かい12月11日に到着し、さらに「イルク-ツク」に12月23日に到着した。翌1791年〔天明11年〕4月20日に「イルク-ツク」から「オホ-ツク」に着き、9月13日に「エカテリ-ナ号」に乗船して10月9日に「根室港」に到着した。この間「ラックスマン」が同道していた。彼も「日本」への2度目の渡航が叶ったのである。
 「大黒屋光太夫」が天明2年(1781年)12月13日に伊勢の「白子」から出向してから約9年6月が経過していた。
 翌寛政5年(1793年)5月26日に「箱館」に着いた。「大黒屋光太夫」と「磯吉」はこの地に留まり故郷には帰らなかった。その理由は定かではない。「大黒屋光太夫」は文政11年(1828年)4月15日に78歳で、「磯吉」は天保9年(1839年)に75歳で、それぞれ亡くなっている。当時にしては長生きであった。
 本書は「大黒屋光太夫」の「ロシア」滞在記を明らかにしており、当時の「ロシア」を知るうえで貴重なものとなっている。是非とも購入して読まれることをお勧めしたい。
おろしや国酔夢譚 Amazon書評・レビュー: おろしや国酔夢譚より
416312960X
No.264
(5pt)

「大黒屋光太夫」の「ロシア漂流記」を見事に描いている

北搓聞略(大黒屋光太夫ロシア漂流記)の現代語版と言って良い。
 著者は「歴史作家」として名高い。
 「大黒屋光太夫」は天明2年(1781年)12月13日に伊勢の「白子」(現在の「伊勢市」)から「神昌丸」(乗員 16名-船頭「大黒屋光太夫」)木綿、薬種、紙などを乗せて「江戸」に向かったが、嵐に会い遭難し
遠く「ロシア」の「カムチャッカ島」に天明3年(1982年)5月20日に漂着した。「神昌丸」はここで嵐のため破損して使い物にならなくなった。6ヶ月も海に漂っていたことになる。ここで乗員7名が死亡し、残り9名となった。
 ところが「ロシア戦艦」(ニジビモク艦長)も天明6年(1986年)7月に漂着したが、同じように破損して使い物にならなくなった。「神昌丸」が漂着してから3年。孤島での厳しい生活下では乗員が亡くなるはずだ。生き残っているのが奇跡だろう。
 「日本人」と「ロシア人」は何としてでも「ロシア」本土に行きたいと新たな船を共同で建造しようとし成功して「ニジビモク号」と名付けて、天明7年(1987年)7月18日に「ロシア」本土に向かった。乗員はロシア人-16名、日本人-9名)で、船頭は「大黒屋光太夫」で「ニジビモク艦長」は「雑役夫」に成り下がった。これは操船技術の差であろう。船はまず「カムチャッカ半島」の「ウスチャムチャク」に着いた。ここでも「日本人」3名が死亡し残り6名となった。ここから川船で「アルク-ツク」(場所不明)を経由して「ロシア」本土の「イルク-ツ」に翌(1788年〔天明8年〕)に到着した。ここで昔同じく「ロシア」に漂着して「ロシア人」と結婚した「日本人」との混血児に出会った。彼らは「日本語学校」の教師をしていた。当時「ロシア」は「日本」に交易のため遣使したいと考えており「日本語学校」の教師が必要だったのである。それを聞いてか乗務員の「新蔵」、「庄蔵」はここに残り「日本語学校」の教師をしたいと希望するようになった。
 幸いなことにここで「硝子工場」を営む富豪「ラックスマン」と出会い日本への「帰国嘆願書」を作成してもらい、それを役所に提出した。「ラックスマン」は「日本」に興味があり2回目の旅をしたいと考えており彼らに「日本地図」の作成を依頼した。ここでも1名が亡くなり残り5名となった。
 1790年〔天明10年〕1月13日に「ラックスマン」と一緒に首都「サントペレルスブルク」に向かい、途中5月8日に「モスクワ」経由して「サントペレルスブルク」に到着して皇帝「エカテリ-ナ二世(女帝)」(彼女は1762年に即位し、2回にわたる「露土戦争(対トルコ戦争)」で勝利し「トルコ」が支配していた「バルカン半島」の領有権を得た。さらに隣国の「ポ-ランド」を屈服させ、それと共に「リトアニア」も植民地化した<ロシア帝國>の中興の祖である)に5月28日に接見し9月29日に「日本」への帰国許可を得て11月26日に「新蔵」と「庄蔵」を除いて2名で「サントペレルスブルク」から離れて「モスクワ」に向かい12月11日に到着し、さらに「イルク-ツク」に12月23日に到着した。翌1791年〔天明11年〕4月20日に「イルク-ツク」から「オホ-ツク」に着き、9月13日に「エカテリ-ナ号」に乗船して10月9日に「根室港」に到着した。この間「ラックスマン」が同道していた。彼も「日本」への2度目の渡航が叶ったのである。
 「大黒屋光太夫」が天明2年(1781年)12月13日に伊勢の「白子」から出向してから約9年6月が経過していた。
 翌寛政5年(1793年)5月26日に「箱館」に着いた。「大黒屋光太夫」と「磯吉」はこの地に留まり故郷には帰らなかった。その理由は定かではない。「大黒屋光太夫」は文政11年(1828年)4月15日に78歳で、「磯吉」は天保9年(1839年)に75歳で、それぞれ亡くなっている。当時にしては長生きであった。
 本書は「大黒屋光太夫」の「ロシア」滞在記を明らかにしており、当時の「ロシア」を知るうえで貴重なものとなっている。是非とも購入して読まれることをお勧めしたい。
おろしや国酔夢譚 (徳間文庫) Amazon書評・レビュー: おろしや国酔夢譚 (徳間文庫)より
419599358X
No.263
(5pt)

「大黒屋光太夫」の「ロシア漂流記」を見事に描いている

北搓聞略(大黒屋光太夫ロシア漂流記)の現代語版と言って良い。
 著者は「歴史作家」として名高い。
 「大黒屋光太夫」は天明2年(1781年)12月13日に伊勢の「白子」(現在の「伊勢市」)から「神昌丸」(乗員 16名-船頭「大黒屋光太夫」)木綿、薬種、紙などを乗せて「江戸」に向かったが、嵐に会い遭難し
遠く「ロシア」の「カムチャッカ島」に天明3年(1982年)5月20日に漂着した。「神昌丸」はここで嵐のため破損して使い物にならなくなった。6ヶ月も海に漂っていたことになる。ここで乗員7名が死亡し、残り9名となった。
 ところが「ロシア戦艦」(ニジビモク艦長)も天明6年(1986年)7月に漂着したが、同じように破損して使い物にならなくなった。「神昌丸」が漂着してから3年。孤島での厳しい生活下では乗員が亡くなるはずだ。生き残っているのが奇跡だろう。
 「日本人」と「ロシア人」は何としてでも「ロシア」本土に行きたいと新たな船を共同で建造しようとし成功して「ニジビモク号」と名付けて、天明7年(1987年)7月18日に「ロシア」本土に向かった。乗員はロシア人-16名、日本人-9名)で、船頭は「大黒屋光太夫」で「ニジビモク艦長」は「雑役夫」に成り下がった。これは操船技術の差であろう。船はまず「カムチャッカ半島」の「ウスチャムチャク」に着いた。ここでも「日本人」3名が死亡し残り6名となった。ここから川船で「アルク-ツク」(場所不明)を経由して「ロシア」本土の「イルク-ツ」に翌(1788年〔天明8年〕)に到着した。ここで昔同じく「ロシア」に漂着して「ロシア人」と結婚した「日本人」との混血児に出会った。彼らは「日本語学校」の教師をしていた。当時「ロシア」は「日本」に交易のため遣使したいと考えており「日本語学校」の教師が必要だったのである。それを聞いてか乗務員の「新蔵」、「庄蔵」はここに残り「日本語学校」の教師をしたいと希望するようになった。
 幸いなことにここで「硝子工場」を営む富豪「ラックスマン」と出会い日本への「帰国嘆願書」を作成してもらい、それを役所に提出した。「ラックスマン」は「日本」に興味があり2回目の旅をしたいと考えており彼らに「日本地図」の作成を依頼した。ここでも1名が亡くなり残り5名となった。
 1790年〔天明10年〕1月13日に「ラックスマン」と一緒に首都「サントペレルスブルク」に向かい、途中5月8日に「モスクワ」経由して「サントペレルスブルク」に到着して皇帝「エカテリ-ナ二世(女帝)」(彼女は1762年に即位し、2回にわたる「露土戦争(対トルコ戦争)」で勝利し「トルコ」が支配していた「バルカン半島」の領有権を得た。さらに隣国の「ポ-ランド」を屈服させ、それと共に「リトアニア」も植民地化した<ロシア帝國>の中興の祖である)に5月28日に接見し9月29日に「日本」への帰国許可を得て11月26日に「新蔵」と「庄蔵」を除いて2名で「サントペレルスブルク」から離れて「モスクワ」に向かい12月11日に到着し、さらに「イルク-ツク」に12月23日に到着した。翌1791年〔天明11年〕4月20日に「イルク-ツク」から「オホ-ツク」に着き、9月13日に「エカテリ-ナ号」に乗船して10月9日に「根室港」に到着した。この間「ラックスマン」が同道していた。彼も「日本」への2度目の渡航が叶ったのである。
 「大黒屋光太夫」が天明2年(1781年)12月13日に伊勢の「白子」から出向してから約9年6月が経過していた。
 翌寛政5年(1793年)5月26日に「箱館」に着いた。「大黒屋光太夫」と「磯吉」はこの地に留まり故郷には帰らなかった。その理由は定かではない。「大黒屋光太夫」は文政11年(1828年)4月15日に78歳で、「磯吉」は天保9年(1839年)に75歳で、それぞれ亡くなっている。当時にしては長生きであった。
 本書は「大黒屋光太夫」の「ロシア」滞在記を明らかにしており、当時の「ロシア」を知るうえで貴重なものとなっている。是非とも購入して読まれることをお勧めしたい。
おろしや国酔夢譚 (文春文庫) Amazon書評・レビュー: おろしや国酔夢譚 (文春文庫)より
B009DECMHI
No.262
(5pt)

「大黒屋光太夫」の「ロシア漂流記」を見事に描いている

北搓聞略(大黒屋光太夫ロシア漂流記)の現代語版と言って良い。
 著者は「歴史作家」として名高い。
 「大黒屋光太夫」は天明2年(1781年)12月13日に伊勢の「白子」(現在の「伊勢市」)から「神昌丸」(乗員 16名-船頭「大黒屋光太夫」)木綿、薬種、紙などを乗せて「江戸」に向かったが、嵐に会い遭難し
遠く「ロシア」の「カムチャッカ島」に天明3年(1982年)5月20日に漂着した。「神昌丸」はここで嵐のため破損して使い物にならなくなった。6ヶ月も海に漂っていたことになる。ここで乗員7名が死亡し、残り9名となった。
 ところが「ロシア戦艦」(ニジビモク艦長)も天明6年(1986年)7月に漂着したが、同じように破損して使い物にならなくなった。「神昌丸」が漂着してから3年。孤島での厳しい生活下では乗員が亡くなるはずだ。生き残っているのが奇跡だろう。
 「日本人」と「ロシア人」は何としてでも「ロシア」本土に行きたいと新たな船を共同で建造しようとし成功して「ニジビモク号」と名付けて、天明7年(1987年)7月18日に「ロシア」本土に向かった。乗員はロシア人-16名、日本人-9名)で、船頭は「大黒屋光太夫」で「ニジビモク艦長」は「雑役夫」に成り下がった。これは操船技術の差であろう。船はまず「カムチャッカ半島」の「ウスチャムチャク」に着いた。ここでも「日本人」3名が死亡し残り6名となった。ここから川船で「アルク-ツク」(場所不明)を経由して「ロシア」本土の「イルク-ツ」に翌(1788年〔天明8年〕)に到着した。ここで昔同じく「ロシア」に漂着して「ロシア人」と結婚した「日本人」との混血児に出会った。彼らは「日本語学校」の教師をしていた。当時「ロシア」は「日本」に交易のため遣使したいと考えており「日本語学校」の教師が必要だったのである。それを聞いてか乗務員の「新蔵」、「庄蔵」はここに残り「日本語学校」の教師をしたいと希望するようになった。
 幸いなことにここで「硝子工場」を営む富豪「ラックスマン」と出会い日本への「帰国嘆願書」を作成してもらい、それを役所に提出した。「ラックスマン」は「日本」に興味があり2回目の旅をしたいと考えており彼らに「日本地図」の作成を依頼した。ここでも1名が亡くなり残り5名となった。
 1790年〔天明10年〕1月13日に「ラックスマン」と一緒に首都「サントペレルスブルク」に向かい、途中5月8日に「モスクワ」経由して「サントペレルスブルク」に到着して皇帝「エカテリ-ナ二世(女帝)」(彼女は1762年に即位し、2回にわたる「露土戦争(対トルコ戦争)」で勝利し「トルコ」が支配していた「バルカン半島」の領有権を得た。さらに隣国の「ポ-ランド」を屈服させ、それと共に「リトアニア」も植民地化した<ロシア帝國>の中興の祖である)に5月28日に接見し9月29日に「日本」への帰国許可を得て11月26日に「新蔵」と「庄蔵」を除いて2名で「サントペレルスブルク」から離れて「モスクワ」に向かい12月11日に到着し、さらに「イルク-ツク」に12月23日に到着した。翌1791年〔天明11年〕4月20日に「イルク-ツク」から「オホ-ツク」に着き、9月13日に「エカテリ-ナ号」に乗船して10月9日に「根室港」に到着した。この間「ラックスマン」が同道していた。彼も「日本」への2度目の渡航が叶ったのである。
 「大黒屋光太夫」が天明2年(1781年)12月13日に伊勢の「白子」から出向してから約9年6月が経過していた。
 翌寛政5年(1793年)5月26日に「箱館」に着いた。「大黒屋光太夫」と「磯吉」はこの地に留まり故郷には帰らなかった。その理由は定かではない。「大黒屋光太夫」は文政11年(1828年)4月15日に78歳で、「磯吉」は天保9年(1839年)に75歳で、それぞれ亡くなっている。当時にしては長生きであった。
 本書は「大黒屋光太夫」の「ロシア」滞在記を明らかにしており、当時の「ロシア」を知るうえで貴重なものとなっている。是非とも購入して読まれることをお勧めしたい。
おろしや国酔夢譚 (文春文庫) Amazon書評・レビュー: おろしや国酔夢譚 (文春文庫)より
4167104016
No.261
(5pt)

「大黒屋光太夫」の「ロシア漂流記」を見事に描いている

北搓聞略(大黒屋光太夫ロシア漂流記)の現代語版と言って良い。
 著者は「歴史作家」として名高い。
 「大黒屋光太夫」は天明2年(1781年)12月13日に伊勢の「白子」(現在の「伊勢市」)から「神昌丸」(乗員 16名-船頭「大黒屋光太夫」)木綿、薬種、紙などを乗せて「江戸」に向かったが、嵐に会い遭難し
遠く「ロシア」の「カムチャッカ島」に天明3年(1982年)5月20日に漂着した。「神昌丸」はここで嵐のため破損して使い物にならなくなった。6ヶ月も海に漂っていたことになる。ここで乗員7名が死亡し、残り9名となった。
 ところが「ロシア戦艦」(ニジビモク艦長)も天明6年(1986年)7月に漂着したが、同じように破損して使い物にならなくなった。「神昌丸」が漂着してから3年。孤島での厳しい生活下では乗員が亡くなるはずだ。生き残っているのが奇跡だろう。
 「日本人」と「ロシア人」は何としてでも「ロシア」本土に行きたいと新たな船を共同で建造しようとし成功して「ニジビモク号」と名付けて、天明7年(1987年)7月18日に「ロシア」本土に向かった。乗員はロシア人-16名、日本人-9名)で、船頭は「大黒屋光太夫」で「ニジビモク艦長」は「雑役夫」に成り下がった。これは操船技術の差であろう。船はまず「カムチャッカ半島」の「ウスチャムチャク」に着いた。ここでも「日本人」3名が死亡し残り6名となった。ここから川船で「アルク-ツク」(場所不明)を経由して「ロシア」本土の「イルク-ツ」に翌(1788年〔天明8年〕)に到着した。ここで昔同じく「ロシア」に漂着して「ロシア人」と結婚した「日本人」との混血児に出会った。彼らは「日本語学校」の教師をしていた。当時「ロシア」は「日本」に交易のため遣使したいと考えており「日本語学校」の教師が必要だったのである。それを聞いてか乗務員の「新蔵」、「庄蔵」はここに残り「日本語学校」の教師をしたいと希望するようになった。
 幸いなことにここで「硝子工場」を営む富豪「ラックスマン」と出会い日本への「帰国嘆願書」を作成してもらい、それを役所に提出した。「ラックスマン」は「日本」に興味があり2回目の旅をしたいと考えており彼らに「日本地図」の作成を依頼した。ここでも1名が亡くなり残り5名となった。
 1790年〔天明10年〕1月13日に「ラックスマン」と一緒に首都「サントペレルスブルク」に向かい、途中5月8日に「モスクワ」経由して「サントペレルスブルク」に到着して皇帝「エカテリ-ナ二世(女帝)」(彼女は1762年に即位し、2回にわたる「露土戦争(対トルコ戦争)」で勝利し「トルコ」が支配していた「バルカン半島」の領有権を得た。さらに隣国の「ポ-ランド」を屈服させ、それと共に「リトアニア」も植民地化した<ロシア帝國>の中興の祖である)に5月28日に接見し9月29日に「日本」への帰国許可を得て11月26日に「新蔵」と「庄蔵」を除いて2名で「サントペレルスブルク」から離れて「モスクワ」に向かい12月11日に到着し、さらに「イルク-ツク」に12月23日に到着した。翌1791年〔天明11年〕4月20日に「イルク-ツク」から「オホ-ツク」に着き、9月13日に「エカテリ-ナ号」に乗船して10月9日に「根室港」に到着した。この間「ラックスマン」が同道していた。彼も「日本」への2度目の渡航が叶ったのである。
 「大黒屋光太夫」が天明2年(1781年)12月13日に伊勢の「白子」から出向してから約9年6月が経過していた。
 翌寛政5年(1793年)5月26日に「箱館」に着いた。「大黒屋光太夫」と「磯吉」はこの地に留まり故郷には帰らなかった。その理由は定かではない。「大黒屋光太夫」は文政11年(1828年)4月15日に78歳で、「磯吉」は天保9年(1839年)に75歳で、それぞれ亡くなっている。当時にしては長生きであった。
 本書は「大黒屋光太夫」の「ロシア」滞在記を明らかにしており、当時の「ロシア」を知るうえで貴重なものとなっている。是非とも購入して読まれることをお勧めしたい。
おろしや国酔夢譚 Amazon書評・レビュー: おろしや国酔夢譚より
4163002901
No.260
(5pt)

「大黒屋光太夫」の「ロシア漂流記」を見事に描いている

北搓聞略(大黒屋光太夫ロシア漂流記)の現代語版と言って良い。
 著者は「歴史作家」として名高い。
 「大黒屋光太夫」は天明2年(1781年)12月13日に伊勢の「白子」(現在の「伊勢市」)から「神昌丸」(乗員 16名-船頭「大黒屋光太夫」)木綿、薬種、紙などを乗せて「江戸」に向かったが、嵐に会い遭難し
遠く「ロシア」の「カムチャッカ島」に天明3年(1982年)5月20日に漂着した。「神昌丸」はここで嵐のため破損して使い物にならなくなった。6ヶ月も海に漂っていたことになる。ここで乗員7名が死亡し、残り9名となった。
 ところが「ロシア戦艦」(ニジビモク艦長)も天明6年(1986年)7月に漂着したが、同じように破損して使い物にならなくなった。「神昌丸」が漂着してから3年。孤島での厳しい生活下では乗員が亡くなるはずだ。生き残っているのが奇跡だろう。
 「日本人」と「ロシア人」は何としてでも「ロシア」本土に行きたいと新たな船を共同で建造しようとし成功して「ニジビモク号」と名付けて、天明7年(1987年)7月18日に「ロシア」本土に向かった。乗員はロシア人-16名、日本人-9名)で、船頭は「大黒屋光太夫」で「ニジビモク艦長」は「雑役夫」に成り下がった。これは操船技術の差であろう。船はまず「カムチャッカ半島」の「ウスチャムチャク」に着いた。ここでも「日本人」3名が死亡し残り6名となった。ここから川船で「アルク-ツク」(場所不明)を経由して「ロシア」本土の「イルク-ツ」に翌(1788年〔天明8年〕)に到着した。ここで昔同じく「ロシア」に漂着して「ロシア人」と結婚した「日本人」との混血児に出会った。彼らは「日本語学校」の教師をしていた。当時「ロシア」は「日本」に交易のため遣使したいと考えており「日本語学校」の教師が必要だったのである。それを聞いてか乗務員の「新蔵」、「庄蔵」はここに残り「日本語学校」の教師をしたいと希望するようになった。
 幸いなことにここで「硝子工場」を営む富豪「ラックスマン」と出会い日本への「帰国嘆願書」を作成してもらい、それを役所に提出した。「ラックスマン」は「日本」に興味があり2回目の旅をしたいと考えており彼らに「日本地図」の作成を依頼した。ここでも1名が亡くなり残り5名となった。
 1790年〔天明10年〕1月13日に「ラックスマン」と一緒に首都「サントペレルスブルク」に向かい、途中5月8日に「モスクワ」経由して「サントペレルスブルク」に到着して皇帝「エカテリ-ナ二世(女帝)」(彼女は1762年に即位し、2回にわたる「露土戦争(対トルコ戦争)」で勝利し「トルコ」が支配していた「バルカン半島」の領有権を得た。さらに隣国の「ポ-ランド」を屈服させ、それと共に「リトアニア」も植民地化した<ロシア帝國>の中興の祖である)に5月28日に接見し9月29日に「日本」への帰国許可を得て11月26日に「新蔵」と「庄蔵」を除いて2名で「サントペレルスブルク」から離れて「モスクワ」に向かい12月11日に到着し、さらに「イルク-ツク」に12月23日に到着した。翌1791年〔天明11年〕4月20日に「イルク-ツク」から「オホ-ツク」に着き、9月13日に「エカテリ-ナ号」に乗船して10月9日に「根室港」に到着した。この間「ラックスマン」が同道していた。彼も「日本」への2度目の渡航が叶ったのである。
 「大黒屋光太夫」が天明2年(1781年)12月13日に伊勢の「白子」から出向してから約9年6月が経過していた。
 翌寛政5年(1793年)5月26日に「箱館」に着いた。「大黒屋光太夫」と「磯吉」はこの地に留まり故郷には帰らなかった。その理由は定かではない。「大黒屋光太夫」は文政11年(1828年)4月15日に78歳で、「磯吉」は天保9年(1839年)に75歳で、それぞれ亡くなっている。当時にしては長生きであった。
 本書は「大黒屋光太夫」の「ロシア」滞在記を明らかにしており、当時の「ロシア」を知るうえで貴重なものとなっている。是非とも購入して読まれることをお勧めしたい。
おろしや国酔夢譚 (1968年) Amazon書評・レビュー: おろしや国酔夢譚 (1968年)より
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No.259
(5pt)

ロシアも帰国に協力してくれたことは嬉しい話!‼️

当時の啓蒙専制君主時代のロシアにどのような意図があったかはともかく、漂流者の帰国に尽力してくれたこと自体は、良い話だと思う。何事にも当てはまることだと思うが、何と言っても、故国に帰りたいという思い、執念が肝要だと思う。
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No.258
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ロシアも帰国に協力してくれたことは嬉しい話!‼️

当時の啓蒙専制君主時代のロシアにどのような意図があったかはともかく、漂流者の帰国に尽力してくれたこと自体は、良い話だと思う。何事にも当てはまることだと思うが、何と言っても、故国に帰りたいという思い、執念が肝要だと思う。
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No.257
(5pt)

ロシアも帰国に協力してくれたことは嬉しい話!‼️

当時の啓蒙専制君主時代のロシアにどのような意図があったかはともかく、漂流者の帰国に尽力してくれたこと自体は、良い話だと思う。何事にも当てはまることだと思うが、何と言っても、故国に帰りたいという思い、執念が肝要だと思う。
おろしや国酔夢譚 (徳間文庫) Amazon書評・レビュー: おろしや国酔夢譚 (徳間文庫)より
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No.256
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ロシアも帰国に協力してくれたことは嬉しい話!‼️

当時の啓蒙専制君主時代のロシアにどのような意図があったかはともかく、漂流者の帰国に尽力してくれたこと自体は、良い話だと思う。何事にも当てはまることだと思うが、何と言っても、故国に帰りたいという思い、執念が肝要だと思う。
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