007/007は二度死ぬ
- 007 (16)
※タグの編集はログイン後行えます
※以下のグループに登録されています。
【この小説が収録されている参考書籍】 |
■報告関係 ※気になる点がありましたらお知らせください。 |
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点0.00pt |
007/007は二度死ぬの総合評価:
■スポンサードリンク
サイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
新規レビューを書く⇒みなさんの感想をお待ちしております!!
現在レビューがありません
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
Qの秘密兵器(リトルネリー)や スペクターのロケット基地が出て来る 映画版よりは流石に地味だが、ボンドが 日本人に化けたり忍者の格好をしたりと、 映画版と同じキッチュさが味わえる。 その点では、昔のボンド映画同様、 気楽に楽しめた。 と同時に、映画版最新作にして 最大の問題作とも言うべき 「ノー・タイム・トゥ・ダイ」の要素も 実は入っていたりする。 日本趣味丸出しの宿敵ブロフェルドの アジトの様子や、ボンドガール (古臭い呼び方だが、敢えてそう呼ぶ)の お腹にボンドの……。 その意味で本作は「女王陛下の007」原作版と共に、 「ノー・タイム・トゥ・ダイ」の原作とも言える。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
イアン・ランカスター・フレミングは日本人に偏見を持っていた。「ジェイムズ・ボンド」シリーズの第1作『カジノ・ロワイヤル』では、そもそもボンドが00の称号を得たのが、戦前ニュー・ヨークの日本領事館で英国の暗号を解読していた日本人を狙撃した功績からだったと語られる。また、第7作『ゴールドフィンガー』では、金塊保管所フォート・ノックスのあるケンタッキー州ルイヴィルの浄水場に「オーリック・ゴールドフィンガー」の手下の日本人(に化けた朝鮮人かもしれないが)が猛毒サリンを投入して住民を皆殺しにしようとする。 だが、こうした偏見は2度の来日で払拭された。初来日は『ザ・サンデー・タイムズ』紙に連載する紀行文Thrilling Citiesの取材で1959年11月11日(水)から13日(金)にかけて滞在。1日目に『ザ・サンデー・タイムズ』極東特派員リチャード・「ディッコ」・ジョセフ・ヒューズとともに羽田空港に到着して、建築家で朝日新聞社の英文年鑑『ジス・イズ・ジャパン』の編集長でもあった斎藤寅郎(外国人の友人からは「タイガー斎藤」と呼ばれた)らに迎えられる。銀座のレストランで刺身と日本酒を堪能して、赤坂の割烹旅館の福田屋旅館に宿泊。2日目に帝国ホテルで友人の作家ウィリアム・サマセット・モームとその秘書アラン・サールと合流して、講道館で柔道の稽古を見学。ちなみにモームとヒューズは秘密情報機関(SIS)協力者であったという説がある。フレミングはうずらの肉をうずらの生卵にひたして食べる料理を賞味。二日酔いが抜けなかったので、銀座の東京温泉のトルコ風呂(特殊浴場ではなくてサウナ風呂とマッサージの健全な施設)に汗をかきにいく。そこでフレミングを揉んでくれた「キッシー」という源氏名のブリジット・バルドー似の美人マッサージ嬢(21歳)は、白いショーツとブラジャーしかつけていなかった。銀ブラを楽しんだフレミングは、隅田川のほとりの料亭で芸者を揚げて、有名な易者の石竜子に運勢を占ってもらう。東海道線を急行列車で湯河原に向かい、料亭旅館の山翠楼に宿泊したが、雲が垂れこめていて富士山は見えなかった。3日目は箱根の富士屋ホテルで昼食をとり、大和(箱根湯本の勘違いか?)から小田急線で新宿に戻ったが、フレミングは特急ロマンスカーがいたく気に入ったようだ。 第11作『女王陛下の007』を書き上げたフレミングは、次作の舞台を日本にしようと決めた。ジェイムズ・ファルコナー・カーカップやフォスコ・マライーニの著書で日本について研究。東京から福岡を舞台にする、ハリウッド映画に出演したが故郷に戻って海女をしている娘をヒロインにする、古城に住む気の狂った外国人とボンドが対決する――というような着想を得た。ヒロインに海女を選んだ理由は分からないが、1953年にマライーニが海女の記録映画を撮っているのでおそらくその影響だろう。山場を九州にした理由も定かでないが、クライマックスに火山を登場させたい、それならば火の国九州だろうという発想だったのではないか。なぜ福岡なのかも不明だが(ヒューズは長崎の方がよかったのではないかと書いている)、筑紫が海女発祥の地とされているからかもしれない。あるいは、黒龍会の母体である玄洋社が福岡に本拠を置いたからかもしれない。ともあれフレミングはヒューズと斎藤に再度取材協力を依頼した。 1962年11月15日(木)から28日(水)にかけて再来日。羽田空港から新宿へ、お気に入りの小田急江ノ島線に乗り換えて神奈川県藤沢へ、さらに東海道線の急行列車に乗り換えて愛知県蒲郡に向かい、蒲郡ホテル(今の蒲郡クラシック・ホテル)に宿泊。愛知観光船の水中翼船(今は廃止されている)で伊勢湾を渡って三重県鳥羽に上陸し、伊賀上野で忍術博物館を見学。御木本真珠島で海女の肌に手を触れて相手を驚かせる。鳥羽のレストランで伊勢海老の活け造りに仰天。ハイヤーで伊勢神宮を参拝。松阪の和田金牧場で和牛にビールを呑ませ、焼酎を吹きかけてマッサージしてから、ステーキに舌鼓を打つ。京都では都ホテルに泊まり、二條陣屋と島原遊郭を訪ねて、嵐山あたりで鵜飼いを取材したらしい。神戸から関西汽船のくれない丸で瀬戸内海を横断。ヒューズと斎藤に、俳句を作ってみろ、それを新たに発掘された芭蕉の作品だといって発表したら日本の知識人は簡単に騙されるだろうとそそのかされる。フレミングは芭蕉を騙るのは断るが、一句ひねり出す――You only live twice:Once when you are born,And once when you look death in the face.斎藤が設計したモダンな建物を船上から見つけ、それらに適当な名前をつけて遊ぶ。大分の別府温泉で間欠泉を見学。熊本でロープウェー(こちらも今は廃止されている)で阿蘇山に登って火口を眺め、温泉に浸かる。福岡でてっさを賞味し、福岡県警察本部で警部にインタヴューしてインターポール捜査官と勘違いされる。佐賀県唐津にまで足を延ばすが、おそらくここで海女を取材したのだろう。寝台特急で帰京してホテル・オークラ841号室に宿泊。東京では科学捜査研究所を訪問して資料を見せてもらった。暴力団組長にインタヴューしたが、この組長はのちに抗争で殺害されたという。26日(月)に朝日新聞社本社4階の英文季刊誌『ジャパン・クォータリー』編集部(斎藤はこちらの編集長になっていた)を表敬訪問。27日(火)にホテル・オークラで朝日新聞社外報部の笹川正博と会見。同晩は秘密警察(公安調査庁?)幹部とすっぽん料理をためす。28日(水)に東京會舘のレストラン・プルニエで広島産の牡蠣を堪能。フレミング家はクリスマスを北アイルランドのベルファストで過ごすのを習わしにしていたが、北アイルランドは寒くてかなわない、横浜か神戸で客船に乗り、船室で執筆しながら太平洋を横断し、パナマ運河を通って別荘のあるジャマイカに行きたいものだとヒューズと斎藤に語った。ヒューズは後で知るのだが、フレミングは次作の舞台をパナマにしたいという構想もあったようだ。だが、結局羽田空港から帰国した。 1963年1月から2月にかけてジャマイカの別荘「ゴールデンアイ」で第12作『007は二度死ぬ』を執筆。のちにヒューズに葉書でこの執筆には悪戦苦闘したと告白している。本作の献辞はヒューズと斎藤に捧げられた。1962年10月5日に映画『ドクター・ノオ』が公開されて大ヒットしており、本作もその影響を受けた。『カジノ・ロワイヤル』などと比べると本作のボンドはかなり饒舌になっている。 『女王陛下の007』で国際犯罪組織スペクターの首領「エルンスト・スタヴロ・ブロフェルド」とその部下「イルマ・ブント」に新妻「テレサ・『トレイシー』・ボンド」を殺害されたジェイムズ・ボンドは、酒浸りになって2度の任務に失敗。SIS長官「M」はボンドの解雇すら考える。だが、SISの嘱託精神科医「ジェイムズ・モロニ―卿」が、重要だが危険のない任務をまかせて、ボンドに再起の機会を与えてはどうかと勧める。Mはボンドを00課から外交官課に異動させてコード・ナンバーを7777とする。そして、SISが澳門に持つ情報網「ブルー・ルート」を日本の公安調査庁に引き渡すかわりに、公安調査庁が持つ暗号解読機「マジック44」を獲得しろと命じる。マジックは第二次世界大戦中に米陸軍が日本外務省の暗号機B型による通信を解読して得た情報につけたコード・ネームだ。日本の暗号通信が米英に筒抜けだったということが戦後喧伝されて、それに比べると日本の暗号解読は拙劣だったと信じられてきた。ところが、近年の研究では、日本の暗号解読はそれなりの水準にあったが、軍首脳がそれを活用する能力を欠いていたという事実が明らかになっている。もしかしたらフレミングは海軍情報部(NID)時代にそんな報告書に触れたのかもしれない。 日本航空のDC8で羽田空港に到着したボンドは、オーストラリア秘密情報機関(ASIS)東京支局長「リチャード・『ディッコ』・ラヴレース・ヘンダーソン」(ヒューズと英国の詩人リチャード・ラヴレースから名前を採っており、映画ではチャールズ・マーシャル・グレイが演じた)に迎えられて、ホテル・オークラに宿泊する。 ヘンダーソンがボンドを銀座のバーに連れ出すが、2人の会話は公安調査庁に盗聴される。 ボンドはヘンダーソンに車で品川区あたりの「全アジア民俗学事務局」まで案内される。その地下に建設中の地下鉄駅が公安調査庁の仮設事務所になっている(映画は営団地下鉄荻窪支線中野新橋駅で撮影された)。そこでボンドは公安調査庁長官「タイガー田中」(モデルは斎藤寅郎で、映画では丹波哲郎が演じた)と対面する。寅年(おそらく1902年)生まれの田中は、オックスフォード大学トリニティ・カレッジに留学。ロンドン、ベルリン、ローマで日本大使館付き海軍武官補としてスパイ活動を行った。戦争末期に神風特別攻撃隊に志願するが、出撃前に終戦を迎えた。戦後は公安調査庁に入る。柔道は黒帯だ。3度の離婚歴がある。 ボンドがマジック44がほしいと切り出すが、田中は借り賃は高いとだけ答える。 ボンドは田中やヘンダーソンと呑んだり旅行したりしながら、親交を深める。 また仮設事務所に呼び出されて、いよいよブルー・ルートと引き換えにマジック44を供与してくれと申し出る。ところが、田中は公安調査庁がとうにブルー・ルートに浸透しており、その成果をすっかりいただいていると一笑に付す。ボンドは自分個人としてできることは何でもすると食い下がる。 料亭でボンドと芸者を揚げた田中が、ボンドを横浜の私邸に招く(映画は薩摩藩藩主・島津久光の別邸である重富荘で撮影された)。福岡の古城を買い取って有毒植物を収集するスウェーデン人植物学者「ガントラム・シャターハント博士」とその妻「エミー・シャターハント」をボンドが暗殺してくれれば、マジック44を供与してもいいと持ちかける。「シャターハント」はもともと、ドイツ人作家カール・フリードリッヒ・マイ(ドイツではその作品が聖書の次に読まれているというほどの人気作家だ)のウェスタン小説の主人公「オールド・シャターハント」に由来する。この主人公にあやかって、ハンブルクのカフェが店名を「オールド・シャターハント」とした。1959年にフレミングはこのカフェを知ったという。 シャターハントの有毒植物園では噴気孔から火山性ガスが噴出し、毒蛇や蠍や毒蜘蛛がうごめき、池ではピラニアが泳ぐ。この「死の園」に惹きつけられる自殺志願者が後を絶たないが、シャターハントに違法性はないので日本政府も手を出せない。シャターハントは黒龍会の残党を20人ばかり雇って城を警備し、天守の欄干から「無断侵入者は訴える」と警告するアドバルーンを揚げるが、自殺者は500人に上っている。公安調査官が城に潜入したが、錯乱状態で海岸に打ち上げられて死んだ。ボンドが暗殺に成功すればよし、失敗したとしても外国のスパイ同士の抗争と片づけられるので日本政府としては好都合だという。 気乗りしないまま引き受けたボンドは、公安調査庁と協力関係にある特殊浴場で、耳と口が不自由な炭鉱夫「轟太郎」に偽装される(映画では田中の私邸で行われる)。 ボンドにマジック44の施設を見せるとヘンダーソンに伝えた田中が、ボンドを東京から連れ出す。コートと黒革の帽子とマスクで変装したシャターハントの手下に尾行される(映画ではこの扮装の男にヘンダーソンが暗殺されるが、ボンドが返り討ちにしてすりかわる)。東京から福岡までの行程はフレミングの取材旅行そのままだ。ただ、田中とボンドは滋賀の飯道山あたりで「中央登山学校」に偽装した訓練学校を訪問。ボンドは忍術の訓練を受ける(映画は姫路城で撮影された)。 福岡県警から別府まで迎えにきた覆面パトカーに、田中とボンドは乗り込む。国道10号線を福岡に戻る車は、マスクの男にホンダのオートバイで尾行される。車を脇道に入れてオートバイをやり過ごした一行は、逆にオートバイを追尾してサイレンを鳴らす。オートバイを道端に停めた男が、上着に手を入れる。車から跳び出したボンドは、男に体当たりをかます。巡査部長が跳びかかってもみ合ううちに、ナイフが刺さって男は死亡。所持していた手帳から、男が東京からずっと田中と謎の外国人を尾行していたことが判明する。死体を車のトランクに積んで、オートバイを藪に隠した一行は、ふたたび出発する(映画では、ボンドと公安調査官「アキ」〔若林映子〕の乗ったトヨタ2000GTを襲撃したトヨタS40クラウンが、公安調査庁の川崎ヴァ―トル107-II-2ヘリコプターのリフティング・マグネットで吊り上げられて東京湾に投棄される)。 福岡県警本部で捜査課長の「安藤警視」に城の航空写真を見せられて、ボンドは田中と侵入方法を検討する。もちろんこれは虚構の城だが、糸島半島北端の西浦崎あたりにそびえていたらしい(西浦崎は今でも釣り人ぐらいしか足を踏み入れない最果ての岬だ)。シャターハント夫妻のパスポート写真のコピーを見たボンドは、血相を変える。整形手術で外見を変えてはいるが、それはブロフェルドとブントに違いなかった。だが、ボンドは田中にもMにも知らせずに、トレイシーの仇を討つことを決意する。 遠縁の「鈴木」が城の沖合の黒島で漁師をしていると、安藤が申し出る。安藤と田中とボンドは県警の警備艇で博多湾から玄界灘に出て黒島に向かう。黒島も架空の島だが、西浦崎の2・6キロメートル沖合の玄海島がそれに当たりそうだ(映画は鹿児島県坊津町秋目で撮影された)。黒島の神社の神主に真の狙いを打ち明けて、ボンドを鈴木に預けた安藤が、田中とともに引き揚げる。神主が島民にボンドを海女の生態を調査にきた外国の人類学者だと紹介。鈴木夫妻の娘(モデルは東京温泉のマッサージ嬢で、映画では浜美枝が演じた)は17歳で「キッシー鈴木」の芸名でハリウッド映画に出演したが、日本人への偏見に嫌気がさして帰国し、海女に戻っていた。ハリウッドでキッシーにまともに接したのは、ジェイムズ・デヴィッド・グラハム・ニーヴン(フレミングの友人で、1967年のパロディ映画『カジノ・ロワイヤル』でジェイムズ・ボンド卿を演じた)だけだという。 リューマチを患った鈴木に代わって、ボンドが小舟を漕ぐ。キッシーがあわびを採って、ペットの鵜「デヴィッド」が魚を獲る。そんな平穏な日々を過ごしながら十五夜を待つ。 警備艇が訪れたと聞きつけたブロフェルドの手下が、黒島に押しかけて島民に土産物をばらまき、真相を訊き出そうとする。だが、神主に言い含められていた島民はとぼける。 ボンドはキッシーに対岸の城について何か知っているかと探りを入れる。キッシーが、あの城には邪悪な外国人が住み着いた、黒島には六地蔵が悪を退治する男を海の向こうから連れてくるという言い伝えがある、その男とはあなただろうと言う。漁を休んだキッシーとボンドは、山に登る。中腹の祠でキッシーが何事かを祈願。海抜1000フィートの山頂から対岸の城を偵察したボンドは、今夜海を渡ってあの城に忍び込む、仕事を終えたら帰国すると打ち明ける。だが、キッシーが、祠にお祈りしたから太郎さんは黒島に留まってくれるはずだと言う。別の登山道を降りたキッシーとボンドは、白い浜に出る。海に向かって並ぶ六地蔵に、キッシーが「轟太郎」の無事を願う。 忍装束とゴーグルと足ひれを着けたボンドは、キッシーに先導されて半マイルの海峡を泳いで渡る。岩場に上陸すると、足ひれを隠してキッシーと別れる。高さ200フィートの石垣をよじ登って二の丸に侵入。二の丸では男が池に跳び込んでピラニアに喰われたり、紳士が噴気孔に身を投げたりする。空堀を回って天守台に侵入口を見つけたボンドは、納屋のずた袋の山の下に隠れて仮眠をとる。 翌朝、怖気づいた自殺志願者が、憲兵隊上がりの「河野」ら4人の手下に杖で小突き回される。ゴム長と黒いマスクと黒革のネイザル・マスクと黒革の帽子を着けた河野たちが、男の手足をつかんで池に放り込む(映画では、ボンド暗殺に失敗した「ヘルガ・ブラント」〔カリン・ドール〕が、池に落とされて粛清される)。納屋に入ってきて、荷車や熊手を取って出ていくが、ボンドに気づかない。 甲冑と日本刀で身を固めたブロフェルド(映画ではドナルド・ヘンリー・プレザンスが演じた)が、ゴム長とコートと虫除け帽子を着けたブントを伴って現れる。手下たちが恭順の態度を見せる。アジア民族主義の黒龍会が白人の命令にたやすく従うのは、日本政府がこの「死の園」を黙認していると信じこまされているからだろうとボンドは考える。扉が無施錠だと気づいたブロフェルドが、「スパイや逃げ出したやつには絶好のかくれ場所だぞ」と罵りながら納屋に入ってきて刀でずた袋の山に切りつける。だが、ボンドは感づかれず傷つきもせずに危機を逃れる。2度にわたってボンドに野望をうち砕かれたブロフェルドは、明らかに正気を失っていた。 夜、扉をこじ開けたボンドは、蝙蝠がうごめく地下道やだだっ広い大広間を抜けて、武具が飾られた応接室に入る。扉から後ずさりながら出てきて一礼する河野を見て、そこがブロフェルドの居室だろうと見当をつける。扉を開けると、廊下の突き当りの部屋からヴィルヘルム・リヒャルト・ヴァーグナーの『ヴァルキューレの騎行』が聞こえてくる。部屋に忍び寄ったボンドは、廊下の落とし穴にはまって頭を強打する。 河野に横面を張られて意識を取り戻せば、地下牢で忍装束を脱がされている。 河野に自動拳銃を突き付けられて書斎に引き立られる。そこでは和服を着たブロフェルドとブント、杖を持った手下たちが待ち構えている。ボンドは「轟太郎」の芝居を続けるが、ブントに見抜かれてしまう。杖を壁に立てかけた「風間」に頭を10発殴られ、たまらず股間を蹴り上げて悶絶させる。椅子を投げつけて別の手下の歯を折る。 河野に地下の調べ室に連行される。15分ごとに摂氏1000度の泥を噴き上げる間欠泉が、石管で調べ室の床まで引かれている。その真上にしつらえられた石造りの椅子に、ボンドは座らされる。泥が噴出する寸前に椅子を離れて、「よお、頭の狂ったブロフェルド。この仕掛けの裏方が玄人だということは認めるよ」と開き直る。 ボンドを書斎に戻したブロフェルドが、河野たちを大広間に下がらせる。江戸時代には侍が無礼な町人を手打ちすることを認められていた、わたしはその侍の末裔みたいなものだと自認していると、刀を手に取る。わたしはフリードリッヒ二世やニーチェやゴッホに比肩するような天才なのだ、凡人どもにわたしを裁くことはできないと、刀を振りかざす。横っ跳びに跳んだボンドは、風間が立てかけた杖を取り、ブントの顔を殴って昏倒させる。杖と刀の攻防が続くが、杖を切り落とされて不利になる。杖を捨てて、ブロフェルドに跳びかかる。刀の柄で頭を叩かれるが、構わず喉を締めあげて殺す。 激しい頭痛を堪えて調べ室に降り、ハンドルを回して石管のバルブを閉じる。 書斎に戻ってブロフェルドの着物を奪い、刀で窓ガラスを叩き割って廻縁に出る。ブントが意識を取り戻したのか、城内が騒がしくなる。アドバルーンの係留索につかまったボンドは、欄干に結び付けられた索を刀で切って空中に浮遊。城からの銃撃が始まり、弾丸がボンドの頭をかすめて、ヘリウムの気球を貫く。水蒸気爆発が起こって、天守が崩れ落ちる(映画ではスペクターの火口ロケット基地が自爆するシーンに活かされている)。アドバルーンがゆっくりと玄界灘に落下する。 『ザ・タイムズ』紙にボンドの死亡記事が載る。この記事の中でボンドの生い立ちが初めて明かされる。 ボンドを救助したキッシーは、ボンドが記憶を喪失したと知る。ボンドが漁師の「轟太郎」でキッシーと恋人同士なのだと信じ込ませて、祠の裏手の洞穴に匿う。「轟太郎」と一緒に暮らしたいと両親に懇願。「轟太郎」が帰国したいと言ったら決してその邪魔はしないと誓って、神主にも許しを請う。キッシーに同情した神主が、島の年寄りに口止めする。島の医師を呼んだキッシーは、「轟太郎」を診せる。東京から田中やヘンダーソンがボンドを捜索にくるが、島民たちは「轟太郎」が城に向かったまま戻らなかったと口裏を合わせる。ほとぼりが冷めると、キッシーは「轟太郎」と実家で同棲して日本語を教える。記憶とともに性欲をなくしたボンドが、キッシーが買ってきた媚薬と春画のおかげで性的能力を回復する。春には漁を再開。妊娠したキッシーは、「轟太郎」に打ち明けたら結婚しようと言ってくれるだろうかと胸をふくらませる。だが、新聞で「ウラジオストック」という地名を目にしたボンドが、強く心を揺さぶられて、ソ連に行きたいと言い出す。子供が出来たと打ち明けられないまま、キッシーは涙を堪えてボンドの渡航を手配する。 フレミングは日本をよく研究しているが、それでも日本人の眼で見ると違和感を覚える描写がある。その最たるものが、忍術の訓練を受けたボンドがブロフェルドの居城に乗り込むくだりだ。フレミングも忍術博物館を見学して「忍術は古すぎる」と感じたようだが、せっかくの取材を無駄にしたくなかったのだろう。実は忍者が現代に活躍するというのはそれほど奇抜な話ではなくて、たとえば戦時中に陸軍のスパイ学校である中野学校で甲賀流忍術第14世「藤田西湖」が学生たちに南蛮殺到流拳法を指南している。忍者が海外に知られるようになったきっかけは、1964年の東京オリンピックにちなんで『ニューズウィーク』4月3日号が忍者特集を組んだことだ。その1年以上前に忍者に着目したフレミングは、むしろ炯眼の持ち主だといえるかもしれない。 本作ではSISは1950年に日本から撤収しており、ボンドはASISのヘンダーソンの協力を得て田中と交渉する。実際には1946年2月に英連邦軍が中国・四国地方に進駐して、広島県呉に司令部を置いた。最盛期には4万人もの将兵を駐留させた。英本国が対独戦争で疲弊していたうえに、世界各地の英植民地に反旗を翻されたために、英連邦占領軍(BCOF)は規模を縮小。ところが、1950年6月25日に朝鮮戦争が勃発して、英連邦軍も国連軍の一員として参戦したために、BCOFはふたたび規模を増強。英連邦軍が日本から撤退するのは1956年のことだ。いうまでもなくSISも東京に支局を置いていて、1945年から1952年まではジョン・ジョージ・フィゲス陸軍中佐(のちに陸軍大佐)がはじめ連合軍総司令部(GHQ)への連絡将校に、次いで英国連絡公館の軍事顧問補佐官(1952年4月28日からは英国大使館付陸軍武官)に偽装して支局長を務めた。1953年から1956年まではマクラクラン・アラン・カール・シルヴァーウッド=コープ海軍中佐が英国大使館一等書記官に偽装して支局長を務めた。 戦時中憲兵隊に所属した田中が、英国などでスパイ活動を行ったとある。関東憲兵分隊には諜報憲兵というのがいたらしいが、憲兵隊は基本的には軍事警察であって情報機関ではなかった。1963年の英国で日本の情報機関に関する公刊資料といったら、特殊作戦執行部(SOE)の元工作員ロナルド・シドニー・セスが書いた『日本から来たスパイ――日本の秘密諜報組織』(1957年)〔邦訳は村石利夫訳、荒地出版社、1965年〕ぐらいしかなかったから、フレミングも考証が行き届かなかったのだろう。 本作の公安調査庁は内務省所管で、ソ連の暗号を解読し、SISの対中国諜報網に浸透し、友好国のスパイ同士の会話すら盗聴する強力な情報機関だ。本庁の所在地や長官の氏名は秘密で、公安調査官は忍術の訓練を受けている。もちろんこれは買いかぶりで、そもそも内務省は戦後解体された。現実の公安調査庁は法務省所管で、本庁も長官も公表されている。公安警察に比べると規模も実力も劣るというのが定評だ。たしかに一時期、寺田技術研究所(のちに極東通信社)に偽装した暗号解読部門を持っていたが、ソ連の最高度の暗号を解読するほどの能力はなかった。フレミングとすっぽん料理を食べた公安調査庁幹部は、よほど自らの所属先を粉飾して語ったのだろう。 ボンドが暗殺をしくじったら外国人同士のトラブルとして片付けようとした公安調査庁が、ボンドを日本人に仕立て上げようとするのも矛盾している。1963年には東京・福岡間に航空便も就航していたが、田中とボンドは鉄道や船を楽しむ。ボンドを日本の風習に慣らすためだというが、松阪牛をマッサージしたり島原遊郭を見学したりすることがどう暗殺に役立つのか。おそらくフレミングは心臓病を押して行った取材の成果を放棄するのが忍びなかったのだろう。 豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に普請されたブロフェルドの居城は、戦前は紡績成金の一家が住んだ。戦後は廃墟になったが、ブロフェルドに買い取られて改修された。その天守の3階にブロフェルドが住む。もっともらしい設定だが、現実には各藩の城は明治維新後に陸軍の管理下に置かれた。さらに廃城令でその多くは自治体の役所や学校用地に払い下げられた。戦後は個人所有の城は愛知の犬山城だけだった(犬山城も今では犬山城白帝文庫の所有)。それに天守はあくまで最終防衛拠点であって、城主が日常的に暮らしたのは本丸御殿だ。そもそも硫黄の立ち込めるような火山地帯に戦国武将が築城するはずがないが、フレミングはどうしても天守が吹っ飛ぶシーンを見せ場にしたかったのだろう。 ボンドが脱出に利用するアドバルーンは、日本発祥の広告手段だ。東京や福岡でアドバルーンを目にしたフレミングが、作品に取り入れようと考えたのだろう(今では高層ビルが増えて広告が目立たなくなったうえに、コストもかかるので、アドバルーンはめっきり減ってしまった)。標準の直径2メートルほどの気球だと、4キログラムを吊り上げるのが精いっぱいだ。体重76キログラムのボンドを吊り上げるなら、直径5メートル以上の気球が必要だという(そうした特大サイズのアドバルーンも実在するらしいが)。 頭部打撲で不能になったボンドを回復させようと、キッシーが福岡のアダルト・ショップで蝦蟇の油といもりの黒焼きを買い求めて、すき焼きに混ぜて食べさせる。だが、いもりはとにかく、蝦蟇の油に強精作用はないはずだ。 ソ連に行きたいと言い出したボンドに、キッシーが北海道からサハリンに渡るように勧める。だが、1963年に日ソ間を定期運航していたのは、極東海運(FESCO)の横浜・ナホトカ間航路だけだ。日本国旅券もソ連の査証も持たない「轟太郎」が、どうしてソ連の入国審査をパスしたのかも分からない。とはいえここは、哀切感で胸を締めつけられるような名シーンでもある。 気になる点は多いが、それまでの日本を舞台とした欧米のエンターテインメント小説で俳句や地蔵まで取り上げた作品があっただろうか(トレヴェニアンが名作『シブミ』を書くのは16年後の話だ)。本作には日本へのリスペクトがあふれている。高度経済成長期に突入しながら、土俗的な風習も残していた昭和30年代の日本が、フレミングの眼を通して活写されている。ボンドが宿敵ブロフェルドと決着をつける、いわゆる「ブロフェルド三部作」の掉尾を飾る作品でもある。 フレミングの初来日の体験記は『ザ・サンデー・タイムズ』にThrilling Citiesの「東京」編として掲載されて、のちに『ジス・イズ・ジャパン』(1960年9月)にSpy-Writer`s Reconnaissance in Japanと題されて転載された(斎藤がフレミングに取材協力することの交換条件が、『ジス・イズ・ジャパン』への掲載だったのかもしれない)。それらでは東京温泉のマッサージ嬢の源氏名が「キッシー」となっている。 フレミングの単行本を独占出版していたジョナサン・ケープ社が、1963年11月にThrilling Citiesも単行本化。こちらでは「キッシー」が「ベビィ」と改訂されたが、これはおそらく女優ブリジット・バルドー(BB)が「bébé(赤ちゃん)」の愛称で親しまれたことにちなんでいるのだろう。キッシー目当ての客が店に殺到するというような事態を案じたのかもしれない。 「東京」編は永井淳訳で「「魅惑の街」より東京の印象」と題されて『エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン』1965年5月臨時増刊号に掲載された。のちに単行本『007号/世界を行く』(早川書房、1965年)に収録された。『007号/世界を行く』は全体としては井上一夫訳だが、「東京」編だけが永井訳となっているのはこのためだ。「東京」編には付随情報としてホテル、料理、ナイトクラブ、日本酒の紹介もあって、旅行ガイドとしても楽しめるようになっている(映画版『007は二度死ぬ』ではボンドが日本酒の蘊蓄を語っている)。 ちなみにThrilling Citiesの「ニューヨーク」編はかなり辛辣な批評となっている。このため米国版の出版元ニュー・アメリカン・ライブラリーにお手柔らかにと頼まれたが、フレミングは拒否。そのかわり、007 in New Yorkを1963年10月に『ニュー・ヨーク・ヘラルド・トリビューン』に寄稿した。この掌編は1964年にThrilling Citiesの米国版、のちに最後の短編集Octopussy and The Living Daylightsに増補された。だが、Octopussy and The Living Daylightsの初版を井上一夫が邦訳した『007号/ベルリン脱出』(早川書房、1966年)――映画公開に合わせて1983年に『オクトパシー』と改題されて文庫化された――には、未収録だ。ようやく小林弘子訳で「007号ニューヨークを行く」と題されて『ハヤカワ・ミステリ・マガジン』2008年10月号に掲載された。 フレミングの取材旅行については、笹川が「来日したジェイムズ・ボンド」と題する記事を『エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン』1963年3月号に寄稿している。 また、ヒューズがMy Japanese Days with Ought-Ought Sevenと題する記事を米国の週刊誌『サタデー・レヴュー』に寄稿している。この記事は井上一夫訳で「007と日本漫遊」と題されて『ハヤカワ・ミステリ・マガジン』1966年3月号に掲載された。この号は大伴昌司「ミステリ名簿」で井上一夫も取り上げており、ボンド・ファンとしては興味深い。 ヒューズの記事は加筆されて回想録Foreign Devil:Thirty Years of Reporting from the Far East(Deutsch,1972)に第28章Sayonara to James Bondとして収録された。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
イアン・ランカスター・フレミングは日本人に偏見を持っていた。第1作『カジノ・ロワイヤル』では、そもそも「ジェイムズ・ボンド」が00の称号を得たのが、戦前ニュー・ヨークの日本領事館で英国の暗号を解読していた日本人を狙撃した功績からだったと語られる。また、第7作『ゴールドフィンガー』では、金塊保管所フォート・ノックスのあるケンタッキー州ルイヴィルの浄水場に「オーリック・ゴールドフィンガー」の手下の日本人(に化けた朝鮮人かもしれないが)が猛毒サリンを投入して住民を皆殺しにしようとする。 だが、こうした偏見は2度の来日で払拭された。1度目は『007号/世界を行く』の取材で1959年11月11日から13日にかけて滞在。1日目に羽田空港に到着して、『ザ・サンデー・タイムズ』極東特派員リチャード・「ディッコ」・ヒューズと、朝日新聞社の『ジス・イズ・ジャパン』編集長の斎藤寅郎(外国人の友人からは「タイガー斎藤」と呼ばれ、のちに建築家として有名になる)に迎えられる。銀座のレストランで刺身と日本酒を堪能して、赤坂の福田屋旅館に宿泊。2日目に帝国ホテルで友人の作家サマセット・モームとその秘書アラン・サールと合流して、講道館で柔道の稽古を見学。ちなみにモームとヒューズは秘密情報機関(SIS)協力者であったという説がある。銀座の東京温泉のトルコ風呂(特殊浴場ではなくてサウナ風呂とマッサージの健全な施設)で「キッシー鈴木」という源氏名のブリジット・バルドー似のマッサージ嬢に体を揉みほぐされたフレミングは、銀ブラを楽しむ。隅田川のほとりの料亭で芸者を揚げて、有名な易者である石竜子に運勢を占ってもらう。湯河原の山翠楼に宿泊。3日目は箱根の富士屋ホテルで食事をとり、大和から小田急電鉄で東京に戻ったが、フレミングはロマンスカーがいたく気に入ったようだ。 第11作『女王陛下の007』を書き上げたフレミングは、次作の舞台を日本にしようと決めて、ふたたびヒューズと斎藤に取材協力を依頼。英国である程度下調べしたらしく、ヒューズへの手紙では、東京から福岡を舞台にする、ハリウッドで女優として活躍して英語が堪能になったが故郷に戻って海女をしている娘をヒロインにする、古城に住む気の狂った外国人とボンドが対決する――というような構想を明かしている。なぜクライマックスを福岡にしようと考えたのか定かでないが、首都から遠く離れた地方であれば古き良き日本の面影を残していると思ったのではないだろうか。 1962年秋に再来日を果たして、12日間滞在。東京から小田急電鉄で神奈川県大和へ、大和で東海道線の急行に乗り換えて愛知県蒲郡へ。蒲郡ホテル(今の蒲郡クラシック・ホテル)に宿泊して伊勢海老の活け造りに仰天。愛知観光船の水中翼船(今では廃止されている)で伊勢湾を渡って三重県鳥羽に上陸。御木本真珠島では海女の肌に手を触れて相手を驚かせている。ハイヤーで伊勢神宮を参拝。松阪の和田金牧場で牛に焼酎を吹きかけてマッサージしてから、松阪牛に舌鼓を打つ。松尾芭蕉の出身地である伊賀上野に立ち寄る。京都では都ホテルに泊まって二條陣屋と島原遊郭を見学。大阪から関西汽船のむらさき丸で瀬戸内海を渡って、大分県の別府に上陸。熊本県の阿蘇山でロープウェー(こちらも今では廃止されている)に乗って火口を観光し、温泉に浸かる。福岡では河豚刺しを味わい、福岡県警察本部では警部にインタヴューしてインターポール捜査官と勘違いされる。夜行列車で帰京。列車内でドイツ人らしい男につけまわされていると感じて、東京駅で鉄道公安官に「わかめはどこで買えます?」と話しかけたら、不審者は慌てて姿を消したという。フレミングは元海軍情報部(NID)係官だしヒューズはSIS協力者とも見られていたから、東独国家保安省(MfS)あたりが一行をマークしていたというのはあり得ない話ではない。東京でフレミングは暴力団組長にインタヴューしたが、この組長はのちに抗争で殺害されたという。最後夜は秘密警察(公安調査庁?)幹部とすっぽん料理を堪能している。 『女王陛下の007』で国際犯罪組織スペクターの首領「エルンスト・スタヴロ・ブロフェルド」とその部下「イルマ・ブント」に妻「テレサ・ボンド」を殺害されたジェイムズ・ボンドは、失意から酒浸りになって2度の任務に失敗。精神科医ジェームズ・モロニ―卿はSIS長官「M」に、重要だが危険のない任務を命じて、ボンドに再起の機会を与えてはどうかと勧める。Mはボンドを00課から外交官課に異動させてコード・ナンバーを7777としたうえで、SISが澳門に持つ情報網「ブルー・ルート」を日本の公安調査庁に引き渡すかわりに、公安調査庁が持つ暗号機解読機「マジック44」を獲得しろと命じる。マジックは第二次世界大戦中に米国が日本の暗号を解読して得た情報につけたコード・ネームだ。第二次世界大戦で日本の暗号通信が米英に筒抜けだったということが戦後盛んに宣伝されて、それに比べると日本の暗号解読の水準はかなり劣っていたと信じられてきた。だが、近年の研究では、日本の暗号解読もそれなりのレヴェルにあったが、軍首脳にそれを活用する能力が欠けていたという事実が明らかになっている。もしかしたらフレミングはNID時代にそんな報告書に触れたのかもしれない。寺田技術研究所(のちに極東通信社)に偽装した暗号解読部門を公安調査庁が持っていたのは事実だが、ソ連の最高度の暗号を解読するほどの能力はなかったようだ。 訪日したボンドはオーストラリア秘密情報機関(ASIS)日本支局長「ディッコ・ヘンダーソン」(モデルはヒューズで、映画版では「チャールズ・マーシャル・グレイ」ことドナルド・グレイが演じた)に「全アジア民俗学事務局」まで送られる。その地下に建設中の地下鉄駅が公安調査庁の仮設事務所になっている(映画版『007は二度死ぬ』では営団地下鉄丸の内線南町支線中野新橋駅で撮影された)。そこでボンドは公安調査庁長官「タイガー田中」(モデルは斎藤寅郎で、映画版では丹波哲郎が演じた)に面会する。寅年生まれの田中は、オックスフォード大学に留学して、ロンドン、ベルリン、ローマの日本大使館付き海軍武官としてスパイ活動を行う。戦争末期に神風特別攻撃隊に志願するが、出撃前に終戦を迎える。戦後は公安調査庁に入る。柔道は黒帯だ。 ボンドはブルー・ルートと引き換えにマジック44がほしいと切り出す。だが、田中は公安調査庁がとうにブルー・ルートに浸透しており、その成果をすっかりいただいていると一笑に付す。ボンドは自分個人としてできることは何でもするからマジック44を提供してくれと食い下がる。 田中はボンドを横浜の自宅に招く(映画版では薩摩藩当主の別邸である重富荘で撮影された)。そして、玄界灘に面した古城を買い取って有毒植物の植物園を作っているスイス人植物学者「ガントラム・シャターハント博士」をボンドが暗殺してくれれば、マジック44を提供してもいいともちかける。有毒植物の噂を聞きつけて植物園に侵入する自殺志願者が後を絶たず、日本政府は対応に苦慮。公安調査庁の調査官が居城に潜入したが、錯乱状態で浜に打ち上げられて死んだという。 気乗りしないまま引き受けたボンドは、公安調査庁の手で日本人炭鉱夫「轟太郎」に偽装させられる。田中とボンドは西に向かうが、コートと帽子とマスクで変装したシャターハントの手下に尾行される(映画版ではヘンダーソンがこの扮装の男に暗殺されるが、ボンドが返り討ちにしてすりかわる)。東京から福岡までのルートはフレミングの取材旅行そのままだ。ただ、伊賀上野で田中とボンドは松尾芭蕉の事跡を訪ねるかわりに、「中央登山学校」に偽装した公安調査庁の訓練学校を訪問(映画版では姫路城で撮影された)。そこでは忍者の訓練が行われている。こう書くと噴飯物に思われるかもしれないが、戦時中陸軍中野学校で甲賀流忍術第14世「藤田西湖」こと藤田勇治が学生たちに南蛮殺到流拳法を指導したのは事実だ。1981年に映画『燃えよNINJA』がニンジャ・ブームを巻き起こすはるか以前に、フレミングが忍者に着目していたのはさすがというべきか。 福岡県警察本部から別府まで迎えにきたパトカーに、田中とボンドは乗り込む。マスクの男がオートバイで尾行。パトカーを脇道に入れてオートバイをやり過ごした一行は、逆にオートバイを追尾してサイレンを鳴らす。オートバイを道端に停めた男が、懐に手を入れる。ボンドが体当たりをかます。巡査が跳びかかってもみ合ううちに、ナイフが刺さって男は死亡。所持していた手帳から、男が東京からずっと田中と謎の外国人を尾行していたことが判明する。 福岡県警察本部で「安藤警視」にシャターハント夫妻のパスポート写真を見せられて、ボンドは顔色を変える。整形手術で容貌を変えているとはいえ、それはブロフェルドとブントに違いなかった。だが、ボンドは田中にもMにも知らせずに、テレサの復讐を果たすことを決意する。 安藤の遠縁の「鈴木」が玄界灘に浮かぶ黒島で漁師をしていて、ボンドはそこをアジトにする(映画版では鹿児島県坊津で撮影された)。鈴木夫妻の娘は「キッシー鈴木」の芸名でハリウッド映画に出演したが、日本人への偏見に嫌気がさして帰国し、海女をしていた(モデルは東京温泉のマッサージ嬢で、映画版では浜美枝が演じた)。ハリウッドでキッシーにまともに接してくれたのは、ジェイムズ・デヴィッド・グラハム・ニーヴンだけだったという(ニーヴンはフレミングの友人で、1967年の映画『カジノ・ロワイヤル』でジェイムズ・ボンドを演じた)。轟太郎としてキッシーとあわび採りをしながら、ボンドはブロフェルドの居城に渡るのにふさわしい日和を待つ。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
最愛の新妻を惨殺され失意の底に落ちていた007をよみがえらせるため、Mは絶対不可能なミッションを遂行させるため彼を日本へ送り込む。 それは宇宙船を強奪して対立する2大国を戦争に導こうとするスペクターの巨大秘密基地の壊滅・・・ ・・・ではなく、毒草に彩られ、毒虫の蠢く夢幻城が聳え立つパノラマ島の粉砕と謎の城主の暗殺だった・・・ 映画のほうも異色だが、原作はもっと異色だった。映画から先に入った読者には地味な展開だが映画が華やかな観光旅行なら、原作は海外滞在記の趣がある。物語のすべての展開、描写に日本文化の考察が織り込まれているのに驚愕してしまう。特にミッション遂行にあたってお参りにいった六地蔵でボンドが触れる、土着信仰の経験の描写がいいですね。 当時としてはこれ以上ないほどに克明に描かれたリアルな日本で世界でもっとも有名なスーパースパイが活躍姿は、しかし、どことなく夢見心地で、「現世は夢、夜の夢こそ真」と詠んだ江戸川乱歩を感じてしまうのはわたしだけだろうか。大都会東京を人質にとり悪の地下帝国を築く「大暗室」とそれを陥落させる正義との攻防ははそこはかとなく007っぽい。あらためて映画を見ればロアルド・ダール脚本による映画のほうも忍者が屋根裏から落とした糸を通して毒殺するシーンがでてきて、これこそ乱歩直球であった。 安息の夢幻に漂いながら、その平和に身を委ねられない、007の業が哀愁を誘うラストが秀逸だ。 (すでに作られた映画もよいが、原作通りの映画化もしてほしいものだ。) | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
久しぶりに読みたくなり購入しました。懐かしい思いでの作品です。状態もとても良かったです。 | ||||
| ||||
|
その他、Amazon書評・レビューが 12件あります。
Amazon書評・レビューを見る
■スポンサードリンク
|
|