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イエスの生涯
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イエスの生涯の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.36pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全74件 21~40 2/4ページ
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本書は『死海のほとり』で描かれたイエスの生涯のみを抜き出した作品である。全編にイエスへの熱い思いがあふれていて、イエスとはこのような人物であったのかと納得せざるを得ない迫力がある。「永遠に人間の同伴者となるため、愛の神の存在証明をするために自分がもっとも惨めな形で死なねばならなかった」「自分たちの救いだけを祈ってくれた」。人にはこのような生き様もあるのだと教えられる一冊である。 「事実でなかった場面も……その時代の信仰者がそれを心の底から欲した場面であるから、真実なのである」。不肖もイエスが本書に描かれたような人物であってほしいと願う。しかし「人々はあることをイエスに求めた……それゆえ人々は期待を裏切られ、怒り、彼を見放したのである」とあるように吾人は他人に身勝手なものを求める。著者のイエス像もまたそれでないかと一抹の不安が残る。良い意味であっても誤解は誤解なのだから。 本書ではイエスはこの世で無力であり、奇蹟に否定的で復活は謎としている。イエスの死後、キリスト教会はイエスを死に追いやったユダヤ教のように権威主義的で俗な組織になった。キリスト教では今日でも列聖されるには2回の奇蹟を行ったと認定されなければならないそうである。ヨハネパウロ二世もマザー・テレサも奇蹟を行ったそうだ。イエスの後継者たちは本書のイエス像とはだいぶ違うようである。 | ||||
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イエスという名前は知ってるが、何をしたどんな人なのか全く知らなかったので興味があり読んでみた。 読む前は漠然と徳の高い仙人のようなイメージを持っていたが、実際には大衆や弟子に的外れな期待をかれられ、誰にも心の内を理解されない孤独な人だった。しかも最後には、救おうとした人や弟子に見捨てられ殺されてしまう。愛というテーマを貫くためとはいえ、死に向かっている時の苦しみは現代を生きる私には想像もつかないものだろう。 超人ではなく無力な人だったことを知ると、イエスを1人の人間として少し身近に感じることができた。 | ||||
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ローマ⇒ユダヤ⇒ユダヤ上層(貴族祭司階級)⇒”虐げらた人々”の構図は、米国⇒日本⇒上級国民⇒下級国民という現在の日本の状況と同じじゃないかというのが、率直な感想ですね。 愛は崇高で、大切です。ただ、人間は愛だけでは生きていけない。確かに、欲にかられるより足るをしることは素晴らしい考えに違いありません。しかしながら、イエスが語る愛だけでは、虐げられている人は救えないと思います。例えば、日本ではびこる上級国民・下級国民のような差別を、おとなしい日本人がただ黙っていれば、その格差・差別が増大していくままとなっています。嫌な世の中ですよ。どこかで、是正していかないと、新たな階級社会が岩盤のように固定されてしまいます。もうすでに固まってしまっているかもしれません。かつてのヨハネ(橋本さん)、今はイエス(山本さん)に期待するしかないか。 | ||||
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作者の大いなる謎はつまらん弟子たちがイエスの死後どうして豹変したかってことですが、そのつまらん弟子たちが必死の布教活動をしたら何故巨大宗教組織の基礎を築けたのかが分からない。 | ||||
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西欧の音楽や美術などに親しんでいると、より理解を深めるには キリスト教に関する知識の必要性を痛感する。これまで断片的な知識 しか持っていなかったので、何か読みやすい通史の本はないかと探して いて、この本を見つけた。 これまで、イエスが奇跡を起こしたとか、水面を歩いたとか、信じ られない話を聞いたことがあったが、本書を読んで、やはり本当は 何もできなかったイエスの姿を知り、納得した。 聖書の記述の仕方についての説明も、なるほどと思わせるものがある。 やはり、あの時代の背景を知らなければ、聖書の記述の上っ面だけを なでて、わかったつもりになってしまう。本書はとてもためになった。 | ||||
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参考になりました。 | ||||
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旧約聖書を読み新約聖書を読んだ。遠藤周作の本書は新約聖書の内容ですね。面白い。家内も読みました。 | ||||
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キリスト者としての著者の、イエスの生涯を推測したものだが、聖書の内容に拘り過ぎていないだろうか? | ||||
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嫌な人ばっかりで人間なんて嫌いだ、そう思った時に遠藤周作先生と宮沢賢治の作中で述べられる自己犠牲的な優しさは、いつも私の支えでした。 この本はイエス・キリストの生涯は新約聖書が語るような奇跡と栄光に満ちたものではなく、深い愛情と神への信仰だけがある、なんの奇跡もない、惨めで哀れなものだったのではないか、という論を遠藤周作先生がその想像力で肉付けされた1冊です。 己の死を予見しながら、なぜイエス様はエルサレムに向かったのか、悪人と私たちが見なすユダ、彼はその時何を感じていたのか。そういった部分への遠藤周作先生の鋭い考察は、私たちにある種生きる希望を与えます。 どんなに苦しくても、どんなに辛くても、それ以上の苦しみや痛みをイエス様は経験され、そして私たちの苦しみを分かってくれる。わかってくれる人が確かにいる、ということに、私はとても救われました。 遠藤周作先生の著書、深い河はこの物語がキリスト教を少し離れ、ガンジス川をテーマにしたもの、死海のほとりはより丁寧にユダについて、イエス様について触れたものとなり、どちらも素晴らしいです。 | ||||
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「彼の容貌を私たちは見たこともない。彼の声を私たちは聞いたこともない。」当然過ぎる問い掛けに始まる此の書は、知らない筈でありながら、イエスの生涯を思い起こすとき必ず人々の瞼に浮かぶイエス・キリスト像をもう一度見つめ直し、彼の生涯を追った作品である。聖書に描かれるイエス像は初期キリスト教団の聖書作家達が、各地に伝わる伝承を集めて編纂したものであり、現在に至るまで聖書学者達も、イエスの生涯の史実的再現は不可能としているが、著者は人々の目に映り、伝えられたものが「事実のイエスではなくても真実のイエス像」である事を念頭に、その人間的生涯の再構築を試みた。無数の宗教画に描かれた我々のよく知るイエス像は、5世紀以後のビザンチン美術館の影響下で完成されたもので、初期キリスト教では面貌を描く事を避け、魚・仔羊・麦の穂・葡萄の蔓といった象徴を用いて表現され、カタコンベ時代には髭の無い青年の姿で描かれていた。しかし聖書にはイエスの顔について殆ど何も語られていない。 イエス(厳密にはイエズアJeshouah)の名は当時ユダヤ人に平凡な名で、平均的な体格を持ち、黒い髪を肩まで伸ばし、髭を蓄えた当時一般的な外見であった。ガリラヤのナザレの町で養父ヨゼフの職を継いで大工(細工師)として30代頃まで働いていた。ローマのティベリウス帝15年、エルサレムの南ユダの砂漠に、洗者ヨハネが現れ、人々に改悛を解き、洗礼を施した。ユダヤ人達は彼を預言者として崇め、イエスも又、ナザレを離れてヨハネの教団に合流した(AD28年1月頃)。そして教団の規約に従い、ヨルダン川近くの荒野の山で40日間の祈りと断食の日を過ごす。AD30年、ユダヤの領主ヘロデ・アンテパスは洗者ヨハネを逮捕、マケロンテ砦に幽閉後、獄殺された。その頃にはイエスはヨハネの最も優れた弟子として知られ、ガリラヤの街々で多くの人々が彼の元に集まり始める。 やがてイエスの絶大な人気は、エルサレムの神殿や衆議会を管理するユダヤ教サドカイ派やパリサイ派に危険視されるようになる。イエスは進んで病人や弱者に寄り添い、ひたすらに「神の愛、愛の神」を説いて、全身的な誠実、純粋、真実、自己犠牲を模範となって示したが、人々はひたすらに現実世界での利益を求め、ユダヤ民族運動の先導者になる事をイエスに期待した為、遂に民衆はイエスに失望し見限る。イエスの元に集まっていた多くの民衆、そして弟子達も去り、イエスと、その許に残った一握りの弟子達は苦難の旅を余儀無くされる。 イエスはピリポ・カイザリヤの丘で弟子達に自分と別れて宣教の旅に出る事を命じる。やがて弟子達と再び合流し、過越祭が行われるエルサレムに入ると、人々は再び熱狂してイエスを迎えるが、最後の晩餐の席でイエスは再び神の愛のみを説き、人々の期待する民族運動的指導者の姿を否定する。弟子の一人、イスカリオテのユダが此処で師を裏切り、衆議会にイエスを訴え、イエスは捕えられる。ただし此の時、ユダだけではなく全ての弟子が師を裏切って逃げ、その一部は衆議会に自らの助命まで願い出ている。ユダはその後城外に出て自ら縊死した。 イエスは大祭司カヤパ、ユダヤ知事ピラト、衆議会、そして民衆に裁かれ、十字架刑とされるに決まった。赤い衣を着、頭には茨の冠を被せられ、首に罪標を下げ、十字架を背負って市中を引廻された後、エルサレム城壁の北西、ゴルゴタの丘に到る。弟子達は身の危険を感じて四散し、一人も助けに現れなかった。イエスは無抵抗に、無力に処刑場に向かい、奇蹟を何一つ行えず、行わず、神もまた彼に現実的な助力や救済を起こさない儘に刑死した。 だが著者は、イエスが無力であったという点に本当のキリスト教の秘儀があり、キリスト者になるという事はこの地上で「無力であること」に自分を賭けることから始まるのである、と言う。イエスは人間達の苦しみを分かち合う事、一緒に背負う事、彼等の永遠の同伴者になる事、その為に彼等の苦痛を自ら進んで背負い、神の愛を人々に証明しようとした。それらはどんな奇蹟などより尊く、人々が本当に求めるものであった。しかし現実の人々は、奇蹟などがイエスの体から血のように溢れる愛にくらべ、どんなにみすぼらしいものかがわからず、奇蹟だけを求めようとした。足萎えは歩ける様になり、皮膚病患者は美しい肌を求め、盲目の者は光を得る事だけをイエスに求め、その奇蹟がいつまでも行われなかった時、群衆は裏切られたと思い、幻滅を感じ、遂にはイエスを罵り、石を投げ、彼を放逐した。 最も古い時代の成立と言われるマルコ福音書は、処刑の3日後に忽然とイエスの遺体が消えた所で擱筆する。それは後世に復活の奇蹟として語り継がれていく。残されたイエスを裏切った弟子達は、イエスの死後突如強固な信仰に目覚める。彼らはイエスの為にひたすらに苦渋の宣教の旅を忍び、死にも肉体の恐怖にも尻込みせず、迫害に耐え、殉教した。ペトロは61年頃ローマで殉教。アンデレはギリシャ、パトラスで飢餓刑。シモンもスアニルで殉教。バルトロマイもアルバナで生皮を剥がれ十字架に架けられて殉教した。此の急激な変貌にはどの様な背景があったのであろうか。 著者は聖書をイエス中心の普通の読み方をせず、弟子中心にして読むと、そのテーマは、弱く、卑怯で駄目な者達がどの様にして強い信仰の人たりえたかという事になる、と解く。パレスチナの田舎に育った大工イエスはその短い生涯に於いて、遂に弟子達には掴み得なかった不思議な師であり、その死まで彼が何者であるかを理解出来なかった。イエスの生涯は愛に生きるだけという単純さをもち、愛だけに生きたが故に、弟子たちの眼には無力な者とうつった。だがその無力の背後に何がかくされているかを彼等が理解する為には、その死が必要だったのである。そして十字架上にありながら、イエスは自分を裏切った弟子達への怒りの言葉一つも口に出さず、罰を求めるどころか、弟子達の救いを神に願った。弟子達はそこで初めて師の説く愛の真実の姿を見たのであったろう。此の様な人は此処迄の有史上未だ嘗て無い存在であり、弟子達は事実、言葉で言い表せない烈しい驚愕と衝撃を受けたであろう。弟子達はその時初めて、生前のイエスが語っていた事がわかり始めた。奇蹟や現実の効果などよりも、もっと高く、もっと永遠であるものが何であるかを、おぼろげながら会得したのである。イエスが無力で悲惨な死に瀕してもなお愛の叫びを遺した事が、弟子達の魂の根本的な価値転換を促したのではないだろうか。自分達の卑劣な裏切りに怒りや恨みを持たず、逆に愛をもってそれに応えるなどは、人間のなせる業では無かった。その驚きは烈しく弟子達を揺り動かし、そしてイエスの死後も彼等は、その存在をまだ自分の傍にいるかの如く感じた。そうして生まれた強固な信仰が、烈しい禁教を乗り越えさせる原動力となったのではないだろうか。 | ||||
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聖書学者たちの様々な説を紹介しながら語られるイエス伝である。しかしこれはもう歴史小説のようでもあり、また、多くの伏線が張られた上質の推理小説のようでもある。 イエスは、民衆からは、ユダヤ民族主義活動のリーダーだと勘違いされ、その期待に応えなかったが故に失望され、罵倒された。 弟子からも、勘違いされ、最後には裏切られた。 本人は、勘違いされていることを知っているが故に、孤独で、苦悩を重ねた。 著者は、このような状況を丁寧かつ論理的に語っていく。聖書の作者たちが、どうしてこれを書いて、これを書かなかったのか、について展開される推論も説得力がある。 イエスには敬語を使っている書き方に初めは戸惑ったが、本書は、キリスト教の教義をもって詰め寄ってくるような押し付けがましいものとは対極にある。著者が書き上げたのは、死後に神格化されるに至った通常の人イエスと、彼に関わることになった人たちの、苦悩と希望を描いた、感動の人間ドラマだ。 | ||||
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聖書の記述について、史料的信頼度は低い。伝承や伝聞の寄せ集めだ。それをどう解釈するかというところで、信者であるとバイアスがかかるのは如何ともし難い。 | ||||
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史実に忠実かどうか、聖書の解釈として正しいのかどうかは兎も角、筋の通った、かつ倫理の通ったキリストという人の物語として、とても面白く読めました。無神論者の読者でもイエスの物語を強い共感をもって理解することができました。良書です。 | ||||
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遠藤先生が、エルサレム近郊を回られた実査も入れた、イエス様の生涯の後半に焦点を当てた論文というか、エッセイです。 素人にも読みやすいです。教義的な難しい議論はあまりなく、イエス様の苦悩と、それを全く理解できない弟子たち。イエス様の生前の奇跡のお話には距離を置かれて、イエス様は苦しむ人たちへの、病気を治すとか物理的な支援はすることができなかった。 愛して寄り添うだけだった、というのは大変印象的。弟子たちも、反ローマの代表としてイエス様が政治的に立ち上がることを期待していた部分があって、ユダじゃけではなく、全ての弟子がイエス様に失望感を持ってしまった・・・というのも、理解しやすい議論でした。 ユダ論が大変興味深いです。聖書の作成過程に興味を覚えますね。 「沈黙」の直後に読んだので、やはり「沈黙」はイエス様とユダのお話ではないか、と思ってしまいました。 | ||||
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キリスト者は読まなければならない本だと思います。 文末に「もう一度イエスの生涯を書きたい」と記して天に召されました。盟友、井上洋治神父がその遺志を継がれ「わが師イエスの生涯」を書き終え天に召されました。今頃、天国でお互いの肩を叩き合ってイエス様にご報告されているのでしょうか? | ||||
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キリスト教は4つの福音書があり、イエス・キリストの人生を描いている。そこにすんなりは入れる人はいいけど、入れない人にはこの本があります。 つまり、4つの福音書に幻惑されず、統一した見方を提示しているからです。 遠藤周作としては、弟子たちから離れて存在するイエス・キリスト像を描かれてますね。奇跡という現世利益の追求に冷めている、イエス・キリスト像でしょうか。バラバが映画で描かれているような、ならず者ではなく、過激な宗教革命家という解釈は面白かったです。 当時のユダヤ社会は激動の時代であり、弟子たちはイエス・キリストに現実の世界を変えてほしいという希望があったみたいですが、イエス・キリストはそれを拒絶し、十字架にかけられ、普遍的な愛へ身を捧げるんでしょうか。裏切ったり、頼りない弟子たちを罵るわけでなく、自分を助けてくれない神を罵るわけでなく、神へ身を捧げるシーンはやはり胸に込み上げるものがあります。 日本においても、キリスト教はメジャーな宗教だと思いますが、当時のユダヤ社会だけでなく、現代においても必要な宗教だと思いますが、その内容が必ずしも理解されてはいない、キリスト教の愛というテーマを感じ取れる名著です。 | ||||
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韓国人です。翻訳版を読んでちゃんとオリジナルバージョンも読みたいなーと思って買いました。やはりいいですね。人間イエス、彼の本心とここに来た理由などについてもう一度考えてみるいい機会だったです。 | ||||
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普通に面白いです。あくまでも遠藤周作の考えるイエス像ですが、なぜか説得力はあります。 | ||||
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聖書の読み方に今までにない興味を持って行間を読めるように努めようと思った。牧師の視点とは異なった読み方が聖書を面白くしてくれるのでは・・・・・・ | ||||
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期待していたよりも、良質な状態で、早く着荷しました。満足しています。 | ||||
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