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(短編集)
一人称単数
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一人称単数の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.83pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全27件 21~27 2/2ページ
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友人が要らないというので、貰って読んだが、私も別の友人にあげた。 教訓の無い下品な童話である。 | ||||
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ただ難しい単語を羅列して読者の格好つけや自己満でしかない内容 わざわざ買う本ではない | ||||
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共感できる・できないは問題ではなく、文学として成立していない。 極めて私的な個人的な心情の吐露であり、もはや村上春樹は終わった存在であると思わざるを得なかった。 | ||||
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齢71歳になる、村上春樹の回顧談。 (実話なのか、作り話なのか、はっきりしてほしい) 相変わらず文章が巧い。 そして、相変わらず意味ありげな話を展開しながら、 実は何も深い意味なんて無いって話で、 空疎な読後感。読んでも、あとには何も残らない。 著者が「分からない」と語る「分からない」話を、 どう面白がればいいのだろうか。 (好きな方は、その感覚に酔いしれるのが好きみたい) とてもじゃないけれど、優れた小説とは言えないと思う。 「僕には分からない」「僕は知らない」って繰り返しながら、 巧みな比喩を駆使して、読者を煙に巻く手腕だけはお見事ですね。 まぁ、不満を云っても、書店に平積みしておくだけで、 売れに売れまくるので、この著者については何も言いたくないんだけど、 1650円お金を払ったわけだけから、文句のひとつくらいは言わして頂きます。 | ||||
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村上春樹、、嫌いだから読まない というのもなんなので それでもたまには読んでみようと思って 読んでみたけどやっぱりつまらなかった 金を払って こんなものを買ってしまうなんてと思った メルカリですぐ売った すぐ売れた なぜ? とにかくつまらな買った なので夏目漱石の坑夫を青空文庫(タダ)で読み始めて ふっと 充実感が100万倍違うなと思った(タダ) きっと 村上春樹って つまらないつまらない ってたくさんの人が言うので じゃあ と読む人がいるのかもしれない それもたくさん かんたんだからすぐ名前があがる 村上春樹って ずっとそういう人だったのかもしれない なんて今更思った。 | ||||
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私は村上春樹の文体が嫌いである。翻訳されることを意識して書かれた文体だからである。特に長編小説は、翻訳されることが強く意識されている。私は翻訳はしないが、直感的に、そう感じてしまう。澱みがなく、読みやすい。次に出てくることば、次に何が書かれるか「予測」しやすい。 どんな作品でも(あるいは日常会話でも)、ことばは常に次にどんなことばがあらわれるか、「予測」しながら読む(聞く)のがふつうのやり方だ。この「予測」をどれだけていねいに導くか、あるいは裏切るかが「作品」の価値を決めるときがある。すぐれた文学は「予測」させると同時に、その「予測」を許さないという両面から成り立っているが、「予測を許さない」という部分が多くないと、「初めて読む」という感動が起きない。村上春樹の小説は(私は、嫌いだからほとんど読んだことはないのだが、読んでいるかぎりでいえば)、「予測」が非常に簡単である。すらすらと読める。私は目が悪く、「速読」はむりなのに、である。 で。 その「予測可能な文体」のなかに、ときどき、あまりにも「予測」をそのまま利用したことばがあらわれるときがある。このときに、私は、どう言っていいのかわからないが、ぞっとする。ウェルメイドの「料理」であるはずなのに、「味の素」の粒が溶けずにそのまま残っていて、それを噛んでしまったという感じ。それまでの「ていねい」に準備されてきた(つくられてきた)ものが、「手抜き」によって崩れていく。もともと村上春樹の文体は好きではないが、この瞬間は、ぞっとするとしかいえない。 この部分こそいちばん大切に書かないといけないのに、「味の素(もうつかわれなくなった定型)」で処理されている、と感じる。 ひとつだけ例を挙げる。「謝肉祭(Carnaval)」の、女友だちが詐欺師だったとわかったあとの部分。女友だちは「醜い」が、「特殊な吸引力」でひとをひきつける(主人公も、その吸引力にひきつけられた)。その夫はハンサムだ。 その二人の組み合わせから、主人公は、こんなことを考える。 <blockquote> 彼女のそのような特殊な吸引力と、若い夫のモデル並みに端正なルックスがひとつに組み合わせられれば、あるいはそこで多くのことが可能になるかもしれない。人々はそのような合成物に抗いがたく引き寄せられていくかもしれない。そこには悪の方程式のようなものが、常識や理屈を飛び越えてたちあげられるかもしれない。(178ページ) </blockquote> 「特殊な吸引力」については、充分に書き込まれているから、そこには不満はない。しかし、「悪の方程式」はどうだろうか。女の魅力と男の魅力があわさって、他人を簡単にだますということなのだろうが、あまりにも「手抜き」のことばではないだろうか。 「悪の方程式」に中心があるのではなく、女の「特殊な吸引力」がテーマであることは理解できるが、その「特殊な吸引力」の「もうひとつの証拠」のようなものが、こんな「犯罪小説の定型の説明」につかわれるようなことばで書かれてしまうことに、私は納得ができない。 ここがいちばん肝心なところ。 「悪の方程式」を「悪の方程式」ということば(慣用句)ではなく、具体的に書かないと、何といえばいいのか……「女友だち」がストーリー(主人公の人生)から簡単に排除されてしまう。「排除の根拠」になってしまう。 「悪の方程式」というのは、たぶん、日本語だけではなく、外国の犯罪(小説)の説明につかわれることばだと思うが、そう思うと、よけいにいやになる。 最近、日本では「夜の街」ということばが、「悪の方程式」のようにつかわれているが、そういうことも思い出した。世間に流布している「定型」を利用した表現をキーワードにつかうのは、なんともおもしろくない。ある主張のためにことばを利用する「政治家の文体」を感じる、といえば、私の「ぞっとする」を言い直したことになるかなあ。 | ||||
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短編小説集ということですが、その中のいくつかはエッセイのようなものに感じます。 途中、女性として生理的にとても嫌な気持ちにさせられる表現がいくつかありました。 しかし、最後の「一人称単数」では、「私」(村上春樹氏らしい人物)が、見知らぬ女性からバーでいわれなき非難めいた言葉を浴びせられますが、それがむしろ個人的にスカッとしました。 女性読者が途中で不愉快になることも想定し、短編が編集されているとしたら、それはそれで見事ですね。 | ||||
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