■スポンサードリンク
人間の本性を考える
新規レビューを書く⇒みなさんの感想をお待ちしております!!
【この小説が収録されている参考書籍】
人間の本性を考えるの評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.03pt |
■スポンサードリンク
Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全39件 21~39 2/2ページ
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
現在、人間科学は机上の理論ではなく、フィールドワーク化の傾向にあり、 実証的な実験データや研究データ、もちろん臨床データの上に成り立ってきています。 なので、最近の人間科学の本を読むと、たいてい、臨床データと統計分析が書かれているわけです。 で、この本を読むと、最近の本なのに、臨床データが全然ない事に気付く訳です。 「第二次世界大戦時にユダヤ人を迫害したのは間違いだった」とか、 「19世紀の学者が白人が優れているのは遺伝子のせいと考えていたのは間違いであった」とか、歴史をえんえんと書いてます。 民族による差が減ってきているのは歴史的事実ですが、 だからといって、この歴史的事実が、そのまま個人の遺伝と能力が無関係な証明にはならない気がします。 つまり、著者は、簡単言うと、このように主張している訳です。 「人種差別はよくないですよね? あの圧倒的な強さだったアングロサクソンも時代ともに普通の人に変わりました。 ユダヤ人を差別するのも良くないですよね?ホロコーストを思い出してください。(著者はユダヤ人) 人種による違いは時代が経つにつれ失われ、ほとんど差がなくなりつつあります。 努力や教育で多くの障害は乗り越えられるますし、今後もそうすべきです」 と。 他の諸問題に対しても、同様な哲学的アプローチで、答えを求めています。 ま、主張するのは自由なんですけど、 科学的で、客観的な見方が欠けているように感じました。 彼の意見を延々と読んで、「じゃあ、実際に調べてみれば?」と思いました。 哲学的に答えをだそうとしていますが・・・申し訳ないですが、はっきり言って、時間の無駄です。 そんな時間があれば、実際に調査して統計取ってみれば、あっという間に結果が出ます。 現在の生物学では、臨床で実地に調べる研究が重視されています。 実際に調べてみて、人種によって差が出る分野はちゃんと「差が出る」と公表します。 公表することで、その原因をみんなで研究します。 研究の結果、それがいいことなら、公表して、 皆がそれを取り入れるというのが、当然の流れです。 民族によって国によって、問題に対するアプローチや考え方が異なるのは当然なのだから、結果も違って当然です。 結果が良い国や民族から、他が学べばいいだけです。 ただ、「人種で違いが出るのがおかしい」の一言で済む話題を延々と、 このような難しい単語をふりかざして「空白の石板か否か」などを哲学的に論じることは 既にもう、時代に即してないように思いました。 というより、著者が生きた50年前と違い、 生物学はすっかり科学になってしまっているため、 生物学へのアプローチとして哲学はそもそも間違っていると思いました。 いまなら、誰かが「人種で違いが出るのがおかしい」といえば、 世界中の学者が、「OK。君の意見が正しいかどうか、実地で調べてね」というと思います。 「空白の石板かどうか」なんて言い出した日には、全員がぽかんとして、 「ええと。ご意見ありがとう。で。君の意見が正しいのかを証明するデータを提出していただけるかな?」 ・・・・と言われてしまうでしょう。 つまり、この本は「科学的ではなくて、リアルな世界で役に立つ議論をしていない」 ・・・点に問題があると思いました。 (他の感想を読んでピンとこなかったので、これは自分が書かねばいかんと思って書きました。 また、この本は、哲学的な語句を使って論じており、非常に読みにくいと思いました。 この難解さがいろいろな感想がでる原因ではないかと思います。) | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
生まれか育ちか、遺伝か環境か。 「そのどちらも相互的に関係しているのではないか」 という今では当たり前のことを言うと怒る人がいる。 たとえば黒人のIQが白人より低いことについて。 レイプ犯が再犯する動機について。 この本は、そんな論争に決着をつけようと書かれた本だ。 全てに本能がからんでくるとなると こどもは「やればできるよ」と教育するのではなく「あなたはやることができない」と諭さねばならず サイコパスは法の外に在って罰することができないのではなく、しかるべき措置をする対象となる。 人間は、心がブランクスレート(空白の石版)ではなく、 すでに書き込まれた状態で、生まれてくるのだそうである。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
不思議なことである。 生まれついての差異はある。と経験的に人間は知っているのにそれを否定するのは経験論の人である。 たとえばジョン・ロックの経験主義は、人間の知識すべては経験の結果である、とする哲学上または心理学上の立場をとる。 重視する経験は社会とのかかわりで得られた経験である。 となると、民俗ごとに大きな違いがある筈だが、人間は人間、総違わないということも人間は知っている。 (大きく違うよという人も居るかもしれないけど、どの民族も食べるものは食べられるものであるという意味でそんなに違わないと思うのである) 同じ民族を大量虐殺したクメール・ルージュは、次のようなスローガンを掲げていたという。 「汚れていないのは、赤ん坊だけである」 つまり、これは嘘である。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
人間には次のような本性があるとスティーブン・ビンガーは言う。 「人間の集団では、共同分配の及ぶ範囲は限定され、ギブアンドテイクのほうがより一般的である。その結果 オレが儲かればお前も儲かる、が実現しない場合、手抜きや、公的貢献が激減する」 「家族観軒はあらゆる人間社会で最優先であり、その結果、身内を贔屓し美味しければ世襲が起こる」 「全ての人間社会で、狩猟採集民族も含め、普遍的に支配や暴力が見られる。遺伝的なメカニズムである」 「知能、誠実さ、反社会的傾向は部分的に遺伝性であることから、たとえ経済システムが平等でも、ある程度の不平等が生ずる。したがって 自由と平等は引き換えになることがある」 「銃や差別や貧困は暴力の発生に一役かって入りが、それらが容疑者として裁判にかけられれば、無罪である」 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
基本的に本書は科学書としてではなく、イデオロギー論争に関する本として読まれるべきだと思う。1992年のクローニンの『アリとクジャク』、95年のデネットの『ダーウィンの危険な思想』、01年のオルコックの『社会生物学の勝利』と社会生物者側から科学に足場を置いた反論は続いていたが、本書は社会的、政治的な含みにまで足を踏み込んで人間行動の進化に関する研究への批判者に対し、猛反撃を試みている。先にイデオロギー論争を仕掛けたのは批判者だと思うので、私はピンカーのやや揚げ足取り的で誇張も見られる反撃は(批判者のイカサマと比べれば)まったく正当防衛の範囲内だと思うが、論争のバックグラウンドを知らなければその点は大きなマイナスかも知れない。 新生得主義に関する概説書としては『心の仕組み』と『言語本能』で十分でだろう。ただそれでも、近年でも見られるタブラ・ラサ(構築主義やラカン派精神分析の社会評論本に多いように思う)の論理のずさんさを批判的に検討する種本としては有益かもしれない。 日本語で読める批判者側の主張をまとめた良質の本がないのが残念。スティーヴン・グールドのエッセイに全体的に批判がちりばめられているくらいか。ナイルズ・エルドリッジの『ヒトはなぜするのか』は質の悪い批判書の典型としてはいいが、わざわざ読む価値は無い。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
人間の色々な心理的メカニズムが、かつて、ヒトが様々な困難を乗り越える際に生まれたものであると考える、進化心理学の恰好の入門書である。 本の構成としては、人間は生まれた時白紙であり、どのように生きるかで人格が決まるという、タブラ・ラサ説の批判をし、人間の本性は、生得的に決まる部分がかなりあるのだ、ということを述べるというものになっている。 正直、人の心理が、環境と遺伝(進化的要因)両方で決まるということは既に(日本人)皆のコンセンサスになっていることだと思うが、アメリカではそうでもないのであろう。 具体的に、子供の人格は長期的にみると、資質と付き合う仲間によって決まる(統計)という話は子育ての時の参考になると思った。(付き合う仲間をある程度親は決められる。) | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
人類の進化のスピードは、社会の変化よりずっと緩やかだ。 だから、私達は原始時代の生活に適応した脳で、この複雑な現代社会を 生きていかなくてはならない。 そんな中、私達は、人間を理性的な存在としてとらえるあまり、 高い期待を抱き過ぎて、かえって失望することが多いように思う。 本書を読むことで、人類が進化の過程で獲得してきた性質を ありのままにとらえ、人に対してもっと現実的な期待を抱けるはずだ。 一部の科学好きの人のための学術書ではなく、現代社会に生きる多くの 社会人に読んで欲しい良書。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
中巻では、人間に本性があると認めた場合に人が感じがちな恐怖と、 本書の核心ともいうべき、人の本性とは一体何なのか? について 触れています。 特に愛情や連帯感の進化については、いわゆる「利己的な遺伝子」とも 関連していて、多くの人にとっては抵抗感のある概念だと思いますが、 人の本性を理解した上で、親子・夫婦・友人とよりよい人間関係を 築いていくためにも、是非知っておいた方が良いと思います。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
下巻では、政治、暴力、性、育児、芸術という、最も議論を呼びやすいテーマについて、 人間の本性との関係を述べています。 個人的には、上、中巻と比べても、最も面白く読めました。 中でも、育児において親が子供の人格に与える影響の話が非常に興味深かったです。 必要以上にべったりだったり、無関心だったり、親子の関係は難しいものですが、 親ができること、できないことについての理解が深まり、私が抱いていた 親子観が根底から変わりました。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
心理言語学者のスティーブン・ピンカーといえば、「言語生得説」の主張を論争的かつユーモラスな文体で軽快につづった、『言語を生みだす本能』がNHKブックスから出版されていて有名だ。 人間が「文法」の規則をあやつる能力をいかにして獲得するのかについて、「後天的」に獲得する──つまり赤ちゃんが、たとえば両親の会話を聞いているうちに帰納的に規則を発見する──と考える立場と、「先天的」にその能力を持っている──つまり遺伝子によって規定される脳の構造のなかに、すでに文法の基本原理は組み込まれている──と考える立場がある。 後者は、言語学界の革命児ノーム・チョムスキーが創始した「生成文法理論」が採っている言語研究のアプローチで、ピンカーの研究も基本的には同じ流れに属している──「進化論」の扱い等をめぐってチョムスキーと鋭く対立してもいるようだが──。 ちなみに、『言語を生み出す本能』もこの『人間の本性を考える』もともに、アメリカではベストセラー入りしている。 さて、本書『人間の本性を考える』のテーマは、言語にかぎらず、人間の性格や能力がいかに広範囲にわたって遺伝的に、つまり先天的に決定されているかである。要するに本書におけるピンカーの戦いの舞台は、「『心』をつくるのは生まれか? 育ちか?」の論争だ。もちろんピンカー自身は、少なくとも論争上は、「生まれ」の重要性を強調する立場にいると言っていい。 この上巻では、「生まれか? 育ちか?」論争の科学的な内容にも触れられているが、より強い力点が置かれているのは、その論争がしばしば「政治的」な動機によって、非科学的で不公正なものへと歪められてきたという事実の指摘である。 人間の性格は、「遺伝(生まれ)」と「環境(育ち)」の両者の相互作用によって形作られる。常識的にはそう考えるべきであり、ピンカー自身もそう主張する。したがって論点は、「生まれ」と「育ち」の双方がどの程度の割合で作用してくるのか、またどのような作用の仕方をするのか、に絞られてくるはずだ。 ところがアメリカの知識界では、「平等主義」的なイデオロギーが幅を利かせているせいで、この常識的見解が否定され続けてきたのである。「生まれながらの不平等」を認めたくないわけだ。 「遺伝」によって決まる人間の性質を、ピンカーは「人間本性」と呼ぶ。そして「人間本性」の存在を認めない立場の代表例が、「ブランク・スレート(空白の石版)」仮説、つまり人間の心はがんらい「空白」で、生まれた時点では個体間に何の差異もないという考え方である。(そのほか、「人間本性」を否定する立場には、「高貴な野蛮人」、「機械の中の幽霊」といったバリエーションがあるらしい。) 遺伝子の研究や、認知科学、脳神経科学の発達によって、人間の心が「ブランク・スレート」の状態で生まれてくるのではないということは、すでに当たり前の認識となってきた。何らかのかたちで「人間本性」が存在することは認めざるを得ないのだ。 しかしながらアメリカでは、つい最近まで、科学者が「人間本性」の存在を少しでも認める主張をすると、たとえば「人種差別主義者」といったレッテルを貼られて、社会的に断罪されるという事態が頻発していたのである。 ピンカーは膨大な量の文献を引用して、「人間本性」説を攻撃する「ブランク・スレート」論者たちが、いかにアンフェアなやり方で、心ある科学者たちに不当な攻撃を仕掛けてきたかを明らかにしている。 本書(上巻)から我々が学ぶべきなのは、アメリカのアカデミズムやジャーナリズムが、少なくとも特定の分野では、「自由」でも「公正」でもないのだという事実であろう。アカデミックな実証研究が社会的・政治的なイデオロギーによって歪曲されるという事態は、「自由の国」アメリカにおいてすら日常茶飯事なのである。 もちろん「自由」であればいいというわけではないし、科学哲学者のT.クーンが「パラダイム」という言葉で説明したように、自然科学の研究とて、その基本的な前提や枠組みは、ある種の「社会心理」によって規定されているのが普通ではある。 しかし本書のなかでピンカーが告発しているのは、そんな生易しい社会心理の支配などではなく、ほとんど暴力的というべき卑劣な研究妨害活動だ。 興味がある人は、この上巻の6・7章を読んでみるといい。 さて、中・下巻も買わなきゃ。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
私も上中下巻を個別にレビューします。 まず上巻は「人間の本性論争史」といったところ。 タビュラ・ラサ説の論理的誤り、社会生物学論争の問題点などは分かりやすく説明されている。 が、なぜタビュラ・ラサ説が誤っており「生まれは育ちを通して説」が正しいと言えるのか、その根拠をもっと詳細に提示した方が説得力がでるのではないか。 リドレーの『やわらかな遺伝子』より読みやすさでは上だがパンチ力は足りないと感じた。 中巻以降どう展開して行くのか気になる。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
「人間がどうなるのは生れ落ちた環境とその後の教育しだい」という考え方(「空白の石版」の教義)は人間のパーソナリティについての世間のスタンダードのようです。 ちょっと注意すればこの手の考えはいたるところに散見することができます。 「親の愛情を知らずにそだった子供は自分自身の子供にも愛情を注げない」、「虐待された子供は自分のこどもをも虐待する」などといった暴力・虐待の連鎖の考えはその典型でしょう。はたまた未来の博士や芸術家を夢見て物心つかないうちからわが子を熱心に「教育」する親たち。滑稽に映ります。 無論、人間性には経験的な要因が大きくすることは確かですが、先天的な資質の占める部分も非常に多いということも揺るがしがたい事実です。二人の姪の性格の違いを見るにつけつくづくそう思います。 重要なことは事実から目を背けることではなく、事実を把握した上でそれをどう活かすかということでしょう。「教育」「しつけ」の重要性はその先に見えてくるはずです。 人間性を生物学的、とくに進化論の観点から説明することにはかなり拒絶反応を感じてしまう方も、なるべく公平な視点から(といってもピンカーの筆致はかなり挑発的なのでなかなか難しいかもしれませんが)本書を読んでみてください。生物学は人間の根を照射し得るということが理解されると思います。 面白い本です。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
「ブランクスレート」「高貴な野蛮人」「機械のなかの幽霊」という 育ち論者、環境論者、行動主義者らの社会科学系からでてきた人についての 妄想を木端微塵にしてくれています。 しかし、これほどの科学者が、上記の妄想を論破するために本書を書くという 労力をかけなければならない状況とは一体なんなんだろうか。 昨日の新聞でも、「インテリジェント・デザイン」という、 人は何らかの知的な存在によって作られたという説を 学校の教科書に載せる・載せないで議論しているようです。 どんな宗教を信じる・信じないは個人の自由ですが、 それを科学の世界に持ってくる事の危険性を感じます。 宗教は偉大な文化だと思いますが、 科学はそれからは完全に守られた状況で事実を解明することに集中すべきだと思います。 当然、科学の力を利用する際には、善悪を含めて様々な観点から慎重を期すべきですが、 それは科学が新たな領域を見つけたあとに行うべきでしょう。 上中下3巻セットあわせて必読書です。 なお、進化理論について興味を持たれた方には以下の書籍がお薦めです。 リチャード・ドーキンス「利己的な遺伝子」「延長された表現型」「盲目の時計職人」 マット・リドレー「やわらかな遺伝子」「ゲノムが語る23の物語」「徳の起源」「赤の女王」 ニコラス・ハンフリー「獲得と喪失」 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
「言語を生み出す本能」でたちまち注目を浴びたスティーブンピンカーの新刊。 翻訳も読みやすいので、たちまち本書の魅力に飲み込まれるだろうと思う。 上巻は、「空白の石版」派との論争を振り返りながら、その欺瞞とトリックを解き明かしていく。 中巻下巻と徐々に本質を付いて行くが、やはりまずは上巻からはいるべきであろう。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
確かに読み出したら止まらない部分もあった。70年代の「社会生物学」を巡る論争は面白かった。「人間の行動が遺伝する」と発言しただけで、「反動」「ナチス」と決め付けられて糾弾される様子は、いかに政治の時代のできごとであったとはいえ、アメリカで起きたことだとは信じがたい。ピンカーの洒脱で辛らつな文章とあいまって、良質の科学史研究として読めた。 でも私が本書に期待していたのは、客観的で、しかも驚くべき事実の積み重ねによって「空白の石版」派を論破すること。人間と進化に関する最新の科学的発見をたくさん盛り込んで、「へーっ」と言わせてほしかった。でもこれでは「人間って空白の状態で生まれてきていなければならない」とする道徳派に対して、「科学的にはこうなっていなければならない」と諭しあっている感じ。 『言語を生み出す本能』は、脳と言語の関係ってこうだったのか!という感動を、ほんとに笑えるアメリカンジョーク連発で伝えてくれた。本書にその妙が少なかったのは残念。そして誤解を避けるためだとは分かっているけれど、「私は遺伝だったら何をしてもいいと言っているわけではない」という繰り返しにちょっとうんざりした。 ピンカーの未訳の本が何冊かあるみたいなので、その出版に期待したい。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
・人間に生まれつき能力の差はない ・男女に性差は無い このような言説を信じる人がいるだろうか? いるのである、アカデミズムの狭い世界では。彼らは、大方マルクス主義あるいはポストモダニストで、自分のイデオロギーとかみ合わないものを「無い」と言ってきた。 そのため、混乱した言説は、無意味に難解になり時に意味不明になり、変なレトリックで頑張って否定せざるをえなかった。ソーカルの「知の欺瞞」でその駄目駄目さを指摘され、さらに追いうちをかけるのが本書だと言える。 行動生物学、遺伝学、脳科学、社会生物学を駆使し、社会のあらゆる事柄に言及する。ピンカーのリズムのよい、時の饒舌な文章に多くの読者が惹かれるだろう。ナチズムとマルキシズム。この両極端のイデオロギーがなぜ同じように全体主義になり、大多数の(一億人!)虐殺を行なったのか。レイプはなぜおこり、またどうすればそれを減少させることができるのか。他にも性差、子育てと、ピンカーのフィールドは幅広い。 誤解して欲しくないのは、進化心理学は決して「全ては遺伝だ」とも言わないし、また「レイプは生得的な欲望だから仕方ない」と主張などもしない。その点、勘違いはしないで、読むべきだろう(普通に読めば勘違いなんかしないけど)。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
ヒトは生まれながらにナニかをもっている,という生得論者の著者が,反生得論者に反論する形で,認知科学での生得論を,領域横断的に広く説明したもの。 などという単純化矮小化が,挙句,誤解と反感とを産み,実の無い論争を引き起こす。 そこに見事に引きずり込まれたピンカー。 結果,これほどの才能がComputational Neuro Scienceの最前線から取り残され,前時代的に物語る認知科学をいつまでも主張せねばならなくなっている。 人間の本性とは,無益な争いに疲れることなのか,悲しい気持ちで読了する一冊だった。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
各巻、1冊ずつレビューしてきましたが、ようやく最終巻。 この下巻では、生得的なさまざまな人間本性が存在するという立場から、政治・暴力・ジェンダー・子育て・芸術の5分野について論じます。ここでも議論は論争的で、つねにタブラ・ラサ説の主張を視野に置きつつ、主に進化心理学の立場からそれに反論し、時に嘲笑を投げかけながら自説を展開していきます。最後の第Ⅵ部は、5つの文学作品からの引用に絡めて人間本性の諸様相を語ることで締めくくられます。 私としては、やはり子育てについて論じた章がもっとも刺激的でした。進化心理学的な統計の意味合いをどう受け取るかで、かなり微妙な面もあるようですが、要するに親はどうあがいても子供のパーソナリティーに影響を与えることはできない! という話です。まあ、よく考えれば、操作できるほうが怖いんですけどね。 しかし私としては、やはり著者の主張を丸呑みはできないな、という感想を持ちました。タブラ・ラサ説の誤りはそのとおりだろうけど、ピンカーの議論もかなり大風呂敷のように思います。ここではそれを検討できませんが、とにかく上巻の分子レベルの話から下巻の心理学的レベルまで、広範囲の議論がめくるめくような華麗さで展開される中、タブラ・ラサ説攻撃が執拗なのに比して、自説のポジティヴな展開はかなり冒険的ではないかという印象です。 ただし、タブラ・ラサ説の粉砕というだけでも、この本の意義は大きいと思います。まともに受け止めれば、深刻な問題が山ほど発生するはずですが、さて、私たちはこれをエンタテインメント的に消費する以上のところに踏み込めるのかどうか・・・ | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
上中下3巻本なので、読み進めるのと同時進行で、1冊ずつレビューしていきます。 上巻では脳科学・心理学・言語学など、最先端の諸科学の成果をマシンガンのように浴びせかけて、タブラ・ラサ論を完膚なきまでに叩きのめします。個人的に特に興味深かったのは、脳の可塑性を示す諸結果が脳の遺伝的構成の主張を覆すものではないことを示す議論でした。腑に落ちました。 さらに第Ⅱ部では、生得性を視野に入れて人間を論じた人々がいかに不当な批判を浴びたか、タブラ・ラサ説に固執する知識人たちがどのような欺瞞に陥ったかが論じられます。 ここまでの議論は、ジェットコースターに乗っているような息もつかせぬ展開。圧倒的にオモシローイ。実は深夜に上巻を読み終えたとき手元に中巻がなく、それでもすぐ続きが気になって書庫に積ん読してあった原書を引っ張り出して読み始めたくらいです。 ただし、「タブラ・ラサ論は誤り」、「遺伝的に規定される人間本性がある」という主張には深く納得したのですが、ではその本性の具体的な内容、生得性の程度がいかほどかについては、試論的な水準に留まっていると思います。続きをちょっと覗いた限りでは、議論はそちらではなく、生得性を肯定することの社会的意味を検討する方向に向かう様子。 最後にもう一言。このような内容の本がかつてのような社会的憤激を浴びず、むしろ多くの人の関心を惹き、ベストセラーになり、肯定的な評価を受ける状況と、冷戦終結・ソヴィエト崩壊という時代状況との関連性は、あると思います。そして中下巻の議論には、冷戦終結後の世界の思想的混迷を打破できるかどうかが賭けられているはずです。 | ||||
| ||||
|
■スポンサードリンク
|
|
新規レビューを書く⇒みなさんの感想をお待ちしております!!