爆弾魔: 続・新アラビア夜話
※タグの編集はログイン後行えます
【この小説が収録されている参考書籍】 |
■報告関係 ※気になる点がありましたらお知らせください。 |
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点0.00pt |
爆弾魔: 続・新アラビア夜話の総合評価:
■スポンサードリンク
サイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
新規レビューを書く⇒みなさんの感想をお待ちしております!!
現在レビューがありません
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
スチーブンソンの新アラビア夜話のシリーズは過去何度も翻訳されており、現在新刊で手に入るものでいうと 第一部→「新アラビア夜話」(講談社古典新訳文庫) 第二部→「眺海の館」(論争海外ミステリ) にほとんどが納められている。 この「爆弾魔」のみ未訳だったということで、ようやくシリーズの全貌が明らかになったわけだ。 この本を読んで、未訳だった理由がよくわかった。 駄作とは思わないが、この作品のみ毛色が異なるのだ。 前2冊がいかにもスチーブンソンの冒険ロマンの佳編であるのに対しこの「爆弾魔」は現代で言うスラップスティックコメディの味わいなのである。 物語は第一部の主人公フロリゼル王子がゴッドオールと名を変えて経営する煙草屋(と言っても日本で言うタバコ屋ではなく、酒やコーヒーのかわりに高級タバコを供するカフェのようなもの)で三人の若者が顔を合わせるところから始まる。 この三人が三人とも落ちぶれ食い詰めたた上流英国紳士という恰好で、教育もあり性格も悪いわけではないのだが知識階級としてのプライドが邪魔して普通の職業にはつけない、明日からどうしよう・・・・と悩んだあげく「紳士の唯一の職業」探偵として冒険に身を投じることを決意するのだ。 ストーリーは三人それぞれの「冒険」を追っていく形で進行するのだが、主人公たちがいまでいうところの「生活力のない中二病のにいちゃん」みたいな感じなのでどうにも締まらない。敵役の”爆弾魔”も実は同じような人物で、「こんなヤツ放っといても大して問題ないんじゃないかな」と思えるくらい。面白くないとは言わないが、迫力がないことおびただしい。千夜一夜物語らしく劇中劇の形で挿入される「破壊の天使の話」や「美しきキューバ娘の話」のほうがよっぽどストーリーの吸引力があるぐらいである。 と首をひねりながら読んでいたのだが、最後の章に至ってスチーブンソンの意図がわかったように思った。 これはスチーブンソンが自分の生み出してきた冒険ロマンに決着をつけた一作なのではないだろうか。 第一部の主人公、フロリゼル王子は中世の貴種流離譚から抜け出してきたような高貴さと威厳を備えたヒーローだった。第二部「眺海の館」の主人公は過去を捨て、自らの恋と友情のため徒手空拳で死地に臨む「鎧なき騎士」だった。 それに対し、第三部の主人公たちはどうだろう? 実生活に役に立たない知識とそれに基づく知識階級としてのプライドしか持たない彼らは置かれた状況に決断ができず右往左往し、「謎の美女」たちにには振り回されてばかりで最後になっても自力で事件に幕を引くことができない。物語を駆動させているのは明らかに女性たちなのだ。 その情けなさは、しかし現代の我々にも親しさを感じさせるものではなかろうか。 最後になってやっと舞台に姿を現し、主人公たちに代わって鮮やかに事件を「締めて」見せるフロリゼル王子は「しっかりしなさいよ、お若い方々」と言う作者自身の姿なのかもしれない。 繰り返しになるが、この「爆弾魔」が単品として「宝島」や「ジキル博士とハイド氏」のような傑作だとは思わない。 しかし、スチーブンソン作品のファンなら読んでおくべき一冊だと思う。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
『爆弾魔』とは、なんと物騒な書名ですこと。 「目次」にも、「破壊の天使の話」とか「ゼロの爆弾の話」とかがあります。 冒頭の「献辞」は、1885年、英国で実際にあった爆破事件で負傷した 二人の警察官に捧げられています。 「無防備な両手にダイナマイトを持ち運んだコール氏と、冷静に救援に駆けつけたコックス氏」(4頁) 恐怖のノンフィクション作品か? 読み終わってみると、小説(フィクション)でした。 「クララとその母親という自由奔放な二人の女性が大活躍する」(315頁、解説より)冒険小説でした。 「さまざまな別名を持つ例の若い婦人」(204頁) この小説の始めと終わりの舞台となるのは、ロンドンの「煙草商」(6頁)の店。 その店主ゴッドオールに向かって、 チャロナー、サマセット、デスボローという貧乏青年たちがそれぞれ 「チャロナーの冒険」、「サマセットの冒険」、「デスボローの冒険」 を語ってきかせるという趣向(構成)の小説です。 「僕ら一人一人が順番に自分の出逢った運命のことを、ディヴァーンの哲人先生、偉大なゴッドオールに話して聞かせるんだ」(19頁) 「チャロナーの冒険」には、「御婦人方の付き添い役」という副見出しまで付いています。 この冒険では、男性チャロナーが脇役(付き添い役)であることを明示しています。 主役は「御婦人方」とはっきり書いているのです。 訳者の南條竹則さんも、チャロナー、サマセット、デスボローという 「三人の青年は木偶(でく)人形と言うに等しい」(315頁) と「解説」でずばり書いています。 「僕らは三人共悪魔みたいに能なしだということです」(14頁) 1880年代(日本では明治時代中頃)の男たちって、 悪魔みたいに能なしだったんでしょうか? それとも、こんなにも自虐するほど自信を失っていたの? この小説に登場する他の男たちも、馬鹿にされてドン・キホーテ扱いです。 「『まあ!』娘は絶望したように両手を上げて叫んだ。『ドン・キホーテさん、ドン・キホーテさん、また風車小屋を槍で攻撃なさったの?』それから笑って、『可哀想に!』と言い足した」(271頁) 強き者、汝の名は、女。 この物語を語るクララは、 「稀代の法螺(ほら)吹きであり、聞き手のチャロナー青年も彼女の言うことは嘘だとすぐに見抜いているのだから」(318頁) 「わたしは危険な悪い女なの。名前はクララ・ラクスモアというの」(278頁) 「レイク、フォンブランク、ド・マルリー、バルデビアといったところが、彼女の使う名前です。本当の名前は――」(199頁) 「女の言葉というのはじつに……」(283頁) 女性についてのユーモラスな表現もところどころに散りばめた物語でした。 「スティーヴンソンの知られざる傑作小説」(本書の「帯」より) 本書『爆弾魔』が、「宝島」や「ジキル博士とハイド氏」で有名な、 あのスティーヴンソンが書いた作品だとは。 本書の原書は、1880年代の時代の空気を取り込んだ、1885年刊行の小説です。 今(2021年)から136年も前の古い小説。 なぜ今になって日本で<初>翻訳されたのでしょう? 本書『爆弾魔』は、スティーヴンソンと、その夫人の合作。 夫婦合作の小説なんて、初めてです。 ファニー夫人は、「夫よりも十歳年上」(313頁)の姉さん女房。 1883年、病気で寝込んでいたスティーヴンソンは、 「妻に言った――毎日、午後に一時間散歩をして何か物語を考え、それを僕に聞かせてくれと。いわばシャーラザッドの役割をさせたのである」(314頁) その時代の「恐怖の爆弾テロリストたちの暗躍を物語の経糸にして」(本書の「帯」より) 「妻ファニーは爆弾テロの陰謀を縦糸としてつながれたオムニバス形式の物語を思いつく。『わたしはモルモンの話から始めて、そのあとたくさんの話を、毎日午後に一つずつしました』と語っている」(314頁) なお、本篇小説の原題は、 「More New Arabian Nights: The Dynamiter(続・新アラビア夜話――爆弾魔)」 「爆弾魔(The Dynamiter)」は、副題でした。 「爆弾魔」(172頁、196頁、283頁、315頁)とは、 「ゼロ」 (95頁、172頁、176頁、179頁、193頁、196頁、198頁、201頁、202頁、203頁、204頁、279頁、281頁、282頁、284頁、285頁、286頁、287頁、288頁、289頁、291頁、292頁、293頁、294頁)という、名前のない男のこと。 「ゼロ・プンパーニッケル・ジョーンズ」(293頁) 「『ジョーンズ、ブリートマン、ヒギンボトム、プンパーニッケル、デイヴィオット、ヘンダーランド――どの名前で呼んで下さってもかまいません』と謀略家は言った」(172頁) 「昼間(ひる)は名なしの男だ」(172頁) 「夜は、そしてわたしの捨鉢(すてばち)な追随者たちの間では、恐るべきゼロと呼ばれているのです」(172頁) 「そうすると、あなたはこの偽名の下に爆弾魔の仕事をしておられるわけですね?」(172頁) 「わたしはもう爆弾魔ではありません」(283頁) 「ゼロの爆弾の話」は、179頁から191頁まで。たった13頁。 対して、「余分な屋敷」という見出しは、四回も出てきます。 こんなに何度も出てくるので、全然「余分な」感じがしません。 この屋敷こそ、重要な舞台のようです。 「余分な屋敷」の中で、いったい何がおきたのでしょう? 小説の成り立ちに戻ります。 スティーヴンソンの妻ファニーの話によると、 「夫がリストにもう一つ、『爆弾The Explosive Bomb』という話を付け加えました」(314頁) 爆弾の話は、付け足したもの? 「『何でしたら、火薬で家を吹っ飛ばしてもかまいませんことよ』とラクスモア夫人は言った」(147頁) 「ささやかな爆竹」(179頁) 「『自分の仕掛けた爆薬に吹き飛ばされる』〔「ハムレット」第三幕第四場からの引用〕ですかな?」(284頁) 「死よ! 死よ! あなたがロンドン中を引き摺(ず)って歩いて、無防備な肩に担いだあの箱の中には、起爆装置の意のままになるダイナマイトの破壊力が眠っているの」(279頁) 『新アラビア夜話』の刊行は、1882年。 『続・新アラビア夜話』の刊行は、1885年。 ノーベルがダイナマイトを発明したのが、1875年。 1870年代から1880年代のアメリカやイギリスは、相当あぶない時代だったようです。 《備考》 <表紙カバーの装画について> 装画は磯良一さん。 三つの画面が立方体に配置されています。 画面1: 帽子をかぶった、顔の見えない男が煙草を喫いながら外を見ています。外のベンチ上には「グラッドストーン鞄」(294頁)が置き去りにされています。 画面2: 「Cigar」の看板文字が壁にある煙草屋。ドアが開いたままになっています。 画面3: 四つの窓がある屋敷。 窓を開けて煙草を吹かしている一人(男女不明)。 「まあ!」と絶望したように両手を上げて叫んでいる娘のように見えます。 窓辺に手を着く妻を夫が説得しているように見える窓。 情けない、能なしの男たち三人が何やら話し合っているように見える窓。 煙草のけむりが雲になり、夜の雨を降らせます。 煙突からのけむりも雲となり、夜には渦を巻いて、雨を降らせます。 三つの画面の周りを左回りにめぐる雲たちがみごとに描かれています。 爆弾の煙は、なぜかどこにも見えません。 「彼の絵は今まで見た中で一番面白い絵でしたわ」(309頁) 本書の表紙カバーにふさわしい装画になっています。拍手。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
ロバート・ルイス・スティーヴンソンの数少ない未訳小説のうちの『More New Arabian Nights:The Dynamiter』(1985)の本邦初訳である。 結論からいうと、今年のゴールデンウィーク前半は、この本のおかげで大変楽しく過ごすことができた。面白い。傑作と思う。ありがとう。 この本はミステリではないが、重要な仕掛けがあり、この仕掛けは、ちょっと余計なことを書くと、爆弾のように破裂してしまう。 本書は、読書前に仕掛けを知っていても十分楽しめる本だし、作者も途中でちょっとづつネタばらししているし、読者も途中のどこかで気がつくし、結末大逆転ミステリーでもない。だが、読書前に仕掛けを知らないほうが楽しめるとは思う。 そこで、以下のレビューは、無難なことだけ書かせていただく。 なお、南條竹則氏の解説は、親切で有用で、ネタバレなし配慮もされている。ただし、作者が前半三分の一あたりで明らかにする事実を書いている部分がある。 なお、原書は古い本なので、無料の英語版Kindleも出ている。 以下は南條氏の解説を参考にして書かせていただく。 〇本書はロバート・ルイス・スティーヴンソンと妻のファニー・スティーヴンソンの共作。ファニーはスティーヴンソンの10歳年上で子連れの再婚。本書は全体の構想はファニーによると思われる。 〇本書は、「新アラビア夜話第一部」で大活躍した末、煙草屋になったフロリゼル王子が出てくるので、「新アラビア夜話」の続編という形になっている。しかし、ストーリーの連続性はなく、フロリゼル王子は本書では脇役なので、本書を楽しむのに「新アラビア夜話」を読んでいる必要は特にない。冒頭にスティーヴンソンがわざわざ「読者への注意」を書いて、煙草屋ゴッドオールがフロリゼル王子であることを説明している。 〇第1挿話の重要部分であるモルモン教のコミュニティでの出来事は、ドイルの「緋色の研究」によく似ている。これは「爆弾魔」のほうが先行作品。 〇南條氏の訳文はたいへん読みやすい。 〇ストーリーは、冒頭がちょっと読みにくく、取っつきにくい感はある。だが、モルモン教のキャラバンが出てくると、不思議に読みやすく、親しみやすくなってくる感がある。この点は「緋色の研究」のおかげと思う。(なお、本書も、「緋色の研究」も、当時の偏見に基づくモルモン教像とされているが) | ||||
| ||||
|
その他、Amazon書評・レビューが 3件あります。
Amazon書評・レビューを見る
■スポンサードリンク
|
|