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更に、古くて素敵なクラシック・レコードたち
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更に、古くて素敵なクラシック・レコードたちの評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.55pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全19件 1~19 1/1ページ
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若い世代のハルキストにはなかなか理解しづらいと思えるアーティストへの指向があふれていました。元々はSP音源のレコードも含まれています。国内盤や輸入盤は混在しており、中古レコードとして100円で購入されたものも含まれています。いわば、ごった煮の面白さでした。 ただ、音楽愛好家の村上さんが、自身の言葉と考えでLPレコードの良さを語り、1940年代から70年代まで幅広い時代のクラシック音源を評価してその魅力を記載してある音楽評でした。 全体を通して、村上春樹さんの好きなクラシック音楽の嗜好が感じられますし、ジャズ喫茶のオーナーだった片鱗が伺える博識ぶりをここでも披露していました。有名な曲もありますが、未聴の曲も多く、歌詞と解説を読むと音楽が聴きたくなってくるような気分に包まれます。 それにしてもかなり個性的な選曲でした。こだわりが詰まっています。 村上さんだから一定の理解を得られますが、普通なら懐古趣味とか、スノッブとか言われる傾向が見て取れました。音楽の志向は人それぞれですが、クラシック・ファンの中でもユニークな選曲志向の部類に入るのではないでしょうか。 もっとも文章の巧みさは流石です。独特の批評で、その観点の珍しさは本書の魅力の一つにつながると思っています。 どちらかというと、昔学生街にあった名曲喫茶でかかるような演奏者を好んでいると思いました。それもかなり通が好む音楽として。 個人的に嬉しかったのはラヴェルの「三つのシャンソン(48p)」の紹介でした。合唱人に良く知られているロバート・ショウ指揮・ロバート・ショウ合唱団の演奏と名指揮者エリック・エリクソンのストックホルム室内合唱団の2つの音源を紹介しています。ラヴェルのシャンソンはI. ニコレット/ II. 三羽の美しい極楽鳥/ III. ロンドに分かれていますが、実に美しい音楽です。どちらもお手本ともいえる解釈と演奏で成り立っている貴重な音源だと言えるわけです。雰囲気の違いはあるにせよ、当時の世界最高水準の合唱ですので、今聴いても全く質の高さは十二分に伝わってくることでしょう。 なお、バッハの「ロ短調ミサ(141p)」は、リヒター盤が含まれていないのが意外でした。好みの違いでしょうね。 当方も一定の齢を重ねており、LPレコードへの愛着は今もあります。本書で紹介されている演奏者への思いを共感できることも多々あり、村上さんの演奏評もさすがにジャズ喫茶のマスターだと言えるほど、しっかりとした耳をお持ちでした。 判型もあり、個々の音楽への評論の文字数はそう多くなく、音楽評論として見れば物足りない感じを受けました。村上さんが書いているということに意味があるのでしょう。 当方も見知っているレコードジャケットは懐かしく、半世紀前のクラシックの潮流も感じられるような評でした。そしてなによりストレートに好きな演奏家や曲目への愛が感じられて、読み進めていく原動力にそれがなっていました。 素敵な出版物の第2弾でした。今回もまた、春樹ファンならその価値を理解し、認めることでしょう。 | ||||
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ときどき読み返して自分が持っているLPを聴き直しています。 | ||||
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音楽評論は、多く読んできました。おおもとは、NHK-FMのクラシック番組とくにバロック音楽の紹介を行っている方々から学ぼうとしたところから始まっています。そののち書かれたものを読むようになり、学園時代に河上徹太郎著作集に出会ってしまい、それっきりです。 本書の著者は、個々の曲について、さらに個々の演奏について、知見の限りを説いています。冷静な評者です。 「世のクラシック音楽のファンの中にはたとえば、『カラヤンの音楽なんぞは許せない』とか『フルトヴェングラーは至高の神様だ』みたいな、がちがちに原理主義的な考え方をする方も少なくないように見受けられるが、僕は(たぶん)そういうタイプではない。もちろん好き嫌いみたいなものはあるけれど、それはあくまで個人的な傾向であって、それをほかの人に押しつけるようなつもりはまったくない。」(pp.14-15) とあります。おそらく、ここで、わたしの場合には、許せなかったり、至高の神様のように思ったりする理由を伺います。その理由の内容次第で、その人物の了見が原理主義的か否かを判断します。 という違いはあるようですが、著者の説明は、あまり反発を感じるところのない、好もしいものでした。もっと続篇を読みたいと思いました。 | ||||
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村上春樹さんのコレクションを更に知りたいのでね。 いつものようにエロチックな場面が入るのか。 レコードではありませんね。 | ||||
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さて村上春樹氏の「古くて素敵なクラシック・レコードたち」の続刊「更に、古くて素敵なクラシック・レコードたち」を読んでみる。エッセーとして読めば、それなりに楽しめる。但し、余りのめり込んではいけない、梯子を外されるのだ。 「音楽の好き嫌いには二種類あると僕は考えている」と、村上氏は述べている。 ・あくまで流動的、即感的な好き嫌い ・体癖に基づくぶれのない好き嫌い そしてこれらは、村上氏個人の感覚であり、他人に押しつけるつもりはないそうだ。 真っ先に取り上げられているのが、Paganiniの「24のカプリース」で、書き出しが「怪人パガニーニ………」というのも、村上氏らしい。ヴァイオリンの天才であり、ギターも巧みで、けれども賭博の魅力に勝てなかった作曲家を一番に俎上に乗せるというのは、計算に長けた人らしい選択だ、やはり読ませるテクニックを持っているのだろう。 今回は、104曲も取り上げられており、前作に比べると、曲数も増え、また手前味噌だが、好みの曲も多く取り上げられている。また当方が所有しているCDが取り上げられている場合もあり、恐らくは村上氏の1%にも満たない所蔵数だろうが、なかなか興味深い。だが一方で、当然取り上げられるだろうCD、例えばMozartの弦楽四重奏曲「狩」のアルバン・ベルク四重奏団やBachの「ロ短調ミサ」のリヒター、が取り上げられておらず、村上氏の“体癖”がしのばれる。 第1作でも、特別コーナーが設けられていたマルケヴィッチがこの本でも数多く登場している。うぅむ、やはり村上氏の好みには、付いていけないところもあるな、というのが正直な感想だろうか。 | ||||
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既に前作で村上春樹の傾向は完全に理解している。そして、だいぶぼくとは嗜好も違う。ぼくは、今の時代を生きる新しいミュージシャンの才能を見つけ出すことが最も好きだが、村上春樹は、古き良き時代の才能を発掘することが好き。カンタンに言えばそういうことだ。 今回は見覚えのあるジャケットが少ない。つまり、今回の選択は、もっともっと深く、レアな世界に入っていったことを意味している。 中には、曲は好きではないがジャケットが好き(チャイコフスキーの『小ロシア』)とかまで登場してきて、実に愉しい。 デジタル音源としては、この中に登場するものの60%はおそらく持っている。残りのぼくが知らない部分をキチンとメモ書きして、整理する。そういう読み込みをしている。 結局、レコードというものが昭和世代のヒトのSPのような存在で、その範疇で選んでいる。そして、それは多分にジャケ買いの要素も含まれている。そういう選択をした一冊と言えそうだ。この調子ではまだまだ続編がでそうな気がする。濃厚に。 | ||||
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『更に、古くて素敵なクラシック・レコードたち』(村上春樹著、文藝春秋)には、村上春樹のクラシック・レコード愛が溢れています。 「僕としては、うちの書斎にお招きして、スピーカーの前のソファに座っていただき、『ほら、こんなレコードもうちにあるんですよ』とジャケットを見せて、音楽をお聴かせするような気持ちでこの本を書いた。だから肩の力を抜いて、お茶でもすすりながら、リラックスした気持ちで、この本のページを繰っていただければと思う」。 ●J・S・バッハ 無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータBWV1001-1006 「この本はベスト盤を選ぶ趣旨のものではないが、この曲に関しては僕の個人的なお勧めは最初から決まっている。ミルシテインの演奏だ。何度聴いても心に浸みる。『無欲』『無我』とでもいえばいいのか、弾いている人間がすっかり透き通って、向こうが見えてしまうみたいな感じだ。エゴがきれいに昇華され、純粋な音楽だけが残る・・・僕はこの演奏に耳を澄ませるたびに、そんな印象を抱いてしまう。巨匠が70歳にして達した至高の境地というべきか」。 ●モーツァルト ピアノ協奏曲第24番 ハ短調 K.491 「モーツァルトの短調で書かれた2曲のピアノ協奏曲のうちのひとつ。どちらも心に残る素敵な曲だ。今回は1950年代に吹き込まれたモノラル盤に範囲を絞って選んでみた。まずはソロモン。メンゲスの指揮するフィルハーモニアは、ぐっと引き締まった出だしでこの曲を切り出す。そこにソロモンのピアノがすらりと絡んでくる。このへんの呼吸はさすがに素晴らしい。この曲は出だしで聴き手の心をつかまないと、うまくあとが流れていかない。第1楽章のカデンツァは珍しくサン・サーンスの作ったものを使用しているが、これがなかなか面白かった。ソロモンのピアノは決して強靭というのではないが、曖昧なところがなく、音のひとつひとつに表情があり、最後まで飽きずにみっちり聴かせる。録音はさすがに古さを感じさせるが、それでも聴かせどころは歳月を越えてしっかり生きている。ソロモンの弾く短調は、緊迫性というより、淡い悲しみと諦観みたいなものを感じさせる」。 ●J・S・バッハ 「ゴルトベルク変奏曲」 BWV988 「ピーター・ゼルキンはグールドの影響を正面から受けた世代のピアニストだ。・・・ピーターの演奏にあって、グールドのそれにないもの――それは傷つきやすい青年の感受性だ。グールドに傷つきやすい心がないと言うわけではない。しかしグールドには対峙して『攻めるべきもの』が外にある。それに対して、18歳のピーターがじっと静かに目を注いているのは自己の内面だ。彼の『ゴルトベルク』を聴いていると、若き心臓の鼓動が耳元で聞こえてきそうだ。そこがこのレコードの聴き所となり、魅力となる。ピーターのこの演奏をひっそり大事に聴き続けている人も、決して少なくないだろう。僕もその一人だ。・・・さて、グールド。新旧どちらの録音も見事で、どちらかひとつといわれても困ってしまうのだが、僕としては(レスター博士とは違って)新録の深い円熟よりは、やはり1955年盤の鮮やかな衝撃を取りたい。グールドはこのデビュー・レコードで、音楽世界のお膳をあっさりひっくり返した。これは10点満点で採点できるような音楽じゃない。それを耳にした人の皮膚に染み込み、跡を残していく音楽だ。これほど迷いのないまっすぐな音楽にはまずお目にかかれない。あくまで勝手な想像に過ぎないが、ひょっとしてバッハ自身はこんな風に演奏したのではなかったか?」 村上春樹というのは、本当に幸せな人だと思います。文学であれ何であれ、自分のやりたくないことは決してせず、やりたいことだけをしてきた人だからです。本書を読んで、そう再認識しました。 | ||||
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毎日のように呼んでいます | ||||
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色々な意味で危険な書であるゾよ(!MURAKAMI好きで、これを基にClassicを聴こうなんてする方には。心してかかれよ!) 前著では、フルトヴェングラーをうっすらと遠ざけていたMURAKAMIだが(そのうっすらとした加減がいかにもMURAKAMI流でどーも あたしにはハナについたものなのだが)、本著では前著とのバランスをはかっているかのように其処彼処でフルトヴェングラーも語られるーーまたその見事なバランス感覚にもツッコミたい気持ちが溢れ出てくる | ||||
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評論家と称する方々の文言に左右されない超個人的評論家。突き詰めればみんなこうなのだが、ここまで文章にして人に読ませるちからはない。音楽好きの文学者として王道をゆく圧殺で、読み応え満点 | ||||
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村上春樹さんが音楽について書く文章が好きだ。『ポートレイト・イン・ジャズ』しかり、『意味がなければスイングはない』しかり、『村上ソングズ』しかり、そしてこの『古くて素敵なクラシック・レコードたち』しかり。 村上さんが音楽について書く文章は、他のどの音楽評論とも違う。これは氏の小説にも当てはまることだが、その音楽や状況を表現したり描写するために使う言葉がとても平易でわかりやすい(もちろん専門的な音楽用語は除いて)。これまであまり音楽評論に用いられることのなかったような言葉や比喩表現も大いに使う。文章のプロなので、どの言葉を用いるか丁寧に吟味した上であえて使っているのだろう。その点では従来の音楽批評を揺さぶる確信的行為だと思う。 それとともに感じるのは、音楽の好みについては自らも認めるように偏っているのかもしれないが、使う言葉を含めた文章表現に関してはとてもフェアであるということだ。描写はいつも具体的であり、あいまいで抽象的な表現に逃げたりすることはない。単なる好き嫌いや無反省な批判に終始することもない。それは村上さんの文章全てにおける大きな特徴の一つと言っていいだろう。 もともと私が村上さんの小説を意識して読むようになったのは、たまたま区立図書館で手に取って初めて読んだ『風の歌を聴け』の中で、出てくる音楽の描写がどれも秀逸だったからだ。女の子との会話の中で、「グールドとバックハウス、どっちがいい?」とか、「ギャル・イン・キャリコの入ったマイルス・デイビス」とか(すいません、この辺うろ覚えです)、音楽好きでなければ絶対に出てこないような選曲のセンス、言葉のやりとりが抜群にうまかったからだ。マントヴァーニやノーマン・グリーンバウムなんかも、ここで初めて知った。 そしてそれはその後の小説にもずっと引き継がれていくものであり、だからこそこのような音楽好きの村上さんが書く音楽についての文章には、信頼が置けるというか、親しみが持てるのだと思う。 この本の楽しみ方はやはり村上さんの独特な表現を読んで、それぞれのレコードや曲、作曲者や演奏家の差異を知り、自分なりにクラシック音楽への親しみ方を見つけることだろう。村上さんと同じレコードを手に入れて聴くなんて、とてもじゃないができない。おそらく入手不可能なレコードばかりであり、お金がいくらあったって今さら集めるのはほぼ無理だ。サブスクリプション・サービスで曲を検索することはできるが、それで村上さんと同じレコードを聴いたことにはならない(多分ならない)。 でも村上さんの文章を読みながら、また手持ちのCDやレコードを聴きながら(あるいはサブスクでも構わないが)、自分なりの好きな曲や好きな演奏家を見つけることができれば、音楽の楽しみ方はぐっと広がるだろう。村上さんは以前にも『意味がなければスイングはない』のシューベルトのピアノソナタの項で、そのようなことを書いておられたはずだ。 その意味では村上さんが好きなレコードについて、それこそ好き勝手に語るこの著書は、クラシック音楽を好きな人たちと趣味を共有するための、他愛のない会話のタネみたいなものだ。『あなたはどれが好き?僕はこれが好きなんだけど』というような。『え?そんなの聴いてんの?こっちの方がずっといいよ』というような(それって音楽好きの全ての人に思い当たる行為だと思うのだが、いかがだろうか)。 ちなみに、村上さんはこれの第1弾の前書きでビーチャムやマルケヴィッチなど個人的に好きな演奏家を何名かあげておられたが、2巻を通してみると、セルやオーマンディなんかの方が出てくる頻度が高いように思われる(私がその2人好きなので目に付くだけかもしれないが)。今度どの演奏家が一番多く登場するのか、手集計で数えてみようかしら。 このシリーズ、村上さんの手持ちのレコードが尽きなければ、まだ続けられると思うので(まだ出てきていないあの名曲この名曲いくつもある)、ぜひさらなる続編を読んでみたいです。 | ||||
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著者の村上春樹さんは、一つの曲を、複数の演奏家によるレコードで聴き比べしています。 同じ楽譜なのに、演奏家の解釈の違いのためか、演奏された曲は違って聴えるようです。 村上さんは、好きだ嫌いだの見地から感想文をつづっています。解説文ではありません。 外国語の原作の小説においても、翻訳家が違えば、違った物語に感じられます。 翻訳家としての村上さんの作品の愛読者である読者も、たびたび経験してきたところです。 聴きたいように聴き、読みたいように読めるから、レコードも読書も楽しい。 あっちへふらふら、こっちへふらふらする散歩の楽しみに似ています。 本書『更に、古くて素敵なクラシック・レコードたち』は、 村上春樹さんのアナログ・レコードのコレクションの中から、 104曲を選び出し、短い感想文を付けた本です。 タイトルに「更に、」とあるように、 本書は、既刊の本『古くて素敵なクラシック・レコードたち』の続編です。 続編の本書の104曲は、村上さんの好みだけで選び出されたようです。 筋なんか用意されていない長篇小説のようです。 村上さんの日常の、気分の移り変わりみたいなものを目次から想像しました。 起承転結のない日常生活にメリハリをつけるような選択なのでしょう。 今日はバッハを聴いてみよう。明日は明日の風が吹くだろうから。 昔、たくさんあったレコード屋さんも、いつの間にか町から消えてしまいました。 ところが近年、村上さんの本のおかげかどうか知りませんが、 また(たぶん中古?)レコードの販売が復活し始めたとのことです。 我が家の自慢だったステレオ・コンポも引っ越しの際に捨ててしまいました。 数少ない思い出のレコードもゴミに出してしまいました。 今となっては、村上さんがいくら良いレコードだよと、すすめてくれたとしても、 どうしようもありません。 「ふーん」(323頁)と感心するしかありません。 村上さんは良いとか悪いとかをはっきり言いません。決めつけません。 音楽の好き嫌いも、あくまでも 「僕個人の『感覚』であり、僕個人の『体癖』に過ぎない」(15頁)とクールです。 この点がクセモノです。 村上さん《個人》の癖の強い「音楽体験」なのに、 「普遍的偏見(傍点あり)」(16頁)とか言ってしまう人なんです。 「普遍的」という言葉は、偏見の形容詞にはふさわしくありません。 こんな矛盾したことを平気で書く村上さんは、 シェイクスピアの面をかぶった忍者(くせ者)みたいです。 このクセは、本書に何度も出てきます。 例えば、 「それをほかの人に押しつけるようなつもりはまったくない」(15頁) 「読者のみなさんにそういうものを押しつけるつもりは毛頭ない」(15頁) 同じ頁で二度も同じことを言われたら、押しつけられたような気がします。 著者の《押し売り的》押しつけのクセ。テレビ・コマーシャルみたいです。 「押しつけがましくはない」(25頁) 村上さんは、いちおう否定はしていますが、 心の底では「押しつけがましさ」を感じたから、否定形の表現を使ったのでは? 読者は、こういう文章表現を、著者の否定的肯定のクセと理解しました。 ノンフィクション的リアル感を持ったフィクションみたいなクセ。 現代流行語のせりふ満載のヤバイ歴史ドラマ脚本家のクセのように感じました。 「押しつけがましくもなく」(155頁) 「文句のつけようがないのだが」(155頁) この「が」の中に、村上さんの気持ちが横漏れして出ていませんか? 「『ケチのつけようがない』と感じると、なんでもいいからケチをつけたくなるのが人情だ(そんなことを思うのは僕くらいかもしれないが)」(206頁) 今このブックレビューを書いているケチな読者も、「そんなこと」を思いましたよ。 でも、「なんでもいいからケチをつけたくなる」のは、普遍的な「人情」ではありません。 「けちのつけようがない」(98頁) 「実に文句のつけようがない。ただ・・・」(169頁) 「文句のつけようがないです。ただ・・・」(185頁) 「文句のつけようがないです」というのは、けちをつけるときの枕詞でしょう。 「実にケチのつけどころがないのだが、なんとなく人に言い聞かせるような口調の演奏で、そのぶん面白みに欠ける」(329頁) 「面白みに欠ける」ですって? ケチつけてませんか? 欠点が無いのが欠点になっていて、面白くない。 「過度にあざとくなることなく示されている」(35頁) 適度にあざとくなるのはいいんです、面白くなるから。 あざといに、「適度」ってあるのでしょうか? 「率直というか、あざとさ(傍点あり)みたいなものが見当たらない」(53頁) あざとさは、やりすぎの率直さ。率直の兄弟語? はたまた、反対語? 話は変わりますが、本書に、ショスタコーヴィチが出てこないので、変だな、と思いました。 既刊の本『古くて素敵なクラシック・レコードたち』の目次を見たら、 18番と49番に二度も、ショスタコーヴィチが出ていました。 ショスタコーヴィチの交響曲第13番の第二楽章「ユーモア」の歌詞が好きです。 それにしても、ロシア(旧ソビエト)出身の作曲家とか演奏家って多いですね。 「そんな中でこのレコーディングは、モスクワのアメリカ大使館内部で敢行された」(140頁) という文を読みました。 なぜ、ピアノ演奏のレコーディングがモスクワのアメリカ大使館内部で敢行されたのか? 政治権力は、彼の音楽のどこがお気に召さなかったのでしょう? 執拗ないやがらせか? 《正誤表》 箇所: 136頁 誤: キエフ 正: キーウ(旧キエフ) 《備考》 「力の横漏れ」(181頁)には、笑ってしまいました。 りきむと液体が横漏れするのは、老化です。 「アマデウスとの組み合わせでは水も漏らさぬ緊密な調和ぶりが聴きものだった」(317頁) この「水も漏らさぬ緊密な調和ぶり」とは? レコードを聴いていないので、よくわかりません。 緊密な調和もいいですけれど、漏らさぬよう気を付けて演奏してほしいです。 | ||||
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読みながら、Alexaに話しかけて曲を聴く。 今まで知らなかった曲が聞こえてくる。 これは新しい体験で,ワクワクしながら楽しむことができる。 | ||||
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Amazon Music Unlimitedで聞いています。 音楽は良いですね。 | ||||
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「古くて素敵なクラシック・レコードたち」の続編です。 今回は、「24のカプリース」(パガ二ーニ)~「ピアノ・ソナタ第11番」(べートーヴェン)まで、 全104曲、村上さんのレコード・コレクションから選択されています。 しかし、今回は結構クラシック通の人が好みそうな曲がかなり選ばれていて、 初心者向けというよりは、中級、上級者向けの本だろうと思います。 べートーヴェンの皇帝、モーツアルトのsyn.40 、マーラーの大地の歌、バッハのゴールドベルク、 何てベタな選曲もありますが、後は結構マニアックな曲が多いと思います。 クルト・ワイルの「3文オペラ」なんか私な1枚しか持っていません! オペラも結構選ばれていますが、オペラはやはり映像がなくてはダメだと思います。 しかし、2冊のクラシック・レコードたちで、村上さんの嗜好、考え方がよリ理解しやすくなると思います。 村上さん、生半可なクラシック通ではないようですね! | ||||
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前書に続き、発売日に購読。 私の方が、村上氏より若干年上であるが、ほぼ同年代。 本書の内容は、同世代にとっては自分自身の盤歴を思い返す良書。我が家のLPコレクションと重なること多く、数日LPを聴いていました。 なお、この本をもとに、若い世代の人が昔のLPからCDに復刻されたものを収集し聴くとすれば、少々疑問。 要は、著者が高校生位の時から、著者の小遣いの範囲で、コツコツ収集してきた愛聴盤の解説なので、各読者は自分のスタイルで今から自分好みのメディアで収集するのが良いでしょう。 また、最近の若い人が冷静に聴くと、昔のLP時代の演奏技術はかなり稚拙なものも多い。 本書は、当時の無責任な音楽・レコード評論家のコメントを著者が斜めに見ながら、村上スタイルで書いたもので、私として大いに納得する所もあれば、私も好きで定番と言われているものが抜けていたりと、想定外で、興味深い内容でした。 なお、レコードの録音に関しては、数十年聴いてきている人達は、自分のお気に入りの音がする装置で聴いていると思います。特にレコードマニアは自分の拘り大です。 村上氏は、おそらく今も、トーレンス、オルトフォンSPU、アキュフェーズ、オクターブオーディオ(真空管)でJBL(D130系を中心としたバックロードフォーン)で聴いていると思います。 また、LPレコードは原盤、日本盤、海外盤でかなり音が違います。ホロビッツのモノラル盤は、日本ビクターが一番イメージに合います、等、色々違います。また、ホロビッツのソニー盤は最悪でした。 録音・演奏共に最高なのは、ミルシュテインのバッハ。首都圏にいても初盤購入は難しかったことと、当時の日本の評論は冷たかった。今でもこの盤は録音・演奏ともに最高です。CDでは全く表現できないです。 間違っても、比較的若い人が、復刻されたCDを購入し、最新の装置で聴いても真価が発揮されるとは思えません。大半はノイズを消すことを重視し、音楽は死んでいるもの多い。 逆に、後期高齢者の私からは、比較的若い人が、本書を購入する理由をお聞きしたいです。 なお、一部に編集ミスと、音楽書物表記と異なるところがありました。 ・ショパン ソナタ2番の写真、ホロビッツのRCA、CBS盤の写真が入れ替わっています。かつ、オリジナルCBS盤での裏の写真が載っています。(ソニー盤では表にしたのでしょうか) ・ランドルフスカ→ランドフスカ では無いでしょうか 要は、音楽之友社ではこのようなミスは無いでしょうが、文藝春秋の編者のミスです。ただ、写真の誤りは致命的なのでは。 追伸:ミルシュタインの評価は日本の評論家から良くは無いようでした。私は大ファンであり、村上春樹も評価していたこと、またホロビッツの良さも分かりやすく書いていたこと、これだけでも十分。 | ||||
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この作品の第1集を私は酷評した。今回はその期待外れから出発しただけに、まあ、悪いばかりではないな、というのが感想である。 優れた作家の作品では多くに「キモ」と言える部分がある。本書のそれはp.164の最初の5行に尽くされているように思う。「世界の組成が組み替えられていくような感覚」− これは作者の独壇場と言える秀逸な表現だ。一方で「バッハの音楽の真髄をしっかりと掴んでおり」は、作者が「自分は掴んでいる」と考えていなければできない表現である。謙虚に、謙虚に、と随所で気配りしているのに、(批評の宿命なのだが)ここでは高所から語る。素人の傲慢だろう。そして「高い精神性」− チャールズ・ローゼンが言うように、音は音でしかない。ここは「音」ではなく「音楽」の話だから、間違ってはいない。しかし作者は他の部分でも比較的安易に「精神性」という便利な言葉を使う。では精神性とは何か?作者は考えただろうか。 演奏の核心について「音楽とは結局のところ志ではないか」(p.299)と作者が書く時、私は幾分保留しつつも首肯せざるを得ない。しかしだからといって、「文句のつけようがないから気に入らない」としばしば作者が言う、それには首を傾げる。語義矛盾である。むしろ作者の音楽の好みを通覧すると、そこにグルーヴ感がないときに、作者は不満を述べているように思える。そんなもの必要ない、という音楽もあれば、それが必須のこともある。いわゆるクラシックには前者が多いことを考えると、これだけ豊富に聴き込んではいても、作者の本質はやはりジャズの人なのだと思う。 印象批評の域を出ないのは第1集と同じ。もしこれを、批評界往年の名手が読んだら、と考える。三浦淳史氏。「これで許されるなら苦労はしないよ。有名人はよろしいな」と苦笑するだろう。そして私にとっての神である吉田秀和氏なら。しばらく読み、黙って本を閉じて、書斎を去るのではないか。 | ||||
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①とにかくマニアック、凝り方は半端ない。例えば、ベートーベンのピアノ協奏曲は「皇帝」ではなく、第3番だ。しかも、ピアノ・ソナタは、第11番の変ロ調大ソナタが登場する。悲愴·月光·熱情を最初に聴く人が多いが、第11番·第16番·第18番を好んで聴く人はそれなりに「通」なのだと思う。 ②中でもブルックナーに注目した。モノラル録音のベイヌムから始まるのが凄い。クナとかシューリヒト、カラヤンではない。第7番では朝比奈隆の聖フローリアンライヴご登場している。こんな素晴らしい演奏が、日本人の指揮者とオーケストラで達成されたのだ。 ③ブルックナーの第9番は、ジュリーニが登場する。残念ながら著者は第4楽章を聴いていないようだ。ラトル=ベルリンフィル盤、アイヒホルン=リンツブルックナー管弦楽団は、終楽章を入れた名盤である。ブルックナー自身が「第4楽章が完成しなければ、「テ·デウム」でも良い」と述べていたことを思い出すべきである。ブルックナーは第4楽章に完成一歩前まで取り組んでいたのだ。最後まで聴くと第9番が、第3楽章までとは随分違って聴こえるから不思議だ。 それから、ヴァントとチェリビダッケは聴くべきである。 凄いスペシャルなクラシック案内が本書である。 お勧めの一冊だ。CDも出してほしい。 | ||||
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通して読み終えたところだが、前巻に比べると、’70年代、’80年代の演奏が少し増えている印象。私は、’72年からレコードを買い始めたので、’70年代以降のレコードは、新譜として認識しており「古い」レコードとは思えないので、若干違和感がある。ポリーニとかザビーネ・マイヤーのレコードが古いって、なじめないのだ。古いレコードというのは、個人的記憶ではハイフェッツとかルービンシュタインとか、ライナーとかミュンシュとかクレンペラーとかセルとか、シュワルツコップとかのレコードまでなのだ。 ともあれ、これまで前巻で紹介されていた演奏の音源を(486枚中100枚くらいはCDで持っていたのだが、持っていなかったものは)買ったり借りたりダウンロードしたり、いろんな方法で入手して楽しんだ。今回も、そうやって、古き良きレコードを買うのが楽しみだったあの時代を懐かしみつつ楽しみたい。第2弾に感謝。 | ||||
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