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(短編集)
一人称単数
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一人称単数の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.83pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全114件 81~100 5/6ページ
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「一人称単数」について この短編の面白さは、出だしは普通の一人称だが、物語の途中から「三人称である自分」を一人称で書いてあるところだと私は思う。 短編ではいつも実験的なことをすると著者は述べているが、もしかしたら今回はこの部分がその一つなのかもしれないと思った。 以下内容です。 無数の選択をしてきた結果、今私はここにいる。自分の目が見ている一、人称単数の世界だ。多少の不穏な空気を含みつつも、そこでは心地の良い春の風が吹いている。 しかし、バーの鏡の中から着慣れないスーツを着た自分を見た瞬間、世界は一変してしまう。鏡の中からみる着慣れないスーツを着た自分は別の目から見た自分。つまり、三人称としての男なのだ。 だから覚えのない女からいわれのないような非難をされても、明確に否定することが出来ない。 その三人称の世界の「知らない」男である自分は、3年前にどこかの水辺で本当におぞましい行為をしたかもしれないのだ。 自分が思っている自分と、他人から見た自分。自分の中の自分の記憶と、他人の中の自分の記憶は違うものだ。 三人称の世界、そこではもう自分のための優しい風は吹いていない。 ちなみに 「謝肉祭」の中の「僕」は無人島に持っていくピアノ音楽にシューマンの『謝肉祭』を選んでいるが、昔のインタビューで村上さんは好きなミュージシャンを聞かれて、「無人島に持っていくとしたら1940年代のデューク・エリントンのものをまとめて持っていきたい」と語っております。 | ||||
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「村上主義者」として、けらけら笑いながら読んで、面白く読み終わった。 そして、ふと、恐ろしくなった。 全編を通して、一つのホラー小説なのではと感じたからだ。 | ||||
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私は10代の頃からかなり熱心に村上春樹の小説を読んできた20代の女性ですが、 この短編集の「謝肉祭」という一編を読んで、流石にこれはないんじゃないの、と思ってしまいました。 彼の作品における女性の描かれ方には昔から議論を呼ぶところがありますが、 最近では川上未映子氏などが村上氏の小説に表象される女性に対する批判、というのを かなりはっきりされています。 私自身はそれらの批判を踏まえても、彼の作品の女性たち(とそれに対する接し方)にはそれほど 我慢ならないものがないというか、それを補ってあまりある彼が作り上げてきた世界観にやはり圧倒されてしまう、 みたいなところがあったのですが、この「謝肉祭」に関していえば、 この短編は(悪い意味で)あまりにも今の時代の流れにそぐわないのではないかと思いました。 この作品で描かれる極端なルッキズム(外見至上主義)は、ある種の人間の本質の一面をよもや 突いたものかもしれませんが、男性(たち)が一方的に「不細工(だと自分が判断した)女の子」に 「もう一度会ってあげてもいいよな、まあ俺たちの価値観によってはただの不細工なだけの女の子にしてやらない こともないし」(極端に書いてます) と言った時に、「何様のつもりだよ」とはっきり言う(言える)女性からのレスポンスは、必ずあってしかるべきだと思うのです。 何と言うか、今までの彼の作品ではルッキズムは人の本質としてありながらも、それを超えた(もしくは少しずらした)何か違う価値観のようなものを彼の作品の人物たち(主に男性)は追求していたような気がするのですが、 この作品ではそのルッキズムがあくまでも矮小な形で作中に落とし込められるだけに終始しているような気がするのです。 私はこの短編のここの部分を読んだ時に、正直かなり気分が悪くなりました。 長々書きましたが、結局のところこの短編がこんな風にやたらと自分の中に引っかかるのも、長年読んできたこの作家が好きだからだと思います。 女性の皆さん、どう思いましたか?他の人の意見も聞いてみたいと思いました。 | ||||
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内容な言及しませんが、シュールな感覚が意識を深い部分にまで誘ってくれました。 ここまで、深い意識で読める作家は村上春樹さん以外に自分にはいません。 | ||||
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私はハルキストではないので、すべての作品を読んだわけではない。おそらく、ハルキストたちに比べたら読んだ本の数はかなり少ないと思う。それでも、何冊か読んだ作品に流れる、ふわふわした浮遊感は共通しているように思う。例えば『東京奇譚集』のような。 『少年カフカ』にしても『1Q84』にしても『騎士団長殺し』にしても、地に足が着いていないような、不安定な感じがつきまとう。『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』もそうだ。居場所がなくあちこちさまよう姿が共通している。この感じを肯定的に捉えられるか否定するかで村上春樹のファンになるかどうかが決まるのではないだろうか。 この短編集で作者はかなり遊んでいるのだはないかという気もする。「石の枕に」では、短歌が重要な位置を占める。村上春樹といえば、華麗な(過剰な?)比喩表現で知られる。この「石の枕に」を読んで思ったのは、作者は作品中でよく「メタファー(隠喩)」ということばを使うけれども、実は作者の比喩の多くが直喩だったということだ。しかし、短歌で表現しようとすると、直喩はあまりにも冗長すぎて31音にはとうてい収まらない。そこで隠喩を使うことになる。直喩の使い手が隠喩を多用する。自作に対するアイロニーだろうか。 「一人称単数」では、「私」の服装や行動、飲むお酒まですべてが「アンチ」が指摘している要素でできている。こういうところが鼻につく、わざとらしさが嫌だ、というアンチにこれでもかというほど嫌われるアイテムを登場させる。しかも、おしゃれなバーで隣に座った女性に直接そう言わせる。もしかして自虐ネタなのだろうか。そしてそれをおもしろがっているようにも受け取れる。ハルキストでもアンチでもない私にとっては、とても楽しく読める作品集である。 | ||||
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6年ぶりに放たれる、8作からなる短篇小説集 。どれも良いのだが、特に下記の4作が私には非常に味わい深い作品だった。 ▪️ 「With the Beatles」 「あるときには記憶は僕にとっての最も貴重な感情的資産のひとつとなり、生きていくためのよすがともなった。コートの大ぶりなポケットの中に、そっと眠りこませている温かい子猫のように」 ▪️ 「謝肉祭」 彼女は、これまで僕が知り合った中でもっとも醜い女性だった——- と言う冒頭の文章で「謝肉祭」は始まる。 容姿の醜さを強みにする奇特な女性は、驚くべき二面性を抱えていた。 ▪️「品川猿の告白」 | ||||
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シューマンじゃなくて、バッハのパルティータの様な、研ぎ澄まされて再構築されたいつものあの感じ。 これを読むと、歳を取るって悪くないな、と思う。 | ||||
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かれこれ10年ほど前であろうか、自分の余命年数を考えるようになったら自分には小説なぞ読んでいられるほど残された時間はないと思うに至り、小説は読むのをやめる事にした。以来、小説を読む事は、自分にとっては特別な行為だ。 『羊をめぐる冒険』を読んでからは、村上春樹氏が、純粋に、気になる作家であるのは間違いない。が、とてつもなく偉大な作家とまで思っているわけではない(あえて書いておけば個人的に『ノルウェーの森』は嫌いだし、なんであれがあんなに売れたのか後付けで理由は考えられても未だ理解でき切れない)。 また、ご本人もそのように考えているようにも思われるが、短編小説が優れた作家という認識も個人的にあまり持ち合わせていない(やや習作性が強いか)。 よって、でちゃったなー、新しい短編集・・・さてどうしたもんか・・・と思ったのだが、以下の意思決定上の、プレミアムもあり、結局近所の本屋で買い求めた。 ひとつは、20歳頃まで特に夜のバイトの帰りなどに寄っていた、東京国分寺のジャズ喫茶(向かいのほんやら洞よりも遅くまで、界隈で最も遅くまでやっていたような気がする)のマスターが村上氏だったから。といっても多分オーダー以外の話をした事はないのではないか。 18歳の時、初めて見かけた時のインパクト。ある日某大学の学生会館から猫を抱えて出てくる人間が目に入り、知人に訊いた。“なんだ、あれ” “ああ、早稲田の7年生で、今度、ジャズ喫茶をつくるんだって、結構ジャズ好きの連中の中では有名人だ” “ふーん“ といった会話をしたんだと思う。・・・・・猫を抱いて大学キャンパスを歩く20代中盤のアイビーカットの男なんてあの時代でもそうそう見れるものではない。 もうひとつは、この1年足らずで、明るい時間帯の渋谷・西麻布の街中で4-5回ほどばったり出くわしていること。頻度に呆れ、これは何かのお告げ・・・次に小説書いたら読まねばと・・・・(笑)。 (それ以前見かけたのは、多分7年程前の猛暑の夏、表参道246を白基調のウェアをまとい、よろよろとこちらに向かって走ってくる初老の男性とすれ違った・・・・結構無茶するなぁ) 彼の主に長編小説に出てくる主人公は、若い頃の村上春樹氏の見た目の印象、例えば清潔好きでどこか几帳面を匂わすところなどに、密かな共通点がある。60歳以上の人には゛羊をめぐる冒険”あたりはほんのちょっと庄司薫の4部作の主人公が大人っぽくなったら・・・的な印象があるかもしれない。今回の短編集では、主人公として、ズバリ小説家村上春樹自身の登場とあいなり、これには多少面食らった。それ以外は、比較的見慣れた表現とストーリー展開だ。彼なりのマーケティング姿勢のようものも感じ取れる。 本作でちょっとうならせられたのは、短編の並びだ。作為をあまり感じさせないように吟味された昔のよきLPレコードのような構成である。 一番目の『石のまくらに』はどこでもありそうな話をさらりと仕上げている。東京の地名では阿佐ヶ谷と小金井の組み合わせがでてくるのは彼の傾向の中では珍しい。さらりと仕上げられたことに技の熟成を感じる。次の『クリーム』は従来からの路線に近い。『チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ』で転調させ、『ウィズ・ザ・ビートルズ』で本人以外の登場人物を増やし、『ヤクルト・スワローズ詩集』で抜けをつくり、『謝肉祭』では、従来きれいな女性、魅惑的なパーツを持つ女性、きれいだが『ねじまき鳥クロニクル』に出てくるような、ほんの些細な美の破綻がある女性が出てきていたのに対して、見た目醜い女性が登場し、『品川猿の告白』で猿を重要キャラクターとして採用、『一人称単数』でエンディングとなる。どれも村上氏の術中のものであるが、ほんのちょっとひねってあるようだ。 全体感とすれば、これまでの短編集の中ではよくできている方に入る小品と思う。珍しく、もう一度読んでもいいと感じさせられた。また半分位のものは、長編小説の中に組み入れることが可能なものという事になるのだろうか。それにしても、考えてみれば好き嫌いで扱われるのは小説の常、29歳でデビューし前期高齢者後半に至ってもこれだけ一線にあって多産な小説家というのは稀だ。明治からこの方、大方の技術的な完成は先輩たちがやりつくしたとも思われる中、大したものである。年を重ねたダンス・ダンス・ダンスと言ってしまったらご本人に失礼になってしまうだろうか。本の題名ではないが職業としての小説家であろう。 | ||||
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リアルとほどよいファンタジー感がちょうど良く混在している。 今回の作品は村上春樹さん自身の経験が元になっている感じもあって、 どこまでが現実にあったことなのか、それとも全くの作り話なのか、と想像しながら読むのも面白い。 時代は色々と変わっていき、価値観やものの捉え方も加速度を付けて変わっていくなか 小説こそは変わらずにあっていいんだと思います。 | ||||
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海辺のカフカで15歳の主人公を描いたのが50歳を超えていた村上春樹にとって、今回の小説も年齢なんて関係ない内容なのかな?と思って読んでみた。 実際、『小説家としての村上春樹』の中で書きたいと思ったことを書いていると言っていたから、70歳を超えた村上春樹が何を感じで、何を書きたいのか?を気になった読んでみた。 最近読んだのが騎士団長殺しだからかもしれないけど、70歳を超えて、過去のことを思い出す文章が多くみられた。 過去にこんな人にあった 過去にこんなことがあった そんなような内容だ。 村上春樹という作家が好きなのは、彼が自分に似ているからだと思っている。 メディアを嫌い 健康的な生活を送り それでいて野心的 『自分に文章を書くという機会が与えられているなら、それを最大限にすることが自分の役目である』のようなことを言っていたのが素敵だった。 彼が文章をかけるのも、あと10〜20年くらいかもしれない。もしかしたら、奥さんに何かがあったら書くのを止めてしまうかもしれない。 でも、彼が彼らしい生活を続けて、その人生を全うする姿を、彼が書いた文章を通じて感じていきたいと思う。 | ||||
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たくさんのエッセイからもわかりますが、村上さんはジョーク好きで、今回の短編集にはその「滋味」がたくさん出ていたと思います。なかなか美味しかった。村上さんの比類無き比喩は、ジョークの延長だとさえ感じます。また、ジョークとは自由の象徴です。ただし、スーツを着てジョークを言うと、顔が無い見覚えの無い誰かに、恥知らずと言われることになるかもしれない(特に日本では)。不意打ちの暴力性、その苦さ辛さを受け止めざるを得ないことは、自由を得ることの代償です。 「品川猿」中の台詞「いいから名前を盗んぢまえ」には、声を出して笑いました。村上さんの「小説」を読んで声を出して笑ったのは「騎士団長」の顔なが以来です。今回の私小説風、エッセイ風の作品には、そういう遊び心がさらに感じられて僕は好きです。 確かに「融通無碍」と言えるようなところもありますし、過去作品のモチーフのリプリーズ的な部分も見受けられます。音楽的、村上さん的ですね。「チャーリー(中略)ボサノヴァ」にもニヤリとさせられました。ディスク・ジョークですかね‥。 装画に豊田徹也さんが使われてて驚きました。新しい若い読者にも、手に取って欲しいという願いがあるのでしょう。豊田さんの作品ももっと知られるといいな。 「歯車」‥社会の安定した歯車になり損ね、漠然たる不安を抱えて自殺する若い人がいることは辛い。村上さんは、若いときに自分は歯車に向いていないと感じられ、努力して「自転車」になることにしました。そしてその後は世界のトップ「ランナー」。 村上さんの作品から、いろんなメッセージを読み取ってしまうことも自由です。誤読、個読の自由。しかし、相変わらず象徴としての美少女がお好きですね。アンチがあってもやめられない‥。青少年の精神の自由か。 いや、僕は村上さんのちょうど20歳年下なのですが、自分の年齢より(妙齢の女性ではなく)村上さんの年齢を改めて意識することにより、不思議な驚きが生じます笑。お年を召しましたね。でも、古希を超えて新しいことに挑戦している‥。これからもランナーなのでしょう。 次の長編はリアル私小説風なのかなあ?期待してます。 | ||||
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本書は,「石のまくらに」「クリーム」「チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ」「ウィズ・ザ・ビートルズ With the Beatles」「ヤクルト・スワローズ詩集」「謝肉祭(Carnaval)」「品川猿の告白」「一人称単数」という8篇の短編小説が収録されている。この8篇の短編小説は,村上春樹という猿使いによる猿回しではないだろうか。いずれも,フィクションかノンフィクションか,その境界がよく分からない。 「石のまくらに」は,大学2年生のとき、郵便で送られてきた私家版の歌集『石のまくらに』(「28番」)と彼女の記憶。 「クリーム」は,十八歳のときに経験した奇妙な出来事。公園のベンチで出会った老人は,「フランス語に『クレム・ド・ラ・クラム』という表現があるが,知ってるか?」と言った。中心がいくつもあって外周をもたない円について思いを巡らせ続ける。 「チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ」は,大学生の頃に書いた架空のレコード批評。そんなレコードは存在しない。ところが,おおよそ十五年後に,ニューヨーク市内の小さな中古レコード店で,同じタイトルのレコードを見つけることになる。 「ウィズ・ザ・ビートルズ With the Beatles」は,一九六四年,LP「ウィズ・ザ・ビートルズ」を胸にしっかりと抱えた美しい少女に強く心を惹かれた。僕がその少女を目にしたのはそのときだけだった。その翌年,僕に一人のガールフレンドができた。一九六五年の秋の終わり頃,彼女の家にガールフレンドを迎えに行った。日にちを一週間間違えて迎えに行ったらしい。彼女の帰りを待っている間に,彼女のお兄さんと二人で会話した。そのお兄さんと再び出会ったのは,それから十八年ぐらいあとのことだった。ガールフレンドは,三年前に自殺した,という。本のカバーに描かれた「ウィズ・ザ・ビートルズ」のLPと少女は,村上春樹のレクイエムだろう。 「ヤクルト・スワローズ詩集」は,忠実なファンとして自費出版した,という架空の詩集。 「謝肉祭」は,僕の些細な人生の中で起こった,一対のささやかな出来事。五十歳を少し過ぎていた僕は,友人の紹介で「F*」(仮名)と知り合った。僕の心にまず浮かんだのは,なんて醜い女性だろうという思いだった。美しい女性は,「美しい」という共通項でひとつにくくることができる。彼女たちはみんな,黄金色の毛並みの美しい猿たちを一匹ずつ背中に背負っている。それに比べて醜い女性たちは,一人ひとりそれぞれに,独自のくびれた毛並みの猿たちを背負っている。F※の猿は,とても居心地良さそうに臆することなく,彼女の背中に静かに取りついていた。あたかもすべてのものごとの原因と結果が,世界の中心でひとつに抱き合うみたいに。女性は猿たちを背中に背負っている。これは,「醜い仮面と美しい素顔──美しい仮面と醜い素顔」というメタファーだろう。無人島に持って行く一曲だけのピアノ音楽は,という彼女の質問に,僕が答えたのは,シューマンの『謝肉祭』だった。半年間,僕らは暇さえあれば熱心に『謝肉祭』を聴いた。二人で総計四十二枚の『謝肉祭』を聴き終えた時点で,彼女のベストワンはアルトゥーロ・ベネディッティ・ミケランジェリの演奏(エンジェル盤)であり,僕のベストワンはアルトゥール・ルビンシュテインの演奏(RCA盤)だった。十月に入ってしばらく,F※からの連絡はなかった。十一月,テレビのニュースに彼女が映っていた。女性アナウンサーはF※の実名を口にし,大型詐欺事件の共犯として※※署に逮捕された経緯を告げた。F※は,僕の前から完全に姿を消した。その後,数多くの新譜が出たが,僕の『謝肉祭』演奏のベストワンは,今でもルビンシュテインだ。ルビンシュテインのピアノは人々のつけた仮面を力尽くで剥いだりはしない。彼のピアノは風のように仮面と素顔との隙間を優しく軽やかに吹き抜けていく。 「品川猿の告白」は,タイトルのとおり,メタファーの猿が面目躍如たる演技で,日常から非日常に誘う伝奇譚である。僕がその年老いた猿に出会ったのは,群馬県M※温泉の小さな旅館だった。僕が三度目に湯につかっているとき,人間の言葉がしゃべれる猿と出会う。その猿は小さい頃から大学教授夫妻に飼われ,言葉も覚え,かなり長く東京の品川区の御殿山のあたりで暮らしていた,という。品川猿と呼ばれる,その猿から,いつの間にか,人間の女性にしか恋情を抱けない体質になってしまっていた。それを解消するために,好きになった女性の名前を盗むようになった。盗んでいくのはその名前の一部,ひとかけらに過ぎない。中には自分の名前の一部が盗まれてしまったことに気づく人もいる。自分の名前が思い出せないみたいなことが,時として起こる。これまでに七人の女性の名前を盗んだ,という告白を聞いた。猿は,「愛というのは,我々にとっての貴重な熱源となります。」という意見をひとつ述べた。それから五年が経過した。ある旅行雑誌の女性編集者が,半年ばかり前から,自分の名前が思い出せなくなった,と言った。 「一人称単数」は,私は今ここにいる。ここにこうして,一人称単数の私として存在する。もしひとつでも違う方向を選んでいたら,この私はたぶんここにいなかったはずだ。バーで彼女は私の隣のスツールに座っていた。「そんなことをしていて,なにか愉しい?」と彼女は尋ねた。「洒落たかっこうをして,一人でバーのカウンターに座って,ギムレットを飲みながら,寡黙に読書に耽(ふけ)っていること」私は沈黙を破るために言った。「ギムレットじゃなくて,ウォッカ・ギムレット」。会った記憶のない女は,「私はあなたのお友だちの,お友だちなの」と静かな,しかしきっぱりとした声で続けた。「その親しいお友だちは,今ではあなたのことを不愉快に思っているし,私も彼女と同じくらいあなたのことを不愉快に思っている。よくよく考えてごらんなさい。三年前に,どこかの水辺であったことを。そこで自分がどんなひどいことを,おぞましいことをなさったかを。恥を知りなさい」。三年前の記憶は辿(たど)れなかった。街路樹の幹には,ぬめぬめした太い蛇たちが蠢(うごめ)いていた。歩道を歩いていく男女は誰一人顔を持たず,......。これは,鏡に映っていた選ばなかった方向の世界の私なのかもしれない。ちなみに,鏡の語源は、蛇の目と言われている。 | ||||
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村上春樹の短編集には、「いつもの」安心感がある。際立って目新しい何かがあるわけでもないし、読み飛ばした作品すらある。だけど、村上春樹の作品を読み続けている身としては「これだよ、これ」といった穏やかな心地よさを感じながら読み進めることができた。馴染みのある、村上春樹の文体。 個人的には、最後の「一人称単数」が形を少し変えて次の長編の冒頭となるのではないか? という気がした。予感と言うよりは、ただの期待かもしれない。 | ||||
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8つの短編。全体に、作者の老いが透けて見えるのは気のせいだろうか。かつてのようなドキドキした感じを受けないのは、単に読み手の私が歳をとったせいかもしれないが。 「歳をとって奇妙に感じるのは、自分が歳をとったということではない。……驚かされるのはむしろ、自分と同年代であった人々が、もうすっかり老人になってしまっている……とりわけ、僕の周りにいた美しく溌剌とした女の子たちが、今ではおそらく孫の二、三人もいるであろう年齢になっているという事実だ(p.73)」というフレーズなど「まったく同感」と思う分だけ、異世界を構築するのに巧みだった村上春樹が「こちら側」にきてしまったようで残念である。 引き込まれて怖くなった小説が1編。私だって、無意識のうちに、誰かに激しく憎まれるようなことをしてしまっていて、憎悪の視線を浴びているかもしれないのだ。 | ||||
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「一人称単数」(村上春樹 文藝春秋)を読み終えました。翻訳物をいくつか読んでいる合間に、楽しく読ませていただきました。8つの短編が収録されていますが、先頭から3番目までは、2018/7月号の「文学界」で既に読んでいましたので、再読になります。 「石のまくらに」・・・作者は、まるで長編小説に向かうためのトレーニングが必要だと言わんばかりに自分の世界を丹念に追いかけていますね。主人公のOne night standの相手が残した短歌が秀逸だと思います。 「クリーム」・・・・・老人とぼくの対話は、チャンドラーの「プレイバック」、舞台であるエスメラルダ(サンディエゴ、ラ・ホヤ)のあるホテルに住みつくヘンリー・クラレンドン四世とフィリップ・マーロウとのうっとりする会話の「再現」のように凛としています。そして、「一人称単数」は、この短編に連環するのではないでしょうか? 「チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ」・・傑作です。不思議な出来事があって、ユーモアと小説のキレを併せ持ついい<作り物>だと思いました。すべての短編小説は、”閃光の人生”を切り取ってはじめていい小説だと言えますから、今回もまたとても楽しい読書体験だったと思います。「ペリー・コモ・シングズ・ジミ・ヘンドリックス」が許されるなら、「ジェイムズ・ブラウン・シングズ・ブルーノ・マーズ」なんぞはどうなのだろうか? 「ウィズ・ザ・ビートルズ」・・表題のLPを抱え、スカートの裾を翻して歩く美しい少女の鮮烈なイメージ。哀しみのサヨコ。サヨコの兄が「・・・・代わりに君がわかってやってくれればと思う」というダイアローグに不覚にも心を動かされました。 「ヤクルト・スワローズ詩集」・海流の中の島。素敵なメタファーです。 「謝肉祭」・・・・・・変わらない村上春樹の世界。対比は対比のまま残り、繰り返し考えさせられながら残り続けます。何かできると思い上がった自分と結局何もできなかった自分にもたらされる悔恨。少し過剰すぎるメタファー。 「品川猿の告白」・・・ブルックナーを聴く猿に思うこと。過剰でもなければ、不足もない唯一無二の短編。 「一人称単数」・・・・ある種の受け止めきれない悪意。 最後に、<石のまくらに>に戻りましょう。とてもいい短歌だと思います。過去はもういいですよね。"1973年のピンボール”からの勝手な引用(「遠くからみれば、たいていのものは綺麗に見える」)を持ち出すまでもなく、過去は淡い霞の中にあって、時の流れが囚われを少しずつよきものに変えて行ってくれます。いつだって、今日、今、この時、この瞬間がぬきさしならないものなのだから。 | ||||
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村上春樹も齢を重ね、彼の読者も同時に齢を重ねる。 期待を裏切らず、誰もが若き日を夢想する。 | ||||
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村上春樹の本を長く読んできた人でしたら、どこかで読んだような話ばかりだなあ、と思うかもしれません。 でも、最後に収録されている書き下ろし短編が凄いです。男性主人公に、女性がかけるあの一言の衝撃。これまで読んできて感じてきた様々なモヤモヤを一気に昇華させてくれます。 この短編のお陰で、読後の気持ちがとても清々しく、笑いが溢れ、「これまでの自分に対してここまで言った後に、もし次があるとしたら、村上春樹は果たしてどんな話を書くのだろう。」という希望まで感じました。 | ||||
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隠喩の飛距離、ユーモアの切れ味、融通無碍な視点、心の機微を捉える繊細な眼差し、どれも過去最高レベルと言っていいかもしれない。 大御所の作品ということで、“ひとつ辛口のレビューを書いてやろう”と割と斜に構えてページを捲ったのだが、文句なしに面白かった。 齢71にしてこの水準。売れ続けるのはやはり理由があるのだなぁ。 正直、氏の作品は長編に関して言えばかつての神がかり的な輝きはもう失われていると思う。 最近の長編、『1Q84』や『騎士団長』が『ノルウェイの森』や『羊をめぐる冒険』なんかに比肩しうる作品である、とはお世辞にも言えまい。 長編作品を書きあげるには肉体的にも精神的にも相当な負荷がかかる仕事であるだろうし、そのために必要な体力は(氏の才能と努力をもってしても)、やはり年々衰えていくものなのかもしれない。 しかしエッセイや短編など割りあい実験的で身の軽い作品であれば、氏はいまだ進化を続けているような気がする。 言ってみれば、三ツ星レストランのオーナーシェフを任せられるような体力はもうないが、冷蔵庫のあり合わせでささっと旨いモノを作らせたら未だ他の追随を許さない料理人って感じだろうか。 レビュータイトルにあるように、もし外国の人に「日本のカルチャーを知りたいので、最近出版された短編小説で一番面白かったものを教えてくれませんか」、と言われたなら、相手がいかなる文化、宗教、人種に属していようとも自信を持ってこの本を手渡す。 | ||||
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村上春樹の描く生活には圧倒的な沈黙の世界が併存しているように思える。論理的に「語り得ない」と確定される境界ではなく,語り出そうとする瞬間に反粒子のように垣間見られる「ざわめく沈黙」とでも言うべきOxymoronの世界。それは,ある種の喪失―自分の名前が思い出せない(「品川猿の告白」)―やシューマンの「謝肉祭」を繰り返しきき,語り合うという儀式的な繰り返し(「謝肉祭(Carnaval)」)を媒介にして「物語」と接続する,ただそれだけのことを村上春樹は繰り返し描いているように思える。ところで,この短編集のタイトルとなっている「一人称単数」についてだが,村上春樹のいくつかの長編,例えば「ノルウエーの森」,「ねじまき鳥クロニクル」には,そのエスキスとなった短編が存在する。「一人称単数」はそのようなエスキスなのではないかという印象を受ける。 | ||||
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38年前(笑)大学3年生の9月、神宮球場のライト外野席でたまたま、並んだ30過ぎ位の、ヤクルトファンのあんちゃんが、黒ビールを呑んでいました。 珍しくカープが大量リードしていたのですが、あんちゃんは、至極平静にグラウンドを眺めていました。 試合後半、ウォークマンで音楽を。 『何を聞いとるんですか?』に 『マイルスデイヴィスだよ(笑)君、広島の人?』『いいえ、山口県柳井市です』 『いいところらしいね | ||||
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