藪の中
- 信頼できない語り手 (10)
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タイトル名の作品の音読をきっかけに購読しました。既に古典的名作として高い評価を受けている作品ばかりが収録されており、楽しめました。 | ||||
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たまたま市内の朗読グループが録音したCDをいただき「藪の中」の色々な言葉が「漢字」として浮かんでこなかったので購入することにしました。 服装や色、時間の伝え方に納得しながらも結局、犯人については藪の中という終わり方に謎解きをしたくなる表題でした。 | ||||
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昔購入したけど所在不明にて、再購入しました。 | ||||
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神は藪の中殺人事件を使って捨て子を救った。 この本に収録されているのは、映画『羅生門』の脚本だ。執筆したのは黒澤明監督。芥川龍之介の『藪の中』と『羅生門』が原作だ。 脚本と原作の違いは、『藪の中』にはない4つ目の証言と捨て子のエピソード。この加筆によって、映画『羅生門』は世界最高の名画と成った。 第1の証言は藪の中姦淫殺人事件の重要参考人多襄丸の偽証。 第2の証言は殺された武士の妻の偽証。 第3の証言は死んだ武士の霊の偽証。 第4の証言が、全てを目撃した樵の語った真実だ。 黒澤明は芥川龍之介の小説『藪の中』の謎を解いていたのだ! 殺人事件の容疑者3人は全員自分が犯人だと証言する。しかし殺害したのは第1の容疑者多襄丸だった。では何故第2第3の容疑者は嘘をついたのか? 妻は夫を殺したと証言し自殺未遂まで図っていた。武士は自害だと証言した。3人には自分が殺人の罪を認めてでも隠したい重罪があった。 多襄丸は、自分も武士も女を奪い合って勇ましく戦ったと言いたかったのであり、武士は多襄丸の殺人罪を庇って、妻の姦淫罪を許せないと訴えた。妻は、自分は姦淫を悔いたが夫の許しが出なかった為殺したと訴えた。 姦淫は殺人より罪が重い、というクリスチャンたる芥川の訴えを黒澤は『藪の中』から読み取っていた。 脚本版『藪の中』の狙いの一つは姦淫重罪説を日本人に説く事だった。 第4の証言は、藪の中姦淫事件のお粗末な展開を暴露する。 多襄丸も武士も女を奪い合うのをやめて、姦淫の罪の原因を女に擦り付ける。それに怒った女が2人の男を強く詰って男たちは仕方なく決闘を始めた。この事実を2人の男は検非違使に語ることが出来なかった。如何しても隠したかった。 女も自分が詰って男二人を決闘に追い込んだとは証言出来なかった。 人間は等しく良心の呵責に苛まれる。 芥川が『藪の中』で訴えたかったのは、人間は信じられないという事とは真逆の結論だった!と黒澤は読み取った。その証拠に女は、夫の死は決闘を求めた自分の責任だと後悔し、自殺を図っているではないか。 それなのに、現代に至っても日本人は“真相は『藪の中』”と言う使い方をして、小説『藪の中』を例に取って「人は自分勝手に嘘をつく」と言いたがる。これは芥川に取っても、黒澤に取っても心外な社会現象だ。 脚本『羅生門』は捨て子を樵が育てると決心するエピソードで終わる。 日本人はこれを取ってつけたご都合主義の展開だと酷評した。世界の観客がこのハッピーエンドに感動し拍手を送ったにも関わらず! 第4の証言にも偽証はあった。女が多襄丸と争った際に落とした高価な短刀を樵は盗んでいたのだ。樵には6人の子供がいた。家族を養う為に樵は盗みを働いたが、検非違使ではそれを隠した。 「6人育てるも、7人育てるも同じ苦労だ」 樵は涙を流して捨て子を育てたいと訴える。罪を犯した良心の呵責が、彼にそう言わせたのだ。ここに、黒澤明版『藪の中』は完結する。 そして映画本編にはない、希望の入道雲が雨上がりの青空に立ち上がって脚本『羅生門』は終わる。 人間を信じて良いんだよ、というメッセージ。全ての黒澤明監督の作品に共通する結論だ。 捨て子は豪雨の前から『羅生門』の下にいた。神は事件に遭遇した僧と樵を羅生門に呼び寄せて、下人を相手に事件を語らせた。 樵の心情を善良な方向に転換させる為に。そして、彼が罪の償いを決意する事に成功する。 神の愛の表現者として人は生まれ生きている。 映画『羅生門』の真相だ。 | ||||
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芥川の小説「藪の中」について一般的には真実の相対性 (人間は自分の信じたいことを信じるので客観的な真実には達することができない) をテーマにしていると考えられていますが、私には 「芥川のように文章を磨きに磨くような作家が真相を用意せずに自作を書けるはずがない」 ように思えます。 同じように考える人はいるもので、例えば以下の2人の方が「藪の中」の真相について自らの推理を書かれています。 熊倉千之著「日本人の表現力と個性」の「第三章 現代日本文学の問題」の「3『藪の中』新釈」 上野正彦著「「藪の中」の死体」の「第一章 あの迷宮入り小説に真犯人がいた」 特に熊倉氏は以下のように述べています。 「『藪の中』の仕掛けは、作品全体を統括する語り手、あるいは地の文をもたないことだ。 つまり、小説に不可欠な「考への整理」係がいないのだ。七人の陳述が並べられているだけで、表面的にはト書きがない芝居の台本に似ている。 これには、ある種の意図が感じられる。それは、知らず知らずのうちに、読者が作者の視点を引き受け、「考への整理」係をさせられてしまうからだ。この作品を小説として完成させる作業には、読者の参加が必要なのだ。 <中略> 芥川は読者に恃んだのだ。読者がテキストを読み、そこに解釈を施すことではじめて完成するという、読者の参加が必須の実験的な作品を目論んだわけだ。そのためには芥川が絶対にもち出せない主題がある。真実不可知論だ」 私も熊倉氏の意見に賛成です。 さて熊倉氏(日本文学者)も上野氏(元監察医)も真相を「侍の自殺」と推理しています。 それに対して私は「真犯人は妻」と考えています。 「やっぱり真実は相対的ではないか」とか「お前の推理が間違っている」と言われてしまいそうですが、熊倉氏と上野氏の推理の結果と私の推理の結果は(推理の方法は異なるものの)前半は一致しています。 そこで私の推理を以下に書いてみます。 補強として熊倉氏と上野氏の推理も引用してみます。 私の推理の方法論は 「「藪の中」のストーリーの以下の①~⑦の構成要素について、盗人、妻、侍の三人の証言のうち、二人の証言が一致しており、残りの一人に嘘をつく動機がある場合は、一致した二人の証言を真実として採用する」 というものです。 なぜこのような方法を採用するのかと言うと、 人間というものはストーリーの構成要素の中から好きな要素を選び出して自分に都合の良いストーリーを作ってしまいますが(その時に構成要素の順番を入れ替えることもあります)、構成要素自体を変えることは少なく、自分に都合の悪い構成要素については「変える」よりも「言わない」という対応をする ことが多いので、ストーリーを構成要素に分解してしまえば三人の証言は意外に一致することが多い、 と考えられるからです。 ①凶器は何か? 証言は、 盗人:自分の刀で侍を刺し殺した。 妻 :自分の短刀で夫を殺した。 侍 :妻の短刀で自殺した。 となっていて、2対1で「凶器は妻の短刀」となります。 (盗人には自分の武勇を自慢したいという動機があります) 上野氏は以下のように述べています。 「多襄丸は、侍との斬り合いの中で刺したといっている。 だとすれば、太刀はすぐ相手の胸から引き抜き、さらに攻撃するなり、防御するなり次の動作に入るのが普通だ。 そうなると、創口からの出血は現場に大量に飛散しているはずである。 これらのことから刃物は胸に刺したまま放置したと考えるべきで、凶器は、太刀ではなく、小刀であった可能性が高いことがわかるのである」 ②盗人と侍の斬り合いはあったのか? 証言は、 盗人:二十三合斬り結んで侍の胸を貫いた。 妻 :斬り合いがあったとは述べていない。 侍 :斬り合いがあったとは述べていない。 となっていて、2対1で「盗人と侍の斬り合いはなかった」となります。 上野氏は以下のように述べています。 「さらに侍は、烏帽子をかぶったまま倒れていたはずだが、激しい斬り合いがあったことを考えれば、それも不自然な現象である」 斬り合いはなかったとすると木樵りの 「草や竹の落葉は、一面に踏み荒されておりましたから、きっとあの男は殺される前に、余程手痛い働きでも致したのに違いございません」 という証言との整合性が問題になりますが、斬り合いはなかったとしても「盗人が侍の不意を打って組み伏せ杉の根がたへ括りつけた」「妻が短刀で盗人を斬り立てたが、短刀を打ち落された」「盗人が妻を強姦した」ということは起こっていますから、これらにより落葉は踏み荒されたのでしょう。 また仮に斬り合いがあったと仮定しても凶器が妻の短刀であることは動かせない(と思います)ので、この場合、両者の斬り合いの途中で妻が短刀で侍を刺したことになりますが(これは妻がよほど夫を嫌っており、盗人に好意をいだいた場合ですね)、その時は背中から短刀で刺したことになるでしょうから、「前から刺されている」ことと矛盾します。 ③杉の木に縛られた侍は縄を解かれる前に刺されたのか、縄を解かれてから刺されたのか? 証言は、 盗人:縄を解いた後で正々堂々と戦って殺した。 妻 :杉の木に縛りつけられている夫を刺した。その後、遺骸の縄を解き捨てた。 侍 :盗人が縄に切れ目を入れて去って行った。その後、縄を解いてから自殺した。 となっていて、これも2対1で侍は縄が解かれてから刺された(自分でやった場合も含めて)ことがわかります。 (妻は縄を解いてからの夫とのやりとりについて話したくなかったのではないでしょうか?) 熊倉氏のこの件についての推理を要約すると以下の通りです。 第一発見者の木樵りの証言に「その(死骸の)側の杉の根がたに、縄が一筋落ちておりました」とある。 杉の木と解かれた縄と侍の死骸の位置関係は、殺されてから縄が解かれたなら (杉)-(侍)-(縄)となるはずであり、縄が解かれてから殺されたなら (杉)-(縄)-(侍)となるはずである。 木樵りの証言は後者であることを示していると思われるので、侍は縄が解かれてから殺された(自殺を含めて)のである。 ①~③については熊倉氏と上野氏の推理の結果と私の推理の結果は完全に一致しています。 ④以降は熊倉氏と上野氏の推理の結果と私の推理の結果は必ずしも一致していません。 ④妻は侍を殺すように盗人をそそのかしたのか? 証言は、 盗人:女は自分に「あなたが死ぬか夫が死ぬか、どちらか一人死んでくれ。生き残った男につれ添いたい」と言った。 妻 :そそのかしたことについては何も述べていない。 ただし盗人がいなくなってから夫に「ではお命を頂かせて下さい。わたしもすぐにお伴します」と言った。 侍 :妻は盗人に「あの人を殺してください」と言った。 となっていて、2対1で「妻は侍を殺すように盗人をそそのかした」となります。 「あなたが死ぬか夫が死ぬか、どちらか一人死んでくれ。生き残った男につれ添いたい」というのは盗人と命をかけて戦わなければならない侍には「あの人を殺してください」という意味に聞こえたのだと思います。 妻は当然、盗人をそそのかした件についてはだまっていたいでしょうしね。 ⑤盗人は妻を蹴倒したのか? 証言は、 盗人:「自分に色欲しかなったなら、女を蹴倒しても逃げてしまっただろう」(つまり「実際には蹴倒さなかった」と証言している) 妻 :夫に走り寄ろうとした時に盗人に蹴倒された。 侍 :妻が盗人に「あの人を殺してください」と言うと盗人はじっと妻を見てから妻を蹴倒した。 となっていて、2対1で「盗人は妻を蹴倒した」となります。 盗人が「女を蹴倒した」と言わなかったのは、それを言うと侍との斬り合いもなかったことになるからではないでしょうか? また盗人が妻を蹴倒した理由は侍の証言が自然であるように思えます。 というのは妻は「盗人に蹴倒された後で夫に『お命を頂かせて下さい』と言った」と証言しているのですが、 行為の順番が、侍の証言では「(妻が)侍を殺すように盗人をそそのかす→盗人に蹴倒される」になっていますが、 妻の証言では「盗人に蹴倒される→夫に『お命を頂かせて下さい』と言った」と逆になっています。 妻の証言ではなぜ盗人に蹴倒されたのかわかりませんが、これは「夫を殺すようにそそのかした」ことを知られたくないので、証言では二つの行為の順番を逆にしたと考えられます。 ⑥縄は切られたのか、解かれたのか? ③の証言から2対1で縄は「切られたのではなく、解かれた」となります。 (侍は妻によって縄が解かれたことを言いたくなかったのだと思います) また切られたなら縄に結び目があるはずですが、木樵りの証言に 「ただその側の杉の根がたに、縄が一筋落ちておりました」 とあり、結び目があったとは証言していません。 ⑦凶器を持ち去ったのは誰か? 証言は、 盗人:侍を刺した太刀を自分で持ち去ったことになる。 妻 :後に「短刀を自分の喉に突き立てた」という証言があるので自分で持ち去ったことが分かる。 侍 :妻の短刀で自殺した後、誰かが忍び足で側へ来て短刀を抜いて行った。 となっており、2対1では決められません。 ただ登場人物から考えて凶器を持ち去ったのは妻か木樵りになると思われますが、 木樵りとすると「殺人事件の第一発見者が凶器を被害者の胸から抜いて盗み、しかも第一発見者として証言した」ことになってしまい不自然ですから(短刀を盗んだなら第一発見者として証言しないと思います)、凶器を持ち去ったのは妻と考えます。 ---------------------------------------- さて熊倉氏と上野氏の推理の「真相は侍の自殺」というのも芥川自身が自殺していることを思えば説得力がありますが (特に熊倉氏は盗人の証言は白状、妻の証言は懺悔となっているのに対し、侍の証言は木樵りや他の証人と同じように物語となっていることから侍の証言は真実として良いという立場です)、 私自身は「犯人は妻」と考えています。 その理由は以下の通りです。 ・私は「凶器を持ち去ったのは妻」と考えていますが、それはやはり「妻が犯人」であることを示していると思います。 ・「侍の自殺」では小説として面白くないから。 推理小説で密室殺人事件の真相が自殺だとがっかりしてしまうように「藪の中」もこれだけ読者をわくわくさせて真相が侍の自殺ではやっぱり面白くないですよね。 ・「藪の中」は「今昔物語」とアンブローズ・ビアスの短編小説「月明かりの道」を下敷きにしていると言われています。 「今昔物語の巻第二十九の第二十三 妻を具して丹波の国に行く男、大江山にして縛られたる語」に 「月明かりの道」からの三つのアイディア「短編小説を証言のみで構成する」「死者の証言は霊媒者の力を借りる」「夫婦の間の殺人(ただし「月明かりの道」では夫が妻を殺すが、「藪の中」では私の推理が正しければ妻が夫を殺す、というように役割が入れ替わっている)」を適用したのが「藪の中」なのではないでしょうか? ・「藪の中」という題名はもしかすると女性自身を象徴したものではないでしょうか? 女性は皆一人一人暗い藪を持っており、それは女性自身の象徴であると同時に女性の心の闇も象徴しているのではないでしょうか? 実は「藪の中」を最初に読んだ後で、何か背筋の寒くなるような恐ろしさを感じたのですが、それは今から考えてみると侍の妻の心の闇を感じたからかもしれない、と思います。 ---------------------------------------- 最後に私自身の推理の結果を踏まえた上でのありそうなストーリーを以下に書いてみます。 (①~⑦の推理の結果から許容されるストーリーにはある程度の幅があるとは思われますが...) ・盗人は侍の妻を強姦した後で、自分の妻になる気はないか、と尋ねる。 ・妻は盗人の申し出を受け入れる条件として夫を殺すように盗人をそそのかす。 ・盗人は妻の本性にあいそをつかして妻を蹴倒し、侍に「妻を殺すか?」と聞く。 ・そのすきに妻は逃げてしまう。 ・盗人は助けを呼ばれると自分の身が危なくなるのでその場を去る。 ・戻って来た妻は侍の縄を解いて許しを請う。 ・侍は妻を軽蔑の目で見る。 ・妻は衝動的に夫を短刀で刺す。 ・虚を突かれた侍は「侍の自分が妻の短刀をかわせないわけはない。 これはあえてかわさなかったのだ。つまり自殺なのだ」と自分を納得させて死んでいく。 (盗人が侍の死を知ったのは後で伝聞でなのか、あるいは女が侍を短刀で刺すところまでは隠れたところから見ていたのか、どちらかでしょうね) ・妻もその場を去るが、あとで凶器である短刀だけは処分しなければならないと気付いて戻って来て夫の胸から短刀を抜いて持ち去る。 (「夫を殺したわたしは、一体どうすれば好いのでしょう?」と言いながら実は自分の身の安全を図っている) ---------------------------------------- P.S.「藪の中」を原作とする黒澤明監督の映画「羅生門」では、真相として 「妻が盗人と侍を殺し合うようにそそのかして実際に盗人と侍が斬り合ってしまう」描写が見られます。 映像作品としてはそのほうが良いのかな、とも思いますが、この映画では妻の短刀を持ち去ったのを木樵りとしていて、これでは原作の怖さがなくなってしまうような気がします。 原作の「藪の中」の最後がなぜ怖いかというと... 殺された侍に忍び足で近づいて来る者がいる。 犯人が凶器を始末しに来たのだ。 それは侍自身の妻なのだ... と何となく読者に感じさせるからではないでしょうか? | ||||
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