ゲルニカ1984年
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迅速配送でした。使用感はありますがあまり気にならない程度で良かったです。 | ||||
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時間の無駄。駄作でした。 | ||||
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本書は、1984年に雑誌連載された作品です。オーウェル『1984年』を意識しています。しかしながら、本書と『1984年』には大きな違いがあります。本書では、自由な社会でいるのにも関わらず、「今日が大丈夫だったから明日も大丈夫だろう」「そんなことはないに違いない」「それはみんなが多かれ少なかれ思うことだけど、現実的ではないよ」というような意識でいるうちに、いくつも前兆があったにも関わらず、その現実を直視せずにいるうちに、いつの間にかある日突然破滅が訪れる(のではないか)、という、社会的現実を構成する大衆の意識の集団的な認知的不協和をテーマのひとつとしています。 本書はラストの一文をどう解釈するかで、大きくイメージが変わります。最初に読んだ1987年当時は、ラスト一行は客観的現実だと思えました(ディック・ワールド的理解)。しかしその15年後くらいに再読した時は、主観的現実に思えました。後者の場合、そういう思い込みこそが身を滅ぼすのだ、という話に解釈できてしまいます。なので再読した時にはたいした小説ではないように思えました。 しかし、最近、”ポスト真実”、ウィキアリティなどのキーワードで時代が語られ、国会の発言に合わせて官庁の公文書の方を改竄する事件が発生した状況下で改めて読み直してみたところ、本書の内容は、極めて今日的な意味を持っているように思えました。フェイクニュースなどは、直接的に個人の認知的不協和に付け入るものですが、大衆の間で客観的な合意に達した「客観的な現実解釈」でさえも、それはウィキアリティのようなものに過ぎないのではないか、大多数の合意は、実は、社会規模の認知的不協和の産物なのではないか、という懸念は、インターネットの普及した近年であってさえ、減少するどころか、寧ろ増大しているような印象を受けます。本書は、現実の社会にあるディストピアの一側面を描いているように思えます。作中しばしば登場する「こんな時代だから」というセリフは、文字通りの意味だけではなく、現状の、意識下で、あるべきだと考えている「社会的現実」を再確認し、共有したい心性を象徴する言葉として機能しています。この点では『1984年』同様、ディストピア小説といえるのではないかと思います。本書を再読していて、ミステリー小説『』や映画『]』を連想しました。 | ||||
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小説としてみたら、かなり読みにくいし、技術的にはイマイチだし、ぶっちゃけブラッドベリとディックとヴォネガットのごった煮。 なのだけれど、それでも十二分に読む価値はある。 「ゲルニカ」というキーワードから、「すでに自分たちが戦時下にいるのではないか」と疑い始める主人公。 それが現実なのか妄想なのか…… 「広島は闘いながら滅んだ。しかし、ゲルニカは戦時下であることを見て見ぬふりをしたまま最後の日を迎えた」 本書が作成されたのは冷戦期だから『滅び』は「第3次世界大戦」「核戦争」という形をとっている。 2010年代の現在においては「グローバル経済」や「危機的な環境問題」と置き換えればいいだろう。 1984年に書かれた本書と現在を見比べると、栗本氏の先見性というより、我々が普遍的に気付くべきことから目をそらし続けていることがわかる。 となりの豚さんが殺されても、自分が殺されることからは気付かぬフリを続けて、ここまできてしまった日本、あるいは世界。 まさに今の我々の生き方そのものだ。 あとがきには、本書は啓発など目的とはしておらず、『滅び』を、かくあるものをかく有るものとして認識することとしているが、 それ自体が学ぶべきテーマであろう。 それにしても、84年時点で「こんな時代だから」という言葉が頻繁に出てくることに驚いた。バブルも先の話だし、右肩上がりの時代なんだから。 ただ、やはり1984年前後が文化の商業化が進み、個人主義から衆愚に移るターニングポイントになったことも再認識させられる。 こういった点でも貴重な本である。 | ||||
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ゲルニカ,エグゾゼ,1984年(オーウェル)という要素が、どう重なっているかよくわからなかった。 1960年代に「1984年」という作品を読んで、将来が不安になったことがあるので、栗本薫の書いていることには思い当たることもある。 ゲルニカには行った事がないことと、現物をゆっくりみたことがないので、安田修平の不安がまだピンと来ていない。 最期に安田美穂が、子供とお腹の中の子供を思う気持ちは、栗本薫らしい女性として生きて行く前向きの姿勢が見えたところはほっとした。 | ||||
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