イエスの学校時代
- バレエ (19)
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本を買ってからこれが三部作の第2部だということを知った。擬似家族が新しい町に流れ着いたところから話は始まる。 舞台の時代も場所もわからない。 鮮烈な事件が起きるが、その解釈は読者に任されているのかもしれない。 無様な人間像をさらけ出すところがこの作者の特異なところだと思う。 前作と、続編も読んでみたい。 | ||||
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クッツェーの問題作『イエスの幼年時代』の続編である。鴻巣友季子氏訳の日本語版は今年4月発行だが、原作は最終作の『イエスの死・The Death of Jesus』が今年1月に上梓されており翻訳が待たれる。 本書は6歳のダビードが養父のシモンと養母のイネスと共に、ノビージャから地方都市のエストレージャに脱走し、この地で暮らし始める約1年間の物語である。ノビ―ジャでの公教育を拒否したダビードはこの地でも学校には行けず、私立の「ダンスアカデミー」に入学する。この年の国勢調査では彼を匿って登録しない。秋の果実収穫の季節労働の後、シモンは広告のポスティング、イネスは洋品店に勤めるが、彼女は思いがけない才能を開花して、経営者の補佐役に収まる。 ダビードはここでも天才的なひらめきを示す。シモンは彼を「強権的で横柄」だと感じて手を焼くが、彼を理解する少数の大人たちも現れる。学費を援助する果樹園の老三姉妹やアカデミーの校長とその妻で美貌のダンス教師アナ・マグダレーナ、隣接する美術館の「主任美術館員」(仕事はただの門衛)のドミトリー。ダビードは養父母が「僕を理解してくれない」として、彼らに近づいてゆく。そして起きるドミトリーのアナ・マグダレーナ殺しと裁判。ドミトリーの論述や殺人の動機をめぐって、ミステリーめいた息詰まる物語が展開する。 ストーリーの真意は相変わらずよくわからない。まずは背景となるこの国のありようだ。世界中から新天地を求めて、ただしその途中で過去の記憶を消され、かわりに「善意」だけを与えられて集まったはずの人々の中に早くも貧富の格差が生じているらしいこと。「移民局」などの活動から、何らかの統治機関があるらしいが、民主制なのか独裁制なのか判らない。新聞が発行されているので、「主張や衝突」もあるのだろう。「新しい人生にも虚位性がある。」とアカデミーの校長は言うが、シモンがそれらに全く関心がないのだ。だが私にはこの国も普通の国のようになってゆくなという印象を強く持つ。 判っているのは、この国の多くの人々は分を忘れた「欲望」を捨て去っていること。それがこの国の知識人たちの「数」に対する思想を形作っているらしい。よその世界は数を単なる尺度とすることから文明が始まった。その相対性から競争が生まれ、「生産性」が生まれ、貧富が生まれて、人々を数の奴隷とした。この国の知識人たちは数をその属する物体から分けずに神秘化しているらしい。特に1,2,3,5,7,11といった素数は天から降りてくる神のごとき数字のようだ。だがシモンやイネスのような庶民にはそれはわからない。アカデミーが「蟻の法則」と蔑む数字は、足したり引いたりするものだとする認識がダビードと関係を隔てる。 もう一つは性の問題。「世界はルールで成り立っている」と信じ、世界が存在する理由を求めないシモンにはこれも判らない。年齢のせいもあるらしいが、性に関しては実に臆病なのである。シモンは前編でダビードの友人の母エレナと生理的な性交をするが、男嫌いのイネス(若いときは厭になるほどセックスした)とは同居していても交渉せず、アナ・マグダレーナには惹かれていても、その冷静さに怯え、「高嶺の花」と諦めている。その彼女がホームレスのようなドミトリーを「熱愛」していたとは信じられない。「逆上せ上がって」彼女を絞殺したドミトリーは、「彼女にあるのはあくまでも慈愛と優しさ」だけだったという。慈愛と激情とは違う。「ロゴスとパトス」の両棲はこの国の理想とも異なる。この国は個人の問題に対する解決策を有していない。 そんなドミトリーを幼いダビードは「赦さない」と言いつつ理解する。これもシモンには理解の外である。小説の文章はところどころが「太字」になっていて、エピグラムのようでもあるが、そこをいくら拾い集めても何かが判るわけでもない。この中編も良く解釈できないままに、再読までしてしまったが、「良く判らない魅力」は変わらなかった。最終編の翻訳が待たれる。 | ||||
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イエス?のダビード小僧の出番は少なめで(嫌いなので嬉しかった)、初老の悩めるオッさんシモンが語り手という立場だけでなく主人公として独立していく過程の物語でした。 ドストエフスキー的なドミトリーの殺人事件という物語の軸もあり、魅惑的な人物も多数登場し、幼子時代編よりはるかに面白かった。相変わらず名訳。 ラストページ、踊るシモンに不覚にも落涙。 訳者あとがきに、第三部の原タイトルが記されており、ショックを受けました。ずーっと読んでいたい小説なので、たぶん売れ行きはかんばしくないとは思いますが、どうか早川書房さま、最後まで出してください!お願いいたします。 | ||||
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ノーベル文学賞作家の最新本ということで、読んでみました。 訳者あとがきには、この本を「疾走するエンターテインメント不条理小説」とありますが、たしかに、風変わりな小説ではあるものの、なぜか親しみやすくて面白い読み物となっています。 「たぶん途中までしか読まないだろう」と思いつつ、試しに読み始めてみたら……意外や意外、スルスルッと読めて、そして、第1章の5ページ目のこの部分で、「この本、きっと面白いぞ。最後まで読むかも」と予感したのでした。 ・・・引用はじめ・・・ ふもとのぶどう畑にいたイネスも籠をおろして駆けだす。彼女が全力を出すのを見るのは、一年前のテニスコート以来、久しぶりだ。とはいえ、遅い。肉がついたのだろう。 ・・・引用おわり・・・ 時代はわかりませんが、場所はたぶんブラジルのどこかなんでしょう。 通貨が「レアル」なので。 ダビードという少年(作中、7歳の誕生日を迎える孤児)が主人公。 育てているのは親代わりのシモンとイネス。 数のこと、星のこと、そして性のこと、激情(パッション)のことなど、ダビードは寄宿するダンスアカデミーで見聞きしたことを、シモンやイネスに問いかけます。それが、どれも素朴な疑問ばかりなのに、意味深なのです。 たとえば「人間はどうして人間を食べないの?」とか。 即答できる大人はどれくらいいるのだろう?と思いました。 少なくとも私は、この質問にまともに答えることができません。 さらに答えられない難問がどんどん突きつけられます。 シモンは悩み、苛つき、そのたびに内省します。 このシモンが(良くも悪くも)とても普通で人間的でいじらしいのです。 ダンスアカデミーの教育理念も興味深く、その学長アローヨがどうやら、あのバッハをモデルにしているようなところもあり、彼のピアノ演奏がなぜか聞こえてくるような気持ちにもなりました。その伴奏にのって、少年たちの踊る床の光沢も見えるような・・・ このダンスアカデミーで重大事件が起きまして、後半はミステリーのような勢いでぐんぐん惹きつけられます。 前作の『イエスの幼子時代』は未読ですが、まったく問題なく楽しめました。 読み終わった今、『幼子時代』も読んでみたいと思っています。 ダビードとシモン&イネスとの出会いの場面を詳しく知りたいですから。 | ||||
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