銀行強盗にあって妻が縮んでしまった事件
- 強盗事件 (69)
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不思議な銀行強盗に出くわした人々に奇妙な出来事が起こり始める いったい、なにがどうなっているのか? 本書のタイトルになっている、日々身長が縮んでいく妻と、彼女を見守る夫の数日を中心に、奇妙な出来事に命がけで立ち向かう人、淡々と受け入れる人らを描きます 訳者あとがきによれば、これは著者による不思議な比喩の世界なのだそうです 身長が縮むということを聞かされ、それまでは全く妻の日常に関心を持っていなかったのが、初めて妻を細かく観察するようになった夫 銀行強盗の『自身で回復させねばならぬ』という台詞がキーワードですね 全く以って いったい、ないにがどうなっているのか? 勝手に想像して読んじゃえばいいのかな? 真っ黄色の装丁も133頁という短さもイイ感じ こういうお話大好きです♪ | ||||
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人間は、常に忘れてしまう生き物だ。感謝すべき事も、ありがたい思いやりも、ささやかな善意も、愛される理由も、日常という止めることのできない時間の大きな歯車の中で少しづつぼやけ、ときめきや驚きを過去に残し、あたりまえの事実として積み重ねられてゆく。そしてそれをことさら気にかけることもなく日々を過ごしてゆく。人間とはそういうものだ。どんなに素晴らしいことでも、感謝すべきできごとでもそれが続けば、感動は薄れあたりまえの事として処理してしまう。 ぼくは本書を読んでそういうことを考えた。それが正しいことなのかどうかはわからない。でも、そういうことなんだと考えた。そしてわかっていながらも適当にスルーしていた事や、恒常化した家族とのやりとり等をあらためて考えなおす機会を得た。本書を読んで、そういう事を考えた。それが正しいことなのかどうかはわからない。でも、ぼくはそう感じたのだ。日常は甘美な惰性だ。それに甘んじてはいけない。普段なら気にもしないそんな高尚な気持ちにさえなった。もっといろんな事に心をひらいて、感謝をしていかなきゃいけないなとも思った。 ああ、あたりまえってなんて卑しくて無神経な言葉なんだろうね。 | ||||
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物語は平易な言葉で時系列に沿って進んでいく。物語の進行としては分かりやすいが、そこで起きていることはどう考えても現実的ではない。だいたい人がどんどん縮んでいってしまったり、心臓が爆弾になってしまったり、刺青のライオンが飛び出してきて襲ってくるなんてことは現実にはあり得ない。読者はその比喩の意味するところを探りながら読み進めていくことになるが、途中からそんなことの意味はたいして重要では無いことに気づく。 夫婦で訪れたカウンセラーに夫は「妻はいつも求めてばかりで、なにもしてくれやしないんです」と言い、それに対して妻は「私の身体が縮んでいるの、あなたちゃんと分かっているの?」と返す。よくいる大人の夫婦という気がするが、普通は思っていてもこういうことは口に出さない。 大人になると人は何事も無く日常を過ごすことができるようになるが、それは実は何事も無いわけではなく、何かがあってもそれにいちいち反応しなくなるだけだったりもする。そうしないと疲弊してしまうことを経験から学んでいくからだ。そうして何事にも動じない、安定した、いわゆる「大人」ができあがる。「大人の対応」というのは感情を露わにせず、人と適度な距離を置いて付き合うことだが、そうしているうちに人との距離はどんどん離れ、それぞれが分断され、ついには自分自身をも見失ってしまう。 物語の登場人物は、それぞれ皆「大人」である。そういう大人たちが、思いがけず、それぞれの身に起きたのっぴきならないことに翻弄され、疲弊しながらも、やがて自分自身やパートナーに向き合い、人との繋がりを取り戻していく。大きな謎を残しつつも、最後は暖かい気持ちになれる味わい深い作品。 | ||||
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※長くなりました 小説。銀行強盗にあって妻が縮んでしまった事件(アンドリュー・カウフマン、訳:田内志文・東京創元社・1200円+消費税)。 クセになる小説。読者層でいえば、下は小学校高学年からいける。面白い。 小説にはいろいろなパターンがある。古代から現代、あるいは未来を舞台とするもの。史実の間を独自の創意で練り上げるもの。完全なオリジナル。人間以外のものが主人公。心の内をみつめ続け、解の見出せない苦悩を綴るもの。ワクワクのドキドキや、推理と謎解き。登場人物の生き方に何らかの指針を探るもの、などなど。読者に喜怒哀楽を始めとするあらゆる感情をもたらせる世界、小説。 この小説には、読者が無意識に読む「普通の世界」という前提を、あの手この手でくつがえす仕掛けと発想があり、読み進めては「あれ?」と読み戻り「あ、そういうことか」と「この小説がこしらえた世界」の再確認・再考に妙味があり、通常、ページを戻して読み直す作業に特段のメリットは何もないはずなのに、この小説に関しては、その再読の連続により読者が作者の世界に少しずつ染まっていくプロセスそのものに旨味がある。 作者が仕掛ける不思議は、一歩まちがえれば「よくわからない」となりそうなものの「面白いね」と着地させる確信があり、それは狙い通りに成功している。この背景には、読者それぞれが幼い頃に読んだであろう「おとぎ話」や「夢(←睡眠中にみる荒唐無稽の設定)」の経験にシンクロする何かがあり、この不思議はどこか親しみやすいものがあり、ゆえに、読んでいてゆらゆらと心地よい。 先日読んだあるベストセラー翻訳小説は読んでいてピンとこなかった。思うに、ひとつひとつの文章が長かったことと会話の口調に感じた定型的な古さ(強盗だったら野蛮な口調とか)が僕にはダメだったのだと思う(それを好む方もいらっしゃることでしょう)。 英語を日本語に訳す際、関係代名詞でつながれた文章をそのまま日本語に落とし込むリスクは、翻訳者がオリジナル小説の面白さを熟知したうえで(ここが面白いんだよと具体的に示せるかどうか)一文のままで良しとするか、あるいは二文三文に分けるのか、のセンスが問われたり、また、その国のもつ文化をどのように日本語化するのか、注をつけるのか、などなど難しい。 その点、この小説は一文一文をコンパクトにしつつ、会話での感情表現が過剰にならぬように抑えた巧さがあり、読んでいて心地よい文章になっている。一方、アメリカでは誰もが耳にしたことのある歌については「バスの歌」と訳しつつルビに原題(the wheels on the bus)をふるセンスが読み手にやさしく、ありがたい。ルビでいえば、漢字のルビふりにも「うるさすぎず、突き放しすぎず」の妙がある。 この小説がもつ不思議世界で混乱を招かぬよう配慮の効いた訳文に加え、要所要所で顔を出す挿絵も良い。ストーリーの理解を助けるだけでなく、絵のタッチには洋風影絵の懐かしさがあり、あたたかい。 黄色い紙に封じ込められたこの作品は一冊の本でありつつ、ひとたびパラリと本を開けば、そのストーリー、仕掛け、挿絵の絡まる世界の中でまた一つの時計が動きだし、この小世界にはいりこめる親しみと不思議の強力な引力がある。 | ||||
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