橘花の仇
- 捕物帳 (130)
- 時代小説 (398)
- 鎌倉河岸捕物控シリーズ (32)
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読み応えのある江戸市井物のシリーズを探していました。武士が主人公じゃないのを。居眠り磐音が好きだったので、同じ作者の江戸の町人の話という惹句に期待を込めて買い求めました。期待通り、江戸の町の風情をそこここに感じる事が出来ました。鎌倉河岸で町人として生きていこうと決めたしほの意地、金流しの十手を預かる宗五郎親分の命を懸けても不正を暴く誇り、むしろ武家よりも毅然とした在り様です。しほの幼なじみの三人もそれぞれの個性で光っています。シリーズを読み進める楽しみが出来ました。 | ||||
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ストーリーはちょっと荒唐無稽ですが、江戸庶民の生活ぶりが想像でき楽しいです。 ただ誤字が2か所もありました。 P72 2行目 がきの自分から→がきの時分から P347 7行目 上さん→かみさん | ||||
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登場人物も色とりどりに、複数の事件を解決してゆく、娯楽型の時代小説。 江戸の地図は参考にしているだろうが、実際に日本橋(日本銀行)辺りから、 周辺を歩いてみたことは、ないのだろう、と思わせてしまう、のは残念。 言葉遣いは、テレビの時代劇を参考にしたのだろうか…。 | ||||
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物語としては、まあ、普通に面白いのですが、 基本設定の一つである、「二代目」が授かった金流しの十手についての話が、「三代目」となっていたり、 時間・時期表現としての「じぶん」を、「自分」(正しくは「時分」)と表記するなど、 仮にも一般販売する書籍としては信じられないほど誤字脱字が多いシリーズでした。 版を重ねても、その点、なかなか修正されていなかったのですが、 今回、新装版ということで改善されていることを期待しています。 ただ、正直、表紙(装画)の変更にはがっかり。 これまでのほうが、雰囲気があって、品が良かったのに。 書店で「新装版」であるというのはわかりやすいけれど、それにしても一昔前の画風のように感じます。 それとも、一般にはこうしたタッチのほうが、購買意欲をそそるのでしょうか? 以前の装丁ままで誤りを直してくれるだけでよかったと思います。 | ||||
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思わず、口に含んでいたお茶を噴き出してしまったよ。 本書第2話、『まだ明るく陽が残っていたから、暮六つ(午後六時)の頃合だ。おれは猪牙でよ、小半刻(一時間)も待っていたか。あたりが薄暗くなりはじめた刻限に番頭さんの叫び声を聞いた………』って、それはないでしょう。 「暮六つ」とは「日の暮れ」のこと。「たそがれ」とも、「逢魔がとき」とも言う。 著者紹介欄を拝見すると、九州のご出身とあるので、どうやら、現在の明石標準時、それも草野球でもやっていた子供のころに地元で体感した午後6時のお空の明るさを、こちらの作家先生は、お江戸の「暮六つ」どきのそれと思い違いしているようだ。 また、「小半刻(こはんとき)」とは「半刻(約1時間ほど)」の半分で大雑把に30分くらいのこと。言葉の意味が、まるで「小1時間」と違う。 さて、このような、江戸時代式に、真っ昼間、真夜中を「九つ」、夜明け、日暮れを「六つ」と数える時刻の制度を「不定時法」という。 現在のように、日本全国どこでも統一の標準時を使っていたわけではなく、土地毎、その土地と季節に応じた時刻を使っていた。 江戸には江戸の時刻があり、京都には京都時刻、博多には博多時刻があった。また、夜明け、日暮れを境にして昼間と夜間を、それぞれ6等分して1刻と数えていた。したがって、陽の長い夏場の1刻(いっとき)は伸びるし、昼間の短くなる冬場には1刻が縮んでしまうことになる。もちろん夜は逆になる。 何をもとにして時刻を決めていたかといえば、天空を巡るお天道さまのポジション。 地球は丸いので、江戸と京都と博多で、お陽さまが南中する時刻(正午)に若干のずれがある。そのため土地毎で、使う時刻が、現代の時計で測った時間とは、少しづつ違っていた(江戸は京都より20分ほど早く、博多では20分ほど京都より遅い)。 「暮六つ」とは、日没後およそ小半刻も過ぎた頃のこと(規定の詳細は「国立天文台」刊『理科年表』ご参照)で、1日24時間均等割り制の現在の午後6時とは無関係。 まだ西のお空に明るさが残っているとはいえ、あたり一帯すっかり暗くなり、道ですれ違った相手の顔さえ定かでなくなった時刻が「暮六つ」。 だから、「誰そ彼(たそかれ=あんた誰なんだ?)」ってね。 日照時間の長い6月の「暮六つ」ともなると、いまの時計では、東京だと午後7時半くらい。今日(6月あたま)あたり、午後7時半頃に東京で空を眺めてみると、お江戸の「暮六つどき」の暗さってのが実感できる。いちばん陽の短い12月頃だと、「暮六つ」は東京で午後5時ころ(もちろん、西へ向かうほど、現在の時間で少し遅くなる)。 ついでに言うと、「明六つ」は「曙」「夜明け」。 「春はあけぼの、ようよう白くなりぬるやまぎわ少し明かり立ちて(清少納言『枕草子』)」という、ちょっと日の出にはまだ間のある夜明けどきのあの明るさ、もしくは暗さ。『理科年表』を見ると、陽の長い6月の東京では午前4時ころ。「お江戸日本橋七つ立ち」といっても、夏至どきの「七つ」は午前2時半ころ。日本橋から高輪大木戸あたり、「一刻(2時間前後、季節に拠って延び縮みする)」近く歩いて「夜明けて提灯消す」ってなことになるわけね。 天空の「日暮れ」を基準にするんだから、「暮六つどき」が、今式の時計時間(定時法という)に直すと季節や場所で違っているのが江戸時代式。 日本全国で共通の時刻を使用するようになったのは明治時代に東海道線が全通したときだし、英国のグリニッジ天文台を基点にして、東経135度線を基準とする日本時間の明石標準時が決められたのはもっとあと、時代が20世紀に変る頃だったもの。 せっかくテンポも良く、若者たち集団による捕物というユニークな設定なのに、本書、時代的な考証が杜撰で、これでは艶消しというほかはないよな。こういうの、物知りの編集者なんかにチェックしてもらってないの? もちろん、小説は本質的に作家の作品であって、考証家の先生方のような意味で厳しいことをいうつもりはなく、創作の範囲で何をこしらえようと作家の勝手だと思うし、要はエンターテイメントとして面白ければ好いわけだ。だが、江戸時代をバックに書いた小説に、ストリー的な必然もなく作者が場当たり的な思い付きで自動車や飛行機なんか引っ張り出して来たとしたら、髷物小説のリアリティーもろブチ壊し。読者としては小説家さんのご都合主義に白け切ってしまうことになる。 そういう意味での迂っかりミスとか、不勉強からくる時代の取り違いってのは、なるべく避けてもらいたいと思うんだけれど、希に1つや2つぐらいならともかく、本書、その種がチョロチョロと散見されて、実に残念というほかはない。もったいないねぇ。 参考文献.『大江戸生活体験事情』石川英輔、田中優子共著、講談社文庫 『鎌倉河岸捕物控(2)政次、奔る』に続く。 | ||||
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