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よっちゃん さんのレビュー一覧

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レビュー数1

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No.1: 17人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(9pt)

これまでの作風とは違う本格探偵小説だ

皆川博子氏の作品は『死の泉』『薔薇密室』『伯林蝋人形館』を読んでいた。いずれもナチズムの狂気をエロチックにグロテスクに描いた耽美・幻想の世界で、あまり後味がいい作品ではなかったとの印象がある。
ところが、びっくりしたことにこのジャンルとはまったく違うのだ。今回の『開かせていただき光栄です』は上等の本格探偵小説である。

「18世紀ロンドン。外科医ダニエルの解剖教室から、あるはずのない屍体が発見された。四股を切断された少年と顔を潰された男性。増える屍体に戸惑うダニエルと弟子たちに、治安判事(ジョン・フィールディング)は捜査協力を要請する。だが、背後には、詩人志望の少年(ネイサン・カレン)の辿った稀覯本をめぐる恐るべき運命が………。解剖学が先端科学であると同時に偏見にも晒された時代。そんな時代のおとし子たちがときに可笑しくも哀しい不可能犯罪に挑む」

ダニエル先生と弟子たちにネイサンが絡んで周辺に起こる連続殺人事件である。探偵役としての捜査陣だが、盲目の治安判事・フィールディングは人並みはずれた聴覚と触覚、人の会話の中から嘘を見分ける神業的能力の人格者。彼に付きっ切りで視覚を助ける姪のアン=シャーリー・モアとオッチョコチョイだが忠実で行動力のある助手、デニス・アボット。
死体消失、連続殺人、稀覯本、密室、ダイイングメッセージなど懐かしい探偵小説のガジェットをふんだんに盛り込み、叙述トリック的に重層化した謎を精密に構成するミステリーの面白みにのめりこまされる。全編にわたり作者が周到にめぐらせ伏線だらけだから、謎解きにあたる筋書きには触れないほうがよさそうである。
とにかく犯人は誰かと二転三転し、法廷シーンのおまけまでついたギョッとするドンデンガエシ、それでもいらいらする読者、落ち着くべきところに落ち着いて読者をホッとさせる結末と、完璧なミステリーである。皆川博子はもともと推理小説家だったのだろうか。

しかも並みの探偵小説とはレベルが違っていた。ダニエルと弟子たち、治安判事らのグループ、彼らの個性が浮き彫りにされ、冒頭からウィットとユーモア。その珍妙なやりとりは最近はやりのライトノベルの軽口にはない、英国流本場のユーモア精神があった。日本人ばなれした語り口の妙で全編を一貫させている洒脱な文芸作品としても楽しませていただきました。著者は81歳とご高齢でおられるが、これまでの枠を破る新境地開拓の若々しい意欲、しかも結果としての作品の高い完成度にはほとほと感服いたしました。

タイトル「開かせていただき光栄です」(Dilated to meet you)とは、彼等が苦労して手にいれた解剖遺体を前に、こう言ってメスを入れるジョークである。
注書きにせずに文中で丁寧にも「Dilated to meet you」<Dilate=広げる>は「Delighted to meet you」(お目にかかれて光栄です)を言い換えたものであると説明してある。私はここまで読んできて、そんなはずはないとおもいつつ、この作品はもともと英国作家の手になる原書があって皆川博子氏が翻訳したものだと錯覚しそうになった。日本の小説家だったら、オリジナルの作品でこんなややこしい英語のジョークは使わないものだ。
登場人物のあだ名にしてもそうなのだ。饒舌(ルビでチャターボックスと記述されている)クラレンス。肥満体(ファッティ)ベン。骨皮(スキニー)アル。捻れ鼻トピー。鉄の罠アボット。日本人なら、たとえば「おしゃべりクラレンス」、「太っちょのベン」と名づけるところだ。いかにも原典があってそれを直訳したかのように見える。6人の弟子たちが解剖中に歌うアルファベット順のざれ歌も文字通り直訳としか思われない。
しかし、この意図されたぎこちなさが私を18世紀のロンドンに同化させるという素晴らしい効果を発揮している。どうですか?本物の英国作家が書いた本物の英国のお話。それを翻訳したように見えるでしょう!と。しかも物語には15世紀の古文体を今に再現できる天才少年が登場するのである。これは著者自身のユーモア精神にほかならない。氏はその茶目っ気をおおっぴらにみせ、みずから楽しんで創作したに違いない。とにかくいたるところ用意周到のワザがあるのだ。これがあの怪奇趣味のお人かと、その転身ぶりに驚かされました。

舞台は1770年のロンドン。その光と影。産業革命がダイナミックに進行し、やがて英国は「世界の工場」として君臨するのであるが、都市にあっては貧困や失業、労働や生活の環境悪化による享楽と退廃、そして犯罪が同居していた。庶民にとっては無政府状態。多くの新興の勢力は金の力にものいわせ、自由の名のもとに社会的不正義をおこなう。司法制度はお粗末であり、庶民にとって公正な裁判を受けられる保証はなく、無実あるいは軽犯罪者が有罪死刑とされることが頻繁におこった時代である。
科学的医療も萌芽期であった。まだ、治療といったら瀉血と浣腸の時代だったようだ。人体の研究は墓堀人から密かに買い取った屍体、あるいは払い下げられる刑死者などを解剖の対象として行われていた。だから人体構造を究明しようとする研究者にとって解剖用死体はめったにお目にかからない貴重品であった(だからタイトルの言葉が意味を持つ)。
外科医というのは内科医に比較し身分は低い。だが、外科医、ダニエル・バートンは内科医である兄ロバートの支援を受け、私的解剖教室を開く志の高い研究者である。彼は並外れの世間知らずで、そこを世慣れた6人弟子たちが補っている。それぞれが優秀で個性豊かな人物であり、師を尊敬し、師の事業を力いっぱい支えている。

最近のミステリーがテーマにする動機不明の猟奇事件ではない。事件発端と経緯、終結の背景としてこのような当時の英国があった。氏はその時代を語る。ロンドンの風俗、とくに下層階級の詳細を物語の各所にちりばめる。「講釈師見てきたような嘘を言い」ではないが、このリアルな生活感覚を読者が共有するから、殺人の動機は人間味が濃厚に、事件はますますドラマティックに語られる。語りの魅力はユーモアだけではないリアリズムがそこにある。

弱者に対する社会的不公平、人間の精神を歪めるカネカネカネ。そんなロンドンにあってダニエル先生と弟子たち、そしてフィールディング判事と仲間たちはみな限りない優しさをもって人間を見つめている。弟子たちは人生の矛盾や不条理を鋭敏に感じ取り、それに耐え、受け入れながらも陰気に落ち込むことなく笑いで乗り越える。 私にはディケンズの世界を見るような気がした。

匠の手になる珠玉の工芸品である。
いい小説にめぐり合えました。

Delighted to meet you

開かせていただき光栄です―DILATED TO MEET YOU― (ハヤカワ文庫 JA ミ 6-4)
皆川博子開かせていただき光栄です についてのレビュー